2002年 12月22日 インマヌエル 聖日礼拝


1部 / ダビデの子、イエスよ
(マルコ10:46〜52)
 
 
・シンガポールに行って帰ってきたら、私たち韓国で時代が変わって、新しい時代が開けていました。大統領に他の人が当選して、すべての新聞にニュースに出てきていました。私が静かに見たら、本当に不思議なことです。私たち韓国でKSマークという最高学部を出た人を神様が用いられず、よりによってこの人を用いられ、また誰かに似た頭が変な人は用いられず、お金の心配するなという人も用いられないで、お金が多い人でもなく、たくさん習った人でもなく、勉強も高等学校しか出ていなかった人、なんのお金もない人を神様が選ばれたのだなという気がします。よりによって、この時、女子中学生が米軍によって殺されて、今現在、デモが起きています。よりによってこの時、またむかしと違って、ネチズン時代が開いて、ほとんどの世論がネチズンにみな開かれる時代、むかしの人は、もうついて行けません。このようにすべていっしょに起きたのは、私が思ったのは、神様がなさることだという気がしました。どのように、人ができるでしょうか。一つの家庭を動かすことも重要なのに、一つの国を動かすのに、どのように神様の干渉がないでしょうか。それで、私たち韓国は、世界の福音化をしなければならない国であるゆえに、神様が特別な干渉をなさるはずです。
・今日の本文を見ると、この乞食の盲人、テマイの息子の乞食の盲人バルテマイという人が、イエス様が通り過ぎられることを知って、そこに立って待っていたのですが、他の人は目が見えるけれど、この人は目も見えず、他の人は知っている人もあるけれど、この人は知っている人もなくて、イエス様が通り過ぎて行かれる道が分かって、そこに居合わせるということも難しいのです。イエス様が、この道を過ぎて行かれることを知って待っていました。目が見えないので、探すことは不可能です。目さえ見えれば、直接行って話せば良いのですが、目が見えないから、だいたいイエス様が通り過ぎて行かれることを知って、大声で叫んだのです。‘ダビデの子、イエス。私をあわれんでください’ どれくらい声を大きく怒鳴ったのか、最善を尽くして怒鳴ったのでした。そばの人が騒々しいとするほどに、はなはだしくは、弟子達が騒々しいと言うほどに、聖書を見ると、より一層、大声を出して「ダビデの子、イエス。私をあわれんでください」と言いました。みんなが騒々しいと言ったのですが、イエス様は、そこで歩みを止められました。49節を見ると、イエス様が彼を呼びなさいと言われました。この盲人が走って出てきたのですが、イエス様が、「わたしに何をして欲しいのか」と言われたところ、盲人が見えることを願うと言いました。イエス様が、あなたの信仰の通りになるようにと言われたら、目が開いて、正常になって帰ってくるとイエス様が祝福された瞬間、目が開いたのです。今日、この49節を見ると、「すると、イエスは立ち止まって、『あの人を呼んで来なさい。』と言われた。」みながうるさく言うので、「そこで、彼らはその盲人を呼び、『心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。』と言った。」50節に「すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。そこでイエスは、さらにこう言われた。『わたしに何をしてほしいのか。』すると、盲人は言った。『先生。目が見えるようになることです。』するとイエスは、彼に言われた。『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。」
 
・パウロがこういうことを話しました。韓国のソウル大学は、世界で70位にしかなりません。パウロが出た大学は、その当時、世界の1位の大学でした。世界1位の大学を出た人が、こう話しました。私の願いは、イエス・キリストに発見されることだと話しました。本当にとんでもない話です。最高学部で勉強をした最高のリーダー、エリートのパウロが、みなちりあくただと感じて、キリストを得た、最高の最も良いことを得た、それで、キリストに発見されることを願うと言いました。理解ができない話でしょう。私はすこし分かります。イエス様が、盲人バルテマイの前で歩みを止められたのです。この盲人バルテマイの目が開きました。私が神学大で勉強していた時、ほとんどみんなが、私とは違って、私のそばに座った人には背景がありました。背景がない者は、私しかいなかったのです。ほとんどみな、父が何かで、奥さんの実家に誰かが何かで、とにかく、教会でたいした人物で、誰かは神学大学の博士で、学長だと言ったり、何かこういうたいした人物がいました。 私は背景がありません。私は座って静かに勉強だけしました。私の家の中には、たいした人物がいません。私はそのようにして、神学勉強を終えて牧師になったのに、私には背景がないから、小さい教会で私を呼んだのでした。それが、東三第一教会です。30名ほどが集まって、小さいから小さな牧師が必要だと言って私を呼んだのでした。私に来てもらえるかと聞かれたので、私が何か尋ねることがあるでしょうかと、何か答えを出す理由もありませんでした。行く所がないから来たといってきました。ところが、神様が今まで、どれくらい祝福なさったのか分かりません。イエス様がバルテマイの前で歩みを止められました。本当に普通の話ではありません。どれくらい立派な人が多いのに、神様が盲人バルテマイに「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれたのです。 皆様、この地に立派な人がどれくらい多いでしょうか。背景が良い人がどれくらい多いでしょうか。ところが、イエス様が歩みをどこで止められたか、盲人バルテマイの前で止められました。私はこの本文を見て、私達がまさにこの祝福を受けた者だと考えました。
・今日、この本文を見ながら、たくさん考えなければなりません。本当にです。少しも変な話ではありません。影島の中に教会は多くあります。みな立派です。牧師達を私は知っています。みな立派な牧師たちで、勉強も多くされた方達です。私が学校に通いながら見たのに、本当に立派な方達です。ところが、不思議に私たちの教会に伝道の門をずっと開いてくださいます。世界の福音化をする多くの働き人が、世界で起きています。これは、人がすることではありません。神様が、今日 5分だけ祝福なされば、50億の人口が100年を祝福するより良いでしょう。私は、そのように確信します。もし神様が、たった1秒だけ祝福なさるならば、世の中の人々が100年祝福するこより、よくなります。イエス様がバルテマイの前で歩みを止めて、バルテマイを呼ばれました。名前も知らないけれど、誰がわたしを探すのかと、呼びなさいと言われました。イエス様は、ご存知であったのです。その時だけ、弟子が格好をつけながら、イエス様があなたを呼んでおられると言いました。この人が上着を脱ぎ捨てて飛出したと言われています。イエス様が、その信仰をご存知であって、何を願うのかと尋ねられました。盲人が、目が見えるようになることを願うと言ったところ、イエス様が既にあなたの信仰が、あなたを救ったのですと言われました。信仰があなたを救ったので、あなたの信仰通りになって、見えるようになるはずだと言われたのです。そうしたところ、いったいイエス様は、誰でしょうか?万王の王、キリストであるイエス様が祝福なさったところ、目が開かれました。
・私は、今でも覚えています。万王の王なる主イエス・キリストの名前で、私たちの教会にきて、先ず一番にしたことが何でしょうか? 私が影島に入って、見えるのが天理教でした。教会は小さいのに、天理教会がありました。これは負けん気ではありません。信仰です。私は、イエスを信じる者です。私は神様のしもべで、イエス・キリストの名前の秘密を理解しています。盲人の前に立ち止まったら、盲人の目が開かれることを知っています。未亡人が自分の息子が死んで、大声で泣いている時、イエス様がその前に立って、その息子が息をふきかえしたことを私は知っています。とうてい信じられない事実、イエス様が復活なさったという事実を、私は信じています。私が影島に入る考えもなかったのに、影島で一番最初に目障りなのが天理教でした。申し訳ないのですが、非公式で、天理教に私が秘密に入学をして見ました。ここに何ゆえに集まっているのか、注意深くみたのです。真っ白い本がありました。その本に、総合的な話があったのですが、結果的には、病気を直す話でした。このようにすると、このように病気がよくなるという内容でした。こういうことで、人を集めて驚くほど3000坪も占めて、建物を建てているのに、万王の王なる主イエス・キリストの秘密を持っている私達が、小さくいて話になるかということです。それで、私が目標を立てました。3000坪以上です。ところが、答えで200坪がきました。ところが、私はしないと言いました。信徒が理解できなかったのです。難しいことです。人の家の地下にいるのに、200坪の建築許可が出たというのに、私はしないと言いました。私が天理教会を見て、私たちの信徒に先ず一番にしろと言ったのが、イエス・キリストの名前で、自分の病気を自分がいやされるようにと言いました。病んでいる所をイエスの名前で祈ってみましょう。皆様が信じられるならば、働きが起きます。イエス・キリストの名前で祈り始めたら、患者が良くなりはじめました。私たちが地下で足りなて、祈祷会が出来なかったのです。どこか祈梼院を借りて行ったのですが、人々がたくさん集まって、私達がそこでイエスの名前で祈りました。そうしたところ、そばの教会で話をしました。祈梼院の院長に、なぜ祈梼院は影島でみな使う所なのに、その一つの教会にだけ貸すのかと文句を言って、院長が私にもう貸してあげることができないと言ったので、私が分かったと言いました。その翌日、影島にいる牧師達のポスターを付けて徹夜祈りをしたのです。それで、私たちは山を借りてしたのですが、冬であまりに寒かったのです。良いことは、山で‘主よ’と言ったら、山で声がこだまになるので良かったのに、近所で大騷ぎが起きました。夜に何の声かと、大騷ぎが起こったのです。それでも、私たちは終わりまでしました。イエス・キリスト。本当にイエス様は、私たちの祈りをお聞きになって、多くの答えをずっとくださいました。私はこれからもくださることを確信しています。
・イエス様が、バルテマイのその声を聞いて歩みを止められたのです。それで、私たちは、背景があれば良いけれど、なくてもかまわないのです。私たちは、お金が多ければ良いけれど、なくてもかまいません。神様が私たちを祝福なさるならば、何ができない事があるでしょうか。私がどんなに多くのことを持っているとしても、神様が祝福されなければ、効果がありません。私はお金をたくさん持っていても死ぬ人を見ました。お金をたくさん持っていても、幸福でなくて、困難にあっている人を見ました。神様が祝福なさるならば。今日、この本文を見ながら、どのように、この祝福を受けるのでしょうか。イエス様が、歩みを止めて祝福なさった理由が何でしょうか?それを見るべきです。
 
