2002年09月 01日 インマヌエル教会聖日礼拝メッセージ


1部/ スロ・フェニキヤの女と私たちの信仰
(マルコ7:24〜30)
 
 
 
・今週には、重要な宣教大会があります。正しい宣教師一名が生かされれば、一つの国が生かされることは確かです。それならば、正しい宣教師を助ける事が最も祝福されることだと言えるでしょう。本当に正しい宣教と宣教師は誰か?ということは、今回の大会で神様が悟りを下さるでしょう。私たちのインマヌエル教会で宣教費三百九十万円を今回しました。ひとりを招くのに13万円程かかります。この難しい時に、一家族で一宣教師を招いた方もたくさんいます。神様が残った生涯を、経済の祝福で解答を下さることを確信します。ある方達は、状況が本当によくないのに、祈る心で少しずつ心をささげた方もおられます。それで十分に要請された通り、宣教本部に後援金を出しました。それで、明日の夕方から宣教大会が開かれるようになります。私は、その方達に五回講義をします。とても重要なので、お祈りしてください。
 
・人は生きているならば、私たちの周囲にいつも葛藤がくることがあります。また、試みもくることがあります。ある時は苦しみもくることもあります。ある時は、とうてい解決ができない十字架と思えるような場合もあります。この全部が私達が信仰がないならば、本当に解決するのが難しいのです。皆様に葛藤があるということは、人ゆえにおもにあります。そして、試みがくるのは、おもに状況の中で、自分のゆえに私たちの失敗でしばしば試みにあったりします。私たちにはいろいろな理由があるでしょうが、苦しみがきたり、問題が発生することもあります。またある時は、一生この苦労をしなければならないなと思う場合があり、私たちはそれを見て十字架と言います。そのような問題もあります。それで、この四つのことが私たちをいつも困らせるのです。人を通じて葛藤が増えてくるのですが、これも小さな問題ではありません。ある部分では、大きい問題ではないにせよ、ものすごく人を難しくさせることがあります。人を通じて来る葛藤は、皆様に信仰がなければ、ものすごく損をしてしまいます。私たち行く所ごとに人がいるために、人がしばしば葛藤を与えるのです。またある時には両親が、あるいは息子が、あるいは夫婦が、しばしば葛藤を与えるのです。またある時には、職場に行けば、同僚が葛藤を与えます。教会に行って奉仕をちょっとしてみようとすれば、しばしば葛藤を与えます。これが小さなことのようですが、小さなことではありません。
・私達が目立たずに信仰がないならば、こうした時、ものすごく損害をこうむります。私達が時々行く時に試みに会うこともあります。なにか信仰が揺れる試みに会うこともあります。そのような時は、おもに失敗をした時です。もちろん、後ほどは有益になりますが、そのような試みがくる時、私達に信仰がなければ、やたら揺れるようになります。またある時は、私達が一生こういう苦労をしなければならない、こういう十字架を背負う時があります。息子が産まれたのに、この子が一生、人間らしく暮らせないように生まれてきました。そのような場合、両親が心配します。それを簡単に話せば十字架です。またある時は、結婚をしたのに、相手方がとてもおかしな人です。こういうことが自分の勝手にできる部分ではありません。こういう部分が十字架です。また今日の本文のように、病気になったり、大きい危機がきます。おもにこの四つのことが、私たちの周囲にいつも迫っています。実際に、私達に信仰がないならば、ものすごく損害をこうむります。
・また、私たちは実際は、信仰を持てば良いのですが、信仰を持つことが大変です。私たちは、小さなことの中でも信仰を持つことが大変なために、いろいろな体験をしたり、色々な苦闘をすることもあります。それで、私達が真の信仰がないならば、ものすごく難しい世の中を生きるようになります。今日、私たちは聖書のみことば中に見れば、真の信仰を持って勝ち抜かねばなりません。
・今日の本文を少しの間解釈せねばなりません。イエス様が力を行われる前に、自分自身を隠そうとされました。24節に、この話はなんの話かというと、人々がほとんどすべて違うようにしようとするから、イエス様がご自分を隠そうとなさったということです。イエス様が力あるみわざを行われたのを見た人々が、正しく見ることができなくて、それだけ見てどんどん付いてきたのです。弁当ひとつ持って、5千人を食べさせて残ったら、弟子達が理性を失ってイエス様に付いて回れば、一生仕事をしなくても良いのだな、というような気がしたのです。弁当をひとつ持って5千人を食べさせたので、きた人々が、イエス様を王にさせようとしました。イエス様が行く所ごとに群衆が付いてまわったのです。それで、イエス様がご自分を隠そうとされたのです。これを私達がなにかをよく理解せねばならない部分です。
 
・多くの人々が、実際には信仰生活をしたかの様に見えるけれど、正しい信仰でなく、目に見える何かでしばしば動こうという部分が多いのです。さてイエス様が、神様の息子で、神様なので、どれくらい力が大きいでしょうか。人々が衝撃を受けることは当然のことでしょう。しかし、そこで私たちは誤った信仰を持ちやすいのです。言わば、肉体的な事だけを見るようになります。それで、イエス様は自分の事を隠そうとされたのです。それで、私はこの本文を見ながら理解できます。私の場合も、そのような経験を多くするので、多くの人々がそのような経験をするはずです。信仰生活において、そのような部分は難しいのです。おもに私たち信徒達は、私をよく知っているので大丈夫ですが、外側では、そのようなことがたくさん起きます。外側の例を上げれば、以前に誰かがしばしば電話がきて、先生に会うようにしてくださいと言うので、私たちの金秘書やイ・クンスン先生は電話をつなぎません。とてもとても電話がたくさんきて、十何回かきました。それで、どれくらい難しいからなのだろうと、私が集会の昼休みに食事を一緒にするようにしたのですが、話を聞いてみれば、特別なことではではなく、見たら格別ものでもなかったのです。内心、特別なことでもないのに、電話を十何回もしたのだろうか、もしかして人々が一緒にいるから話をしないのか、とにかくそうでした。食事をしたら、肉を焼いて食べるのに、焦げたらだめなので、私の場合は焦げる前にみんなのお皿に入れてあげるのです。そうしたところ、町中にうわさを立てて回るのに、柳牧師が肉を取って自分に置いてくれたとうわさを立てて回ったのです。またそれを聞いて、人々が変になにかの話をやたらとするので、異常でした。人々が何故そうなのでしょうか。そのような似たような人が多いのです。
 
・ある牧師に私が「あなたはこの地域を生かす使命者です。あなたが本当にこの地域を生かすように、国を生かすように祈りなさい。あなたは使命者であることが確かです。」と言いました。そうでないにせよ、そう言うべきでしょう。そうしたところ、柳牧師が私をこの町の使命者として立てられたと言うのです。「だから、あなたはすべての行政をするときに、私の許可を得なければならない。」と言ったのです。そのように大して重要ではない苦しい仕事が多いのです。だから、信仰生活をするということは、むずかしいのです。だから、イエス様の当時を考えてみましょう。相当なことです。患者が本当に良くなるので、人がついてくるしかありませんでした。イエス様がご自分を隠されたとされています。その時に、多くの患者達がやってきたのに、その時に自分の娘が悪霊につかれた母親がきました。率直に、私は家族の中で、子供の中に悪霊につかれたのを見たことがそれほどないために深く理解できません。私は、伝道現場に行って、子供が悪霊につかれた人を見ました。本当に本人も哀れで、子供も哀れだというけれど、両親がものすごく苦労するんだなと思いました。この人がイエス様にきて、自分の娘を直してくれと話したのです。この人は、ユダヤ人ではなくて、スロ・フェニキヤの人だと記録されています。
 
・その当時に、スロ・フェニキヤの人々は、イスラエルの人々と一緒に座ることもできませんでした。それでも、私の娘を直してくださいと言いました。その時、イエス様がイエス様らしくないことを話されました。「どの主人が、食べ物を犬に与えるだろうか。」この話はものすごく侮辱的な話です。「食べ物は、自分の子供に与えるので、犬に与えるだろうか。」イエス様は、こういうことを話す方ではないのに、非常に付いて回る人々が、群衆の中でこの女性の信仰を見て確認されたのです。その時、この女が言った話です。「でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」
 
