[1部. イザヤ43:1〜7 / 私に向かった主の心- イ・ソングン牧師]
<序論> 今から4年前、ひとつしかない私の肺に穴があいて倒れる事があった。その時、神様が私を呼んで天国に行くのだなという気がした。一番せつなかったのは、世界福音化できなくて行くことだったが、神様が恵みで私を生かされた。私のために祈ってくださった方達に、本当に感謝申し上げる。単純に私のためではなく、世界福音化のために祈ったことだと考える。私は生きねばならない目的、呼吸をしなければならない理由が明らかだ。本文は、私の人生で一番難しかった時に与えられたみことばであり、最高に恵みを受けたメッセージだ。主が私に向かってご覧になる目だ。

1. 私達がどれくらい重要な人であり、どれくらい必要な人か?
(1) わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(4節)
@主が私たちをご覧になる目、眺められる心だ
A理由: 契約を持った民であるためだ
B全てのものをみな持っているけれど、契約がなくて崩れて(社会、政治)、福音がなく滅んでいき、自殺までする(会社の最高経営者、前釜山市長)
(2) 切り株(イザヤ6:13)の秘密を持った人は滅びない
@イザヤ6:13 みな死んで、みな滅んで行っても、切り株、聖なる末は残る
A暗闇の力、滅びの力があっても、契約の人は滅びない
Bどんな環境の中でも生き残る者になろう
(3) 生き残った者の秘密・力- インマヌエル(イザヤ7:14)
@神様と共にいる人は生き残るしかない
A旧約で神様が用いられた働き人の秘密−わたしがあなたと共にいる(インマヌエル)
Bインマヌエルの祝福を持っている人は、絶対に滅びなかった
Cどんな環境、どんな迫害が来ても、生き残らなければならない

2. 神様の祝福を受けた人がしなければならない事と、生きなければならない理由
(1) 今、神様のいのちのみことばがなくて、みな死んでいっている
@哀歌4:4, “乳飲み子の舌は渇いて上あごにつき、幼子たちがパンを求めても、それを裂いて彼らにやる者もない。”
A今でもイエス・キリストの名前と秘密を知らなくて、みな死んでいっている
(2) それで、しなければならないことがある
@イエスいのち・力運動、みことば運動(イザヤ40:6-8), いのち運動、力運動、癒し運動
A「見よ。あなたがたの神を。」と言え(40:9)/信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(ヘブル12:2)
B私たちにいのちをくださって、私たちのすべてになられたイエス・キリストを話すべき
(3) 神様は、私達が必要だとおっしゃられる
@あなたを救うだけでなく、用いる(主の心)
Aタラッパンしながら、みことばを通じて、キリストを見上げるようにさせなければならない
Bイエス・キリストの名前で主なる神様を待ち望み、力を得るように、悪い力、ハデスの力、悪霊の力が侵入できなくさせなければならない  
C未信者は、悪霊に捕えられて、結婚と引っ越しも勝手にできないのに、ここから抜け出てくる道がイエス様(Iヨハネ3:8)であることを言わなければならない
Dイエスは、すべての罪・死・地獄の力から解放させるためにいらっしゃった
E誰でも主の名を呼ぶ者は、救われる(ローマ10:13)
Fこのイエスの名前の秘密を知って味わう者が弟子だ

3. 主の証人(イザヤ43:10)の私達がしなければならないこと
(1) みことば運動(イザヤ40:8)/ (2) 人生キャンプ(イザヤ60:1-3)
@私たちのあらゆる生活が人生キャンプだ。呼吸が終わる日まで、人生をおいてキャンプをすれば、全てのものが回復するようになっている(イザヤ60:22)
A見張り人(イザヤ62:6-12)の使命がなければならない(家庭、地域、民族、世界の暮し)
B神様が私を生かして、私のいのちを延長させられた理由.

4. 今日 ? 総神聖日
(1) 総会神学校は、インマヌエルの最高の祝福の契約を持った切り株が集まった所.
(2) いのち運動、みことば運動を起こすキリストの弟子がいる所.
(3) その弟子たちが、全人生を神様にささげて、人生キャンプを通じて、全地域に弟子を起こすメンバーが排出される所だ

5. 結論
(1) 私たちはだれなのか?(イザヤ43:1) 主のものだ
@主が私たちの全人生の責任を負われる
Aそれで、イエス様を私の主人として受け入れて、私は主人になられたイエス様のものだ
Bイザヤ43:2, 4(主の心)が私たちの人生に大きい力になることを願う
C私たちのために、神様は想像もできない新しい事を行なわれる(18-20)
(2) 切り株・インマヌエルの秘密を味わう者→あらゆる場所ごとに、いのち・みことば運動を起こすキリストの弟子として、全人生を通じて伝道キャンプをして、崩れた所を立てる見張り人!
(3) 思わしくない人も、足りない人も、弱い人も、力がない人も、キリストの名前ゆえに、主にとっては必要な人だ。それで、私たちを宝としてご覧になり、貴重に思って愛されるということだ