・最初に、この人は、どのようにこの祝福を受けたのでしょうか。恵みを受けた人です。これが恵みです。他の人が悟ることができなかったことを話しました。盲人であり、乞食で、テマイの息子バルテマイと言いました。バルテマイという言葉は、テマイの息子という言葉です。父の時から乞食で、この人は盲人と言ったということです。だから、物乞いをして回らなければなりませんでした。その時見たら、弟子と群衆が、イエス様を追って行くのに、自分は目が悪いので、付いてまわることも出来ません。また、物乞いをしている人が、どのように、いちいち付いてまわるでしょうか。こういう乞食です。ところが、見てみましょう。この人に、驚くべきことに、イエス様に会えばいやされると考えるようになったのですが、より重要な話は、イエス様の所にきて、イエス様、私を生かしてくださいと話さないで、ダビデの子、イエスよと言いました。この人は、普通に話したのではありません。メシヤがダビデの血統で来ると言われました。ダビデの子、イエス。私たち人間を救う、救い主がダビデの子孫で来るはずだという、その契約を捕まえたのです。パリサイ人も知らないことです。とても偉い学者、博士も知らないことを、盲人のバルテマイが知っていたということは、恵みです。皆様、国会議員や世界的に優秀な人物が知らないキリストの秘密を、私達が知っているということは、恵みです。どれくらい、この土地に人が多くて、影島に人が多いのに、あの人たちが知らないキリストを私が知って、皆様が知ったということは、恵みです。恵まれた者です。すでにイエス様に会う前に、ダビデの子、イエスよと言いました。本当にどれくらい大きい恵みでしょうか。キリストの福音を知っていたのです。ここに長老達、役員等、信徒が時間が過ぎれば過ぎるほど分かるようになるはずです。恵みです。どれくらい大きい恵みでしょうか。私たちの未来指導者訓練院生と相談する時、この子供達が相談を私とするのですが、その時に、私に時間がなくて、飛行機に乗って行きながらしました。その中のある学生達は、ノートを出しました。それで、なぜノートを出すのかと聞いたら、先生にサインをして欲しいと言いました。「サインが問題ではなくて、今日話すことをずーっと書きなさい」と言いました。困難にあったら、今日、私と話したことを思い出しなさいと言いながら、「君は私よりはるかによい。君は今、16才なのに、私は27才の時、キリストを知った。君は16才の時、キリストを知ったから10年もリードしている。どれくらい驚くべき事か?」これが恵みです。皆様、習った人に、また、たくさん持った人に説明しても、わかることができません。本当に不思議です。神学の勉強を多くした人に、キリストを説明すれば、よくわかることができなくて、皆、知っていると言います。わかることができないのです。どれくらい大きい恵みでしょうか。全く伝道しない人に会ったのですが、神学者で牧師なのに、この方が米国へ行って博士学位を受けたのに、ソウルのある教会にいたのですが、キリスト論で博士学位を取りました。ところが、キリストもよく知らず、伝道もできません。本当にこれが恵みだなと思います。たとえ乞食であり、盲人で、背景がない人物であっても、この人が何を知っていたのでしょうか。「ダビデの子、イエスよ。」恵みです。私と皆様がこの祝福を受けたのは、あまりにも大きい恵みです。時間が経てば経つほど、分かるようになるはずです。私の能力と皆様の能力と私たちの環境と過去を一度振り返ってみましょう。神様の恵みです。
 
・それならば、これから私たち教会が歩いていく道、これから皆様が行く道は、恵みです。皆様の子孫が、どのようになるでしょうか。神様の恵みです。私は確信します。私と皆様が弱いために、こういうこと、あんなこともあり、私と皆様が完全な人々でないために、失敗する時もあって、けんかする時もあります。しかし、根本的に神様が私たちに恵みをくださいました。恵みでなくては、分かりません。どのように説明でわかるでしょうか。パウロは、こう話しました。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」パウロがそのように話したのです。パウロがコリントにきて、「私はこれからキリストとその十字架の他には話さないように決めました。」パウロが言った言葉です。ものすごくたくさん習った人が言った言葉です。この人が、世界を征服しました。これが神様の恵みです。皆様がおわかりの通り、初代教会がどれくらい難しかったでしょうか。しかし、彼らが世界を征服しました。イエス様がこの盲人の乞食バルテマイを呼ばれたのは、単に呼ばれたのではありません。
 
・2番目です。どうして、この人が大きい祝福を受けたのでしょうか。機会を逃さなかったのです。皆様、機会ということはものすごく重要です。イエス様が通り過ぎられるという話を聞いて、今のように新聞があるわけでも、TVがあるわけでもなく、たいだい話を聞いて、噂を聞いて知っていたのですが、イエス様が通り過ぎられるのを道で待っていたのです。うわさだけを聞いたのに、この方がダビデの子であることが確かだという契約を捕まえたのでした。恵まれた人です。待っていたら、イエス様が通り過ぎられる時、大声を出して、「私を助けてください。生かしてください」と言ったのではありません。「私をあわれんでください」と言いました。ですから、大きい声で、弟子と他の人が止めたのですが、より一層、「大声を出してダビデの子、イエスよ。私をあわれんでください」と言ったのです。言葉もどれくらいきれいにしたでしょうか。私たちは、人が話をきれいにするならば、行ってみるでしょう。話を異常にするならば、殴られるでしょう。言葉がどれくらい重要でしょうか。私をいやしてくださいと言ったのではありません。私をあわれんでくださいと言いました。ここで、イエス様が歩みを止めて、あの人を呼びなさいと言われました。ダビデの子、イエスよ。核を刺して、私をあわれんでくださいと言いました。なぜそのような声で叫んだのでしょうか。機会をのがさないようにしようとしたのです。私たちには機会があります。皆様が恵まれるのにも機会があって、祝福受ける機会があります。どれくらい重要でしょうか。来年には、機能宣教、一般信者宣教、700地域教会に向けて、あらゆる働きが始まることを信じます。機会をのがさないようにしましょう。なんでも機会があります。機会をのがしてはだめです。私がここで開拓を始めた時、どのようにしたかというと、30ケ所の地域を分けて、その時、あなたがたの一部に会って、シン・サンヨン長老にも会いました。その時、現場で走っていた時、あの方に会って、私たちの副教役者に、みなその時に会いました。その時、みな青年達でした。その時、ペク・ウンギュ牧師は軍隊を終えて、すぐに私たちの教会にきました。他の教会行くとき気絶して、私たちの教会にきたのです。私たちの教会に通わないと行こうとした時、気絶して私たちの教会にきました。みな神様の恵みです。その時きて、すみにでずっとせきをして礼拝をささげられなかったのですが、その方がイ・ソング牧師です。そのように始まって、この教会になったのです。
・このように始まって教会になりました。ところが、私達がその時、何をしたかというと、現場に入っていって、伝道したのです。とにかく率直に三十ケ所を走ったら、後ほどは言葉が出て来ませんでした。そのようにしたのです。なぜなら、人には機会があるためです。そのような機会がないということです。いまは、そのように走ることができません。機会があります。今、大韓民国からソウルにきました。釜山にきました。私しかいません。なぜでしょうか? 人には機会があるのです。何でもそうです。年を取ればできません。なんでも機会があります。今、世界を私が回っています。これが機会です。私たちの教会が、神様の祝福を受ける機会がまたずっとくるはずです。愚かな人たちが機会をのがすのです。どれくらい恵みを受ける機会でしょうか? 良い機会です。あなたがたが、私たちの教会にきてメッセージを聞いて、あなたがたが祈って、これが機会です。愚かな人が機会を逃します。機会を逃してはなりあません。私たちの教会がどれくらい祝福を受けたのでしょうか?
 
・たとえ習ったことがない盲人であり、乞食でしたが、イエス様がダビデの子孫だということを知っていました。道を通り過ぎられるということを知って、どれくらい声で叫んだのでしょうか。ある声をみな出し切ったのでした。どれくらいの声で叫んだのか、弟子が見てうるさいと話しました。イエス様は、反対でした。彼をここに呼んで来なさい。どこにいますか? 誰ですか?その時、静かになりました。乞食が出てきた時、イエス様が “既にあなたの信仰があなたを救ったのです” それとともに、目が開かれるようになりました。あらゆる人に、皆様に、今が最も良い機会であると信じてくださることを望みます。私たちは過ぎたことも重要ですが、今ある機会がなにかを知らなければならなず、私達がこれからの機会も知らなければなりません。年齢が若くない方は、年をとったように機会があります。また学生達は、学生達の通りに機会があります。人には機会があるのです。これをのがしてはなりません。祝福の機会です。Uコリント6章 1節2節に ‘確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。’なんでも機会があります。どれくらい大きい祝福の機会でしょうか? 今日、あなたがたが盲人バルテマイのように、目が開く大きい祝福を受ける、そのような機会となることを希望します。
・三番目です。どのようにして、イエス様がこの人に目を開けてくださったのでしょうか? 既に変化した者です。何とおっしゃったのでしょうか? “あなたの信仰が、あなたを救ったのです”イエス様が呼んでこのようにおっしゃったのでした。今日、ここを見れば 51節に、「そこでイエスは、さらにこう言われた。『わたしに何をしてほしいのか。』すると、盲人は言った。『先生。目が見えるようになることです。』するとイエスは、彼に言われた。『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』」
 
・カトリックで教えるのは、後ほど行ってみてこそ救われるということですが、聖書はそのようにおっしゃっていません。“あなたの信仰があなたを救ったのです。” 既にイエス様が来られたというその信仰でダビデの子、あの方に会えば生かされるはずだという驚くべき祝福が既に臨んだのでした。私たち韓国に一時、刀に突かれて死んだある牧師は、私達が救われても、それではないと教えました。とんでもないことばです。皆様が救われる瞬間、皆様の中におられる聖霊と、導く聖霊様は、永遠にヨハネ福音 14章 16節 17節 確かにおっしゃっていらっしゃいます。絶対にあなたがたを滅ぼす存在はありません。ローマ8章 32節 39節に確かにおっしゃっています。既に救われてしまったのです。ここを見れば、弟子が話しています。イエス様が「あなたをお呼びになっている。」言った時、聖書に見れば、どのようにしたでしょうか? 50節に「すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。」 と書かれています。49節に「すると、イエスは立ち止まって、『あの人を呼んで来なさい。』と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、『心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。』と言った。」このように話したので 50節に、盲人が上着を脱ぎ捨てて、走ってきて、イエスのところに来たのです。上着を脱いでしまって飛出しました。私たちは、人に会う時、脱いだ服も着て出てくるのに、これは普通の話ではありません。何をいうのでしょうか? いまは、あなたがたは良く理解できないでしょう。その時は、イエス様の当時には、上着はその人の身分を言いました。今のように、服を勝手に着ることはできなかったのです。その時は、身分によって服を着たのでした。
 
・“祭司長はこういう服を着なさい。平民はこういう服を着なさい。王族はこういう服を着なさい” みな決まっていました。その時を考えれば、理解できるはずです。すると、この人がまちがいなく王の服を着ていなかったのです。盲人の乞食が、おかしな平民服の中で、つぎはぎのような服を着ていたのでした。イエス様がご覧になって、それを投げ捨てて飛出したとなっています。本当に驚くべきことです。身分を象徴します。あなたがたは、既に身分が変わったという事実を信じてくださることを望みます。今日、あなたがたが祝福を受けるように願って、イエス様がこうおっしゃられました。“「あなたの信仰があなたを救ったのです」すると、すぐさま彼は見えるようになり”既に救われたのですが、イエス様がおっしゃる瞬間に、目が開いてしまったのです。
 
・今日、私達が神様のみことばを聞く瞬間に、私たちの閉まっている門は開かれるようになるはずです。あなたがたが、今日、みことばを受ける瞬間に、あなたがたの未来は開かれるようになるはずです。そのようなことをたくさん体験しました。愚かで知らなかったのに、生きていて分かりました。神様のみことばを聞くその時間が、まさに祝福を受ける時間でした。イエス様が “あなたの信仰があなたを既に救ったのです”と一言で一節でおっしゃったのですが、そのみことばに盲人バルテマイの目が開いてしまったという事実です。本当に驚くべきことです。盲人の目が開かれたこともものすごく重要ですが、私達が救われて、今、座っていることはより重要です。
・この祝福がいつ与えられるのでしょうか? 神様のみことばを受けるその時です。すると、これから私達が歩いていく道に、この祝福がどこから来るのでしょうか?神様のみことばを受けるその瞬間にです。これは私の話ではありません。2000年前から働かれて、いままで世界を生かされたイエス様が“あなたの信仰があなたを救ったのです。” このみことばをおっしゃたら、目が開きました。今日、私達が神様のみことばを本当に受ける瞬間に、創世記 17章に見れば、アブラハムが信じた時に、神様がその信仰を義と認められたとなさいました。そうです。信じる瞬間にです。今日、こういう目に見えない貴重な祝福が皆様に本当にあふれ出ることを主の名前で祝福します。
 
・すると、どんな結論が出てくるのでしょうか? 既にバルテマイは恵みを受けた者です。そのような言葉が出てきます。バルテマイが大声で叫んだということは、確信を持っていたということです。“ダビデの子、イエスよ。私をあわれんでください”と大声で叫んだということは、既に確信を持っていたということです。イエス様があなたを呼んでおられると言われたから、敢えて上着を投げ捨てて飛び出したということは、この人のすでに変化していた行動です。簡単なことではありません。私達が盲人バルテマイのことだと見れば、これはみことばではありません。記録された聖書であるだけです。今日、私達が神様のみことばを見る時、本当に私たちは霊的に見る時、持っているものがない乞食です。私たちは、霊的な目も暗い人々です。まさに、私たちはなんにも出来ない罪人であったのに、神様が私たちに恵みをくださったのです。ダビデの子、イエスよ。神様が私たちにメシヤを送るはずだと、この驚くべき奥義が、私たちに知らされ始めたのです。それで、この奥義を持って今は、私達がこの場に出てきたのです。あなたがたが、礼拝をささげる時ごとに、どんな心情を持たねばならないのでしょうか? ダビデの子、イエスよ。私をあわれんでください。どれくらい大声で叫んだのでしょうか、イエス様が他の人がやめさせようとしたのを呼ばれました。光景が想像できるはずです。それが礼拝です。確信を持っていました。イエス様が呼ばれた時、服を脱ぎ捨てて出てこいとは言われませんでした。イエス様があなたを呼ばれたと聞いた時、上着を投げ捨てて出てきました。着ていた乞食の服を投げ捨ててしまったのです。着ていたあの低い身分の服を投げ捨ててしまったのです。乞食の服を既に脱いでしまったのです。この部分が重要です。ほとんどすべてが、不信仰を脱がずに、そのままいます。
・私たちは、信仰生活をしながら、用心することがひとつしかありません。私たちは、年齢もとっていて、経験もあって、地域もあって、みなあります。それが私たちの体験になって良い時もありますが、私達が脱げない時が多いのです。これを脱いでしまわねばならないのです。誤解せず、応用をよくしなければなりません。副教役者も応用を上手にしなければならず、タラッパン全体も応用を上手にしなければなりません。これは、真実に嘘ではなく、私が受けた恵みはこれです。‘私が勝手にすることではない。私がいろいろな牧師達に、どのようにすればよく仕えることができ、私たちの信徒と長老達に、どのようにすればよく仕えることができるのか?’ それが、私がすることです。私はそのように悟りました。頭が悪い人は誤解します。私はそのように悟ったのです。信仰生活ということは何でしょうか?私の間違った主張を破って、聖霊の導きを受けることが信仰生活です。私はそのように悟りました。なぜなら、私は間違ったことがあまりに多いから、砕かれるべきなのです。それで、聖霊の導きを受けなければならないのです。牧会とは何でしょうか?今までの私のあらゆる経験したことを、可能ならば捨てて、聖霊の導きを受けて、神様の計画について行くことです。それがよくできるようにコーチをしてあげることが牧会です。私はそのように悟ったのです。誤って悟ったなら、神様が直されるでしょう。可能ならば、他人の話をたくさん聞いてみて、ついて行ってあげて、可能ならば他人の話を総合をしてみて、神様の計画について行くこと、それが私のすることだと考えています。上着を脱いでしまわねばならないということです。乞食の服を着ていても良いでしょうか? 信仰生活のものすごく重要な原理です。たとえ盲人であっても、ダビデの子、イエスよ “私をあわれんでください。”イエス様が通り過ぎられる町角を正しく知って、どれくらいの声で叫んだでしょうか、皆様が今日の恵みをのがしてはなりません。‘神様、今日、私にくださる恵みを与えて下さい。神様はヘブル4章で、日ごとに恵みをくださるとされているので、その恵みを私に下さい。今日の備えられたた祝福をあたえてください’ これを皆様の考えで、のがしてはならないのです。皆様、教会に入る時は、すべての感情、考え、みな捨てて、神様が今日、私に恵みを与えてくださるようにとしなければなりません。説教する人や聞き手も全く一緒です。今日、ここにいる貴重な学生を神様が祝福なさるならば、彼らの未来は誰も妨げることができません。より重要なことは、既にあなたの信仰があなたを救ったのですということです。既に呼ばれた時、上着を脱ぎ捨てて出てきました。ものすごく重要です。もちろん、私たちの知識、私たちの背景、経験は多くの助けを与えて、やむを得ず足場になって、また色々な道具となります。この話とは違う言葉です。私達が信仰生活の最も良い方法は、聖霊の導きを受けることです。私たちに最も良い力と能力は、聖霊充満です。それを与えて下さいと祈らなければなりません。もちろん、私達が100%完全ならば、そのようにしてもかまわないでしょうが、私たちは弱いために、今日も私たちは神様の恵みを受けてこそ、聖霊の導きを受けなければならないのです。それが信仰生活です。それが牧会です。皆様の固執を強くする必要はありません。それはなにかを誤って知っていることです。どんなに正しいことでも、がんこになる必要はないのです。
・米国のある博士が韓国にきて、私たちの学校で講義をしなければならないのに、その週間にいらっしゃらなかったのです。その次にきて証しをなさいました。朝に起きて、韓国に行かなければならないのに、不思議に夫人が何度もおかしな言葉を言って、おかしなことをしたということでした。いつもは、よくがまんしていたのに、その日はがまんすることができなかったのです。そのあとけんかを一回したら、時間がとても過ぎてしまったのでした。止むえず、飛行機をその次の週に乗るようになったのですが、前の飛行機が飛んでいる途中で爆発したということでした。その時に「あらー」と思ったそうです。私たちの学校の講壇で証しをしました。前の飛行機を予約したのに、妻がけんかをふっかけることによって、乗らなかったのですが、それが恵みでした。米国の飛行機が爆発した時、亀尾のキム・ソンウ牧師の印象が熊のような方ですが、飛行機を乗るのに、間違ってしまって飛行機を逃したのです。それで、悪口を言っていたのです。ところが、その飛行機が行く時、爆発したのでした。
・賢い人は、がんこになりません。神様の計画を知る人は、絶対にそのようにしません。いつでも神様の計画がなにか? ということに、正確で敏感です。私たちの信仰生活は何でしょうか? 私達が着た上着を脱いでしまうことです。そして、新しい恵みをいつも受けることです。上着を脱いでしまってこそ、新しい服を着ることができるのです。どれくらい重要でしょうか? 40年 50年信仰生活をした人たちが、過去のことを脱ぎ捨てるべきなのです。
・私が礼拝を終えて出てくれば、時々おばあさんが、私が立っていたら、両手を合わせて挨拶しにいらっしゃいます。寺に通う習慣を捨てるように願います。寺に行って僧侶に会えば、そのようにするのです。悪くはないのですが、私は内心、この人がむかしのこと捨てずにいればどうなるだろうか?と思います。早く上着を脱ぎ捨てなければならないのにという気がします。このように、私たちは皆、そのようなものを持っています。このバルテマイは、たとえ乞食であり、盲人だったとしても、イエス様があなたを呼んでおられると言われたら、上着を脱ぎ捨てて飛び出したのでした。イエス様が知らなくたずねてくださるでしょうか? “何をしてくれることを願うのか?” “見えるようになることです”“あなたの信仰があなたを救ったのです” この話を聞く瞬間、アーメンした瞬間、目が開きました。ものすごく重要です。その時から、この人がイエス様に付いてまわったのです。証人になったのです。
・今日、私たちは既に恵みを受けた者です。私たちは既に神様の驚くべき祝福の機会を得た者です。今日、あなたがたが、上着を脱いでしまって、みことばを信じる瞬間に、神様が働きをなさるはずです。万一、神様が皆様の事業を祝福なさって、職場を祝福をなさったら、その後に、どのようなことが起きるでしょうか、それは誰も知りません。神様があなたがたをものすごく祝福なさる時、私たちは、その時はよく分からないことがあります。あなたがたが祈っている時、分からないことがあります。この瞬間が、ものすごく重要な時間です。私たちは、知らないことがあります。前に話をしました。私の娘が車の事故がおきて車がめちゃめちゃになったのに、ケガをしませんでした。考えてみたのです。どのように、車が廃車になったのに、人がケガをしなかったのだろうか? それも高速道路で他の車が上に乗ったのにということです。これも神様の祝福でなければ、どのように可能な事でしょうか? 私たちの考えでの話です。神様は、私たちに恵みを与えて、神様は私たちを祝福をなさるのです。
 
・私が知っている長老一人は、公務員なのですが、大統領選挙の時、どれくらい忙しかったでしょうか。朝ごはんを食べることができなくて、タクシーを呼んで乗って行くのに、あまりに忙しくて、タクシーのなかでネクタイを締めていたのです。ところが、タクシーが突然に横に入っていって、他の車とぶつかりました。タクシー運転手は、その場で死んだのに、長老は一箇所もケガをしなかったのです。どのように、そのようなことが出来るでしょうか? その時、家に電話をしました。不思議なことです。その婦人が告白しました。休みになって、選挙が行われるので夫があまりに走るのを見て、ご飯も食べることができずに行くのを見て、かわいそうな心になったのでした。それで、子ども達と、今朝はパパのために祈ろうと言って祈ったのでした。それまでしていなかった子ども達も、しようとしたのでした。この方が、今までしていなかった祈りをしたのでした。このように祈りをしたのに、まさにその時間でした。本当に驚くべきことです。私たちは祈りを普通に考えます。私たちは、長老の祈りを普通に考えます。私たちは、普通、みことばを聞く時、普通で考えるのです。
・あなたの信仰があなたを救ったのです。その時、目が開きました。今日、あなたがたがみことばを受けて、答えを捜し出す大きい祝福の日になることをイエスの御名でお祈りします。
 
<<契約の祈り>>
神様に感謝申し上げます。盲人で乞食のようだった私たちに、ダビデの子、イエスを知るようにして、多くの場所、多くの事があるのに、礼拝できるように祝福を与えて下さった神様に感謝申し上げます。私たちの昔の上着を脱いでしまいます。主が私たちに働いてくださって、暗い目が開かれるようにして、病んだ部分はいやされるようにしながら、私たちの現場に神様のみわざが起きるようにしてください。イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン
 
 


2部 / 主の油を注がれた者
(詩20:1〜9)
 
 
・私はクリスマスになれば思い出すことがあります。一度は外国の海辺でホテルに座っていたのですが、灯りがきらきらと光っていたのですが、その時、きよしこの夜が流れてきました。本当に曲をよく作ったなと考えてみたのですが、クリスマスになれば、私は聖誕祝賀賛美の中で“もろびとこぞりて迎えまつれ!”これは毎日歌っても良いでしょう。歌詞がとても良いのです。なぜクリスマスにだけ歌うのでしょうか。この良い賛美ということです。私一人の考えですが、そのような考えをしてみました。
 
・今日、うれしくも、総会から宣教師二家庭を派遣する日で、私たちは今、2部礼拝をささげている時間です。一度は、私たちの牧師達の何人かが日本集会に行ったのですが、夜に通り過ぎると、女の人が現れて“韓国人ですか?” 韓国語でそう言ったのです。それで、私たちの牧師達が “そうだ”と言ったら、その女の人が言う話が“すると、良い所がありますが、行きたいですか?”と尋ねて来たのです。それで、私たちの牧師達が “良い所とはどこか?”と尋ねたら “かわいい女の子がたくさんいる”と言ったということです。それで一緒に行こうということでした。それで“価格はいくらだ、どうだ”という式で、ずっと誘惑したということです。それでその道ばたで会ったのですが、その女の人を捕まえてメッセージをしたのでした。未信者状態 6種類とイエスを信じないといけないない理由と、韓国人であるから、こういうメッセージをその場でしたのでした。突然に、その女の人が涙を流しながら、イエス様を受け入れることはもちろん、その人がずっと涙を流しながら、異常になったということでした。それで、本格的にこういうことをするななどを話したのでした。その後に、この女の最後の告白が、途方もない話でした。牧師達が告白を聞いて衝撃を受けたのでした。その告白が何かというと、その女の人が牧師夫人だということでした。それで牧師達があまりに衝撃を受けて“牧師夫人が、ここになぜ出てきたか?”と言いました。もちろん、牧会も失敗してしまったのでした。ところが、私が一番くやしいことが何かというと、その女の人、韓国人が日本まで行って、売春婦のようにすることがくやしいのではありません。それよりくやしいことは、まちがいなく、その女の人を知る人達が、イエスを信じる人だというではないでしょうか? それが本当にくやしいのです。私が、国会議員をできないのでくやしいことは、一度もなくて、私が長官にならないでくやしいことも一度もありませんでした。ところが、長官の中で教会に通う人が多いのに、国会議員の中に教会に通う人が多いのに、この福音の影響を一度も与えていないという事実に、あまりにくやしいのです。私は、くやしい事が、それしかありません。どれくらいくやしいことでしょうか?
 
・それで、今日、とても良いことに、詩篇を読んで行く中に、今日、信仰生活がなぜできないのか? という相当な答がここに出てきていますし、今日、宣教師二人が派遣されるのですが、その家庭が一生忘れてはならない単語が出てきました。聖書 66巻の単語は、たくさんあります。7千種類以上の事件が預言されて、成就したということですが、この中で一番重要な単語は、何でしょうか? それがまさに“油を注がれた者”という単語です。今日、重要な言葉が 6節に出てきました。 “今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。”と言いました。簡単に理解するように願います。あなたがたが貴重な時間を出してここまできたのに、私は本当の福音を知らずに教会に通う人を見れば尊敬します。どのように通っているか分かりません。とてもしんどい所です。それも、献金までしながらです。それは、愚かでなければ、尊敬の対象です。いったいどのように通うのでしょうか? なぜどのように通うのでしょうか? それは、本当に私には不思議です。
 
・“油を注がれた者”という単語です。この単語を知らなくて問題がきたのです。今日、キャロル賛美をしたのですが、 Christmasという言葉は、何の話なのか知っているでしょうか? 人々が Christmasという単語をたくさん使います。何の話でしょうか? 知って使うべきです。文字どおり正確に解釈をすれば、“油を注がれた者の日”です。Christという言葉は“油を注がれた者”という言葉で、masは “日”という意味です。油注がれた者の日です。これからよく知るべきです。これも知らずに信仰生活をするので、でたらめなのです。どれくらい大変でしょうか? どのように信仰生活をするのでしょうか? 教養でするのでしょうか?どれくらいせつないことでしょうか? 信仰生活をなぜするのでしょうか? アクセサリーでするのでしょうか? どれくらいせつないことでしょうか? どれくらい大変でしょうか? だから、教会に行ったり来たり、毎日そのようななのです。教会に通ったり、やめたり、全く同じです。ですから、大統領府の中に、国会の中に、国務の色々な委員の中にクリスチャンがいるけれど、何の影響も与えないのです。本当にせつないことです。それよりくやしい事がどこにあるでしょうか? 何と同じでしょうか? ヨーロッパの人々が、米国に行ってみて、原住民が住んでいたのですが、愚かでした。何も知りません。金であるか、ダイアモンドでかも知らずに、やたら転がしているのです。知らないのです。これをどのように奪ったら良いだろうか? あめを持って来たのです。それで、原住民を呼んであめを一つ与えたら、それがおいしかったのです。あめ一つと、ダイアモンド一つを変えたのでした。この愚かな人達は、後ほど分かったのですが、どれくらい愚かでしょうか?
 
・一度は、初凉ローマカトリック教会で、ある人が、少しミサを見て出てきたのですが、かばんを置いて出てきたのでした。お手洗に置いたのです。ところが、お手洗の中に置いたかばんに、何が入っていたでしょうか? フランス人のようなのに、フランスのお金がぎっしり入っていたのでした。ところが、このかばんを誰が拾ったのかというと、子ども一人がお手洗に入っていって、かばんをもらったのでした。持って行ってあけてみたら、紙切れがぎっしりと入っていたのでした。ですから、取り出して折り紙をしたのです。取り出して初凉の子ども達を集めて一週間、折り紙遊びをしていたのでした。後ほど申告して捜し出したのですが、たくさんなくなっていました。それでも幸いです。知らないからです。イエス様が、犬や豚に真珠を与えるなと言われました。それをどのように分かるでしょうか? どれくらいせつなくて、くやしいことでしょうか? “油注がれた者”この単語で終わりです。今日は、久しぶりに信仰ある宣教師が派遣されて行くのです。すると、前の人は信じていなかったのか? それではありませんが、久しぶりに信仰ある宣教師が派遣されます。カナダがあまりにも重要なのですが、イ・ビョンム牧師がカナダにチャン・ヨンハン牧師を送ることを惜しいと言います。それで私が“人間中心主義を使わないで。あなたがカナダにいる時には、なんの話もしなかったのに”と言いました。それでも、すこし惜しいと言います。よく見たと思います。私たちの教会で、私たち教役者が理解します。私達が福音を愛さないと、あんな働き手は送りません。私たちは、福音を愛すために、とても清潔に福音を伝える働き手を送るのです。私が見る時はそうです。そしてチャン・ヨンハン牧師の奥さんは、私たちの教会の初期の時から、伝道訓練を受けた弟子です。一度も変更がなく言葉無しに働きをしてきました。一度も問題を起こしたことがありません。ただ福音、祈りだけです。完全にエリートです。ところが、私がうわさを聞きました。カン・ビョンチャン師は今、米国ニュージャージーに招かれて行くのに、私がいろいろな人々から聞きました。ですから、米国を生かすことができる本当に良い働き人だという根拠をたくさん捜し出したのですが、カン・ビョンチャン師の奥さんチェ・シンオク牧師夫人は、私たち教会で初期の時、訓練を受けたメンバーです。とても良い働き手です。こういう日、私たちはメッセージを別に準備しません。そのまま読んで行くのに、今日、詩篇 20篇になったのです。どれくらい驚くべきことでしょうか? 読んで行くのに、のろうことが出てくるなら、どうしますか? そのまま、私たちは別に準備しないで聖書を読んで行きます。ある詩篇を読んで見れば “ほえ猛る獅子のように人々がやって来る” こういうことががありますが、それが出てくればどうするでしょうか? 滅びることなのに。ところが、今日、ここに見れば、とても素晴しい詩篇です。主は油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天からお答えになる。ものすごく重要な単語です。聖書で一番重要な単語です。“油をそそがれた者” その言葉がキリストということです。
・ですから、ある執事が伝道も知らずに、キリストも知らないで、夏の聖書学校の時、子ども達を集めて見ようという欲がぎっしり詰まって、学校の入口で子ども達が出てくるのに、伝道紙を配りながら、夏の聖書学校に来なさいと言いながら、終われば海水浴場に行くことができるというのです。それがこんにちの教会の水準です。“私たち教会に来てごらん。私たちの教会は、夏の聖書学校が終わる日、仁川の近海行きます。早く来なさい” それで、子供達は、心が浮き立って仁川の前の海に行きたいと教会に行くのです。その時でした。小学校 3学年にしかなっていない子どもが “おばさん、キリストがなんの話なのか知っていますか?”と尋ねたのでした。この紙を配っていた執事の心がジーンとしたのでした。“キリストがなんの話なのか?” この子どもが“キリストも知らないのですか?”と言ったのです。知らなかったのです。それで、この子どもがそのまま紙をもらわずに行ったのでした。この子どもが賢かったのです。この頃の子ども達は、賢いのです。この伝道紙をもらわずに行きました。このおばさんがついて行ったのでした。“君は、どの教会に行っているの?”と言いました。この子どもが、どの教会に行くと言いました。“電話番号を教えてくれる” それで、この子どもが電話番号を言ってあげたのでした。言ってあげたら、その日の夜に、この子どもに電話がきたのでした。“キリストは、何の話なのか?”と尋ねたのでした。本当に笑わせることです。これが、今、教会の格好です。それで、この子どもが説明を正確にしたのでした。“君、本当にすごいね。どこで学んだの?”“どこで学ぶのでしょうか。みな教会で、聖書にあることです。”
 
・私が一番聞くのがいやな話が“私は以前に教会に通っていた”ということです。建物に通ったことが、何で教会に通ったのでしょうか? お手洗に行ってみたことも、教会に行ってみたことではないでしょうか? そのような方法の信仰生活をすれば、よく知ったかの様にこのようにします。本当にくやしくて、残念です。最も基礎も知らないながらです。“油をそそがれた者”が何の話なのかも知りません。あまりにも重要な単語、聖書で最も重要な単語、今日、二人の家庭が派遣されるのですが、最も重要な単語 “主の油を注がれた者”です。今日、ちょうど聖誕賛美をしたのですが、 Christmasという言葉は“主の油を注がれた者の日”ということです。単語を使うのも、知って使うべきではないでしょうか? 本当にせつないことです。これを知っていれば、終わるのです。本当に終わります。この話は、普通の話になりません。奴隷になった所から解放させる驚くべきメッセージです。皆様、考えてみましょう。油を注がれたということは、だれに油を注いでいるのか知っているのでしょうか?
 
・今、前の時間までは、単なる息子で、その翌日王になるように任命を受ければ、権威がものすごくなります。その時からは、天下がぶるぶるふるえるほどです。前にも人々が探して挨拶していたのですが、シンガポール行ってきたら、大統領になりました。すこし立場がこれから変わったのです。事実は、韓国全体の政治をすることができる権威を受けたのです。国民から、天から受けたのです。 その意味です。油を注がれた者。正確な単語がそうです。何の話なのか分かるでしょうか? 暗闇、悪魔の力に勝つことができるものすごい権威を与えられたということです。これを知らなくて教会に通って、これを知らずに伝道しようと、宣教しようと回るので、どれくらいクリスチャンがどれくらい恥をかかせているか分かりません。教会が生じる自体が恥さらしです。教会に通うこと自体が恥です。どれくらいせつないか分かりません。何ゆえに、そのようにでたらめにするのでしょうか? 答をみなのがしているのです。今日、皆様にものすごく重要な日になることを希望します。私がこの貴重な説明を皆尽くすことはできません。
・ある日、大祭司長が来て、エッサイに家の息子をみな私に見せなさいと言いました。息子がみな出てきたのに、いないと言うのです。“息子がみな出てきたのか?”“はい。みな出てきました。”大祭司長が、違うと言うのです。“はい。小さい子ども一名は羊飼いであそこにいます。”と言いました。“その子どもを呼んで来なさい”と言いました。それでダビデを呼んだのです。その時、聖霊充満した大祭司長サムエルが見た時、神様の聖霊が臨みました。その時、ダビデをサムエルが呼んでした話です。“これから、秘密を守りなさい。あなたはイスラエルの王になるはずだ。神様が私に指示されました。どんなことがあっても待って、耐えて、用心しなさい”と言いました。子どもです。その上に頭に油を注いでやったのでした。キリストという言葉がその意味です。油を注がれた者ということは、たいした単語です。それで長老、牧師を按手する時、手を当てるのは、油を注いで、按手をするのです。それがどれくらい重要な単語なのか分かりません。
 
・主の油を注がれた者。皆様が3つのことで、解釈をしなければなりません。最初です。王、預言者、祭司長です。この人達に油を注ぐのですが、これを知って、ダビデがサウル王を絶対に害を与えませんでした。なぜでしょうか?主の油を注がれた者に手を出せるだろうか? と害を与えないのです。どんなにサウル王が間違っても、害を与えませんでした。サウル王を殺す機会が来ても、殺さなかったのです。なぜでしょうか?主の油を注がれた者です。あまりにサウル王が狂っておかしなことをするから、臣下がダビデを見て、何と言ったでしょうか? “あの狂った王をすぐになくしてしまいましょう”と言いました。その時、ダビデが何と言ったでしょうか? “だめだ。主が油を注がれた者に私達が手をつけて良いだろうか?”と言いました。“油を注がれた者” 銘記なさることを希望します。ところが、王、預言者、祭司長が来ても、できなかったのです。それで真の王、預言者、祭司長を送るということです。その単語がまさに “キリスト”です。旧約ではメシヤで、同じ言葉です。新約ではキリストです。その日がきたということです。クリスマスです。相当な話です。私はこれを知って、キリスト教をいままででたらめに知っていたんだなあ、私は熱心にすれば良いと思っていたのに、熱心にすればするほど損害です。ところが、王、預言者、祭司長ではできないために、真の油を注がれた者が来られたのですが、その単語がキリストです。すると、そのキリストが誰か?が重要です。これが問題です。これが誰なのか?が問題です。私は捜し出しました。他の人に付いてまわりながら習ったのではなく、確認したのです。
・むかしは、母ゆえに通っていたのですが、本当に確認しました。キリストが誰であるというこの話を、私は本当に確認しました。イエスがキリストです。誰が何と言っても、もっと驚くべき事実、救われた者には、聖霊で油を注がれたという事実。王に王権を与えているように、全く同じ油を皆様に注いでくださったという事実です。分かるでしょうか? それで、使徒の働き1章8節に、「聖霊充満を受ければ、力を受けて、地の果てまで証人になる。」より驚くべき話は、Iヨハネ 2章 20-27節 聖霊で油を注がれれば、驚くべき知恵が生まれるはずです。そのようなことです。この驚くべき祝福をのがして、信仰生活をして、「私もむかしには信仰生活をしてみました。むかしに執事までしてみたことがあります。」話にもならない話をするのです。今日知った瞬間から、本物ならば神様が聖霊が働かれるのです。ヨハネ福音8章 32節に真理を知ると、真理があなたがたを自由にします。この話がなんの話なのか知らなくて皆様が縛られていたこと、サタンの呪い全てのものから解放されるはずです。驚くべきことです。ローマ 8章2節 罪と死の原理が、あなたを解放したのです。相当なみことばです。今日、あなたがたがこのみことばを信じてくださることを望みます。
・マタイの福音書 12章 28-29節に、皆様の家に聖霊が臨めば、神様の国が臨むと確かに聖書は話しています。受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。本当にすごいことです。ほとんどみな、これを知らずに信仰生活をするのですが、どれくらいせつないか、これを見れば、本当に残念です。私が幼い時から教会に通った者です。いつも、教会がけんかして、理解できます。救われることができなかったので、教会に通いながらけんかでもしなければ、何をすることがあるでしょうか? 救われることができなかったので、教会でそれ以外に何ができるでしょうか? 地位争いでもして、その他にすることがどんなに考えてみてもありません。私も救われなければ、そのようにするしかないでしょう。私は幼い時から、父母の教育をちょっと受けたのか紳士的なので、けんかするほどのことはあっても、けんかはしません。救われることができなかったから、教会でけんかばかりするのです。牧師が、地位をもらおうとけんかするのです。総会長の地位のためにお金 1億円も使うのですが、私も救われることができなければ、そのようにせざるをえなかったでしょう。深刻な問題に韓国教会、公害時代がきました。福音を受けることを考えることができなくて、私にはじめは高慢だと言って、どうだと言っていたのですが、後ほどは異端だと言います。空港で会ったら、「柳先生、本当に残念です。総会が先生を異端にして、申し訳ない」と言うのですが私は幸いです。私はそのような人々と一緒に会員でなく、どれくらい幸いか分かりません。本当に幸いです。批判ではなくて、本当に大変なのです。教会が韓国で本当に大きい被害を与えています。福音を悟ることができなければ、そのようになるしかありません。
・毎日、教会がけんかするのに、私はそれを見て、幼い時、気落ちして教会に通いませんでした。この良い福音を知って、とても良い福音を、その時からこの福音運動をしようと、心だけ持ったのに、神様が答えを下さって、その前は何にもできませんでした。しかし、神様は恵みをくださって、それとともに、多くの人々が成功しながらも失敗するのを見たのです。それで、神様が私たちに神様を信じなさいと言われたのだな。こういうことを理解するようになったのです。油を注がれた者。とても重要な単語です。今日の本文を見ましょう。今日の本文に、油を注がれた者の身分はどうでしょうか? 苦難の日に祈れば、どうなるのでしょうか。1節です。そのままではなくて、ヤコブの神様の名前を高めるはずです。その言葉はなんの話でしょうか? 契約の神様だということです。2節で聖所から助けを下さいますはずで、シオンからついてくださるはずです。それで、礼拝堂にくるのではないでしょうか? それで、私達が献金もしようとするのではないでしょうか? いけにえを受けて、あらゆる捧げ物を記憶なさるはずです。それで、私達が神様の前に捧げ物をささげるのではないでしょうか? 救われたゆえに、救われるためではなく、受けたゆえに、あなたの捧げ物、献金です。記憶してください。私は、私たちのタラッパンのあらゆる長老達、あらゆる役員、産業人が神様の祝福を正確に受ける日がくるはずだと確信して待っています。間違いありません。あなたの捧げ物を記憶するはずです。4節に、主があなたの願いどおりにしてくださいますように。 5節に、私たちは、あなたの勝利を喜び歌いましょう。私たちの神の御名により旗を高く掲げましょう。主があなたの願いのすべてを遂げさせてくださいますように。 特に 6節に主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。それで 7節に覚悟が出てきます。いくさ車と馬を自慢するのではなくて、主を自慢するはずです。8節にひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。主の油を注がれた者。どれくらい重要な単語なのか分かりません。クリスマスであるから、よく記憶すべきです。クリスマス、油を注がれた者の日、家に帰って尋ねてみましょう。誰かが使っていたら知って使っているのかと尋ねてみましょう。何にもしらずに僧侶もカードを送ります。クリスマスの日です。
・最後にひとつ記憶することがあります。私達が主の油を注がれた者を本文で確認しました。このまま二人の宣教師の家庭に、このまま皆様に起きることを信じます。私は確信します。皆様が私を理解することを望みます。私はとても確かだ見ると、高慢に見えます。しかし、高慢ではありません。ある時は、あまりに高慢になって失敗することもあります。神様が悟るようにさせてくださって、ダビデがこれを知っていたのです。多くの人々はダビデが滅びると思っていたのに、滅びませんでした。それならば、三番目に記憶することがあります。主の油を注がれた者の最後の単語が何でしょうか?それが、聖霊の充満です。聖霊の油で満たされるようになりましょう。それゆえに、他のことをせずに、礼拝堂にきました。それゆえに祈りもして、みことばも受けて、私たちはレムナントを育てて、献金もしているのです。主の油を注がれれば、どのようになるのでしょうか? 使徒の働き3章を見ると、足のきかない者が立ち上がる事が行われました。4,5,6章を見ると、問題が起きたのに、神様の働きはより大きくなりました。使徒の働き7章を見ると、ステパノが殺された後に、より大きいみわざが起きました。これが聖霊充満の単語です。主の油を注がれたことで満たされるならば、これが信仰生活で奥義になるのです。
・今日、この契約を捕まえてくださることを望みます。その時から、あなたがたは不思議に見えるほどに、答えがくるようになるはずです。皆様が事実に、口と心が開かれるはずです。閉められないでしょう。こういうことがあるのか? こういう新しい世界を見るべきなのです。私はこれを見ました。こういうことがあるのか? 宣教師二つの家庭に、カナダ、米国に行って、こういうことがあるのか。その話はため息ではありません。あまりに驚いて、こういうことがあるのか? それが、一生、あるようになるはずです。困難がきたら、もっと答えになっていくのです。いよいよ使徒の働き 13,16,19章を見ると、それしか仕方がない偶像、占い、迷信に陥った者を救い出すようになったのです。
・真の愛国は、何でしょうか?精神病者がいっぱいいるのに、彼らを救い出すことが真の愛国です。私は確信します。真の愛国は何でしょうか?もちろん、技術で、経済で、色々なことができます。真の愛国は何でしょうか?使徒の働き 13,16,19 の迷信、精神病、偶像にものすごく陥って死んでいっています。彼らを救い出すことが真の愛国です。驚くべきみわざが起きました。救いの門で、ぱっと開くようになったのです。主の油を注がれた者、皆様がみなその祝福を受けたのです。分かる日、みわざが起きるようになるはずです。分からなければ、みわざは起きません。歴史の勉強をしてみたでしょうか? チョルチョン王が王になったのに、王になったことを知りません。幼い時、王の子孫がみないなくなって、江華島にいたチョルチョンを王にさせたのですが、この人は王であることを知らずにいました。お腹が空いたら、呼べば良いのに、外に行って盗み食いをして、食事が出たらゆっくりと食べれば良いのに、乞食の時の行動が起って、あまりたくさん食べて、夜にお腹が痛くなる事が歴史を見れば出てきます。知らないからで、知っていれば、気楽にして、王であるので持ってこいとすれば、いくらでも持ってくるはずなのに、夜であれ、昼であれ、持ってくるはずなのに、知らないから。あなたがたが今日、この祝福を必ず回復なさることを望みます。
・すると、新しい世界が見えるはずです。その時から新しく分かるようになるはずです。事実として新しく分かります。「これが 祈りだな!」以前の特別なものはないので、ものすごく事実になります。「これが礼拝だな」「これが伝道だな」「これが宣教だな」このようになれば、何でもできます。時間がありません。派遣される二人は、3つのことを注意するように望みます。
・カナダや米国へ行けば、不信仰な声がたくさん聞こえるはずです。絶対にだまされないで。可能ならば、この祝福を知らなくさせるはずです。だまされないで。皆様が、信仰生活をして行けば、そばにいる人々が正しい言葉のようでも、間違ったことを話します。宣教師、二家庭が最も用心しなければなりません。全部正しい言葉を言います。間違いはありません。正しい言葉です。そのようにして、信仰を抜きます。悪魔が間違ったことを話したでしょうか? イエス様ににきて、「パンにして食べなさい。」パンのように見える石を持ってきて、「パンにして食べなさい」何か悪い話をしたのでしょうか? 悪い話は一つもしませんでした。より良い話、詩篇21篇を引用しました。「天使を送って、私たちの足を守ってくださるとされていないか? 神殿の上から飛び降りてみなさい」悪い話は一つもしませんでした。お金は、良いことです。むかしから今でも、お金ならば人々が必死になって狂いますが、「その良いお金を皆上げるから、私にお辞儀しなさい。」そのように出てきました。これで、重要なことを奪って行きます。だから絶対にだまされないで。それさえだまされなければ、信仰生活はできます。そばで正しい言葉だけを語ります。しかし、全部不信仰に引っ張っていきます。全部、正しい話です。これも正しくて、あんな状態でも正しくて、何か違った話があるでしょうか? みな一理がある話ですが、信仰を奪います。絶対にだまされないように。すると、カナダ、米国で成功します。
 
・二番目です。行ったら教役者関係を良くしましょう。あなたがたは、副教役者で行くことを知らなければなりません。特にある日、胸の中に私たちの牧師ではいけないという心が生じます。悪魔の考えだということを知って、自分はこの方を助けることができると考えましょう。必ずそのように考えましょう。
・三番目です。カナダに行って住んでいれば、同化してしまいます。米国で住んでいれば、同化します。同じような人になるのです。絶対に同化しないように、適応しても、同化してはなりません。世に適応しても、不信仰世界に適応しても、同化しないで。必ず宣教師だけでなく、私たちみんながそうです。とても重要です。主の油を注がれた者、あなたがたを救うために油を注いでくださったということです。この契約を捕まえていれば、聖歌隊が今のようによくなるはずです。これだけ契約を捕まえていれば、事業がよくなるはずで、この契約を捕まえていれば、牧会がよくなるはずで、何ゆえに悪い頭を、幼い時から悪い頭を回して、問題がくるのです。失敗したとすれば、神様が赦してくださるはずで、どれくらい良いでしょうか? この驚くべき秘密。すべての信徒と、私たちの派遣される二人の宣教師の家庭に、この契約が永遠にあることをイエス様のお名前でお祈りします。
 
<<契約の祈り>>
神様に感謝申し上げます。まさに私達が最も重要なことを知らずに、重要でないことを持って十年、二十年人生を生きてきたのですが、油を注がれた者、主の油を注がれた者、王、預言者、祭司長、それよりもっと重要な真の王、預言者、祭司長のキリスト、この祝福が救いで、聖霊の油で、聖霊の充満で、私たちと共にしたことを感謝申し上げます。この契約を捕まえさえすればみわざが起きるのに、今日すぐに捕まえる時間になるようにさせてください。信じる時間になるようにさせてください。それで証拠を見る霊的な目が行く所ごとにあることを信じます。主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン