2009年5月27日 RUTC- RUTCの朝(礼拝) 講義:柳光洙牧師 (整理:チャ・ドンホ牧師)


RUTC奇跡- (1)
(Uコリント7:10)

1部:礼拝
序論
Uコリント7:10を見れば、神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらしますと言われています。他の聖書には、心を騒がせてはなりません(憂えるな)。ここは、憂えてもかまわないと言われています。何の憂いなのかというと、神様のみころに添った憂いは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の憂いは死をもたらすということです。
私たちのタラッパン運動が何かを、この間から説明しながら、皆さんは重要な方々だから一つずつ一つずつ、私たちがみことばを探しながら見ていこうと思います。また、今、私たちRUTCの朝放送を聞く、また私たちRUTC 24時、こういう方々は、重要な答えを受ける方であることが確実だから、心にちょっと入れなければならないし、また、この時代に放送がたくさんありますが、私たちRUTC放送は最も貴重な放送です。このように話せばKBSが笑うでしょうが、個人的にはそう思っています。私はKBS放送はなくてもかまわないのですが、RUTC放送はなくてはいけないと思っている者です。それで、その方は気分が悪いでしょうが、私はそう思っています。重要な方々が集まった席で、また、そのようなKBS、MBCこういう良い放送も立派な放送は、能力ある方々がみな作れる放送ですが、私たちこれは能力あるから作るのではありません。RUTC放送は神様が特別に備えられた方々が仕事をしていくことだからです。それで、とても重要なのです。
それでは、どのように私たちが今、RUTCの奇跡を成し遂げて、正しく答えを受けるでしょうか。ここに今一番最初のことが何でしょうか。今日、私がUコリント7:10を読みました。
あの釜山を見ると、ササンに行けば高神教団側のササン教会というのがあって、大きい教会ですが、そこに、昔に私が集会をしばしば行っていましたが、そこにおられた方がパク・チャンファン牧師で、年をとった方なのに、その方が私を呼んで食事をしながら言われました。柳先生、今、柳先生を見ると、スケジュールがとても多い。そうするうちに倒れれば、誰も手助けする人がいない。からだに気を付けなければならない。健康に気を付けなければならず、とにかく、からだを大切にして、時間をたくさん節約して、このようでなければならない。真心からの言葉でした。自分が経験したのは、自分がこのようになるからずっとそうだということです。自分はいつも病院に行くということです。今でも病気で、教会の信徒が心配をするということです。そのように言いながら、その方が食事しながら、健康に気を付けなければならない。自分は初めに知らずに若い時に仕事をして一度倒れたが、その次からはここも痛くて、あそこも痛くて、これ直したら向うにできて、一生そうで、今でもそうだということです。それで、健康に気をつけて、時間を節約しなさいと言われたのです。ありがとうございます、分かりましたと言いました。ところで来月、最初の週に時間があるでしょうか。時間を一度見るべきですと、言ったところ、その日、私たちの教会に必ずきてくれなければならないと言いながら。前後の言葉はそのとおりです。健康に気をつけて、集会をあまりしないでくださいと言っておいて、集会してくれと言うのです。普通の人々はそうです。みなそのように生きていきます。
あるとき、パク・イソク牧師が私に訪ねてきて、チョンアン教会に私が集会に行くから、来られて言われる話が、ちょっと困難なことが起こったということです。なんですか。私は、またその牧師は、普通そのような話をしない方なのに、しきりに私たちの教会堂会が集まっておいてソンジンを党会長にさせようというので、しきりに困るということだ。自分はお父さんだから...堂会員の全部の思いがそうですかと尋ねたら、そうだということです。それでは、堂会員が嫌いなのに牧師が必ず息子だと堂会長を立てようとすれば、最も人間主義で、堂会員がとても良くて全員一致で牧師の息子を堂会長に立てようと言ったら、それは最も理想的です。誰がそのクァンジュをよく理解しているでしょうか。そして、その教会をよく理解しているでしょうか。そう言ったら、それでは分かりましたと言いました。そのような話を聞いたことがあります。
私たちは大部分を見れば、人はそのような人が多くなくて、パク・イソク牧師と、この牧師と対照的です。それで、私は個人的に会った人で感じた中に、この方は動機がないなと感じた方がパク・イソク牧師です。少しの間の話もたくさんしないのに、さっと通り過ぎた話なのに、いつでも見れば動機なくて、人間主義がないことを私が感じました。家に帰ったら多く使うかもしれませんが、とにかく、私が感じるのでは、そのように感じられました。ですから、今、クァンジュでも実が今、起きて事実上、良いレムナントがそこで起きて、今、教会はどんどん復興して、今、みな経済が難しいのですが、そこはどんどん建物も作っています。神様がそのように答えられるのです。
普通の人、大部分の人々が私が見る時は、そのまま悪い人ではなくて普通の人です。この言葉を深く考えなければなりません。普通の人はみなそうです。普通の人は、みなそのような形で考えて話します。それで静かに私が聞いてみれば、本がどうだ、タラッパンの出版がどうだ、このように話す人を静かに聞いてみれば、その人が出版の仕事をする人です。それは良い意味もあります。専門性を話したのでもありますが、ある面では動機を持っているのです。それで、普通、見ればそうです。仕事を全体にしてみれば、これはインターネットに出て行ってはいけませんと話す人を見れば資料局の人です。出れば、資料が売れない可能性があるから。また、おもに見れば、これを送りださなければなりません言う人は、みなインターネットをする人々です。それぞれの人々は、普通の人々は、自分の立場で話をします。それは普通の人です。
ところで本当に祈りの答えを受ける人は、それを越えます。タラッパンは、単なる運動ではなくて、重要な福音運動だから、私が今する話をよく記憶すれば、とても重要な話になります。これがそれでも、私たちのタラッパンなのです。

1.力の人-動機を捨てるべき
真の力は何でしょうか。本当に力の人は、そのような動機に引っかからずに、よく知って越えます。分かるから。ところで、普通、見れば、人が以下であるほど、以下の人であるほど、動機によって度々動くのです。
 それで、これは単なる話ではなくて、私が一番最初に胸に持って、一番最初に人に向かう時ごとに、誰でも感じるのが、これではないのかということです。ところで、想像以上に大韓民国の私たち他の教団に見れば、牧師7-80%の牧師が、とても目に見える動機、それも水準の低いこと。これを捨てなければ教会は崩れます。ところで、そのために教会が崩れるということを知らずにおられるのです。真に残念なことです。一緒に仕事をする人どうし、とても葛藤が生じて、苦しいほど葛藤が生じるのですが、そこに自分が持っている個人の動機のために起きるという事実を知っている人が少ないということです。そうではないでしょうか。そうでなければ各会社、各団体、全部、難しいのです。難しいうえに、私たちのタラッパンのようなところは、本当に神様がまとめて行かれるから、さらに難しいのです。下の人が難しくなるのです。
それで、こうしたことがなければ、とても簡単になります。私たちは本当に動機を捨てなければなりません。これが私たちのタラッパン運動の最初の方法です。ある面では、徹底的に捨てなければなりません。徹底的に捨てるということは、考えをちょっとよくしなければならないということです。他の見方をすれば、細かく捨てなければなりません。本当に残念なことに、私を最も手助けした人が幼い時、誰だったでしょうか。私の親戚でしょう。私の親戚なのですが、釜山で一時、全国から集まって全世界が集まるから、すごいではないでしょうか。それで、私たちの親戚が来て、そこに店を一つ出したいので、させてくださいと言いました。本当に困難な話です。なぜなら、幼い時から私を手助けした方だから。それで、純粋にそのまま手助けして、純粋にそのまま話したのです。ところで、私が考えてみた時、ここに今、全国が集まって、私たちの教会があって、堂会があってみなあるのに、それではその人を私たちの親戚だとして、私が今しなさいと言えば、私たちの教会がするでしょう。しかし、私が見る時はそれでは、この方がそこに対する専門性があるかというと、そうでもなかったのです。専門性があるのなら、親戚だからしなさい、しないでくれとする理由はないでしょう。ところで、私が見るには専門性もないのに、そのまましようとするということです。
それで、私が誤解しない状態で、それを防ぐのにとても大変でした。私たちはいつも細かく徹底して動機を捨てなければ、やや下手すると、大きい失敗をするようになります。
また、会えば、ほとんどみなが私を手助けする方々が要請をするのが、この方たちが教会の中にきて、バスの運転をさせてくれと言うのですが、私が見ると、今、私たちの教会はバスを運転する人がいるのに、突然に、そんなことするということがちょっとできなかったり。また会えばいつでも近い人々がみな話します。また見れば、タラッパンに神学院の火がついた時、私の弟がきて神学院をさせてくれというのに、私が弟という理由で神学院の手続きをみな無視してするようにすることは、大変だということです。ところで、これを理解させることが大変なのです。それではなく、神学院はそのようにするのではないということを理解させるのに、時間がとてもたくさんかかって、今でも理解できないでいます。ですから、それがもう普通の人だと。立派な人ならば、尋ねることもありません。
私たちはこういう部分にとても考えなければならないのです。これは牧師も、牧会も同じです。例えば、私が教会に行って堂会員が見るとき、とても動機を持っている、そうすれば百種類が上手でも、それはだめなのです。それでは私が本当に動機なしで教会のためにしようとしてと、福音を伝えようと努めれば、それが感じられれば99種類を間違っても手助けしようとします。これが人間です。そうではないでしょうか。ところで、それを知らずに教会が反対運動が起きて、教会が争いが起きれば、誰が上手にして、間違ったことを話すのです。それでは終わりがなく続くのです。根本の原因はそこにあるのではありません。
例をあげてみると、この方たちが仕事を良くするから、例をあげるのですが、私と最も近くにいる私のキム・チャンヒョク牧師が、度々動機を持ってすれば、私が度々防ごうとするでしょう。しかし、それがなければ度々助けようとするでしょう。同じ人で、全く同じなのに、そうです。それで、これは何でもないようでも、一般団体ではこれが通じない話なのです。一般団体はまったく動機を持って始めます。まったく動機を目的にして、それを出して始めるのですが、私たちはそれではありません。私たちは他の団体です。これがタラッパン方法です。
そして、おわかりの通り100の100%。名前を上げて論じることはできないのですが、 100の100%を、私たちのタラッパンでなく、他の教団で私たちのタラッパンに接触してきた人が多いのです。ほとんどみなが、あまりにも直接的で、あまりにも水準が低い動機を持って話をします。お金をくださいと。しかし、与えることはできます。何とまで言うでしょうか。来月に自分の孫の誕生日だ。誕生日を覚えていてくださいとこのような形です。まったく対話ができません。とても動機がぎっしり埋まっていて...こうするから、その動機もまた水準があるでしょう。動機も、またどの程度の内容ということがあるでしょう。これだから、動機というものは、自分の水準の内容のとおり出てくるのです。そのために、自分の実力のとおり出てくることなのです。これが通常の問題ではありません。
(1)ガラテヤ2:20
それで私たちはパウロがなぜ用いられて、偉いかというと、パウロはこのようでした。私は死んだ。私はそのまま死んだのではなく、十字架に釘付けられて死んだ。十字架に釘付けられて死んでしまうべきで、生きていると痛いのです。大声を出して。私はキリストとともに十字架にかけられて死んだ。そして、私の中にキリストが生きておられると言いました。そして、私が生きるのは、今、私が生きているのは、キリストが私の中にいらっしゃる、その信仰で、その感謝で生きるのだと言いました。こうすれば、パウロのそばにパウロについて行く人は無条件みな100%献身しました。これを知らなければなりません。100%の献身を受けるために、私たちが動機をないふりしようと言うことでしょうか。その話は、より一層、違います。パウロに付いて回る人は、涙を流しながら付いて回りました。それも最後まで。ある人は命をかけて。どのようにそうだったのかは分かりませんが、プリスカ夫婦は命を出したとなっています。どのように出したのかは知らないのですが、とにかくそのように記録されています。パウロがそのように話をしました。これがどれくらい重要かわかりません。私たちのタラッパンの最も重要なことです。
(2)Uコリント7:10
悩まなければなりません。本当にこれが神様のみこころなのか、こういう悩みをいつもしなければなりません。それで、神様のみこころ通りする悩みは、救いに至らせて、世の中の憂いは死に至るのです。
(3)聖霊
本当に私たちが神様の計画かということですが、この時、最も重要な聖霊の働きが起きるのです。これを未信者がまったく知りません。分からないのです。知らないのが当然のことです。皆さんが困難を受けるようでも、そうではなくて、このように本当に動機を捨てる時、聖霊の導きを受けるようになります。それで、いつもこういうものは常に考えなくてはいけないのです。これが、ある面ではエリート基準です。ある面では、信仰なしでも。普通、私たちのことをしてみると、この頃、賢い高級人材を見ると、ぴったりそれがなければ動機、自分、そうでなくて何かがあります。そして、人が下に降りて行くほど、駅前のホームレスなど、こういう人々を見れば、降りて行くほど自分の動機しかありません。そして、上がるほどそうです。それなら、私たちは、まして神様の子どもではないでしょうか。

2.新しい動機
二番目です。人は動機がなければ、方言で言えば抜けた人です。人なのに、何の動機もないならば話になりません。人に動機がないということは、刺激がないということですが、刺激がないということは、行動をしないという話になるでしょう。動機があってこそ行動をするのではないでしょうか。私たちは動機をなくすというのではありません。この動機をなくして、新しい動機を持つのです。どんな動機でしょうか。
(1)福音
私たちは動機が変わって、ただ福音的動機です。どのようにすれば福音がよく伝えられるだろうか。このように考えればみな終わります。戦うこともありません。どのようにすれば、福音がよく宣べ伝えられるだろうか。
(2)伝道
どんな方向が伝道に益か、当然このように変わるようになります。そうではないでしょうか。
(3)次世代
どんな方向が、今、私たちの次世代を生かすところに益なのか。このようになります。私が前に話して、お金がない時、難しい時、学生の時、学校に行くのに交通費がやっとで学校に行くのに見ると、朝、私がはやくご飯を食べて忙しいではないでしょうか。カバンを持って学校へ行かなければならないのに、私も学生で、私たちの息子も生徒で。私たちの息子がもう幼稚園に行くから生徒で。見たら、私たちの息子の靴が破れていて、前に穴が空いていました。靴に穴が空いたんだなあ。靴に穴が空いたのを見て、ある日、大丈夫ですが、これをずっと靴を履いて通うのではないでしょうか。そして、私は忙しいがお金もなくて。夕方に帰ってきたら、新しい靴が一つありました。気持ち良かったのです。靴を買ったんだなあ。新しい靴が三個があるのです。それで私たちの息子は、幼稚園に入ったから、何かを知っているでしょう。靴を買ったのか。買ったということです。誰が買ったのか。お母さんが買った。その話を聞く瞬間、私が、この女が私に尋ねることもせず...このように出てきません。そうでしょう。いや夫をおいて越権行為だ。そうであるはずがないでしょう。どれくらいうれしいのか、そうだ、そうだったね...私たちが本当に福音を愛して、伝道が重要なのなら、私たちが次世代のためのものならば、直ちに応用できるでしょう。そうではないでしょうか。これがだめなことが何があるでしょうか。親が子どもを育てるのに、それが子どもに有利ならば、直ちに目だけ合わせてもわかることであって、それを持って意見を引き出さなければならないでしょうか。違うでしょう。私たちが新しい動機が出てくるのです。
(4)生かす動機
こうすれば自然に出てくるのが、私たちはどんな動機を持つでしょうか。生かす動機を持ちます。
(5)神様に
私たちはどんな動機を持つのでしょうか。動機が変わって共に行く動機です。可能ならば共に行く動機。これが力の中の力です。

3.聖なる動機
この程度で終わるのではなくて、聖なる動機を持つのです。神様の思い通りする憂いは、永遠のいのちに至のです。聖なる動機とは何でしょうか。
(1)時代
この福音を持って、私たちは時代を見通して時代的な動機を持つのです。これは動機ではありません。
(2)文化
私たちは文化を見通しながら、文化的な動機を持つのです。それで頑張るのです。
(3)思想
その程度ではなく、時代より力があって、文化より力があるのが何なのか分かりますか。思想です。私たちはこの正しい思想を植える動機を持つのです。それで、まだひょっとして他の人が誤解する人もいるのですが、私がパク・ソンジン牧師に個人的に話しました。私たちの韓国は今、理念のために問題がきます。とても極端な理念が両側にあるので、そのために問題が来るのです。それを見てください。私たちの外姑、RUTC室長が認可しに行ったら、動かないということです。下に、すでに五年、十年間に、その方してきた方も、下にいる人々が動かないでいるということです。みな飛ばすことはできないから。それでは、動いてくれるべきで、動かないでいるから、こちら考えには、動かないでいるんだな。皆さん、大統領でも政治をすることができるでしょうか。ですから上から1人が、度々インターネットに送ったのです。弱点がないことでもないながら、ですから弱点を知らせたのです。大きい弱点でもないのですが、事実をばらしたのです。ばらしたら、こちら反対派が改心するでしょうか。立ち上がりました。自殺までするとは思わなかったでしょう。これが両側の人が、その方を押し出したのです。盧武鉉後援の集いチームと、反対政治右派が押し出したことで、事実は。本人は不安だから、また、あるから不安でしょう。これで終わるのでなく、またあるから不安なのです。完全に恥をかくようになったのです...こうするところでは、そのまま...このようになったのです。だから、これが今、そのような問題ではありません。私たちの韓国の人々が、また多くの考えをします。誰が泣き喚いて涙をふいてすれば、共にまた泣くのです。泣くことなのかどうか、区分もなく、そのまま...これが、今、これからずっと問題がきます。この理念を越えられなければ戦争が起きます。
戦争が起きれば良いでしょうか。理念が最も大きい感情に行くから止められないのです。これがホナムと保守、ヨンナムの責任です。これが政治家たち責任です。国民が死んで生きるということを知りません。結果的に、私たちはグローバルで行かなければ死にます。
その次に二番目の戦争、次に何かグローバルで行かなければ経済問題がきます。こないでしょうか。いや皆同じく生きようと、私一人で暮らすならば生きられません。北朝鮮に経済問題がきました。そのような明らかな問題を。その次に何がくるのか分かるのでしょうか。後には韓国は、完全に世界からいじめられます。結局は。
それでは、結局、三番目の問題は何かというと、次世代の土台をみな防ぐのです。こういうバカなことを私たちの指導者がしているということです。それで、私がレムナントを育てるパク・ソンジン牧師に徹底的に理念を越えなければならないと言いました。私たちが東西がどこにあって、南北がどこにあるのでしょうか。今、それ越えられなければ大変なことになります。3つの問題が必ずきます。この思想が怖いのです。私たちはこれを変える動機がなければなりません。これでなければ福音ではありません。なんで私たちが今キョンサンド、チョルラドなのでしょうか。それが福音なのでしょうか。キョンサンドは良いということが何があるのでしょうか。固まっても死ぬ時まで悟れないのがキョンサンドです。それを良く言えば保守的です。保守性はあります。そのような良い点もあります。あまりにも保守になっているから、良い点もあるのですが、とても固まって世の中がどこへ行くかもしれなくて、堅いのです。この上に、またとても闘争的で、競争的で、何か闘争的で何かまた闘士のようにこのような形で。人が何か人格的ではなくて、このような形に出てくるのです。とてもそれではこの二個が正面で対立するから、しきりに子どもたちだけ犠牲になるのです。5.18事件が起きて、子どもたちだけ死ぬのではないでしょうか。清潔な精神で一度考えてみてください。これが起きるしかありません。これから通常の問題ではありません。本当に国家を愛したら、そうしても良いのでしょうか。国家愛でもありません。理念に陥って、言葉はそのようにして、抜け出さないのです。これが通常の問題ではありません。これは福音ではないのです。私たちが福音ならば、私たちだけでも北朝鮮のためにも本当に祈って、私たちだけでも本当にあの共産国家のために祈って、それが正しいことではないでしょうか。そして、私たちだけでも同じ民族どうし、行政境界線一つしかない同じ国なのに、この理念のために他の町のようになっているのです。本当に他の町のようで話を静かに聞いてみれば。私は集会に一週間に一度、テグに行って話聞いてみれば完全に違った町だと。またチョルラドの話を聞いてみれば完全に違った町です。食堂に行けば話すのに、人々が簡単に悪口を言いながら話しています。私がテグに行って話を聞いてみれば、完全にまた他の町です。またチョルラドのお話を聞くならば、完全に違った町だと。あたかも朝鮮日報、ハンギョレ新聞を見るようです。本当にそのような水準しかだめならば、韓国、これは大変です。ですから、私たちだけでも、私たちのタラッパンだけでも、しっかりして、理念を越えて、私たちだけでも、私たちの民族を本当に愛して、愛を言い訳にして、いろいろな悪いことせずに、民族を言い訳せずにいろいろなテロをせずに、本当に民族を愛してこのようにしなければなりません。そうではないでしょうか。これが福音しかする方法がありません。こういう動機がなければなりません。こういう聖なる動機が私たちになければなりません。残念な程度ではないでしょうか。これからずっと問題がくるのに、来ないはずがありません。

最後に私たちはRUTCを作ろうとする理由が、こういうものもありますが、結局は、個人を生かそうとするのです。私たちのレムナント1人がきて正しい祈りを学んで、私たちのレムナントが人間らしく、信仰人らしく専門性を持って、私たちのレムナントが外に出て行ってクリスチャンが非難されるのではなく、証人として出て行って。今までは教会がすることがそうでした。教会がどんなことをするかを説明して、こういう人を私たちが育てて行かなければなりません。遅れたが遅くありません。今、皆さんがおられるから。それで、私たちすべての放送を聞く方々は、無一文の乞食になる場合があってもレムナントは正しく立たせておいて行かなければなりません。皆さんが去っていく時、その金を持って行きたいのでしょうか。服一着ならば終わります。ですから、私たちが今、どんな苦しみにあっても、理念を越えて、複雑な人間の考えを越えて、神様の思想を植えておいて行かなければなりません。これが私たちがすることです。それで、タラッパンが力が出るのが、私は感謝したのは、あのテジョンに行けば、いつも精神がちょっと変で訪ねてくる方がおられます。この方は、やはり行ったり来たりする方です。精神が変な時、電話をかけてきます。柳先生、変えなさい、とことん行って精神が正しく戻れば、申し訳ありません、そのように言います。こういう人なのに天才です。この方の子どもたちは、全部1番です。ところで、この方が精神が正しくなった時に見れば、とても賢い方です。この方が私に入ってきながら言う話があります。牧師先生、私たちの民族の東西、これがかたき同志にならないで、これができるのはタラッパンしかありません。他のところは、みな東西が敵です。その方が付いてきながらそう言いました。ですから、私たちの民族を生かして福音化できる所はタラッパンしかありません。それで私がタラッパンにきました。タラッパンを全くしていない人なのに、聞きながらそうだと思いました。本当に、それではパク・ソンジン牧師、私と一緒に仕事をしてみれば私たちの東西があるでしょうか。ありません。そうではないでしょうか。本当にイ・ジョングン長老と私たちの東西があるでしょうか。ありません。私たちはただ福音だけです。その通りだと思いました。私たちが、今、ここで東西を問うて、そこに陥ったら、これは誰が正しい、正しくないという間に、みな損をするのです。それで私たちはレムナントを正しく育てなければなりません。それで、ひょっとして皆さんが家庭が難しくて、事業が難しくてしても、越えなければなりません。越えて、私たちがスプーンを売っても、私たちのレムナントを生かすことを準備しなければなりません。これが私たちがしなければならないことです。すべての私たちの家族が真の霊的使命を持って、祝福を味わうようになることをイエスの御名で祈ります。祈ります。
(祈り)
イエス・キリストの恵みと、私たちの神様の愛と聖霊の働きが、今日、私たちが真の動機を持って神様に仕えながら、国を生かし、次世代を生かす福音の証人、すべての証人の上に、今からのちとこしえまでいつも共にありますように。アーメン.
(The end)