・他の聖書に見れば、イエス様がそれを聞いて驚かれたのです。「あなたの信仰は、本当に大きいな。」とおっしゃいました。マルコの福音書にはそのような話はありません。イエス様が即刻 29節にこうおっしゃられました。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」それで帰ってみるといやされていました。こういう内容が、今日の本文に記録されています。あなたがたはいろいろな苦難の中で生きているはずです。実際に、私たちの周囲に多くの事があります。ここに今、悪霊の話がありますが、私が見るには、この夫人の娘に悪霊が入ったのです。
 
・ところが、悪霊につかれないで影響を受けて生きる人がもっと多いのです。ある面ではもっと危険です。悪霊がどちら側に働いたのかが問題です。言わば、この夫人の娘の精神側にきたので、精神が狂ったのです。ある部分では、からだの方向に攻撃することがあります。また、ある場合には色々な生活の中で攻撃してくることがあります。私が見るのには、数えきれない程、多くの攻撃を受けています。 それならば、ものすごく重要です。
・私が見る時には、私を含めて多くの人々が、みな攻撃を受けてやられています。私と皆様が、神様の子供という途方もない特権を持ったのですが、実際に攻撃を受けています。今日キム・テヘ宣教師が重要な地域に宣教に行くようになりました。たぶん、私たちのキム姉妹が行く所に、本人も知らないでこういう事がたくさん起きるようになるはずです。しかし、私たち大部分の人々が、こういう部分に意識がありません。どの程度までかというと、悪霊につかれておかしなことをすれば、若干意識をするのですが、実際には意識しないでいます。私が見る時に、この二つの中にどちらが問題とすれば、2つとも同じように大きい問題です。皆様もそのようなのです。皆様の家族が悪霊につかれて、おかしなことをすれば、その時だけ緊張するようになります。ところが、実際にそうでなく、とても多く影響を受けているということを知らなければなりません。
・今日、私達が受けねばならない答えとこの女の信仰と、今日の本文をよく見なければなりません。今日3種類で区分できます。本当に苦難がなにかを真実に知れば、人生を知るようになります。そして、本当に霊的問題がなにかを知っていてこそ、救いを知るようになります。皆様、この家にある困難を、実際に医学的に解決できる問題ではありません。これが人生です。人間は努力して相当なことができます。しかし、限界がくるのです。とうていできないこともあります。これが人生です。私は私たち人間が、どれくらい発達したのか分かりません。はじめに私が影島に来たら、私たちの教会の執事一人がとても大きいものをひとつ持ってきました。これを持って来たので“それは何か”と言ったところ “無線電話”と言いました。“無線電話機とは何か”“線がなく話すものです”“それは目あたらしいな” しかし、あまりに大きかったのです。すこししたら、小さいのが出てきました。すこししたら、とても小さいのが出てきたのです。そのようにどんどん発展します。その程度で終わったのではありません。今は、記録がみな出てきます。いよいよ先週にみたら、ユン先生がひとつ買われました。見たら、スイッチを押さえれば、米国であれ日本であれ、どこでも殆どできました。このようにまで発展するのです。これから、携帯電話は、相当な発展を繰り返すでしょう。
 
・といえども、人間には限界がきます。そのように難しいことも上手にやりながら、とてもやさしいことができない、こういう問題が必ずきます。それが人生です。なんの線もなく、茶の間から全世界をみな見るこのように優秀な人間が、最も小さな自分の問題を解決することができません。これが本当に人生です。どれくらい驚くべき事でしょうか?
 
・私は日本や米国に行ってみて、建物を建てたのを見て、人間は偉大だな、人間はどれくらい偉大で、その建物を構成して立てたか、見物だけしたのにものすごかったのです。それで、私が過ぎながら見たら、その建物の前に座って麻薬を吸って、座って売っているのを見て、人間はどうしてこうなのかと思いました。それが人生です。私達が本当に人生をよく知るならば、高慢にならないはずであって気落ちもしないでしょう。重要なことは、この女が自分の子供がかかったこの病気が、医術で不可能だと思ったのです。今でも同じです。現代科学がどんなに発展しても、この問題を解決することはできません。もうすこし知らなければならないことは、現代科学が発展すればするほど、ここに問題がくるのです。私達が幼い時に読んだ本を見れば、フランケンシュタインという本があります。科学が発展すればするほど、それゆえに死ぬのです。この簡単な問題を誰も解決できません。娘が狂ったのに、どのようにしますか。この簡単な問題を人間が解決出来ないのです。悪霊につかれて、おかしなことをするのに、この簡単な問題をどのように解決できるのでしょうか、ということです。
・私は現場でこれを見て、本当に伝道せねばならない理由を発見するようになりました。私が教会を何故せねばならないのか、その時知ったのです。この時初めて、牧師が、聖徒が、宣教師がどれくらい重要かということを知るようになりました。私はこの時、宣教師が何故そんなに大切か、外国に行ってみて知ったのです。皆様、どのように考えますか。ご飯を食べるために信仰生活をすれば、何で宣教師が重要でしょうか。ご飯を食べるために信仰生活をするならば、教会はなくても良いではないでしょうか。まさにここに核が出てきました。このことは、お金でも解決できません。これは地位でも解決できません。地球上に迫る霊的問題は、知識でも解決できないということです。まさにこれです。皆様、どのように考えますか。皆様の信仰生活に迫る霊的問題。私達が解決できないことが、あまりにも多いのです。問題は、皆様が今すぐに体験していないので、感じることができないだけで、皆様の家と全世界に入り込んでいます。それで宣教地域に行っているキム・テヘ姉妹の場合には、これを知って行かねばならないのです。多くの人々が、このように、こういう問題にやられているんだな。これが人生です。これからもずっと発展するはずです。しかし、この霊的問題は、ずっと深くなるのです。私たちは人間であるゆえに、この部分を知っていてこそ、私が何故信仰生活をするようになっているか感謝するようになるはずです。私は率直に話せば、目がひらかれながら、この地の霊的問題がひらきながら、牧師、宣教師、信者、この教会、これで重要だなと分かるようになったのです。
・2番目です。この女性がなにを知ったのでしょうか。解答を知っていれば解決するでしょうが、誰が解決できるのかを知っていたということです。これが重要です。それで宗教と福音とは違うのです。宗教は悪いのではありません。しかし、真の霊的問題を解決するには、他の道があります。この一つだけは必ず知って区分すべきです。私が今回、日本に行ってきました。ある教授が私に質問をしました。重要な質問2つをする中の一つがその質問でした。「イエスを信じてこそ救わるならば、他の宗教はどのようになりますか。これがまさに宗教戦争の原因でないですか。」正しい話です。「すると、今のようにずっと宗教戦争をするのではないでしょうか。するとどのようになりますか。」この方が尋ねた質問です。教授らしい質問です。それで簡単に答えました。「あらゆる宗教は同じです。天理教に通っても、教会に通っても、救われることができなければそっくりです。すると、すべての宗教を神様がなぜ許されるのでしょうか。社会維持のために、まず必要です。しかし、救われることとは違います。救われるということは、教会に通うということとは違います。救われることは、天理教に通って受けることではありません。救われるということはひとつです。神様があらゆる人のためにいのちを下さいました。それで、教会に通って救われることではありません。そのような部分は全く同じです。」この方がすこし理解したようでした。
・今、この女性が自分の娘がかかった問題を自分の人生問題を解決することができる方は誰なのかを知っていました。イエス様に対する確信です。どの程度かというと、どのように食べ物を犬に与えるかと言ったところ、この女性がどれだけ確信していたかというと、「食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」と話しました。イエス様がとても驚いて、あなたの信仰の通りになるように。ある本文では、そのように話をされました。今日、本文に行ってみなさいとされたところ、行ってみたら良くなっていました。
 
・ここで今日、三番目のことを記憶すべきです。信じる時、起きることです。皆様、キリストの祝福が神様の国を成し遂げるために相当なことなのです。もう一度記憶すべきです。皆様は救われることができません。それで、神様がキリストを送られたのです。そのように理解すれば正確です。皆様の中で神様がどこにおられるかと思うならば、それは正常です。「ある裏山に行ったところ、神様が座っていたよ」それは非正常な人です。私がどんなに神様に会おうとしても、神様に会うことはできません。正常な人です。とても精神が正しい人です。「私が昨日の夜に納屋に行ったところ、神様がいた」それは狂った人です。絶対に皆様は、神様に会うことができません。いないのかと言いたいような心になります。それが正常です。それで、キリストを送られたのです。なんの話なのか知っていますか。ところが、私たちに霊的問題が迫ります。これらすべて、結果ですべてがくるということです。それでキリストを送られました。神様の子供になる道を探せないために、キリストを送られたのです。なんの話なのか分かりますか。皆様に霊的問題、運命、地獄の権勢、サタンの勢力を破ることなしではだめだということです。それで、神様がキリストを送られました。この女性がきて“食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。” この女性が普通に話したことではありません。それで、イエス様が行ってみなさいとなさったのです。行ってみたら、よくなっていました。
 
・皆様がキリストの秘密を信じる瞬間、霊界にはものすごい変化が起きるという事実を知らなければなりません。皆様が献金をする瞬間に、神様の前に経済にものすごい変化が起きるという事実を知らなければなりません。
・皆様が本当に神様のみことばを捕まえる時間に、皆様個人と家庭に霊的な変化がものすごく起きるという 事実を知らなければなりません。肉体的な変化がきたということは、結果です。ある部分では、その部分は神経を使わなくても良いのです。皆様が良い薬を飲んだり、良い食べ物を食べれば、気分は良くて、からだはよくなっています。それは結果です。
 
・先週にある事業をする方が、私を訪ねました。事業に成功した、賢い人です。私を訪ねてくるのには理由があります。癌にかかったのです。癌にかかったのに、3年間闘病していました。私を訪ねるようになった理由は、イエス様を受け入れたからです。私たちのメッセージを聞いて、自分の心に考えたことがあったのでしょう。それで私を訪ねてきたのです。それで、この方が月曜日に来ました。この人が月曜日に会ったのに、すこしの時間一緒にいるようにしよう。それで、この人と明日の朝に -午後には集会があるので-一緒に運動をしながら会うようにしました。癌にかかったのに運動ができるかと聞いたところ、できると言いました。その人と少なくとも4時間いっしょにいるようになります。4時間、いくつかの話をしようと思っています。本当に死ぬ生きるの問題です。重要な話をする予定です。神様がどのようにされるか分からないのです。この人が確かに神様のみことばを信じるならば、働きは起きるはずです。癌は医学的には、よくならないのです。この人が本当に神様の力を知るようになるならば、よくなるようになっています。この人がどんな信仰か?が重要です。たぶんその人にとっては、生涯に一番重要な出逢いになるはずです。私はそのような人とたくさん会ってきたので、いろいろな人の中の一人かも知れませんが、その方は生涯で最も重要な生きるか死ぬかという問題です。
 
・皆様が今日、ここでみことばを本当に信じる瞬間、霊的な科学の変化です。ものすごいのです。行ってみると、悪霊が離れていました。いったいこれは想像もできない事でした。今、一般の医学界や他の団体では、こういう悪霊につかれた病気を言及しません。しないのではなく、できないと見ればよいでしょう。することができません。こういう問題を聖書で扱っています。しかし、人々は知らないで、そのような文化とか偶像とか祭事とかが、悪霊文化です。人々は知らずにいるだけで、影響をみな受けています。それで、私は聖書を見ながら、本当に聖書は科学的だと思います。どうして、こういう記録をするようになったのか、この人の人生が完全に破産してしまいました。
 
・皆様の子供が精神が狂って歩き回るならば、破産してしまったことではないでしょうか。ところが、この女性がキリストを訪ねて来たのです。イエス様に直してくださいと言ったら、イエス様が直してあげることができないと言われました。忙しくてできない、そのような意味ではなく、途方もない侮辱で小犬のようなあなたにどのようにできるか、こういう意味でした。どんなに私が小犬のような人生でも、小犬も主人の破片を食べるではないですか。イエス様がとても驚いて家に帰ってみなさいと言われ、帰ってみたら、解決されていました。
 
・信じる時に起きることです。霊的な事実を知れば知るほど、この部分が分かります。霊的に無知な人々は、理解できません。皆様が医学的に証拠されました。私達が心に喜びが生じる時、からだの中にある、その薬が相当なのですが、それらが発揮します。それで医学界がいう話が、からだの中にある能力が、からだの外にある能力よりもっと強いのです。まして、聖霊が働かれるのにということです。
 
・今日、重要な決定をおろして答えを受けるように願います。この話は、3つと言いましたが、ひとつに要約できます。それは、人間に来る霊的問題をどのように解決しますか。人間は限界があるのに、人間がその人生の破壊をどのように解決できるのでしょうか。それで、神様がキリストを送られたということです。信じる瞬間から働き始めます。
・皆様が、今日一日中礼拝する中に、信仰の日になることを願います。私達があまりに狂的にしてはなりませんが、あまり悟ることができないことも大きい問題になります。特に男性は、教会に来るならば、夫人に付いてきたり、かばんを持って来るのではなく、本物の恵みを受けるように願います。おもに男性は、二種類です。夫人について止むえず来て、止むえず座って帰る姿です。でなければ、元々クリスチャンだったが、やむを得ず職分ゆえに座っている、こういう人の二種類です。そんなことを言わないで、恵みを受けるように願います。ハン・スガン博士が話したではないでしょうか。男性が長く生きることができない理由は、そこにあるということです。女性は、子どもを五人、六人産んでも長生きするのに、男性は長生きすることができない理由は、あまり恵みを受けることができなくて、無理しているからだと言われたではないでしょうか。私はそれが一理があると思います。女性は、テレビを見て泣いたりするのに、食事の仕度をしながらも笑っているというのに、男性はそれがだめです。涙が出てきてもぐっとこらえて、笑いが出てきてもこらえる、それが病気の原因です。人は、表現もして、恵みも受けねばならないのに、賛美も出てくれば拍手しながら、そのようにせねばならないのに、それは普通の病気ではありません。また、そのような人々が花札のギャンブルはよくします。花札はよくしながら、何故手はよく拍手できないのでしょうか。本当に変でしょう。だから恵みを受けねばなりません。この瞬間が何の異常もなくて見えても、相当な事が行われるのです。
・今日、スロ・フェニキヤの女です。迫害されていた女でした。イエス様はそのように見られませんでした。侮辱を与えたのです。それが侮辱ではありませんでした。信仰を確認されたのです。どれくらい重要でしょうか。皆様が信仰生活に今日悟らなければならないことは、私達が自尊心に対する相当に妨害になるということです。
・私が副牧師で、ここにくる前に、訪問して回って恵みを受ける時がありました。誰かが私にこういう話をしたのです。「先生。今、ある執事夫婦が先生に対してものすごく誤解をしています。」それでものすごく神経を使いました。「その人が私たちの教会きていくらもなっていないのに、何故私に対して誤解をするのか。」と聞いたら、「普通の人ではないのに、その人のことを分からずに、引っ越して1ケ月たったのに、訪問に来なかったので、先生に対して誤解をした」ということです。なんの話なのか分かりました。それでこの人が先生が訪問にこないとものすごく誤解しているので、教会を移そうとしていたのです。どんなに私が副牧師であっても、訪問に行くのに、ものすごく自尊心が傷ついたのです。行けば良いのに、私が一週間、静かに祈ってあれこれ考えました。この方が訪問をものすごく受けてみたいのに、表現ができないのではないかという考えにもなって、当然に神様の民が神様のしもべにきて礼拝をしてくれと言っているのに、それが悪いことなのかということです。私が自尊心、それがなんでもないのに、自分の自尊心を守ろうとするのです。こういう考えがやたら出てきました。かと言って、さて行こうとしたら、私の心では行くなとなります。なぜならば私が心より神様のみことばを持ってその執事夫婦に向かってうれしく行かなければならないのに、この方が簡単に言わば脅迫をしたから私が行くようで、私がどうやって行くのかということです。これが一週間、行く、行かないという考えが、きたり行ったりしたのですが、これが今、自尊心の戦いがきたり行ったりするのだなと、ある時は行かねばならないと思い、ある時は行ってはならないと思ったのです。私が小心なのか、それを持って一週間考えたのです。水曜日に説教を私がほとんどみなします。しかし、この夫婦が水曜日に参加したのです。それで、金曜徹夜の時きて話をするのに、すみませんということでした。本当に私が引っ越しをして1ケ月になったのに、訪問に来られなかったので、私が誤解したようだと言いました。先生はとても忙しい方なのに、私が誤解していましたと謝罪をしました。それで、私が翌日、すぐに訪問に行きました。私のレベルがその程度しかだめだったのです。私の自尊心を破らなくて、私が自尊心を持って訪問に行ったのでした。
 
・このように、私たちの信仰生活に自尊心によって多くのことをのがすことができます。皆様が教会の奉仕をする時見れば、自分の仕事がなければなりません。それは正しいことですが、そのことゆえに違ったことをのがすことができます。特に、私たちのインマヌエル教会にこられた方達は、普通の方達ではありません。そして、私たちの教会が、普通の教会ではありません。200ケ教団から、毒々しい眼差しを受けている教会です。そのために、ここにいらっしゃって皆様がどのようなことをせねばならないのか?が重要なのではありません。自分たち自らを神様の前で捜し出すべきです。私たちは万が一下手すると、自尊心と自分の仕事と自分の位置をさがすしかありません。人間であるゆえにそうです。しかし、ある面では、ここで多くのことをのがすことができます。
・今、イエス様がこの女の自尊心を完全に抹殺させたと見ることができます。どのように、犬にパンを与えるかと言われました。皆様、この女が話すのを見ましょう。「食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」このように出てきました。だから、この方の信仰がたいしたものなのです。ある面では、仕事も重要で、自尊心も位置も重要ですが、実際はそれではありません。聖日にきて他人が全く認めなくてもかまわないのです。恵みを受けなければなりません。すると、結局は分かるようになっています。ある面では、自分の位置がなくてもかまいません。なければどうなのでしょうか。私が教会にきて、本当に神様の子供で答えと祝福を受ける意味のある日にならなければならないのです。すると、反対に考えてみましょう。自尊心に縛られて、自分の仕事に縛られて、位置に縛られれば、どのように信仰生活をするのでしょうか。いつかは失敗がくるのではないでしょうか。そのような信仰生活をできないのです。
・今日、この女の自尊心が完全に砕かれました。ところが、砕かれたのでもありませんでした。全く考えをしなかったからということです。家に帰ってみたら、自分の娘の病気がきれいによくなっていました。よいことが問題ではなくて、誰も解決出来ない霊的問題が解決したのです。より正確に話せば、イエス様がこの女性を試みられたのです。試みということは2種類です。悪魔が私たちにあたえる試みと、神様が私たちにくださることです。悪魔が私たちにあたえる試みは、私たちを倒すために与えることです。しかし、神様が私たちにくださることは、祝福をくださろうと与えられるのです。だから、英語に見れば、違うように書きます。悪魔が試みることを “TEMPTATION"と言います。しかし、神様が私たちに試みられるとことは “TEST"だと言います。何故でしょうか?TESTをしてみるのです。創世記 22章 1節に見れば‘神様がアブラハムを試みようと’と言われています。実際に、私たちは毎日のように試みに会っています。以前にも話しました。私たちは毎日のように試みに会います。ソウルに行ったところ、突然にカン・スクジュン牧師が訪ねて来ました。‘先生。おはようございます。宣教大会をするのに、なにぶん釜山インマヌエル教会で30人、ソウルインマヌエル教会で30人の支援をしなければなりません。’と言いました。内心、私たちの教会がお金を作る工場だと思っているのかと考えました。その時、私の間違いだと思いました。私たちはいつも試みを受けます。私たちの教会に宣教師を招くことができるローマ16章の人物が30人しかいないということでしょうか。すると、未来がない教会ではないでしょうか。それは話になりません。ローマ16章の人物が数千名ずつ出てこなければならない教会ではないでしょうか。少しの間の瞬間でした。
・私たちは少しの間の瞬間にそのように試みに会います。少しの間ですが考えを変えました。人というのは、いつも試みを受けます。またある時は、誰かがきて話をします。‘ある長老がどうで....’話せば試みに会います。私たちはいつも試みを受けるのです。その時、私が考えるのは‘そうではないのだ。そちら側の立場ではそのように考えることもある。それはある面で、私の誤ちだ’こういう気がするのです。私たちはいつも、試みを受けます。神様が私たちを祝福なさろうと、いつもテストをなさるのです。信仰をいつもテストされるのです。何の話なのか分かるでしょうか。今日、あなたがた本当にスロ・フェニキヤの女が答えを受けたように、祝福を受ける日になることを希望します。病気の人がいるならば、いやされる驚くべき日になることをイエスの名前でお祈りします。
<<契約の祈り>>
神様に感謝申し上げます。今日、信じる時間になるようにさせてください。それで、霊的に途方もない事が起きる祝福を味わうようにさせてください。私たちの信仰が、まさにスロ・フェニキヤの女のように正しい信仰になるようにさせてください。今日、重要なメッセージを捕まえて祈る中に真の答えを受ける私達になるようにさせてください。自尊心も重要で、私たちの仕事も重要で、位置も重要ですが、何よりも信仰を回復する日になるようにさせてください。キリストの秘密でなくては、霊的問題を解決することはできません。私たちに真の信仰を与えてください。伝道と宣教に参加して献金するあらゆる方達に、子孫代々に神様が祝福を与えてください。主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン
 
 


2部 / ダビデの定刻の祈り
(詩5:1〜12)
 
 
・今日、詩篇5篇の3節に “主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。”とされています。今日は、あなたがたが単純に一つの単語を記憶することを望みます。私がこれを持ってタイトルを「ダビデの定刻の祈り」と言いました。あなたがたが体験も多くて知っていることも多いはずで、複雑な事も多いでしょう。聖書はとてもやさしく簡単に真理を提示しています。あなたがたが定刻の祈りということを悟らなければ、多くのことを奪われるようになるはずです。
・今日ここに見ると“主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。” と言いました。これはまさに大王ダビデの言葉なのですが、ダビデが生涯に信仰生活をどのようにしたのか記録しているのです。とても小さな部分のように見えますが、私が見るには40日断食の祈りより重要なのが、この祈りです。ダビデの生活の中で祈りました。なにか、キリスト教が興奮する宗教として知らせて人を興奮をさせて、何かが私たちのキリスト教を特殊に説明して、特殊にさせようとします。このようにして、人々が右往左往するようになって複雑になるのですが、聖書はそのように教えていません。ダビデの朝に主に祈るということは、あまりにも重要なことです。
・詩篇は、単なる詩ではなくて、経験者の文であることを知っていなければならないし、説教者が説教を良くすることは、多くの本を読むのではなくて、実際的な経験がなければならないのです。皆様が信仰生活を良くするということは、多くの聖書を知っているということではなくて、実際的な重要な部分をよく知っていなければならないのです。たくさん知っていることも重要ですが、実際的なことをよく知っていなければならず、重要なことをよく知っていなければなりません。今日、ダビデの定刻の祈り、このタイトルを皆様の心に留めてくださるように願います。
・なぜならば、今朝にも話したのですが、私たちは実際には周囲を注意深くみれば、あまりにも苦難が多いのです。葛藤もあります。特に葛藤は人から来る葛藤が大きいのです。私が知っているある方は、教授なのですが、結婚してからいままでどんな葛藤があるのかというと、奥さんがご主人をいつも疑うのです。‘すこし疑う所があるので、そのようにするのではないか?’と思ったり、私が見ると夫人はすこし美人ではなく、ご主人はすこし顔だちがよかったので、心配になるだろうと思うでしょうが、ところがそれではありません。夫がどこに行ったら、どこに行ったか? とみな確認して、電話してみて、夫がいない間にかばんのポケットをみなひっくり返して、ひっくり返す中に名刺のようなものが出てくれば、その中に女のものが出てくれば、みな電話してみるのです。普通の問題ではありません。ご主人の行く道をみな防止するのです。それで、この人に葛藤が生じるのです。あんな女とどのように一緒に住めるだろうか? と葛藤になるはずです。
 
・またある方は見ると、私は女がギャンブルをするという話は、聞くだけで実際に見ることはありませんでした。夫人がいつもどこかに行って、ずっとギャンブルをするのです。ご主人が大変なのです。‘私がどのように、こういう女と住めるだろうか?’このように人間には、葛藤がたくさんあります。それだけでなく、生きていれば、試みもきます。ある時には、生きているならば‘解決できない’という部分も出てきます。それを十字架と言います。
・ある時には、病気になることもあります。この頃は、何故このように癌が多いのでしょうか? 重病人の病院に行って調べてみれば、ほとんど癌です。そうなるしかありません。空気も悪くなって、食べ物も悪くなるので、そうなるしかないのです。この頃は、不治病、癌が所々にあまりたくさん生じるから、人々が不安に思いますし、死んだ人の知らせを聞いてみればほとんど癌であり、また連絡が来て、話を聞いてみればほとんど癌です。この病気が特別に多くなる状況です。
・今日、私は皆様にあまりにも簡単ながらも、重要な贈り物をあげます。ダビデが “主よ。朝明けに主に祈り、主を待ち望みます”と言いました。皆様はこの部分がどのように聞こえるか知りませんが、私はこの部分がとても重要です。皆様が、神様の子供で、神様の祝福を受けた人ならば、とても簡単な所で答をみな捜し出すことができます。それで、今日だけは皆様のすべての考えもしまいましょう。なぜならば、神様のみことばに従ってみるべきだからです。今日だけは、皆様が知っていることもすべておろして、今日だけは皆様の経験も考えず、神様のみことばを見ましょう。
 
・大王ダビデが、朝ごとに神様の前に祈ったという証拠があります。途方もない指導者ダビデが、夜に神様に祈ったという証拠があるのです。これを見れば、たいした王です。それで、今日、あなたがたがこの契約だけよく捕まえても相当なことが、出てくるはずです。私は聖書で救いの次に受けた恵みがあるならば、祈りです。ところが、大部分の人々がよくできないのです。あなたがたがほとんどみなしないのです。ところが、この部分はあまりにもやさしいのです。この部分は、多くのお金を出すことではなくて、多くの時間を出すことでもなくて、信仰だけあればとても簡単なのです。
・それで、より簡単に表現すれば、あなたがたは私をよくご存知ないでしょうが、私をよく知っている方もいらっしゃるはずです。私と10年以上ずっと働いてきた人は知っているはずです。どんな共通点がひとつ出てきたでしょうか? 10年前からいままで、神様が祈りの答えを多くくださいました。そして、多くのことを神様が答えを下さいました。そして、今、静かに弟子運動するなかで、一年前より次の年に20%程度増えました。信徒も常に、神学生達も常に、合宿も常にみな増えたのです。それで、簡単に話せば、答えを下さるなかで、特に REMNANTの学生達が恵みを受けて変化するのを見る時に、いままで答えを下さいました。今後も答えを下さるはずです。すると、あなたがたが “どのようにして、そのようになったのか?”と尋ねてくだされば、私はここに答を詩篇 5篇の3節だと言うことができます。あまりにも簡単です。私は朝に起きれば、この頃は時間がありません。時間を窮屈に合せて走るためです。ところが、朝起きて少しの間ですが、祈るのに、顔を洗って出てくる時まで祈るのです。それほど難しいことではありません。顔を洗って準備しながら、祈りをするのです。少しまた時間ができるならば、座って祈りをするのです。それから、どんなことがあっても、昼でも夕方に少しでも一人で静かな時間を作って祈るのです。それほど難しくありません。何も難しいことではなくて、むしろとても平安です。昼に人々が込み合っている時に、一人で車に行けば良いのです。その時間に祈りをするのです。それだけしたのに、本当に神様が答えをなさいました。それで、聖書が本当に神様のみことばで、生きているみことばだな。なぜなら詩篇5編3節がなんでもないことのように見えるけれど “主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。”
 
・時間の中でも朝の時間が一番良いのです。あなたがたが、夜明けに行って祈りができるということは、一番良い時間です。これは、皆様自身でなく、誰も奪うことはありえない時間です。皆様が明け方 4時に、5時に、6時に起きることは、誰も奪うことはありえません。それは、皆様自身が奪うことであって、他の人が奪うことではありません。皆様が朝にすこし早く起きて祈るということは、皆様が奪うことであって、誰も奪うことはありえない時間です。私は“朝に”この言葉があまりにも重要で、驚くべき言葉だと考えます。
・ダビデ王が王になって朝起きて夜明けに祈ったという事実です。さっと見れば、何でもないことのように見えるでしょう。それで、今日だけはこの単語を心に込めて帰りましょう。ダビデ王の定刻の祈りです。詳細なことは話せませんが、神様のみことばを話しながら、私が皆様の前に大げさには言えませんが、すこし話すなら、私がものすごく困難にあった時がありました。‘とうていこれは出来ない’という困難にあったのです。内容はみな話は出来ません。簡単に話せば、前後左右が皆ふさがったのです。そのような時がありました。どんなに考えてみても、これはこれから不安な程に滅びた状態でした。一度そのようなことがありました。そういう時に私がすることがなかったのです。それで朝起きてひとりで礼拝をささげました。そのような場合は簡単に見えるのですが、やさしい場合ではありません。それて、昼食に礼拝をささげました。どれくらい難しくて、苦しいか、どうにもすることもできませんでした。それで、夕方にまた礼拝をささげました。ところが、驚くべき事が起きたのです。数ヶ月間、朝、昼食、夕方時間に礼拝をささげたのに、そのことが全部答えになって帰ってきたのです。あなたがたは、こういう体験をしてみることができなかったでしょう。簡単でやさしいことなのです。
・神様の民が定刻の祈りをしたところ、答えがきました。私が見るには、最も基本的で、最もやさしくて、簡単に話せば、力もいらなくて、お金もいらないことです。なんにもいらないのに、一つだけ必要です。“信仰”が必要なのです。この部分だけあれば、あらゆる問題が解決するのに、クリスチャンがこれが出来ずにいるのです。残念です。それで、私はここでとても大きい祝福を受けて、いまは一日に三回程度、定刻の祈りをします。時間を定めません。なぜならば、時間を定めれば、それも負担になるためです。目覚めれば、祈るスケジュールを立てるのです。私が、たとえば今日は、礼拝をささげたら、党会員と食事をするようになるはずです。そして堂会をするはずです。また、宿舎に向かって行くはずです。明日のためにです。私はその中で必ず今晩に祈る時間を作り出します。それは面白くて、とても良いことなのです。ですから、私が明日、目覚めればそれをします。それをしながら、空いている時間には、引続きメッセージとか、行ったり来たりして考えます。その行き来する時間に、継続的に最も安らかに祈りをするのです。私はこの味を知ってしまって、率直になんにも必要なことがなくなりました。あなたがたが知っているはずです。私は、この味を知ってしまって、何の心配もありません。メッセージの心配もありません。私はこれを知った後に多くの現場に人々が生かされるのを見ました。ところが、もっと恐ろしいことは、私達が生きていれば重大な問題がきます。これは、定刻の祈りの時に切実に祈るのです。一個ももれなくみな解決しました。本当に驚くべきことです。
 
・何故でしょうか?私たちは既に結論を持っているのです。皆様のいのちと、もしこの場に神様を信じない人がいても、その人のいのちを神様が治めておられることは確かです。ある教授が日本に行ったところ、質問をしました。“先生。私達が本当に幸福になるために、幸福を探して神様を信じるのですか?”“そうではありません。本質を探して行くのです”“本質とは何ですか”“人間は神様を信じるように創造されたのです。それをしなければ、どうしても幸福ではありません。人間は、神様が神様を信じるように創造にされたもので、それが人間なのです。犬や豚はそのようにされないで、人間だけが神様を信じるようになさったのです”それなら、私たちはあらゆる結論がみな出ているのです。もしあなたがたの中に結論が出なかった方がおられるならば、今日、結論を出すように願います。ダビデ王がどのようにして、その難しい環境の中で祈るようになったのでしょうか? 簡単に見える話です。結論を持っていたということです。
・皆様は、祈りという言葉は、最もたくさん聞いた言葉でありまた、一番出来ずにいるのではないでしょうか? 皆様が祈りという言葉を一番たくさん知っているけれど、一番しないでいるのではないでしょうか? 皆様が祈りということが途方もない祝福だということを知っているけれど、最も味わっていないことではないでしょうか? この祈りに結論を出すということは、すべての結論が出たということです。
・ダビデ王が、神様が生きておられて、私たちのいのちを治めておられるという結論が出た人です。どんな困難が来ても、真理が勝利するという事実を悟った人です。祈る時ごとに、神様は聖霊で働かれて、霊的に途方もない事実がなされるという結論を出した人です。なぜならば、詩篇103篇にダビデがこう話しました。 “主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行なう力ある勇士たちよ。”こういう祈りをしたことを見れば、ダビデが既に重大な結論を出しているのです。神様が私とあなたがたが、救われることができないために、イエス・キリストを送ってくださったという事実です。
・今日の 1部でも申し上げたのですが、皆様が神様を信じられないということが正常です。それで、キリストを送られたのです。もし、皆様が病気を直さなければならない、山に行って神様に会ったということは、間違っているのです。それでキリストを送られたのです。皆様におきる霊的な問題を解決出来ません。それで、イエス・キリストを送られたのです。この頃は、癌どころではありません。精神病者があまりにも多いのです。すごいのです。それでイエス・キリストを送られました。イエスを信じるので、暗闇の力にも勝つことができるように神様がしてくださったのです。結論が出ました。すると祈りましょう。皆様が違ったことはみな良いけれど、これを一度回復してみるように願います。無理にせずに、安らかにしてみることを願います。
・すべての問題が解決するはずです。明日、私が癌患者一名に会うはずです。私がこの方に何時間か重要な話をしようとしています。もちろん、聖書のみことばです。まちがいなく、働きが起きるようになるはずです。その話をしようとしています。
・私たちは、ほとんどみなこの貴重な祝福をのがしているのです。今日、あなたがたがこの祝福を回復しなければならないのです。定刻の祈りと聖霊充満という単語を連結させてみましょう。皆様の健康が回復するはずです。皆様がこの驚くべき秘密の祈りと現場を連結させてみましょう。皆様の事業に驚くべき証拠が与えられるはずです。あなたがたが、少しだけ悟れば、救われた神様の民が祈りという祝福を少しだけ悟れば、あなたがたは、この答えを味わうようになるはずです。今日、全てのものを後に回して、全てのものを閉じて、最もまず解決せねばならないことがこの部分です。あなたがたがこの部分がだめになっていると、実際に認めなければなりません。すると、その次のことがよくなりません。実際に、すべてがうまく行かないとしても、過言ではないでしょう。皆様が、何もうまくいかないと告白することが、最も正確な告白である場合もあります。しかし、皆様がこの部分ができれば、皆すべてできるのです。この祝福が、紙一重の差なのですが、本当なのです。これをのがしているのです。
・私は神様の前に本当に感謝することが ‘どうして、私のような足りない者に、こういう秘密を知るようになさるのか?’です。誰でも分かる秘密に見えるけれど、そうではありません。皆様がさっと見れば、過ぎ行く話に見えるでしょう。“主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。” 苦痛の中で言った言葉です。“私はあなたに祈っています。” これがそのまま過ぎ行く話のように見えます。ところが、クリスチャンがほとんどみなこの祝福をのがしているということが事実です。今日、回復なさることを希望します。これは回復できない理由がありません。大変なことでもなくて、それこそ皆様が最も好むお金がかかることもなくて、かと言って多くの時間がいることもありません。簡単なのです。信仰だけあれば、誰でもできることです。ところが、これがむずかしいのです。神様のみことばをお聞きになって勝利する、貴重な祝福があることを希望します。
・すると聖書をよく見る必要があります。聖書を見る中によくご覧になるように望みます。創世記 13章 18節にアブラハムという人が、ロトと戦う中に全てのものをみな譲歩して、創世記 13章 18節にアブラハムが樫の木の下に祭壇を積みました。これから本格的な祈りをし始めたのです。それは定刻の祈りとはすこし他の話かもしれませんが、祈り始めたのです。アブラハムがいかなる答えを受けたのでしょうか。
・それで、あなたがたが今日、根本的に変えなければなりません。多くのことをしなさいということではありません。あなたがたが少しだけ祈れば、途方もない答えの門が開くはずです。たぶん、あなたがたが心に当たってこないでしょう。しかし、神様のみことばは、祈りの答えを受けるとても重要で簡単なことがあります。あまりにも簡単です。それでタイトルを “ダビデの定刻の祈り”としたのです。どれくらいやさしいでしょうか? 大きい秘訣があるのではありません。ところが、無理に定刻の祈りをするということではなく、あなたがたが明日から、今晩から、祈る時間に本当に小さな祈りの課題で幸福を得てくださるように願います。皆様には、相当な恵みの門が開くはずです。それが今日の詩篇 5篇の中にあります。すこしあとで見るつもりですが、概論から話しています。あなたがたがしないので、今、説得をしているのです。しないだろうという確信がずっとあります。本当にせつないことです。全く祈りをしないようです。簡単なのです。全く難しい話ではないのに、いままで習った難しい祈りではありません。お寺で話す祈りではないのです。いままで習ったムダン(霊媒師)式で気をまぎらわすような話ではありません。今、聖書にはそのように教えてはいません。全部みな違うように習ったのです。なにか分からないで、接神するように陥って入っていくように祈るのです。 “主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。” どれくらい簡単でしょうか? 少しだけ明日から祈りましょう。
 
・それで、私は私の息子を見て3分だけ投資しなさいと言いました。驚くべき変化が起きるはずです。朝起きて1分だけ祈りなさい“神様、本当に今日、私とともにいてください”と1分だけ祈りなさい。そして夕方に、寝る前に1分だけ祈りなさい。そして、昼にいろんなことをするので、静かに1分だけ祈りなさい。3分ならば、あなたのすべての問題を完全に終えるのです。本当に簡単なことなのに、まちがいなくしないことだという気がしました。ところが、やはりしないでいたのです。それで、ただ生きているのです。皆様が仮りにこの部分を回復するならば、すべての問題が解決するのです。
・ダニエルをご存知でしょう。捕虜になって行ったのです。ところが、一日に三回ずつダニエル 6章 10節に見れば、神様の神殿に向けて膝を屈して祈りました。どんなことがおきたでしょうか? 簡単なことではないでしょうか? 神様がダニエル 10章を見ると、ダニエルに一時代を任せられました。ただ条件がありました。神様が生きておられることが確実で、皆様が神様の子供ならば、それが福音です。それが確かならば、皆様が少しだけ投資すれば良いのです。今日だけ少しだけなさることを希望します。驚くべき事が行われるはずです。ところが、これをしないのです。しないことは多くのことを含みます。ところが、ダビデが朝に行って祈ったということは簡単なことのように見えるけれど、多くのことを含んでいるのです。ここには神様を信じるということが含まれていて、ここには霊的な事実を理解するということが含まれていて、ここにはすでに暗闇の勢力を理解するということが含まれているのです。なにか政治を知っているということが含まれていて、世の中、人生を理解するということが全部含まれているのです。
 
・ところが、しないということは、普通の話になりません。実際にはなんにも知らないということに間違いありません。こういう結果が出てくるのです。それで、ダビデが朝に祈ったのです。どれくらい簡単なことでしょうか? 皆様がどれくらい神様を信じていないと、朝にその良い時間に少しだけ祈れば全生涯が変わるはずなのに、それを出来ずにいるのです。私達が神様を信じることは明らかなのに、私たちの習慣がどれくらい福音的でないので、神様の前にすこし祈ることができないのです。他の見方をすれば、深刻な話です。他の見方をすれば、私たちの人生が全く情緒的でないということです。他の見方をすれば、触ってみれば一つ、二つの問題を解明することが ない. 私が静かな時間を持つことができないことは、それだけ浮かれているということです。未信者でも、一日に一、二回は情操的にしっかりしなければなりません。これができなければ、人間は人となることができません。だから全てのものがみな破壊されるということは、間違いありません。
 
・私が勉強ができない子供達を集めて特講をしたことがあります。「あなた達が勉強が出来ないのではなくて、勉強がうまくいかないのです。そして、頭が悪いのではありません。集中できないのです。それで、あなた達が今、情緒的にいやされないからです。」説明をしたら、そのとおりだと認めました。するとどのようにするのでしょうか? 今回の修練会の時にしてみましょう。修練会は、3日しかありません。修練会の時に、朝にこの子供達を集めて聖書のみことばを読んであげて、静かな時間を作ってやるのです。あなたが静かな時間に考えもしてみて、静かな時間に聖書も読んでみて、静かな時間に自分自身も振り返って、山で朝に川辺に座ってあなた自身を振り返りましょう。3日したのにいやされた人々が多かったのです。簡単なことではないでしょうか?
 
・聖書を見るように願います。使徒の働き 3章に、午後3時の祈りの時間に。使徒の働き 10章に見れば、ペテロが祈るために屋根の上に上がったが事が行われます。使徒の働き 16章 11節に “私達が祈り場に行く時”と言われています。使徒の働き 16章 13節にも、そのようになっています。使徒の働き 16章 6節から 10節にパウロの門がふさがった時にも祈る中にマケドニアの人々が来てくださいと呼びました。パウロが 暴風に会う危機の中にいた時、祈る中に“昨日の夜に主の使いが”と書いてあります。
 
・あなたがたが違った話を聞かないように願います。神様は生きておられ、あなたがたは神様の子供です。 少しだけ祈るならば、信仰生活はものすごく簡単です。代表祈りをしようとするなら、言葉を良くしなければなりませんが、これは代表祈りでもありません。これは自尊心も必要なくて、そのまま祈ればよいのです。このダビデ王がした祈りです。あなたがたが、本当に悟るならば、簡単に終わります。あなたがたが重大な問題があるのでしょうか? 定刻の祈りに入っていきましょう。皆様にもし癌患者がいらっしゃるでしょうか? 皆様一日に何時間かだけ、時間をつくって聖霊充満をくださいと祈ってみましょう。どんなことが行われるでしょうか。いつも、健康ゆえに悩んでいらっしゃる方がいますか? 定刻の祈りをしましょう。皆様の事業を本当に成功させたいでしょうか? 定刻の祈りをしましょう。
・定刻の祈りとは何でしょうか? 少しだけ時間を作って本当に祈りましょう。私たちは、祈りの内容は何をするのでしょうか? 既に結論が出ているのではないでしょうか? 皆様が祈る時、聖霊充満をくださいと祈らねばならないことを既に知っているではないでしょうか? 皆様が祈る時ごとに天の門をあけて、神様の使いを送ってくださいということは知っているではないでしょうか? 皆様が祈る時ごとに、暗闇の権勢、サタンの勢力、あらゆる暗闇の悪い霊が縛られるようにしてくださいと祈るのではないでしょうか? その祈りだけすれば良いのです。定刻の祈りをする時、神様、私に霊的な新しい力を与えて、弟子を立てる働きをするようにさせてくださいと祈るのではないでしょうか? それだけなせば良いのです。一度回復してみるように願います。これは理論ではありません。本当に回復なさるように願います。少しだけ回復しても、みわざが起きます。あなたがたが一年ならば一年、一生の間続けることさえできるならば、まちがいなく一時代を掌握します。
・ここに牧師達、宣教師達が宣教大会ゆえに貴重なお客さんがたくさんいらっしゃいました。さっと見ても、スペインからホセ牧師のチーム、フィリピンからチョン宣教師がいらっしゃいました。あなたがたがあの方達のために、祈りで支援してあげることがとて重要なことです。私は今回の機会にお願いします。そのままするのではなく、もし祈りを正しくするのに、私は今回、孫達が話をわかることだけを待っています。すると先ず一番に宣教の話をしようとしています。 私の孫の名前がハングで、孫娘の名前はソビンです。話が分かれば話すはずです。「あなた達が貯金箱を作って宣教師のために祈ってお金を集めなさい。そして、たくさん集まれば、通帳を作りなさい。そしてずっと集めなさい。宣教師のために祈って、神様が答えてくださるならば、宣教師のために祈って献金しなさい。」先ず一番に教えてやることが福音とそれです。宣教大会を単にするのではなく、土曜日、日曜に行うはずなので、その方の話を詳細にきくように願います。皆様が本当に祈って聞けば、定刻の祈りの内容もそこから出てくるのです。すると答えがずっとくるのです。
・今日、すると聖書のみことばを見るように願います。ダビデがどのように定刻の祈りをしたのかご覧になるように望みます。1節に “私の言うことを耳に入れてください。主よ。私のうめきを聞き取ってください。”とあります。ダビデが朝に行って静かに自らの心を真実に出したのです。これだけでもいやしが起き始めます。定刻の祈りの時間に目をとじていても、相当ないやしが起きるのです。ここにもし医者がいらっしゃるではないか? 私は外に入って病気をいやす栄養より、からだの中にあることがはるかにすごいということを確認しました。これを生活につながなければなりません。皆様が祈る時に、途方もない事が起きるはずです。
・2節に “私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。”ダビデが朝にした祈りです。この話はなんの話でしょうか? 祈りを聞くことができる方が、神様であるということをダビデは知っているのです。ですから祈ったのです。3節に “主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。” 祈りをし終えれば、そのまま終わるのではなくて答えを待ったのです。
・ 4節, 5節, 6節です。“あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいは、あなたとともに住まないからです。 誇り高ぶる者たちは御目の前に立つことはできません。あなたは不法を行なうすべての者を憎まれます。あなたは偽りを言う者どもを滅ぼされます。主は血を流す者と欺く者とを忌みきらわれます。”この話はなんの話でしょうか。どのように暴悪とか、嘘とか不信仰が、どのように神様に勝つことができるでしょうか? 勝つことはできません。
・それとともにダビデが7節に “しかし、私は、豊かな恵みによって、あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。” 神殿に向かって祈りの秘密が出てきました。礼拝から、祈りから回復する祝福があることを願います。ここに“聖なる宮に向けて”と言いました。“あなたの家に行き、あなたを恐れつつ” これは個人祈りでもありますが、教会の祈りでもあります。
 
・私たちの教会に登録をなさった方達の中に、長い間の信じた方達もおられ、新しく信じた方もいるでしょう。私の話をよく記憶なさることを希望します。皆様と私は、重要なことをするようになるはずです。それはこれからくることで、今、現在です。あなたがたの中に田舎から来た方はいらっしゃるでしょうか? 田舎の教会から来られた方達は、仕事を多くします。仕事を多くしていたが、私たちの教会にくれば仕事があまりありません。するとどのようになるでしょうか? あなたがたが、そのような時に信仰に葛藤を感じることがあります。それではなく、それはその次の話で、あなたがたが私たちの教会で先ず一番に回復しなければならないことが、福音と祈りです。それを回復なさることを願います。それを回復してこそ、全てのものをみな回復するのです。残りは、その次のことです。仕事から回復しようとしないでください。私たちの習慣が仕事をする習慣になるからです。それが問題ではありません。それは、私と皆様が神様が願われる重要なことをするようになるはずです。
・ダビデを見るように願います。“私は、豊かな恵みによって、あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。” あまりにも重要な話です。今日もし皆様が、このみことばが重要に思えないならば、確かに皆様は未信者と似た生活を送っているでしょう。未信者に勝つことができません。反対に皆様がこの話を悟ることがあるならば、あなたがたにどのようなことが起きるでしょうか? 職場に行けば、皆様ゆえに職場が祝福を受けるようになるはずです。これがクリスチャンです。この味を知らなければ、クリスチャンが負けます。私たちの学生達が学校に行ったのに、まず祝福を受けるために学生達が付いてくるしかないのです。これを回復しなければなりません。
・ダビデに勝つことができません。なぜならば、ダビデが行く所にゴリヤテが崩れて、ダビデが行く所にペリシテが破られるからです。ダビデが行く所にサウルの悪い部分が崩れ始めるのです。そのような中で起きたあまりに耐えるのが難しい葛藤ゆえにダビデが祈るのです。じっとしているダビデを殺そうとするので、ダビデが祈ったのでした。
・皆様がメッセージをいくつか整理しなければなりません。皆様が何を持って帰らなければならないのでしょうか? 最初です。少しだけ定刻の祈りを回復すれば、その時からみことばが回復します。それで聖日に教会にくるべきです。すると‘みことばがこういうことだな’というようになります。ものすごく重要です。それも少しだけで良いのです。時間の量は個人によって増えるでしょう。今日、私の話をよく聞かなければなりません。皆様が少しだけ祈るようになれば、その時間に少しだけ聖霊充満してくださいと祈るようになれば、どんなことが行われるかというと、健康と霊的問題が崩れる驚くべきみわざが起きるようになっています。クリスチャンがこの味を知るべきではないでしょうか。皆様が健康も回復されて、なにか暗闇の権勢が崩れる、こういう祝福を見なければならないでしょう、ということです。これが2番目にくることです。今日、整理を良くして捕まえなければなりません。それから、三番目です。皆様が少しだけ祈れば、少しだけです。少しもしないために、少しだけなせば良いのです。すると、どんなことが行われるかというと、学校と職場に行けば、皆様ゆえに祝福がきます。ついにクリスチャンは、この時に勝つのであって、未信者と戦って勝つことはできません。戦うことも出来ないのです。私たちは、未信者と競争することができないのです。
・例を上げるならば、私がアパートに住んでいるのに、アパートの会議をするのに一度も行くことができません。時間が合わないので、行くことができません。必ずこの人が聖日にするのです。だからもっと行くことができないようになります。また隣人の間で集まって何かをするのに、私たちは参加ができません。ところが、この人達が何と話すかと思えば、私たちを知っているのです。話す中に、あの家はイエスを信じるので祝福をたくさん受けているようだ。このように話をしました。何のためなのかは知らないのですが、そのように言っているそうです。私たちの亡くなった母にそのような話をしたということです。「おばあさんの家は、イエスを信じるので、福音をたくさん受けているようだね」と言いました。その話は、その人々の目に福音を受けることが見えたということです。
・皆様が少しだけ祈れば、どんなことが行われるかというと、職場の中に行けば、皆様ゆえに職場に祝福がおきるということです。これが信仰生活です。どれくらい簡単でしょうか。反対に仮りにこれがだめになるならば、信者はものすごく難しくなるのです。少しだけすれば良いのに、この祈りをすべきだしないから救われなかった人は除外して、救われた人が少しだけ祈るならば聖日に礼拝堂にくれば、みことばが生きているということを知るようになります。たまたま私が気になった部分が説教で出てくるのです。私が今、解決せねばならない部分があるのに、なにか尋ねてみたいのに聖書から出てくるということです。こういうことが起きてきます。皆様が少しだけ祈りし始めれば、聖霊充満したことが行われるために、皆様に健康も回復するだけでなく、行く所ごとに暗闇の勢力が崩れて、だから伝道の門がしずかに開きます。これが信仰生活です。少しだけ定刻の祈りを回復すれば、どんなことが行われるかというと、職場、事業の場、学業に行けば答えが前もってきています。こうしてこそ、信仰生活になるのであって、私たちは未信者と戦って絶対にできません。それで前に証しをしました。
・私たちの青年達が軍隊に行きます。未信者の中でどのようにするのでしょうか? 少しだけ祈れば、ある日祝福の門が私たちの信者を中心に開かれるようになります。この味を知らなければなりません。キリストで服を着なさいと言われました。今日、あらゆる事業なさる方達が、本当にこの祝福を回復なさることを主の名前でお祈りします。定刻の祈りです。必ず一度考えてみるように願います。ただ皆様が本当になさることと、信じてしている途中であきらめないように望みます。している途中で、どんどん放棄して、している途中でどんどん忘れてしまうのです。それほど忙しい事もないのに、せわしくなって、このように忘れてしまうのです。ところが、続けているとどんな段階がくるかというと、自然に祈りが安らかにできる段階がきます。この時まで苦闘すればよいのです。私達がある程度は決断もせねばならない段階があるではないでしょうか。この時まで皆様がなさるように望みます。皆様がもし病気になったり、重要な問題がきたとすれば、絶好の機会です。本物の定刻の祈りを始めるように望みます。すると、後ほどどのようになっているかよく見てみるように願います。もし事業に問題がきたり、職場に問題がきたりしている方達は、この契約を堅く捕まえて定刻の祈りを始めるように願います。すると、どんなことがおきるかは私が話さなくても、分かるようになるはずです。そうしてこそ、証しもできて、対話になるのです。
・“主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。” ダビデがどのように苦難の部分にみな勝ったのでしょうか。それで、今日この部分は解釈を多くする部分ではありません。詩篇 5篇は、ダビデ王が難しい中に勝利した部分なのですが、皆様に本当に祝福としてプレゼントしてあげたい部分です。今日、仮りにこの部分を回復することを願うならば、驚くべき事が起こるはずです。
・すると簡単に二、三のことだけ話して終わります。どのように祈りをずっとできるのでしょうか。あなたがたが祈りをそのまませずに、祈る時起きる霊的な事実、その部分をまず悟って味わわなければなりません。するとたくさん知るようになります。そして、皆様が祈る時間に聖霊充満のみわざが起きながら、皆様個人と皆様の周囲に相当ないやされるみわざが起きる事実を信じなければなりません。すると祈るようになります。皆様が祈る時間に皆様がここ座って祈りもして、家でも祈るけれど、皆様が祈る現場の中に大きい暗闇の勢力が崩れるという事実を知っていなければなりません。皆様が今、祈る時間に神様が今、天の使いをあちこちに送ってくださるという事実を知らなければなりません。黙示録8:3-5 使徒ヨハネが霊の目が暗くなって、あとで霊の目が開きました。祈りをするのに、祈りをすべて持って、天使が神様が御座に持っていくのです。祈る時、こういう事が行われるのです。主の天使が皆、お手伝いをするのです。使徒ヨハネが見たのです。祈る中に暗闇の勢力が、サタンの勢力が崩れるのを見ました。これが祈りだなとなれば、しないはずがありません。祈る時間に聖霊の創造の神様の聖霊が、皆様のからだに働かれるためにいやされることができるのです。皆様の事業に働くために、驚くべきみわざが起きるのです。これを信じてこそ、祈りができるのです。では定刻の祈りはものすごいのです。それなら滅びてもかまいません。新しく始めればよいのです。今日からこの契約を捕まえなければなりません。すると勝利します。もしいままで祈りを一度もしない人も、始めるように願います。
・トーレイ博士の話だけして終えます。トーレイ博士が旅行中に友人の家に行ったのに、ある家政婦が礼拝をささげるのにこないのでした。そのトーレイ博士が言ったのが定刻の祈りです。トーレイ博士がこの女性にこう話しました。おばさん、私が贈り物ひとつをあげます。女の人が、贈り物をもらえるのかと思ったのですが、それは他のことではなくて、今夜から1分だけ祈りなさい、何と祈るか ‘神様、私は誰ですか?’ それだけ祈りなさいということでした。女性がそれが何の贈り物かと話しました。しかし、そうではありませんでした。家政婦が夜に横になっているのに、そのまま考えてみたのに、神様、私が誰ですかとしばしば尋ねるから、異常になったのです。その祈りだけ毎日しろとしたから、一週間ずっとしたから、普通の問題ではありません。後日には涙が出て大騷ぎになりました。私が誰なのか? 家政婦なのか、というような気がするのです。私がこれをしようといるのか、というような気もするのでした。トーレイ博士が帰ってきながらまた立ち寄ったら、あまりに泣いて目が腫れていました。それで友人が元通りにしてくださいと言うのでした。夜通しあまりに泣いてだめだということでした。それで、おばさんプレゼントをもう一つ差し上げます。‘神様はどなたですか?’と質問しなさい。2分だけしなさい。初めの1分は私は誰ですかと聞いて、神様はどなたですかと聞くのに、あなたの生涯に変化がくるはずです。本当に変化が起きました。どれくらいやさしくて、簡単か難しくて違ったことを捕まえず、やさしくて簡単で正しいことを捕まえて、今日から本当に勝利なさることを祈る時起きることを知って答えを受ける皆様になるように、生きておられる主イエス・キリストのお名前でお祈りします。
 
“神様に感謝申し上げます。今日、神様の民がこの場に集まりました。やさしくて簡単ないのちの中にある真理を悟るようにさせてくださりながら、今日から祈りを始め、定刻の祈りを始めて完全に勝利して、その時間に聖霊充満して名前で病気もいやされるようにして、その時間に聖霊で働きが起きて、事業も職業も生かされますように。その時間に暗闇の勢力が崩れ、あらゆる呪いと不信仰が崩れるようにして、その時間に天が開かれて、主の使いが送られ、考えることもできない答えを味わう勝利者になるようにしてください。この恵みから受けて出発するように、神様が主の民に答えが始まることを信じます。生きておられる主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン”