2002年10月20日 インマヌエル聖日礼拝


1部/信仰告白の後に見る真の信仰
(マルコ9:1〜8 )
 
  
 
・ 私たちには、問題があってもなくても、選択をしなければなりません。このような時は どのようにしなければならないか? というような時が多いのです。ほとんどの人々は間違った選択をして、神様の恵みで後ほど悟ることもあります。しかし、ある人はよく悟れる祝福を味わうこともあります。皆様もそのようなことでしょう。‘これは、どのようにしなければならないのか’という時、皆様の家庭に問題が生まれた時、‘このような時にはどのようにしなければならないのか’こういう気がする場合が多いでしょう。また、皆様が選択をしなければならない時、このような時はどのようにしなければならないのでしょうか。また皆様に極限な病気とか困難が来ることもあります。このような時は、どのようにしなければならないのでしょうか。こういう質問を多くするようになって、またそれが必要です。
・ところが、その質問に対する答が今日、一番よく出ています。今日の本文と何の関係があるのかと思われるでしょうが、今日、皆様が本文をよく見るならば、どんな本文なのか分かるでしょう。先週にペテロが「主は生ける神の御子キリストです。」と告白したら、イエス様があまりにも驚かれ、それから十字架を背負って死ぬことを話されたところ、ペテロが「それはだめです」と話したのでした。その時、イエス様がペテロに「サタンよ。下がりなさい。」というように話すほどでした。ですから、ペテロは先週に相当重要な信仰告白をした後に、神様がペテロ、ヤコブ、ヨハネの三名の弟子を連れて変化の山に上がられたのです。変化の山に上がって座って祈るのに、突然にあることが起きました。どのようなことがあったかというと、想像もできない不思議な光景が現れたのでした。見ると、イエス様とエリヤとモーセの三人が座っていました。三人が何かの相談をしていたのでした。この時、ペテロ、ヤコブ、ヨハネが見てあまりに驚いて、「これがどのようなことか?、イエス様とモーセ、エリヤが相談をしているのか。」これがものすごく重要なのです。皆様、信仰生活を長くなさった方は、すぐに分かるはずです。モーセは、律法の代表者です。エリヤは、力と神秘の代表者です。イエス様はキリストです。この三人がここに集まっていました。何かを相談していたのですが、多くの人々が予測して、十字架を背負って勝利すること等、色々なことを話していたのではないかと予測しています。私もそのように思います。ところが、ペテロ、ヤコブ、ヨハネが見て、「このようなことがありえるのか。どのように、イエス様とモーセとエリヤが共に座っていることができるのか。ここでいっそ永遠に住めば良い」とペテロが話しました。この内容はものすごく重要な内容です。今日、学習を受ける方、洗礼を受ける方がおられ、ここには牧師もおられ、役員の皆様もいます。ここは今、100箇所あまりで、衛星で同時に礼拝していて、約5000ケ所を越える海外でメッセージを見ていらっしゃいます。私が見る時は、救われる信仰告白をした後、最も重要なのです。何がそんなに重要なのかというと、ここに今、3つのことが出ています。モーセは律法主義、エリヤは神秘主義、それからイエスはキリストの福音、この三つが出ています。この三つを区分できなければ、信仰生活がずっと混乱します。もしここに初めていらっしゃった方達がいるなら、この部分を詳細に聞かなければならず、長く信じている方達も詳細に聞かなければなりません。私たちにこの三つがいつも混乱を与えるのです。
 
・ まず、この律法主義の長所と短所が何かを知っていなければなりません。神秘主義の長所と短所をよく知らなければ大変です。福音の長所と短所は何でしょうか。福音に短所があるのか。こういう部分を区分しなければならないのです。律法主義の長所は何でしょうか? ものすごく法的で、ものすごく倫理的で、道徳的で、宗教的であるゆえに、本当に良さそうに見えます。社会の話をするのにも良くて、伝道をオープンすることにも良くて、なぜなら非常に法的で非常に倫理的で道徳的であるゆえに、未信者に言うのも良くて、見た目も良いのです。これが律法です。律法は神様のみことばであるゆえに変わりません。これが律法の長所です。ユダヤ人が堅く捕まえたメッセージです。旧約の律法です。この律法はいつ与えられたかというと、モーセに与えられたので、モーセ五書と言います。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記がモーセ五書です。それでモーセといえば、イスラエルの人を救い出した律法の代表者です。聖書に見れば、預言者、律法と預言者と言われるときは、モーセとエリヤのことを指して言われることです。では、律法の短所は何でしょうか?律法の短所は、救われることができず、霊的問題を解決出来ないことです。これはものすごく重要な部分です。律法はどんなに多くて、どんなによく知っていても、人間を救うことができません。私達が律法をみな守れないことはもちろんのこと、律法自体が私たちを救うことができません。ユダヤ人はどのように思っているかというと、律法を全部みなよく守れば、救われることができると思っています。そうではありません。律法は、私たちを救うことが出来ません。それで、ある人は愚かな質問をするようになるのです。赤ん坊が生まれてすぐ死ねば、救われているのか、救われていないのかと聞きます。カトリックでは、救われないこともなくて、救われることもなくて、生まれたばかりなので何の罪も犯さずに死んだから、途中の段階の乳児のいる場所に行って後から両親が祈りをたくさんするならば天国に行くと教えます。ここには、カトリックの人が多くいます。そのように教えるのです。しかし、それはとんでもない話です。一日生きて死のうが、百年生きるて死のうが、人生です。人生は救われなければなりません。新しいいのちを受けることができなければ、救われなかったのです。このように人々はよく分からなくなるのです。律法の短所は何でしょうか?私たちの霊的な問題を解決できないだけでなく、救うことができません。それで、父の中で、ものすごく厳格で怖い父の場合、社会生活を出来ないびくびくした子供となります。それが律法です。怖いのです。必ず覚えなければなりません。律法の短所がそれです。
・ では、律法の長所は何でしょうか?たくさんあります。イスラエル人が成功したことを見ましょう。それが律法です。イスラエルが世界を征服したことを見ましょう。それが律法です。すごいことなのです。旧約の律法です。今でもイスラエルの人々は、新約は認めないで、旧約の律法だけを認めます。ところが必ず私たち信仰人が記憶しなければならないことは、律法の短所がなにか?というと、救われることができず、霊的問題を解決できないということです。精神が狂っている人に律法をどんなに読んであげても解決しません。そして、この律法は救われていない人々もよく知っているのです。一度は、ある人が教会にきて、礼拝時間なのにお金をちょっとくれと、暴力をふるいました。それで礼拝時間になったからと、ちょっと文句を言ったら、この人がイエスを信じる人がなぜ怒るのかと話しました。それが律法主義です。イエスを信じる人は、怒らないのではないかと尋ねたのです。人間は、喜怒哀楽を感じるのに、なぜ怒ることがないのかと、イエスを信じる人は、怒ってはならないかと話しました。その人は、すぐにイエスを信じる人がなぜ怒るのかと話しました。これが律法主義です。その律法をどこかに行って、学んで知ったのかということです。精神異常者を治癒してみれば、福音はそんなに分からないのに、父の間違ったこと、母の間違ったこと、叔父が間違ったことを全部暗記しています。律法主義です。この律法主義は怖いのです。今日は学習、洗礼をしなければならないため、時間があまりありませんが、この部分は皆様の信仰生活に本当に重要です。
・ やさしい例で、釜山に長く住んでいる人々は皆知っているはずです。ある牧師の娘が遠足に行きました。遠足に行って友人と交流する雰囲気で酒を飲んだのです。この牧師はおわかりの通り、律法の中の律法でした。その時、福音を知っている人だったなら、「あなたは良い経験をしたんだなあ。よく考えてみよう。あなたがどのような行動をしたか。たくさん飲んだら、どのような行動をしたか。」と色々なことを話しながら悟るようにしてあげなければならなかったのです。ところが、この牧師は律法的だったのです。それですぐに娘を追い出したのです。もちろん出て行けという親心ではなかったのに、この人は大変なことが起こったと、娘を追い出したのでした。ところが、その娘はものすごく傷を受けたのでした。家に帰って来ようとしたのに、うわさが立ったのです。この子供が旅行に行って酒を飲んだことがうわさになって、家で父から追い出されたという噂が飛びました。この子供も父に似て律法的です。図々しく、そのまま帰れば良いはずなのに、帰っていくことができないということでした。これが律法です。神様の前で悔い改めて帰れば良いはずなのに、この子供も習ったことが律法でした。ですから、どんな結果が出てきたかというならば、家を飛び出して行ったのです。だから出歩いて回って、消息が入ってきたのは、どこかで死んだということでした。それが律法です。律法は怖いのです。
・ 一例を上げれば、またよく分かるはずです。統合側から来られた牧師先生達は、よく知っているはずです。名前は明らかにすることができません。牧師の息子が小学生なのですが、中学生ぐらいに大きいかったのです。中学生の時は高等学生ぐらい大きかったのです。この子供は太った重病人ではなく、均衡がとれた大きい子供でした。私は高等学生の時、この子供を見て大学生と思っていたのです。よく育って大きかったのです。ところが、この子供が中学校に通っていた時、中学校を卒業することもできなくて、悪い子供と交流したのです。だから、私たちの教会が律法しか知らないから、この子供を教会が叱ったりしたのです。堂会でも律法でした。堂会で一名だけでも、子供とはそのような時があるといった福音で説明することを知らなかったのです。堂会でも牧師息子が、どうしてそのようなことがあるのか、教会全体が牧師息子がどのようにそのようなことがあるのかと言うので、その息子が家を飛び出したのでした。皆様もご存知であるはずです。釜山で有名な事件を起こしたやくざになったのでした。教会も必要なくて、父も必要なくて、父母も必要なくて、ただ自分はこぶしだけ信じると言いました。これで堕落したのでした。体格が大きかったので、こぶしも大きくて、一発殴られたら重傷以上になります。この子が歩き回りながら喧嘩をして、やくざもこの子を全面に出してけんかさせました。このようにして起きた事件は話にもなりません。律法の結果と恐ろしさです。もっと簡単な例で、ユダヤ人達は救われることができなくて、滅びてしまったのです。これが律法です。だから、その律法のモーセ、今日の本文では消えてしまってキリストだけが残りました。
・その次に2番目に悟らなければならないことは、神秘主義です。神秘主義の長所です。神秘主義をする人々は概して真実です。神秘主義をする人は、あらまし熱心です。そして、神秘主義をする人々は神様が誰かなのかよく知らないながら神様を愛します。この人達が大部分、神秘主義です。この神秘主義の短所は何でしょうか?というと、霊的な問題で苦しめられる人や、飢え渇いた人がおもにたくさん行きます。霊的問題で苦しめられる人が、神秘主義にたくさん行きます。行ってみると、しるしを求めるようになります。そうしたあと見ると、聖書に見ると、イエス様がしるしを求める悪い世代と言われました。この神秘主義の弱点が何なのかというと、あまりにも自分が飢え渇いているので、正しい福音をつかむことが大変です。皆様考えてみましょう。お腹があまりに空腹ならば、食べ物の味が正しく分かりません。お腹がある程度適当で、この食べ物がおいしいのか、おいしくないのかが分かります。お腹があまりに空腹ならば、何でもおいしいのです。私が断食を三日して、家に帰ってきたら、何でもおいしかったのです。腕がすごいのだなと思いましたが、何日か過ぎたら、腕は良くないなと思いました。このように、人がおなかが空いていれば何でもおいしいように、飢え渇けば、人は何でも捕まえるのです。これが神秘主義の弱点です。ところが、より重要なことは継続して失敗がくるのです。そして、時間が経つほど、霊的な問題が重なっていきます。神秘主義をしてみた方は知っているはずです。まるでグッ(降霊術)をしばしばすることと同じです。グッ(降霊術)をすればするほど、問題がずっときます。占いを訪ねれば訪ねるほど、どんどん問題が迫ります。これが神秘主義です。福音がない神秘主義は、ムダン(霊媒師)とそっくりです。この部分をあなたがたが理解しなければなりません。
・すると、福音は何でしょうか?すべての問題の解決です。キリストがすべての問題を解決したので、福音の弱点が何か、これを知っていなければなりません。福音は弱点がありません。福音を持った者の弱点は、何でしょうか?皆様、バスが行くとき、ひっくり返って人が死んだのですが、その運転手が分かってみたら無免許運転手だったという話を聞いたいことはありますか。ないでしょう。タクシー運転手が行く時、事故を起こして、車がひっくり返えったのですが、分かってみたら無免許運転手だったということはありません。おもに見れば、バスを運転して事故を起こしたのは、運転手はとても長い経験者なのに、どのようになったのかバスがひっくり返ったと言います。ニュースで、飛行機が墜落したのに、分かってみたらその飛行機の操縦士が無免許だということはありません。この操縦士はベテランなのに、どのように事故が起きたのかと調査をします。福音を悟った人が、これと同じです。私たちは資格をみなもらいました。運転をする事もでき、車もあって、道もあるのに、用心しないのです。だから、事故が起こるのは、うとうとしている途中で事故を起こす場合もあるけれど、そのような場合は少ないのです。なぜなら、眠たければ私が眠ってしまうかと用心をします。油断するときに、事故がおきるのです。そのような場合が本当に多いのです。私が30年前に、どれくらい好奇心が多かったか、車に乗ってみたかったのですが、車がひとつありました。私の友人の家の車でした。その車を私が運転して行ったのです。どこに行けばよいか分からずに、そばの車と衝突をしたのに、側面がぶつかったのです。私は、バックミラーを見ることも知らないから、大きいトラックと側面がぶつかったのです。ぶつかったトラックはそのまま行ってしまい、私の車はあちこち揺れました。神様は私を色々な面で、たくさん守ってくださったのです。前に見たら、警察署があったのですが、警察がぶつかる音が聞こえなかったのです。聞いたとすれば、私を捕まえて免許証を見せなさいと言ったでしょうが、私は免許証もなかったのです。それが30年前です。そのように事故を起こして、横に車を止めたのです。それから私は、死ぬのかと考えました。私が変に大胆なようです。人がどのように、そのようになるだろうかということです。その時、私は、しっかりして免許証を取るべきだと考えました。ところが、免許証を持っている人が、なぜ事故を起こすのでしょうか。油断したからです。これは福音の弱点ではなくて、福音を持った人の弱点です。
・ 私が15年前に、どれだけ確信したかというならば、福音を知ったためです。私が受けた祝福は、話すことも出来ません。皆様が受けた恵みもあるでしょうが、皆様を見れば見るほど、私が受けた祝福は話にもなりません。これが高慢です。初期の頃のパク・キョンシ執事がいます。初期の頃の長老達もいます。その方達が200坪の教会の土地に移ると言った時、私はしないと言いました。そうしたところ、パク・キョンシ執事が私にきて、熱弁をふるったのです。パク執事は、みことばも良くできるでしょう。私にきて、熱弁をしたのです。なぜ教会を建てないでおこうとするのか、早く建てなければならないのに、と言いながら語りました。私はまだだめだと言いました。そうしたところ、うわさが立って、牧師は教会を建てることに関心がないということでした。牧師は伝道の他には関心がないということです。ところが、私はどれだけ確信があったかというと、それではだめだという気がしたのです。合宿訓練もしなければならなくて、これから伝道運動をしなければならないのに、お手洗を作ることならば良いかもしれませんが、200坪ではだめだという気がしたのです。私の胸の中に、それほどの確信があったのです。では大変なことではないでしょうか。では私たちの教会の予算がいくらあったのかマイナス10万円でした。だから私たちの執事等の話が正しいのです。論理的に正せば、私たちの執事達のことばが正しいのです。しかし、私は違いました。絶対にそのようにすることができなかったのです。それで回っている途中で捜し出した所が、ここの教会の場所です。それほど私には確信があったのです。世界の福音化という明らかな確信がありました。ところが、初期の頃のメンバーはご存知でしょう。影島を回りました。大きい土地があるのかと、地域を探して回ったのです。大きい土地もみな訪ねて、地域も30ケ所に分けました。その時、私が一番最後のコースが、シン・サンヒョン長老のお宅でした。毎日、毎週、その家に行きました。地域をまわって伝道をしたのです。どれくらい確信に満ちていたのか、準備をみなしておいて、「私は世界の福音化を確かにする」と言いました。これが福音を持った人の高慢です。多くの祝福を受けた者の高慢です。「私は世界の福音化をできる。影島はこれで終わった」と言いました。あまりにも多くの確信ゆえに来る高慢でした。私があまりに恵みをたくさん受けて、眠ることもできない時もありました。こういうことがあるのかと。しかし、これが高慢でした。明日出発するのに、三十箇所の地域に分けてタラッパン伝道運動を明日始まるのに、今日事件がおきたのです。誰がなさったのでしょうか。神様がなさったのです。皆知っているでしょう。神様が完全に私を倒されました。祈り始めたのです。ここに証人が座っているではないでしょうか。それから後、いままで神様が15年間、粘り強く祝福なさいました。皆様が知らないのですが、他の人達はいろいろ話しますが、この釜山に福音に理由がある人達が集まりました。神様がそのように祝福なさったのです。
 
・ 今回、第二の開始です。今、神学院の建物もできて、協会の建物も買いました。神様が私たちの団体をすごく祝福していらっしゃいます。そして、教会がどんどん起き始めています。私たちの実力ある後輩がどんどん起き始めて、あちこちに私たちのレムナント達がおき始めています。私が15周年を行いながら、どれくらい、少しより高慢になり始めたのです。写真を見てもすごいなぁという気がしました。私は知らなかったのです。
 
・ 神様が第2の開始をするように、私に攻撃をし始められたのです。祈りのお願いを申しあげます。本当に神様の前に、これが福音を持った人々の弱点です。これをあなたがたは注意しなければなりません。福音を持った人々の弱点です。あまりに自信満々で、あまりに確信するから、はた目には高慢に見えます。あまりに確実だから、他の人が見るのに、福音を悟ることができなかった人々が見ると、気分が悪いのです。そのようになります。ですから、この部分は、私が見るのにとても重要な部分です。ペテロの2度目の失敗をしたのです。エリヤ、モーセ、イエス様がおられるので、ペテロが何と話したのでしょうか。「イエス様、このように良いことがあるでしょうか。ここに家三つを建てて一緒に住みましょう」と言いました。お金もないながら、です。ペテロがお金があるでしょうか。「私たちは、ここに家三つを建てて永遠にいっしょに住みましょう」と言いました。どれくらいイエス様があぜんとされたでしょうか。ところが見ると、天から声が聞こえながら、モーセも消えて、エリヤも消えて、キリストだけが残ったのです。何の話なのか分かるでしょうか。律法も私たちを生かすことができなくて、私たちに神秘の力も私たちを生かすことができなくて、ただ福音だけが私たちを生かすという、そのみことばです。この三つが常に信仰生活の原理にならなければなりません。律法主義、神秘主義、福音主義。この三つが信仰生活に常に応用されなければならず、判断されなければならないのです。あなたがたは、相手を判断する時も、いつでもその解釈は律法でするけれど、判断は福音でしなければならないのです。そして、あなたがたが仕事を進行して行く時、分析はこの三つでしなければならないけれど、判断は福音でしなければなりません。それでこそ勝利を続けることができるのです。
・そして皆様、必ず記憶なさらなければなりません。両親があまりに律法的ならば、子供が押さえられて霊的に死んでしまいます。これを知っている父母があまりいません。律法通りすれば良いと思うのですが、そうではありません。ほとんど家や出る子供達は、家庭が良くなくて出る子供達もいますが、あまり家庭が良くて、律法に押さえられて出て行く子供達も多いのです。私が若い時‘ローマの休日’という映画を見ました。その映画の主題が何でしょうか? というと、その王女があまりに王宮で押さえられていたので、耐えることができなくて出て行くのです。王宮がどれくらい良いでしょうか。それでもあまりに押さえられるから、お手洗に行くのにもついてきて、ご飯を食べるのにもついてくるのです。だからうるさくて生きられないのでした。ちょっと自由に出て回ってみたいのにということです。それで家を出てきたのでした。家を出てローマに行って歩き回りました。それが‘ローマの休日’という映画です。その時、私はその映画を見て、「あの女の人は狂っている、王女であれば良いはずなのに」という気がしました。ところが、生きていきながら、意味がある内容だという気がします。
・今日、皆様が最後に悟らねばならないことは、このペテロが「主は生ける神の御子キリストです。」と告白しても、そのペテロが、イエス様が十字架にかかられた時、否認したペテロが、今、モーセ、エリヤ、イエス様のために家を建てると言ったと出ています。間違った欲です。私たちはこのようになりがちです。かくも弱いペテロが、福音ですべての問題が解決されたのに、このように弱いのです。それで、神様が福音は全てのものだな、どんなことも勝つことができるんだな、どんなサタンにも勝つことができるのだな、ということを悟るようにすることが聖霊充満です。ペテロが聖霊充満を受けた後に、大きい恵みを受けました。今日、あなたがたが大きい答えを置いて祈るように願います。あなたがたの問題は、ほとんどすべてが過ぎたならば、重要な神様の計画になるはずで、事件は神様の祝福を成し遂げることになるはずです。私は聖書を見ながら、ヤコブが一番愛した妻はラケルでした。どれだけ愛したかというと、ヤコブがラケルゆえに気が抜けたような状態になったと見なければなりません。その女性を得るために20年間、しもべとして働きました。そのようにして産まれた子供がヨセフです。ところが聖書に見ると、ラケルは早く死にました。それを見ながら、見た瞬間、私は本当に良かったなと考えました。なぜならラケルが出てくる時、すでにその家の偶像テラフィムを盗んで出てきたのです。ラケルは普通の女性ではないようです。ところが、この女性が生きているかぎり、ヨセフは絶対に家を出られません。今、ヨセフの兄達が問題を起こしたように見えるのですが、ヨセフの兄達がそのようにすることなしでは、ヨセフは永遠に自分の家でおいしい菓子を食べて、おもしろく生きて死んだでしょう。この兄達がそのようにすることが、ヨセフが家を出る契機です。ヨセフがポティファルの家で寃罪をこうむらなかったとすれば、永遠に奴隷で生きて死んだでしょう。ヨセフは、監獄の中でものすごい政治家達に会うようになります。神様がパロ王に夢を見るようにして、ヨセフを出てくるようにしました。私たちは事件が全部答えです。今日、あなたがたが重要な律法、神秘、福音をよく識別して、信仰に完全に勝利する祝福の日になることをイエス様のお名前でお祈りします。
 
<契約の祈り>
神様、今日、学習・洗礼を受ける方達が、一生忘れないようにさせてくださって、律法が何かを長所、短所を知るようにしながら、またこの神秘、このすばらしいことが何かよく区分する恵みを与えて下さり、福音が何かを知る恵みをください。もしこの中に病気の人があれば、霊的に新しい力を得るようにしながら、失敗した者があれば新しい霊の目が開かれる日になるようにしてください。また聖徒全員が、世界の福音化に目が開かれる祝福の日になるようにしてください。私たちの主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン
 


2部/必ず高められる義人
(詩12:1〜8)
 
・私が4才だったか、5才だったか確実な記憶ではありませんが、私の家のそばで米国の軍隊から流れ出るガソリンに火がついて爆発したのです。火が私たちの町中を覆いました。その時、過ぎ行く人はもちろん、家の中にいた人々もみな死にました。その時、家は屋根同士がほどんどくっついていたのです。ガソリンが爆発して火がついたので、どんどん燃え広がる状況でした。確実な記憶ではないのですが、その時、私の年齢が5才くらいでした。それで3時間ほど(私は何時間なのか知りませんが、私の母が言うのには3時間を越えて4時間だということですが)約3-4時間、私の母と一緒に火から這って出てきました。火から這って出てきたのですが、私がとても幼かったのですが、ものすごく難しくて息苦しかったのです。出てからどんなに年齢が幼かったのですが、火の中から出て他の人は死んだので、私が感じたのは‘本当に幸いだ’と思ったのです。私が年齢が幼かったのに‘本当に幸いだ’と感じたのですが、今考えると‘神様の恵みでなくては、どのように生きられただろうか’その火の中でおとなも死んで、青年達も死んだのにということです。
 
・ たぶん釜山に長く住んでいる方は、よく知っているでしょう。私が約10歳くらいになったのに、それも正確な年齢は記憶できません。小学校 3学年、4学年、2学年くらいの時ですが、その村には人々がよく通らない深い蓮池に私が落ちたのです。今でもできない泳ぎをその時、どのようにできるでしょうか? ですから、水に入っていっり、出てきたりすることを何度かしました。水に入っていけば苦しいのかと思っていたら、そのようなことはなく、水のにおいがすることと水音が聞こえたのですよ。その他には考えられませんでした。瞬間的に‘あ! このようにして死ぬのだな’という気がしたのですよ。ですから短い瞬間です。押し寄せる不安とか、孤独さがあるでしょう? ‘誰もいない’ということと‘これから死ぬのだな’ということが、瞬間的に押し寄せたのですよ。その時の年齢が10歳、11歳くらいの時です。その蓮池の横に人が過ぎるのは10時間でも 6時間でも 5時間でも、いつも過ぎることがありません。そこは人が通り過ぎる所ではなかったのです。私がとにかく、そこにはまったのです。どうして人が通り過ぎるでしょうか? ところが、ちょうどその時間に人が通り過ぎたのでした。その時間に人が通り過ぎたのに、少しだけでももっと後から来たらだめでしょう。ちょうどその時間に人が通り過ぎて、私を救い出したのです。どれくらい私がうろたえていたか、その方の顔が思い出せません。まず、生きのびて、食べ物を吐き出したことを思い出すくらいです。その時も私が幼かったのですが ‘本当に幸いだ’という気がしました。今、考えると、それが神様の祝福であって、どのようにそのような幸いなまぐれがありえるでしょうか? ということです。
・ 伝道師で仕事をしていた時ですが、私達が間違って海の修練会を行くのに、大きい船に乗っていけばよいのに、私たち10何名かが小さい船に、簡単に話せば不法な船に乗ったのです。荷物を積んで10何名かが乗りました。分かってみたら、その船は3人しか乗れないと書いてあったのに、この人がお金をもうけようという欲で10人を乗せて、10名のかばんを乗せたのでした。それから知らないから私が乗ったら、見るとその人は、普段の時からそのようなことを多くしていたようでした。ところが、これが行く時、危険な目に会ったのです。突然に抜け出して大きい海に入っていかなければならないのに、そこで波が一度に寄せ付けたのです。波が一度に寄せ付けたら、船の主人が途方もなくあわてるのです。船が上がったり、下がったり、そのようになりました。ですから、その時にきた感じが‘あ! これは大変なことになったんだなあ’でした。その時、私は伝道師だったから、幼いことはありません。‘大変なことになったんだなあ’ 全てのものが不安だけが浮き上がりました。‘明日、私達が死体になって新聞に出るのだな’ということです。‘ある伝道師と青年達が修練会に行く時死んだ’ ということです。時々ニュースや新聞を通じて見るでしょう? それが想像されたのです。それでも、これから泳ぐことができる希望があれば良いのですが、私にはそういう希望がないために、まず私は確実に死ぬでしょう。水に溺れれば、私は泳ぎができません。不思議に泳ぎができないのですよ。それで‘これから死ぬのだな’こういう気がしたのですが、私だけが感じたのではなくて、船に乗った青年 10人がみな感じました。どれくらい無知だったでしょうか? その船を10人が乗ったからということです。ところが、船の持ち主が行くこともできなくて、戻っていくこともできなくて、こういう状況になったのでした。後ほどはこの人があきらめてしまったのですよ。この人が、どうしたら良いのか分からなかったのです。すると私たちはどのようにするのでしょうか? その時、私たちは約10人が、誰がさせたのでもなかったのに、お互いに抱き合って悔い改めの祈りもしました。あまりに怖かったからしたのでした。そのようにしたのに、その時に灰色でできた鉄の船が来ました。海軍の艦艇です。これが私たちに船をつけて、私たちを救ってくれたのです。私たちを救ってくれて、船の持ち主は捕まったのか、連れて行かれました。私達がその時感じました。‘やー! その時、船が来なかったなら、私たちは水に溺れて死んだのに、ちょっとした差で生きのびた’ 今、考えると、神様の恵みです。どのように神様の祝福でなくては、ちょうどの時刻表にそのような正確な事が起きることができるでしょうか? そういう経験を私が少ししたことがあります。私が何を感じたのかというと‘あ! このような危機と暴風に会えば、人の力では対策がない。神様が祝福なさらなければならないのだ。’14日間、暴風雨が一度に寄せ付けるのに、今、パウロとともに 270名余りが乗った船が沈み始めたのです。空も真っ暗で、昼夜を区分することもできなくて、食べ物も食べることもできなくて、船が沈んでいったとなっています。この時は、必要な科学なのですが効果がなくて、この時は多くの経験もお金が必要ではないという話になります。生きることができないということです。私がこれを見ながら‘本当だな。それで私たちの人生は神様を信じるよ。これで神様を信じることなしでは生きることができないな’というようなことを多くのことを見ながら、また聖書のみことばを見ながら、私自身を見ながら感じたのです。
・ 今日は、ものすごく重要な単語を理解して行かなければなりません。今日、私がタイトルを“必ず高められる義人”としました。ところが、これからここで説教を多く聞いてきたでしょう。また 今、礼拝に参加して、インターネットでみことばをたくさん聞いています。その中に牧師達もたくさんいて、特に、宗教人がたくさん聞いています。今日、あなたがたが必ず一つの単語だけ理解して行けば良いのです。しばしば、人々がこのように思っているのです。“罪人” このように言う時に「私が殺人をしたか? 強盗をしたか?」このように考えます。またその反対の話で“義人”とすれば、今日の義人はいかなる困難が来ても滅びないとなっています。“義人”このようにする時、大部分の人々が、「本当に正しく良い生活をする人が義人ではないか?」 というようにしています。また信仰生活を良くする人を義人だと思っています。大部分がそのように思っているために、多くの部分が正しい部分もあるけれど、とても重要な決定的な瞬間に解決しないのです。
・それで初めて来た方か、ここで信仰生活を長くなさった方か、今全世界でメッセージを聞いている使命者の方達でも、またあらゆる宗教人でも、あるいは僧侶までも、今日のこのみことばを聞きながら、多くの祝福を受ける重要な機会にならなければなりません。聖書が話す、神様のみことばが話す罪人と義人が何でしょうか? ローマ3章 10節に見れば、「義人はいないひとりもいない」となっています。これを理解できないのです。“なぜ義人がいないのか?” またローマ 3章 23節に見れば、すべての人が罪を犯したとなっています。すべての人がみな含まれています。これが理解できないのではないでしょうか? これが理解できないで、どのように信仰生活ができるだろうかということです。とても重要な部分です。
・ 私が見る時には、今日の1部礼拝の時、律法主義、神秘主義、福音主義は、私達が信仰生活をして行くのに、とても重要な目であると言いましたが、今日、この部分を皆様が知らなければ、皆様の運命と関係があります。今日皆様が、この部分を知らなければ、皆様の未来と関係があるのです。そのためにあまりにもこの部分をよく理解しなければなりません。聖書で言う罪人という話は、殺人を多くして、強盗を多くすることも罪人なのですが、そういうことではありません。
・創世記 3章の事件を皆様が知っているでしょう? それ以後に、すべての人間は運命と原罪の中に陥ってしまったのです。そこから抜け出てくるのを“義人”と言います。皆様、このように理解できなければ、信仰生活が大変なことになります。別の言い方をすれば、皆様が重要な問題を解決しようとするなら、何から変わらなければならないのでしょうか? 運命から変わらなければなりません。未信者の話で「運命」です。皆様が本当に神様の祝福を受けようとするならば、私たち人間の運命から変わらなければなりません。それが義人です。皆様がよく理解できるかどうか分かりません。私が多くの宗教人に会ってみたのですが、これを理解する宗教人はほとんどなくて、牧師の中にもこの部分を理解できない方達が、あまりにも多いのです。すべての人が罪を犯しました。聖書には、そのように出ています。みな罪人であるということです。ある人は理解ができなくて、“私が殺人しましたか? 盗みをしましたか? 強盗をしましたか? 私がいままで良心的に生きてきたのに、私たちの会社に執事、長老がいますが、その人々は良心的に生きていないのに、私は良心的に生きてきたのに、私がなぜ罪人でしょうか?” そのように言います。ですから、そのように理解しているのです。たぶんここにいらっしゃるあなたがたも、この部分を特に重要に考えないでしょう。しかし、まちがいなく、皆様の未来と関係があるのです。皆様がこの話をわかることができなければ、皆様の運命と関係があるということです。それで、今日初めて信じる方達は、ものすごく重要な祝福を受ける日になることを願って、信仰生活をするあなたがたに、本当に神様の驚くべき計画を実際に見る重要な日になるように願います。この部分を知らなければ、うまくいきません。義人と罪人の定義ができないということです。今日の私の説教を聞くまで、どのように理解をしていたのでしょうか? 聖書が話す義人とは、どんな義人か? ということです。するとその反対の話で、聖書が話す罪人はどのようなことを話すのでしょうか?もちろん、悪いことと法律違反行為をすることも罪人です。しかし、聖書が話す「すべての人が罪を犯した」ということはなんの話でしょうか? 皆すべてが犯罪をしたということでしょうか? すると、すべての人が人を殺したということでしょうか? どういうことを話すことでしょうか? もちろん、小さい罪をみな犯すことができます。しかし、聖書が話す罪はその罪ではありません。これを理解できなければ、聖書を絶対に理解することはできません。これを理解できなければ、アダムが罪を犯したのに、なぜ私達がその罰を受けるのでしょうか? この部分を理解できなければ、イエス様が十字架を背負われたのですが、なぜ私の罪がなくなるのでしょうか? 話にならないことではないでしょうか? イエス様が十字架であらゆる苦難にあって、復活なさいました。これが私と何の関係があるのでしょうか? 私のためにしたということは、何の話になるのでしょうか? 私は以前にそれが理解できなかったのです。アダムが罪を犯した? その人が罪を犯したのに、なぜ私が罰を受けるのかということです。そして、イエス様が十字架を背負って私の罪をあがなわれました。それが何の話か? 理解できなかったのです。ですから、信仰生活が根本からできなかったのです。
・ 創世記 3章の事件がおきて、実はこの地には相当な霊的な問題が始まり、人間は相当な運命の内に陥り始めて、人間は何か解決できない所に陥り始めたのです。これを聖書が明らかにしています。他の本では明らかにしていません。人間が何かサタンの力の内に陥っていきながら、霊的な運命の中に陥って、死ぬようになったのです。これが罪人です。これが変わらない以上、どんなに苦闘してもだめなのです。ここから救われた人を聖書では義人だと話します。
・今日、あなたがたが本当に貴重な祝福を受ける日になるように願います。私が今、すべて思い出せません。とても若い時に読んだ本だからです。正確な内容でもありません。聖書でないからです。ダンテという人が書いた本があるでしょう? “神曲” という本です。それを非常に若い時、おもしろくて読んだ本です。読んだら、参考にする内容は出てきます。そこに何の内容が出てくるのかというと、ある人が死んだのですが、どこか回って息をふきかえして、文を書いたのです。何の文を書いたのか?というと、地獄と天国に関する文を書いたのです。ダンテの“神曲”にそのようになっています。そこを見ると、人々が地獄にきていることを見ると、この人が書いた本を見れば、罪を犯した通りに地獄に来ていたのです。第九地獄、第八地獄、第七地獄、このようになっているということです。一番軽く罪を犯した人は、第一地獄に行っているということです。こういうように書いています。聖書で書いているのではありません。その人が書いた内容です。ところが、一番怖い地獄に行ってみたら、誰がいたか? 2名いたということです。誰でしょうか?一名はイスカリオテのユダとジュリアス・シーザーを最後に刺したブルータス 2名が第九地獄に座っていて、どのように座っていたかというと、何かの汚物、糞水のようなものがあって、その中につかっていたのです。上がってきたら悪魔が押さえて、上がってきたら悪魔が押さえようとするのです。それをいつまでするのでしょうか。永遠にするのです。それを場面に描いてありました。ところが、私がその話をしようとするのではなくて、面白いことには、その時私ははっと驚いたのです。小説であったのですが、一番罪を犯した人が行く地獄があるのに、そこに三名の名前が明らかにされていました。“釈迦、ソクラテス、孔子” です。三名が明らかにされていました。私はこれを見て、はっと驚きました。若い頃に私が信仰がない時に読んだのでした。そこに座っていたのです。それをダンテが本に書いたのです。
・それを見ながらなるほどと思いました。今考えてみると、その人が間違って見たとしても、よく見たとしても、聖書は確かに言われています。“すべての人が罪を犯したので” 皆様がこのみことばをわかる瞬間に、相当な事が行われます。すべての人が創世記 3章の事件に引っ掛かっているために、すべての人が運命の中に関わっているからです。それで、占いもしに行くのです。皆様、この話が理解できないでしょうか? ものすごく重要な話です。これから解決しなければならないのです。それであまりにも重要な話です。すべての人が罪を犯したということは、すべての人がサタンの力の下で死ぬしかないのです。すべての人が罪の力の下で死ぬしかありません。そのみことばです。ですから、どれくらいこのみことばが重要なみことばなのか分かりません。それで、この話がわかることは、あまりにも重要なのです。たぶん皆様が本当にわかる瞬間から、あなたがたには重要な霊的な門が開くようになるはずで、答えに大きい門が開かれるようになるはずです。
・ 万一、皆様の中で、いままで家系にずっと重要な問題があったとすれば、今日、皆様が変化する働きを体験するようになるはずです。あまりにも簡単で、あまりにもやさしくて、皆様が信じることができないのに、あまりにも重要なのです。仮りに皆様が本当にこの事実を信じて、イエス様を救い主として受け入れるなら、その瞬間に皆様の運命が変わってしまいます。それが神様の方法です。本当に驚くべきことです。私はそれを知るようになりながら、信じられるようになり始めました。なぜでしょうか? 絶対に私たち人間は、運命を抜け出すことができないのです。絶対に私たち人間は、サタンに勝つことができません。絶対に私たち人間は、災いと世の中に勝つことができないのです。それで、神様がキリストを送ってくださったのです。それで受け入れた人々、すなわち、その名を信じる人々には、神の子供とされる特権をお与えになったのです。このように理解できました。すると、今日あなたがたは、時間がたくさんないために、とても重要な3つのことを理解しなければなりません。何が義人でしょうか?するとどのようにすれば、この問題が解決するのでしょうか? 罪人がどのように義人になるのでしょうか? 神様の前に立つ時に義人になります。これを私たちは簡単な話で、悔い改めと言います。悔い改めという言葉は、帰ってくるということです。英語では "turn away"となっています。“帰ってくる”ということが正しいのです。これが義人です。
・ある重要な人が事故を起こして、人が死んだのですが、刑務所に行って無期懲役を受けました。死刑判決を受けて無期懲役を受けて、無期懲役を受けたから、家には帰ることができません。ずっと刑務所の中にいるのです。そのような中、ある日でした。数えきれない程、説教をたくさん聞いていたのに、あるチームが入ってメッセージと賛美をしたのですが、賛美がそれで重要なのです。この方の証しです。賛美をしていたら、何の賛美をしたかというと、“義がない者でも、十字架をつかんで”この賛美があるでしょう? この賛美を歌ったのです。無期懲役を受けていたこの囚人の胸に、聖霊が働かれたのです。賛美チームが賛美をして “義がない者でも、救われることを願って十字架の前に行く” その賛美を歌ったのです。その時、どの単語が胸に当たったかというと、“義がない者でも”という単語です。‘そうだ。私はなんの義もない’ この人がその賛美を聞いた後に、イエス様を受け入れたのです。ところが、この人がどれくらい平安になったのか分かりません。‘そうだ。私は神様の子供だ’ 聖書はそれを義人と言います。なんの話なのか分かるでしょうか? この人に本物のみわざが起きました。以前には、この人がそのまま熱心にさせられるまましたのですが、それからは本当に刑務所のなかで福音を伝え始めたのです。どれだけみわざが起きたのかというと、刑務所のなかで最高の模範囚にずっと何年間、上がってきたのです。それが自らの目的ではなく、そのままそのようにしたのです。それで、この人が刑務所から出てくるようになったのです。普通、囚人が早く出てこようと、そういう作戦も使うでしょう? この人はそれではありません。それで、神学の勉強をして、私を見て言う話は “私は牧師にはなりません。私のように足りない者が牧師になって良いのですか? 私は刑務所だけ行って伝道します” 今でも伝道しています。それを聖書は義人と言うのです。
・ですから、あなたがたが義人という単語をよく理解しなければなりません。聖書に見ると、イエス様がたとえを話されたではないでしょうか? 家を出て行った息子が、父の財産をみな持って行ってみな使ってしまいました。それも放蕩したのでした。父から受けることができる財産をみな使ってしまい、この人は完全に滅びるようになってしまったのです。ところが、その時たまたま凶年になりました。時間が過ぎながら、この人は乞食になってしまいました。その時 ‘あ! 私が今、外で飢えて死ぬのだな。私の父の家に行けば食べる物が多いのに、私が父の家で行けば良いのだな。ところが、私は恥ずかしくて、どうやって行けるだろうか? しかし、父は私を受けてくれるはずだ。私が行って父にしもべとして使ってくださいと話さなければならない’ 聖書に見れば‘自分から’となっています。自分から、神様のところ、父のところに帰って行くのです。聖書に見れば、何と記録されているでしょうか? この放蕩息子が帰ってくるのに、父は毎日門の前で待っていて、姿と顔が完全に変わってしまった息子を、聖書に見れば“まだ家までは遠かったのに”となっています。道が遠いということです。遠くから見て分かったのです。わかって父が息子に駆け寄って息子を抱きます。その時にこの息子が言う話が “お父さん。私は本当に悪い者です。私をこの家のしもべに使ってください” そのように言うから、父が何と言ったでしょうか? “お前がどうしてしてしもべか?お前は死んでいたが、生き返ってきた息子ではないか” すぐに命令を下して入浴をさせて、服を着させて、その父が息子に指輪をはめさせ、祭りをしたのです。聖書が話す義人はそのことを言うのです。悟って神様に帰って来れば良いのです。義人です。
・詩篇81篇に語られています。あなたがたが主を見上げるる時にはすぐ解決しないように見えるけれど、皆様の全てのことは解決するようになるはずです。なぜでしょうか?本当に序論で話したように、私たちのいのちが神様にあることが間違いないならば、ここに座っているあなたがたのいのちが神様にあることが間違いないならば、私たちは神様を見上げることが解決策です。皆様が、事業が、家庭、社会、民族、国家が神様を見上げることが解決策です。なぜでしょうか?神様が生きておられることが間違いないならば、私のいのちを治める方が神様であることが間違いないならば、神様を見上げることが道です。それを義人と言うのです。聖書で話す義人です。私たちはよく理解できずにいます。聖書が話す罪人は、盗みして、悪いことをして、このようなことをする人を言うのではありません。聖書で話す罪人は、刑務所に行っている罪人を言うことではないのです。聖書は何と話しているのでしょうか? みな罪人です。すべてが神様を知らずに、悪魔をおがみ、偶像の中に陥って、神様を知らなくて災いの中に陥っています。神様を知らなくて創世記3章の運命の中に陥っているのです。それを罪人と言うのです。そこから帰ってくる人を義人と言います。今日、本当によく理解する祝福があることを希望します。
 
・神様が確かに生きておられるならば、主に向かって祈り始めるならば、神様がある日、答えてくださるだけでなく、完壁な答えを下さいます。間違いありません。どのような話でしょうか? ただ祈れば良いのです。主を見上げれば良いのです。
・2番目です。義人とは何でしょうか?義人は絶対に滅びません。義人とは何でしょうか?福音を持って、すべての災いから抜け出てきた者です。それが義人です。それで、神様に感謝するのです。義人は信仰で義と認められるようになるとされています。今日ここに参加された方達が、外でお金を 10億円儲けたより大きい祝福を受けたと考えればよいのです。創世記3章から抜け出す創世記3章15節、この契約を捕まえて災いから抜け出した人を義人と言いました。出エジプト記3章18節。創世記6章14節。呪いの中から抜け出る箱舟の中にいさえすれば生かされます。今日この部分をよく理解すべきです。一つも難しくありません。ヨハネ福音5章24節に「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
・私は私が見たことの説明をみなできません。人々が心配して、私を話した後に“先生。説教の時、話さないでください” それは心配して言う話です。“言わない”と約束します。そのようなものを本当に多く見ました。多くの財閥の中で難しいながら、解決できないことをたくさん見ました。そこから抜け出てくる驚くべき祝福を受ける人を聖書は義人と言います。今日この祝福を必ず受けるように願います。
・ ローマ8章2節を見ると、罪と死の原理から解放されました。これを悟ったパウロは、ローマ1章17節に見ると、義人は信仰によって生きる。今日、皆様個人に、家庭と病気の問題がある人々は、間違いなくその部分から解決しようとせず、皆様の運命、霊的な状態から変えなければなりません。それで受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には神の子どもとされる特権をお与えになった。どれだけ証拠があるでしょうか? 私が学生達を見て、悪霊につかれた人に占いに行ってみなさい、あなたがたは即、わかります。イエスを信じると分かるのです。しかし、私の娘が行ってきたら、占い師が自分を見て分からなかったが、どうなったのか? イエスを信じるとすぐに分かるべきなのに、私を見てわからなかったのは、どのようになったのか? それは、にせ物の占い師を探して行ったのです。にせ物の占い師は何でしょうか?悪霊につかれた人は、すぐにわかります。その人は、にせ物の占い師です。本物はみた瞬間に理解できます。なぜでしょうか? 解放されてしまったからです。
 
・義人ということは、何の話なのか知っているでしょうか? 呪いを受けざるをえない運命から抜け出たということです。それを与えることを救いと言います。それを話すことを伝道と言うのです。それを話すために存在していることを教会と言います。それを話すように選んで立てることを弟子と言うのです。神様がどうして、この驚くべき祝福を下さいましたのに、悟りさえすれば全てのものを下さらないでしょうか? 今日本当に悟る祝福があることを主の御名によってお祈りします。
・義人という話は何の話でしょうか? 三番目に暗闇とサタンと地獄のあらゆる力から抜け出たのです。死ぬしかない運命から抜け出ました。これからは、霊的問題を絶対に恐れる必要がありません。なぜでしょうか? 抜け出たからです。義人という身分に変わってしまいました。何の話なのか分かっているでしょうか? 長く信じている方達は、特に注意しなければなりません。この部分がものすごく重要です。信仰生活の中で一番重要な部分がこの部分です。一番重要な部分。身分をまったく変えてしまいました。義人の身分に。義人という話と、罪人という話を、世の中で習った話で解釈するために、だめなのです。これは、その話ではありません。聖書が話す罪人は、盗んで、詐欺を働いて、強盗するそのような罪人のことを言うのではありません。伝道しながら、それを話さないのです。その話ではなくて、完全にサタンに運命の中に陥っているその人を罪人と言うのです。より正確に言わば、神様を知らないでいる人を話します。すべての人が罪を犯したので、その次に何と話されているでしょうか。神からの栄誉を受けることができないとなっています。神様を知らない罪におちているのです。ここから抜け出すことを義人と言います。
・ルカ福音10章 19節に、へびとさそりを踏んで、敵のあらゆる力を制御する権威が与えられました。これは身分が変わったということです。Iペテロ2章9節を見ると、王である祭司、光の子どもとして呼ばれたのです。その話は、身分を変えてしまったということです。これが義人です。こういう人は、絶対に滅びることができません。今日、あなたがたがこの説教を聞きながら、よくよく考えるように願います。
・もし初めてきた方はいらっしゃるでしょうか? 皆様が福音を知っておられるならば、絶対に滅びません。もし失敗なさった方がいらっしゃるでしょうか? 絶対に恐れる必要はありません。もし過去にものすごく困難があって来られた方はいるでしょうか? 心配する必要はありません。そこにまた巻き込まれる必要はありません。みな終わったのです。とても重要です。‘死からいのちに移っているのです’ 皆様がこの部分を理解できなければ、損してまたやられてしまいます。この部分がどれくらい重要か分かりません。すると、なぜ偶像崇拝する人に力が現れるのでしょうか? と尋ねられることがあります。すると、私がかえって尋ねることがあります。偶像崇拝する人が、最後にはなぜ完全に滅びるのでしょうか? サタンの策略です。それを聖書は罪人と言います。そこから抜け出したことを義人と言うのです。本当に神様の大きい祝福があることを希望します。
・「先生。私が教会で熱心に信仰生活をしたのに、よくならない理由、運命が変わらない理由は何ですか?」それは、福音を理解することができなかったのです。今日、聞いてよく理解すれば皆様も知らない間に変わるようになります。今日、本当の祝福があることを主イエスの名前でお祈りします。
・ 私が現場でたくさん見たことを話しました。もし苦難を受けた人があれば、その苦難に陥らないように、家庭に困難があってもそこに陥ってはなりません。身分が変わりました。あまりに良くない環境で霊的問題を持って生きてきても、そこに陥ってはなりません。なぜでしょうか? 死からいのちに移ったのです。実際にどんな人がいるでしょうか? 夜に寝ている途中で悪夢を見たり、霊的な問題がくるでしょうか? 全く恐れる必要がありません。恐れる必要がないのです。皆様は、存在している悪い悪霊が全部みな付いても構わないのです。なぜでしょうか? 死からいのちに移ったのです。ある方は、40年間ムダン(霊媒師)生活をして教会にきました。寝れば押さえます。心配しないで。いくら来てもかまわないのです。絶対に心配する必要はありません。ずっと苦しくても待ちましょう。既にその身分を神様が変えてしまわれたのです。罪人から義人に変えてしまわれました。今に見てなさい。この方がある日解決してしまいました。
・一度は、雨が降る聖日でした。私が副牧師の時でした。担任牧師が時間がないので、この家に行ってみなさいと言われました。ところが、この方は南妙法蓮華経をしていて来た人なのですが、「率直に話せば、先生。私達はとても苦しくて生きることができない。夜に寝さえすれば、誰かが現れて来て、家族の首を押さえる。」ありえる事でしょうか? 「実際にではなく、感覚ではないのか? 」「そうではありません。自分が一人ならば、分かりませんが、家族が全部みな首が苦しめられる」ということでした。そのようなことがありえるのでしょうか? 私はそのような経験がないので、説明をすることができません。明らかなことは、恐れないでこれが全部みな悪い霊のすることです。イエス・キリストを救い主として受け入れれば、イエスの名前で祈ってみなさい。そしたら、この方が解決し始めました。どれくらい簡単でしょうか。‘わたしがあなたがたにへびとさそりを踏んで、敵のすべての力を制御する権威を与えた’どれくらい簡単でしょう。‘わたしがあなたがたを呼んだのは、あなたがたを身近におき、また出て伝道もして、悪霊も追い出す権威もあるようにするためだ’ みことばを聞く方の中に、隠さずに、かと言って話せということもありません。認めるべきです。皆様の家庭に霊的な問題がどれくらい多いか、神様がそのことを恐れてはならない。罪と死の原理からあなたを解放されたのです。
 
・皆様の家庭に霊的な問題が起きれば、どのようにするか。恐れる必要がありません。死からいのちに、永遠に移されてしまいました。これが福音です。どれくらい驚くべき福音か分かりません。あきらめず祈るように望みます。ほとんどすべてがだまされるのです。福音の反対が律法です。それで異常に律法時代がくるのです。それが中世で最も強かった時代が、パリサイ人で、中世時代でした。今、話せばカトリックです。どの程度強調したかというと、強調をどんどんしてみるならば、人が異常になります。人は共産主義教育をずっと受ければ、共産主義が正しいかのように見えるのです。違ったことでも、律法教育をずっと受けると、後ほどは「お金だけ出せばよい。どんなに間違っても死ぬ時、財産を神様に皆出せばよい。」こういうようにまで行きました。中世教会の時にそうです。率直に、あの有名な免罪符の販売ということが何か?というと、あなたがどんなに罪を犯しても、札を買えば終わるということです。この程度まで行きました。人は、そのようにまでなります。その愚かな話にだまされてしまうのです。そのようなことは違うと主張した人が誰でしょうか? マルチン・ルターです。それは違う。神様が私たちのすべての霊的問題の解決と私たちの災いと呪いを解決するために、イエス様を送られたのではないか? その信仰で救われるのだ。このように言ったら、マルチン・ルターに死刑宣告が下されました。これが旧教、プロテスタントの宗教の戦いでした。
 
・神様が、強大なカトリックよりマルチン・ルターに力を与えられて、プロテスタントが息をふきかえすようにさせられました。そこで重要な人物が現れたのです。その人が皆様もよく知ているヨハン・カルヴィンです。神父がみな集まっている状態から出て、何らの原稿なしで3時半間、福音が必要なことを説明しました。学者の前でです。ある人は聞いて衝撃を受けたのです。またある人は、恵みを受けてまた衝撃を受けました。またある人は福音を聞いて衝撃を受けたのですが、より衝撃は、あの人がだれか 3時間半間、原稿なしで文書を暗記するように説明をするのか? 名前が何か?ヨハン・カルヴィンでした。その人が有名なヨハン・カルヴィンという牧師です。それでその人が立てた教団が長老教です。とても大きくなりました。ヨハン・カルヴィン牧師が聖書66巻をたくさん読んだ後に、以前語った通り、五つで要約をしました。
・聖書はこういうことを言っていると五つに要約をしたのです。その要約をよく覚えるために花の名前の中にチューリップというのがあるのですが、tulipその名前で暗記したのです。チューリップだと暗記したら、若い人々は暗記しやすいでしょう。チューリップと暗記したのですが、 Tは何でしょうか? Total Depravity 人間は元々創世記3章以後から、完全に滅びてしまいました。よく見たのです。義人は一名もないということと同じ話です。ここに聖書箇所を見ようとするなら、数えきれない程多いのですが、ヨハン・カルヴィンが見たのです。絶対に救われることができません。Total Depravity カルヴィンが聖書を見て言った言葉です。全的に同意します。私たち人間は、どんなに苦闘して、どんなに科学が発展しても、科学は科学であって、人間は滅びるようになっています。Total Depravity 全的に完全に滅びるようになっているのです。これが、カルヴィンが見たことです。それで Uは何でしょうか? 神様が人間を救われることにされたのですが、 Unconditional Election条件をおかないで呼ばれるようにされました。人間はこれで救われます。ある状態で救われるとすれば、解決しません。あなたの霊的問題はこうしてこそ解決する、あれでこそ解決するでは、解決しません。無条件に道を開けて置いて、信じなさいとされました。conditionということは、状況、条件という言葉ですが、その前にUnを付けました。 Unconditional Election条件なく選択されたのです。そして、Lは何でしょうか? カルヴィンが三番目に言った言葉です。聖書を見て言った言葉です。 Limited制限されたということです。 Limited Atonement神様が無条件に信じない人を救って、無条件に救うのではありません。信じる者を救うことを制限なさいました。カルヴィンが見たことです。本当によく見ました。Iは何でしょうか? resistible という言葉は、抵抗するという言葉です。前に Irを付ければ Irresistible Graceということは、神様が選んだ民に恵みを与えられれば、だれも防止することが出来ないのです。カルヴィンがが見たことですが、私は五番目に話をするために、4番目までを話したのです。カルヴィンが五番目に何と話したかとすれば Perseverance of the Saints 聖徒は終わりまで滅びません。聖書を見ましょう。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフをなくせと全世界が走り込んだが、滅びませんでした。バビロン、エジプトがみな立ち上がったのですが、イスラエルという神様の民をなくすことができませんでした。初代教会をなくそうとユダヤ教の人々、パリサイ人、ローマ人がおきたがなくすことができませんでした。250年間、キリスト教をなくそうと苦闘したのですが、なくすことができなかったのです。誰が神様の民をなくすことができるでしょうか? 神様が生きておられることが確かならば、だれが義人をなくすことができるでしょうか。
 
・ 今日、詩篇12篇はダビデの詩篇です。義人、罪人について説明しました。ものすごく重要な話です。わかる瞬間から、問題は解決し始めます。仮りに皆様の中に一番重要だというように悟れれば、本当によく悟ったのです。皆様が何かそのようなことがあるのだというように悟るならば、すこし困難な人だと考えればよいでしょう。それを特に重要でないと考えるならば、運命、すべての災い、世の中の人々がやられるサタンの運命から抜け出られません。わかりさえすればよいのです。それで信じるだけで。‘受け入れた人々。すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。’ところが、私たちは最後に注意すべきことが、悟ったら、この祝福を味わうべきなのです。ところが、大部分の人々が1部の時も説教したのですが、実際に問題に直面すれば味わうことができないのです。今日、あなたがたがこの祝福を本当に味わうように願います。
・福音は絶対に滅びることができません。その話は、簡単な話ではありません。罪人という運命から抜き出したということです。救われる理由を知っていなければなりません。絶対に滅びることができないことは、運命というその身分の中から抜き取ったということです。それが救いです。それを言うことが伝道です。これをよく味わって行くことが信仰生活です。この途方もない祝福を、危機の時も味わって、私が滅びたかと思う時も味わうのです。過ぎて見れば、滅びたのではありません。「先生。私は今滅びました」 ヨセフが監獄に行って終身刑を受けました。滅びたと話すことができます。私はそのように見ません。ヨセフが滅びたのでしょうか? そうではありません。今日の1部の時も説教しましたが、ヨセフがその家族から奴隷で売られて行ったのですが、滅びたのでしょうか? そうではありません。その部分だけ見れば、滅びたのです。絶対に違います。滅びることはできません。皆様はだまされないで、今からこの祝福を味わうことで、驚くべき神様の祝福の秘密の門が開かれるようになるはずです。
・これは、実際に多くの人々が知っていているようでも、実際に味わうことができないのです。ある人は見ると、自分が誤っているのかと気落ちしてしまいます。気落ちするという、そのこと自体が律法です。なぜ 気落ちするのでしょうか? 私はだめだと考えたためです。ある人は、少しうまくいけば高慢になります。それも律法です。なぜなら、自分がしたと考えるためです。そうではありません。皆様は、高慢になる理由もなくて、気落ちする理由もありません。これから、説教で重要な部分をたくさん扱うでしょうが、私たちの教会に重要な方達をたくさん送られるでしょう。特に初めて来られた方達、特に霊的問題でずっと苦しめられる方達、皆様の家庭に問題があるこういう方達、説教をよく聞くべきです。説教だけよく聞けば、終わります。
・神様は、複雑なことを要求されません。それは宗教です。簡単なことを要求なさいます。何か大きいことをしたら祝福をたくさん与えられたというのですが、教会はそのようなことではありません。それで奉仕を多くして、献金を多くすれば、祝福を受ける、そのようなことではないのです。皆様が福音を正確に知っていれば解決します。それで、私の説教を熱心に聞いた人は、特徴が献金をしません。本当によくわかったことです。ところが、献金をあまりにしないので、他の祝福はみな受けるのに、経済の祝福を受けることができないのです。それは分かってするように望みます。
・ 私は献金を強調しないのに、不思議に最も多くの実を結びました。本当に不思議です。献金の強調を一度もしなかったのに、私たちは貧乏な町です。ところが、釜山市内で最高に広い土地を神様あたえてくださいました。何のことでしょうか。それは私も分かりません。神様がなさることです。福音がそのように弱いことではないのです。皆様が神様の子供になったとのことは、悪霊に仕える、そのような宗教ではありません。 皆様が神様の子供になったということは、小さいつまらない、こういうことになるので、ならないので、そのような程度ではないのです。福音は永遠なのです。貴重な祝福を受けるように願います。皆様個人の家庭問題が解決する祝福の門が、今日完全に開かれるようにイエス様の名前で祝福します。
 
<<契約の祈り>>
神様。今日貴重な方達を礼拝堂に呼ばれた神様に感謝申し上げます。人々があまりに聖書を誤って知っています。罪人が何で、義人が何かを誤って知っています。また、すべての人が罪を犯したという言葉もわからないでいます。今日みことばを聞くこの方達に、神様の最高の祝福を与えて下さい。この契約を味わって、ずっと勝利するようにさせてください。救われた神様の子供の祝福、義人の祝福を味わって、絶対に滅びないという事実がわかる証拠を、他の人に証しするようにさせてください。今日この礼拝に参加した方達、過去があったとすれば、過去は全部土台に変わるようにしてください。家系の霊的問題があったとすれば、それは全部勝利する門に変わるようにしてください。もし家庭に問題があるならば、家庭問題が解決するだけでなく、その中に祝福があることをまず発見するようにさせてください。今日しもべたちが、もし失敗のした人がいれば、気落ちしないようにさせてくださって、神様の驚くべき力を見る信仰の開始になるようにさせてください。このことのゆえに、私たちのすべての役員に神様の大きい祝福をくださることを信じます。すべての教役者に、霊的な目を開ける大きい恵みをくださることを信じます。私たちインマヌエルに参加するあらゆる聖徒に本当に身分が変わって、運命が変わって、呪いが崩れる驚くべき祝福で、真の福音を持ってソウルを生かすようにさせてくださり、首都圏を生かすようにさせてください。今日初めて来られた方達や、また色々な霊的問題に苦しめられる方達や、病気ゆえに苦しむ方達に、本当に何でもなく見えるけれど、神様の力を信じて、完全に福音を悟って運命が変わる時間になるようにさせてください。世の中で千万億を受けることより祝福を受ける時間になるようにさせてください。この礼拝ゆえに苦労した私たちの聖歌隊員、神様が本当に祝福してください。目に見えないように放送室で、あるいはいろいろなインターネットと、色々な隠れた奉仕者に神様が隠された最も高貴な祝福を与えて下さい。また率先して苦労する私たちの長老と、これから大きい祝福を受ける私たちの按手執事達に神様が聖霊で按手してください。また福音ゆえに葛藤して私たちの教会にきて信仰生活を始めた私たち役員に、人々は非難するかもしれませんが、神様がこの方達に驚くべき証拠をくださり、福音ゆえに生きた証人になるようにさせてください。今日、この礼拝がまさにいやしの礼拝の時間です。この礼拝が短い時間ですが、重大な時間になるようにさせてください。全国、世界の使命者が答えを受ける時間になるようにさせてください。私たちの主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン