2003年01月05日 インマヌエル 聖日礼拝


1部 / いちじくの木の教訓
(マルコ11:12-25)
 
 
・私が14歳の時、モンテクリスト伯爵という作品を見たのですが、その時はよく分かりませんでした。ある人が、監獄で終身刑を受けたのですが、小さい監獄には道具がないから、手で掘って逃げて出ようとしたのに、30年間掘りました。30年間掘ったら、穴があきました。穴をあけてみたら、方向が誤っていて、外にあけたのではなくて、隣にあけたのでした。それで、そばの部屋に穴が空いたのでした。30年間あけた穴から見てみたら、囚人一名が座っていたのでした。二人で話しをしたら“君は、終身刑を受けたのか?”と言ったら、終身刑を受けたということでした。死ぬ時まで、監獄にいなければならないということでした。それで“罪名は何か?”と聞いたら“ナポレオンを支援したからだ” ナポレオンが逃げて、監獄に入れられたのに、終身刑を受けたのでした。“君も終身刑を受けたのか?”と聞いたら、そうでした。“すると、君の罪名が何か?” この終身刑を受けた罪人は‘反ナポレオン派’でした。その時、ちょっと笑ってしまったのですが、静かに考えれば、世の中とは不思議で、一方はナポレオンに肩入れをしたとして終身刑を受け、政治的に一名はナポレオンに肩入れをしなかったから、終身刑を受けて、それで、逃げようと穴を掘ったら、方向を誤ったのでした。どれくらい意味がある話でしょうか?
 
・一年を始めながら、考えてみるべき作品ではないか?という気がします。思い切り生きたのに、誤って生きたのです。すると、どうするでしょうか? 何か私たちに話してくれているように思えませんか? 熱心にしたのに、違った道でした。成功にならないということです。時代がなぜそうなのでしょうか? 自分の誤ちでもありません。なぜか立ってみたら、‘ナポレオン派’でした。なぜか立ってみたら‘反ナポレオン派’でした。人生をむてっぽうに生きてみたら、そのようになったのでした。2003年度、新年礼拝の時、単語を3つ与えました。必ず記憶すべきです。それがなにかというと、皆様が行く所に、証拠が起きなければならないということです。それが、皆様がすることではなくて、神様の計画がそうなのです。皆様が行く所に、必ず人が生かされなければなりません。そうでなければ、聖書的にはずれています。会社ならば会社、人ならば人、必ず生かされなければなりません。それがクリスチャンです。そうでないことは、正しいクリスチャンではありません。皆様が行く所ごとに、人が生かされるようになっています。それを地域教会と言うのです。それをのがさないようにしましょう。
・2番目の新年メッセージが何でしょうか? 皆様がしている職業が何でしょうか? 皆様がする仕事が何でしょうか? そこに必ず神様の働きが起きなければなりません。それを機能宣教と言います。三番目のメッセージは何でしょうか? まちがいなく、私たち教会が世界宣教をすべきです。それが神様の計画です。そこにみな参加しましょう。一般信者宣教です。三つの単語を説明しました。私は確かに話しました。分からなければ、皆様に責任があるので、私には責任はありません。私は確かに話したからです。もう一度、お話しします。確かに話しました。むかしに、ムーディーが伝道しながら、福音を伝えたのに、聞かなかったのです。行きながら言った言葉があります。“私は、確かに話しました” ムーディーが言った言葉です。人々がたくさん集まって、けんかをしていたので、行って福音を伝えたのです。相手方が聞かずにいるので、出てきながら必ず言った言葉が“確かに話しました” 私は確かに話しました。あなたがたが答えを受けることができないならば、本当に皆様の責任です。確かに話しました。皆様が会う人、職場、現場が必ず祝福を受けなければなりません。それが皆様の計画ではなくて、神様の計画です。なぜだめなのかを早く捜し出さなければなりません。それが地域教会です。皆様の機能、産業、学業の祝福を確かに受けねばなりません。機能宣教です。そして、私たちは力を合わせて世界宣教をすべきです。一般信者宣教です。少しだけ心に決めれば良いのです。
 
・イエス様が、突然に 22節に、「神様を信じなさい」とおっしゃいました。弟子におっしゃっていたのですが、突然に「神様を信じなさい」と。皆様、神様を信じますか? 神様を信じないと言うことは、愚か者の中の愚か者です。頭が悪い人です。病院に一回も行ってみたことがないのでしょうか? 私は、神様を自然に信じられるようになりました。皆様、本当に困難に一回もあったことがないのでしょうか? 生きてきた後ろを振り返ったことはないでしょうか? それでも、神様が信じられないのでしょうか? 本当に、その人は愚かです。神様を信じない人は、実際に話す価値もありません。その人は愚かです。やむを得ず社会生活しようと話をするのであって、正しい人ではありません。どのように、どれくらい神様を信じなければ、その人間がどれくらい高慢で、霊的問題が多ければ、神様を信じないのでしょう? 信じられないことはありません。
・医者がこういうことを話しました。自分は医科大学に通った時には、神様が信じられなかったのです。しかし、患者に会いながら、病院に通いながら、その時から神様が信じられるようになったのです。どうして、そうなのかと尋ねました。どうして、医者をしながら、神様が信じられるか尋ねてみたら、頭にけがをした患者が入って、急な手術をしたのに、頭を開いてみたら、手術ができない程だったのです。なぜでしょうか? 頭がめちゃめちゃになっていました。死なないで来たことが奇跡でした。それで、その場の応急措置をしていたら、驚いたということです。頭の脳の中に神経があるのですが、数えることができない程に多いのです。それは手術をすることができないと言うことです。ところが、この人がみたら、神経間でくっついたのです。勝手に探してくっつくということです。それを見て、こういうことがあるのだろうか? こういう神経の中に一つだけ問題があっても死ぬのに、こういうことがあるのか?と思ったのでした。私が幼い時、車から落ちて頭をケガをして病院に行ったところ、その医者が言うのに、大脳のそば0.1cm 残してぶつかったのでした。もし少しだけ中に当たっていれば、その場で即死したでしょう。ころが、私の頭が 0.1cm残して当たりませんでした。だから、異常無く生き延びたのでした。元々幼い時から、頭が固かったのです。今でもものすごく固いのです。次に暇があれば、触ってみてください。普通の人より倍に固いのです。落ちながら、脳まで行かなかったのです。医者がそれをみて奇跡だと言いました。たったの0.1cm残して当たらなかったのです。そうでなければ、その場で即死でした。どのように、神様が信じられないのでしょうか? どれくらい、頭が悪いので神様が信じられないのでしょうか? 私は、その人がとても頭が悪い人に見えます。どれくらい頭が悪ければ、神様を信じないのでしょうか? その人は、鈍才の中の鈍才です。私がむかしに神様を信じませんでした。なぜか信じることも知らなかったのです。時間が経てば経つほど、信じられるようになりました。研究すればするほど、信じられるようになったのです。歴史の勉強をしたら、神様が信じられました。世界史、教会史の勉強をしたら、神様が信じられました。しかし、今日、皆様を見て、無条件に信じなさいということではありません。
・今日の本文がものすごく重要です。2003年を新しく始める皆様が、どのように信じてこそ、よく信じることなのでしょうか? 今日の本文にとてもよく出ています。最初です。説明からします。どのように信じれば、よく信じることなのでしょうか? 最初、イエス様が通り過ぎられたのですが、お腹が空いて、いちじくがあったのを見て葉はいっぱいなのに、実をさがしたら、実がなかったのです。ところが、イエス様がいちじくを呪われたのでした。よく知っている本文です。しかし、聖書は何と書いているでしょうか? 時でなかったので、いちじくの時ではなかったということです。だから、実が当然にありません。葉はいっぱいなのに、まだ実は結ぶ時ではないということです。しかし、イエス様がその実を探して、実がないから、その木のろわれたのでした。そのような悪い方ではないのに、木をのろわれたとなっています。これが重要です。その日の夜に、弟子を集めて訓練していらっしゃった時、弟子の中の一名も聞かなかったのです。これが、信仰生活を間違うことです。ただ一名も、そのように話が多かったペテロも聞きませんでした。ペテロは、元々おしゃべりな人です。ペテロも尋ねませんでした。“主よ。いちじくが、そこにあることを主もご存じなのに、なぜ行かれたのですか?”と尋ねるべきではないでしょうか?“木が実る時でもないのに、なぜ実を探されたのですか?”と尋ねるべきではないでしょうか? 実がなければ、当然にない木を、なぜ呪われたのですか? と尋ねるべきではないでしょうか? 一名も尋ねませんでした。もし尋ねれば、大復興会が開いたか、時代的なメッセージが出てきたのに、帰ってくる時、木が枯れていました。根元から枯れていたのです。なにを話しているのでしょうか? その時になって、弟子が尋ねました。私達が、信仰生活をでたらめにする時が多くあります。ここで何の答を言っているのでしょうか? 私達が、信仰生活をする時には、熱心にせねばならないけれど、最も重要なことは何でしょうか?私に、私たちの家庭に、時代に、神様の計画を見ることです。神様の計画を見るべきです。
・さくらは日本の木で、ムクゲは韓国の木で、バラは英国の木だとみな決まっています。いちじくは、イスラエルの木です。なぜいちじくと言うのでしょうか? 英語では、figと言います。私たち韓国語がよりよく表現しています。いちじく(無花果)は、漢字を見ると、花がない実という言葉です。花がない実はあるのでしょうか? いちじくは花がないのではなくて、中に入っているのです。花です。花が全部、実の中に入っている木です。不思議な木です。いちじくは、イスラエルを象徴する木です。なぜイエス様が、いちじくをのろわれたのですか? と尋ねたなら、すぐ答が出てきたでしょう。イスラエルは、これから滅ぼされるようになるはずということです。滅ぼされました。皆様、知っているでしょうか? 1400-1500年間、滅びました。恐ろしいことです。私たちは、神様のみことばを普通に聞きます。それが失敗です。聞いても、不思議に必要ない、大して重要ではない話をたくさん聞くのです。私達が個人もそうで、教会もそうで、成功を本当にしようとするならば、時代的なメッセージをよく見るべきです。今、私が何をせねばならないのでしょうか? それをよく見るべきで、元々それをよく知らない人が、家に行って息子を見て小言を言って、妻を見て小言を言うのです。だから、息子が耐えることができなくて、家を出るのです。今、ここに学校の先生がたくさんいらっしゃいます。学校に行って、時代を見ることができるようにさせてやらなければなりません。6.25(1950年朝鮮戦争)時代に食べることができなかった、そのような方式で教育してはなりません。聞いてみると、子どもが一番苦しいことが何かというと、学校に行って先生の話を聞くことで、2番目に苦しいのが、家に帰って父母の小言を聞くことだと言います。とても教育が遅れています。尋ねてみましょう。もちろん、教育が子どもの耳を楽しいようにするということではありません。しかし、時代は知らなければなりません。教会が今どんな時代なのかを知っているでしょうか? その中には、ソウルどこかを知っているでしょうか? そして、釜山はどこなのか知っているのでしょうか? 蔚山はどこか知っているでしょうか? 大韓民国は、田舎ですが、衛星都市にエリートが集まっている所が蔚山です。そこで、拍子も合わない賛美を歌っていれば、信徒が来るでしょうか? 釜山は何をする所でしょうか? 元々釜山という所は、眠って静かな都市です。釣りをして遊ぶ所です。ソウルはどこでしょうか? 不思議な人は、ここにみな来ます。少なくとも、引っ越しを3回した人は、こちらにみな来ます。これがどれくらい流動性があって動いているか分かりません。感覚を早く早くつかまなければなりません。今からどんな時代でしょうか? これから、霊的問題に覆われて止めるできない時代がきます。こういう所を早く、早く握らねばならないのです。
 
・弟子達が、ぼやっと付いてまわれば、パンでももらえるかということが習慣になって、イエス様が弁当ひとつで5千人を食べさせて残って、どれくらい良いのか、それを食べて恵みに思って、付いてまわる人々です。 一名だけ尋ねていたなら ‘どうして、イエス様がいちじくを探して、のろわれたのですか’と尋ねれば、‘あのイスラエルを見なさい。葉は多くて、木は良いのに、実がないではないか? 今、実を話しているのではない。イスラエルには、宗教がものすごいけれど、福音はないではないか? それで、イスラエルが死ぬのだ。’と早く気がついて分かったでしょう。理解できないでしょうか? 教会には、途方もなく通うのに、韓国をみつめながらメッセージが分からないでしょうか? 立ったとすれば教会です。これが普通のメッセージではありません。うれしいでしょうか? 私はある時には、心配になります。夜にソウルに飛行機に乗っておりてみましょう。真っ赤なのが、全部、十字架です。なぜ教会がこのように多いのでしょうか? ところが、なぜ伝道する使命者は少ないのでしょうか? 普通のメッセージではありません。普通の問題ではないな! 一度は、ソウルにある大きいビルディング中で、教会が三個出ていました。ビルディング一箇所の中に集会をしに行ったのですが、どこがどこか分からないほどです。また、ある地域では十字架を立てたのに、仲良く1つの十字架に教会の名前を二つ書いてありました。その教会は、仲がよい教会です。少し使命があるのです。やたら戦うのを見れば、普通の問題ではありません。これから、このまま行けば、教会の公害時代がきます。正しい牧会、正しい教会をすべきです。時代的なメッセージ、イスラエルに対する警告です。
・皆様が信仰生活を最も上手にやることは、自分の年齢が何歳か? を早く参考にせねばならなくて、男か女か? 教役者か一般信者か? を参考にすべきです。皆様が失敗することも、上手にやることもできます。それを今、話すのではありません。早く把握すべきです。時代を早く把握して、自分の年齢を早く把握して、教会の立場を早く把握すべきです。それができなければ、愚かな人になります。どんなに熱心にしても、方向が合わなくて、年齢が何歳か? 何の事業をするのか? 早く把握すべきです。それが生きる道です。霊的な目が開かれることです。2003年度、祝福を受けるように願います。年齢も参考にして、職業も参考にして、職分も参考にして、精神をちゃんと整えるべきです。私たちの青年、学生達は、失敗してもかまいません。なぜでしょうか?青年、学生であるゆえに、挑戦しましょう。年齢がみなあるのです。しかし 4,50代になって、失敗したら、起きるのが難しいのです。みな年齢があります。全く同じではありません。‘失敗は成功のもと’というのは、若い時に言うことです。皆様がどれくらい立場が違うかを早く発見して、時代を見ましょう。より重要なことは、教会史を勉強した人は理解できます。教会が雨後の筍のように、やたら起こった後に、福音がなければ、大きい問題がやってくるのです。これを防止せねばなりません。
・あなたがたもおわかりの通り、ヨーロッパに 100%が教会になったのですが、福音がなくなって、その次にどのようになったかというと、教会が霊的に完全に死にました。神学校がみな戸を閉めました。神学校に行くから、神学校になるのではないでしょうか? なぜ行かないのでしょうか? 聞く言葉がなくて、話す言葉がないからです。今、大変なことが起きています。なぜ述べる言葉がないのでしょうか? 英国とヨーロッパに必ず必要なメッセージなのに、聞くことがなくて、話す言葉がないという時代を一度見ましょう。一時、80%, 90%を自慢したロシア全部が教会です。これが、全部、福音がないから、ロシアが共産国家になったのです。時刻表があるということを知らなければなりません。100%教会が立った米国の福音がないから、今、米国の中に深刻な問題が入っているではないでしょうか? 深刻に言うと、良いものも米国からたくさん出てくるけれど、悪いことは全部、米国からみな出てきます。これが全部、普通の問題ではありません。目を開けなければなりません。近頃、教会がたくさんできるのが、韓国です。教会堂ができることが問題ではありません。 今日、時代的なメッセージを本当に捕まえると、静かにしていても答えがきます。静かにしていなさいということは、話をしないと言うことではありません。簡単に話せば、祝福の隊列の中にいれば、静かにしていても祝福を受けるということです。皆様がどんなに善良でも、滅びの隊列の中にいれば、滅びるということです。皆様がどんなに良心的だといっても、泥棒の船に乗っていば泥棒です。2003年を始める、最初のメッセージです。
・2番目 15-19節です。何が出てきたのかというと、イエス様が神殿に入って行かれたら、完全に商売する雰囲気でした。動物やお金を変えるとは、なんの話なのか理解できるはずです。お金を変えてこそ、入っていくようになっているのです。世の中のお金は出さないで、神殿の税金を出さなければならないので、変えるということです。鳩のようなものは、いけにえを捧げようと持って行くのです。また、遠くから持ってきた獣は、誤った獣なのかどうか、検査しなければなりません。検査をしようとするなら、検査費をもらいます。こういうことで見るので、商売する場所になってしまったのです。この時、イエス様が ‘わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。’とおっしゃいました。イエス様が与えられた2番目のメッセージです。単なるメッセージではありません。正しい教会です。インマヌエルに入るすべての聖徒は、どんな人が来ても良いのです。神様の恵みを受けて、すべての民が祈る家です。教会は、絶対に商売する所ではありません。教会は、すこし無理があってもかまわないのです。すべての民がきて恵みを受ける家です。教会は、すこし立派な人も来ても良いし、足りない人が来ても良いのです。すべての民が祈る家です。教会はすこし実力があって、たいした人が来ても良いのです。教会には、乞食がきても良いのです。教会は、すべての民が祈る家であるためです。商売する所ではありません。かと言って、皆様が教会にきてむやみにする所では、より一層ありません。すべての民が祈る家です。それが教会です。簡単に話せば、私達が 2003年を出発する2番目のメッセージは、教会回復です。あなたがたは、よく知らないのですが、神様が祝福なさることを私は確信しています。なぜなら、私達が今、違ったことではなく、正しい教会を指向しているためです。すると、他の教会はみな間違って、皆様の教会が正しい教会なのかと質問する方もいらっしゃるはずです。すると、他の牧師はみな間違って、あなただけが良い牧師だという話かと質問することがあります。その話ではありません。なぜ、何ゆえに韓国で異端にするのに、全部復興する所を狙ったのでしょうか? 私は、そのような教会を作らないということです。福音を伝える教会を作ります。多くの教会が、今そばでけんかしています。他の戦いではありません。下から信徒がきたり行ったりする戦いです。私はそのような教会を作りません。正しい教会を作るということです。今、教会で線を引いて何か戦っていますが、福音を伝える教会を作ります。インマヌエル教会と私たちタラッパン教会は、何の教会でしょうか?福音を伝える教会を作りましょう。この話は、普通の話のように聞こえるけれど、そうではないのです。今、全世界の宣教師が、なぜけんかをしているのでしょうか? 尋ねてみましょう。胸に手をおいて考えてみましょう。なぜ戦っているのでしょうか? 位置争い、勢力争いをしています。それも地位でもない地位での話です。そのような教団を作らないということです。良心的に福音を伝える教会を作るということです。皆様が、教会にきて、老会と総会がけんかをするのに、なぜけんかをするのでしょうか? 私達が、どのようにすれば、福音を伝えるのか? それゆえにけんかをするのでしょうか? そうではないのではないでしょうか? そのような教会を作るなということです。私達が、1年を始めながら、すこし遅くて弱くても、正しくしましょう。正しくしようということが、何の話でしょうか?律法的にするということではありません。福音的にしようということです。とても重要です。皆様が、この契約を捕まえれば、祝福を受けるはずです。私は、メッセージを読んで行く時、一回も神様が私たちの状況と本文を違うようにされたことがありません。今日、私たち初めての週を始めるのに、これは私が探し出したことではありません。それなら、私の話になるなります。私たちはそのまま読んで行っています。先週に読んだ、その次です。こういうことがあるのでしょうか? 2003年を始めるのに、時代的な答と神殿回復です。あまりにも恐ろしいことです。神様がどれくらい講壇と皆様を愛されたら、このようにみことばを正確にくださるでしょうか? 説明を多くすることもありません。読んで解釈だけすればよい程です。説教準備も多くすることもありません。神様のみことば、そのままです。
・三番目です。どのように 2003年を出発せねばならないのでしょうか? 重要なみことばが出てきました。イエスが答えて、彼らに“神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。” ここに重要なみことばが出てきました。三番目が何の信仰でしょうか? 神様の計画が明らかならば、挑戦的な信仰を持ちなさいということです。ここを見ましょう。山を動かして、海に移すことができると言われました。それは私達がするということではありません。神様の計画ならば移すことができるのです。どのように移すのでしょうか? 山が移されるのでしょうか? マホメットの弟子が“先生、イエスは山を海に移して、山を動かすことができると言ったのですが、先生はなさることができますか”と聞いたそうです。マホメットが面白い返事をしたのです。“それは簡単です”と言って、山に向けて叫んだのです。“山よ。ここにきなさい” 山がこないから“ならば、私が行こう”と言ったそうです。山を海に移すと言われたのですが、神様がすることがないから、山を海に移されるのでしょうか? これもできるということです。皆様が神様の計画が確かならば、挑戦的な信仰を持ちましょう。かと言って、また難しく考えないように。つまらないことを熱心にせずに、用いられることを熱心になせば良いのです。一つの例えを見ます。伝道師で、ある教会に行きました。教会復興が難しいという話は嘘です。それは、つまらないことをしているから難しいのです。教会の副教役者として行ってみたら、教会員の名簿の整理が一つもできていませんでした。整理を細かくしてみたら、半分は信徒が登録をして出てきていなくて、子どもの中で登録して出てきていないのでした。全部、分析して訪ねました。3ケ月後に、何百名が増えたのです。それが何でそのように難しいのでしょうか? 教会に必要だったり、必要がないという信徒はいませんが、重要な人と重要ではない人はいます。いまはそのような必要がなくてしませんが、その時は必要だったので、重要な信徒の電話番号は全部暗記しました。どれくらい良いでしょうか? 覚えるならば、頭も良くなります。どこかに行って電話番号の手帳をおいてすれば、非難を受けます。専門性を持つべきです。牧師が尋ねればすぐに言えます。すると公衆電話でかけることができます。その時は、携帯電話がありませんでした。何かの電話帳を出して遅れをとるのでしょうか? すると、すでに仕事にものすごく差が出てしまうのです。ですから、教会がすぐ復興してしまいました。それができないことがあるのでしょうか? 挑戦しましょう。挑戦しようということは、無謀に取り組めということではありません。いまは何十年も会うことができないのですが、私が知っている人の中で、商店4箇所で服をよく売る方がおられます。商店街が門を閉める時間が決まっていて、服をたくさん売ってみたくても、商店街が門を閉めれば、みんな一緒に閉じねばならなかったのです。この人が午前中商売をして夕方には手帳を持って釜山駅に行くのです。釜山駅に行って、女の人に会って尋ねます。“もし、あなたが今お金があるならば、どんな服を買って着ますか?”と尋ねるのです。普通の人ではありません。商店4箇所むやみにすることではありません。女の人に尋ねて、年令別で分析するのです。“もし、私があなたに服をひとつ買ってあげるとするならば、どんな服を着てみたいですか?”と尋ねるのです。この分析をみなするのです。4箇所で商店で良くできるようになります。はじめに、この人を知らなかった時、実際には祈りを多くしているからだと思っていました。祈りを山に行って、釣りを上手にやるようにしてくれと祈れば良いでしょうか? 話にならない祈りです。この人は、普通の人ではありません。夕刻、普通に他の人はみな遊んで休むのに、この人はこれをするのです。光州で飛行機に乗ってやってくるのに、光州に対する紹介が出ている本をひとつもらったのですが、デパートで店員として仕事をするお嬢さんが、月給を150万円もらうと書いてありました。ソウルの他のデパートで300万円をあげるから、来なさいと提議をしたら、自分は光州の者なので、光州地域ですると言いました。どのようにして、月給を店員が150万円もらうことができるのでしょうか? ずーっと読んでみたら、売るのをものすごく売るのです。ですから、たくさんもらうのです。この人がどのようにそのように売るのかが問題です。2つに関心を持って読んでみました。もしかしてクリスチャンなのか? 違うのかという関心で読んでみました。もちろん、やはりクリスチャンではありませんでした。クリスチャンの中で、そのような人物があまり出てきません。ところが、この人が何をするのでしょうか? 簡単です。自分の家に一度顧客が来たら、完全に分析するのです。負担を全く与えずに、その人が全く知らない間に完全に分析するのです。何千名の手帳に皆書いてあります。その人の子どもの誕生日と、何を願って、いつくらいならば何の服を着たいということまで、完全に分析するのです。女子店員が、この程度にします。挑戦的な信仰を持てということは、何でもに頑として取り組みなさいということではありません。神様の計画ならば、山を移すことができるのです。
・皆様、今年は、本当に格好良く一度してみるように望みます。何も難しいことはありません。私たちは、神様の力を信じる者です。‘私を強くしてくださる方にあって、私はどんなことでもできるのです’主にあって、できないことがあるでしょうか? あなたがたが、だめなことを熱心にしてもできないのですが、必要なことをすれば、何でもクリスチャンは、成功するようになっています。山を海に移すことができないでしょうか?
 
・皆様がおわかりの通り、私は、勉強がそんなにできないほうではなかったのですが、どのようにする講道師の試験を受けたのですが、教会の訪問と伝道集会が重なって、勉強が一つも出来なかったのです。講道師の試験は本を全部すべて読まなければなりません。どこかが出るという基準がないのです。みな読まなければならないのです。司法試験を受けて弁護士をした人が、講道師の試験に落ちました。その人が言う話が、司法試験より、もっと難しいのです。それほど、範囲が広いのです。その上に、むかしに通った学校は、学生がたくさんきているので無条件に三分の一は落とされました。だから、どれくらい大変でしょうか? ところが、勉強を一つも出来なかったのです。私がなぜかこのようになったのかと思いました。‘落ちれば、神様の計画のようだ’ と思いました。このように試験に行って、大田に行ったのですが、何百名が試験を受けたのに、私は勉強を一つもしなかったのです。他の友人は本を数十冊読んで、その中で一番良い本があるということまで知っていました。なぜが私は一つも読まなかったのに、ある人は本は何を読んだのに、その中では何がよくて、その中で重要なことは線を引いていたのです。その友人を見て、本をみな読んだなら、その本を貸して下さいと言って、この人は本をみな読んでいたので、安らかに卓球に行っていました。私一人夜に座って‘神様、神様がご存知でしょう? 私が遊びに通ったのではなく、今回、伝道大会と訪問が重なって、全く抜け出すことができなかったのですから、神様が試験を一度見て下さい’と祈って、夜の3時、4時まで寝ないでずっと見たのです。あまりにたくさん見て、目に文が見えなかったのです。祈ってずっと見ました。まちがいなく試験を受けることは、神様のみこころなので、寝ないでずっと見たのでした。本を二十回、三十回、見たら道が見えたのです。本当に不思議に思いました。約30回、見ました。その本が良い本かどうかは知りませんでした。既に読んだ人が、線まで引いてありました。30回くらい見て、朝になって試験を受けに行きました。幸いに知っていることだけ出てきたのです。
・人が神様の計画の中で気落ちしなくて最善を尽くすということは、私がすることはみなしたのです。そこで、落ちることは、神様のみこころです。それは、どうすることもできないことで、私がすることはみなしたのです。私達が、信仰のなかでするということは、どれくらい重要か分かりません。 2003年度に、皆様がキリストのなかで神様の子どもができないことがあるでしょうか?
 
・今日重要なことは、21節にペテロが思い出して尋ねてみたのです。これが問題です。ペテロが行ってみたら、いちじくがすべて枯れていて‘そうなのだな’と思い出したのです。これが信仰生活を間違う人々の信仰です。いつも過ぎて‘あ、そうなんだな’ これが信仰生活を間違うことです。神様のみことばをよく一度聞いてみましょう。この時代は何を願うのでしょうか? この契約を捕まえましょう。神様がインマヌエル・ソウル教会に何をお望みなのでしょうか?神様がインマヌエル釜山教会に何をお望みなのでしょうか? 早く把握すべきです。何の条件もなくて、何もない釜山インマヌエルに、神様が何をお望みなのでしょうか? 韓国で最も忙しくて、最もはでなこの地域で、神様は何をお望みなのでしょうか? 早く把握すべきです。それとともに、のがしてはならないことは、教会回復です。正しい教会です。皆様が教会にくるだけでも答えを受ける、そのような祝福があることを希望します。どんな信仰を持って出発せねばならないのでしょうか? 挑戦的な信仰です。山も移すことができます。‘私を強くしてくださる方にあって、どんなこともできるのです’ 私が見る時は簡単です。皆様が、絶対に信仰の中で生きながら、他人のことで益を得ようとせず、あなたがたが、本物の実力と最善を尽くしましょう。クリスチャンの中で、詐欺を働く人もあります。絶対に成功できません。どれくらい頭が悪ければ、詐欺を働くのでしょうか? 皆様は実力を持って、人を生かすのです。ひどい場合は、役員をする人々が回りながら未信者に詐欺を働いて見つけられたりします。なぜか一回ではありません。お金を借りて返せないことは、詐欺ではありません。無能力です。しかし、わざわざ計画を立てて、未信者のものを借りて返さなくて、逃げようとすることはだめです。そのように生きる必要があるのでしょうか? どれくらい頭が悪いのでしょうか? 皆、分かるようになるはずなのに。結局は、地球がもう一つあれば分かりませんが、地球はひとつしかなくて、地球を離れることができないのに、そのように地球と一致しなくて、どのように生きるのでしょうか? そのような必要はありません。実力を持って、最善を尽くすのです。そのような人々を見れば、本当に困りました。あなたは失敗するはずだと言ってあげることも、難しくて、またそのような人々は、話せば誤解をします。私たちクリスチャンは、そのようなクリスチャンであってはなりません。私達が生きていれば、失敗もします。しかし、わざわざ計画を立てて、詐欺を働いて嘘をつけば、悪魔の奴隷ではないでしょうか? こういう人々が多いのです。特に、ソウルに多いのです。あなたがたが、2003年をどのように出発せねばならないのでしょうか? 必ず記憶すべきです。
・いちじくの教訓は、何を言うのでしょうか? 時代的な恵みを捕まえねばなりません。今日、宮きよめに関する話が出てきました。何を言うのでしょうか? 教会は、どれくらい重要でしょうか。正しい教会を作れば、あなたがたは、子孫代々で神様の祝福を受けるはずです。こういう難しい時代に、私達がどのように生きるべきでしょうか? 山をも移すことができます。神様を信じましょう。皆様、今、この時代に皆様を呼んだ理由を知っているでしょうか? この時代を話すことで、教会回復を言うことです。皆様ができることは、何でしょうか?神様の力を信じて、信じれば山をも移すことができるということです。どんなに年が若くなくても可能です。この時代的な計画を悟って、福音の中にいる人は、失敗することがありません。時代的な答えがくるようになっています。そして、まちがいなく、神様の計画と私の信仰がひとつになれば、みわざが起きるようになっています。今日、神様の大きい祝福がある日になることをイエスのお名前でお祈りします。
・私がある日、こういう考えを持って、数十年持っていた考えを変えました。数十年、何を持っていたのかというと、6.25(朝鮮戦争)時代に育って、難しい町で育って、また、私たちの両親が金持ちではなかったのです。私はそのように育ちながら、いつも私の胸の中に、なぜこうなのかという考えをしていました。そこには答が出てきませんでした。幼い時、学校に行くならば、幼い時も金持ちがいました。壁があって、泥棒らが越えてくるなとガラスが刺してありました。ガラスをずーっと刺してある金持ちの子どもを見ながら、幼い時に‘なぜ、この人は金持ちなのだろうか?’と考えていました。反対に‘なぜ、私たちの父は貧しいのか?’という考えは親不孝であるゆえにしませんでした。それとともに大きくなったのです。ある日、私が失敗しながら、だめだと思うようになりました。その時、私が福音を知ったのです。失敗したゆえに、福音が必要になったのではありませんが、その時にやっと神様の子どもという祝福を知るようになりました。それを知るようになって、とても神様に感謝して、その後に悟ったことを祈り始めたのに、神様が多くの答えの門を開けてくださいました。‘これゆえに私が生きて、これからは話さねばならない’と決心したのです。2003年、あなたがたは絶対に失敗せず、失敗できないのです。特に、私たち教会とタラッパンをするあらゆる教会の長老と役員は、大きい祝福を受けねばなりません。
・結論を結びます。無条件に熱心にすることは、未信者です。神様の計画の中で最善を尽くすことは、信仰です。これが結論です。今日、イエス様のみことばの結論です。無条件に熱心にすることは、方向をなくすことがあります。神様の計画と時代的な計画、契約のなかですることは、方向を失いません。無条件に熱心にすることは、そのまま過ぎることですが、あなたがたは、皆様ゆえに家庭、家系まで生かされるようになるはずです。たとえ、皆様がとても難しくて弱くてもかまわないのです。2003年度に、皆様の現場を美しく、地域教会です。皆様の機能を祝福されるように、皆様のあらゆる生き方を一般信者で世界を生かす、そのような生き方につながるようになることをイエス様の名前でお祈りします。
 
<<契約の祈り>>
神様に感謝申し上げます。私たちに驚くべき祝福を下さいました神様。神様は、強い者を用いられるのではなく、モーセのような働き人を用いられて、世界を驚かすようになさったし、ガリラヤの湖の弟子を呼ばれて、世界でなかったことを行なわれた神様が、弱い私たちを呼んで、神様の子どもにしてくださったことを感謝申し上げます。これから挑戦する信仰を与えて下さい。神様の計画ならば、山をも移すことができるように、主が今日、主の民に信仰を回復させてください。神様を信じなさいという信仰で、これからは挑戦できるように恵みを増し加えてください。それは教会回復と福音回復のためですので、私たちがこの場に座りました。今ともに礼拝する100箇所余りの衛星で礼拝する教会とすべての主の教会の上に、真にこの信仰を回復する祝福の一年になるようにさせてください。特に、私たちのすべての職分者に、長老達、役員達に代表的な祝福を与えて下さい。福音が何かを正しく説明する証人になるようにさせてください。私たちの主イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン
 


2部 / 苦難の後にくる祝福
(詩22:22〜31)
 
 
・2003年を出発するあなたがたが、一つを記憶せねばなりません。既に皆様は神様の子どもであるゆえに、何を準備すれば良いのでしょうか? これから、うつわを準備すれば良いのです。この部分を皆様がもしよくできなければ ‘私がうつわが小さいからだな’というようにせっかちになったり、でなければ、気落ちするようになったりする場合があります。そのようにする必要はなくて、あなたがたは神様の子どもであるゆえに、詳しく見つめればよいのです。簡単に話せば、信徒が 50人程以上集まらない教会があります。すると、牧師が気落ちしたり、他の方法を使ったりしないようにしましょう。気落ちすればよりできなくて、他の方法を使えば、よりできません。すると、信徒達はより離れるようになっています。そうでなくても、教会がよくならないのに、50人、30人で‘これをどのように脱皮せねばならないのか’と苦闘すれば、むしろより副作用が起きます。その時は、何をせねばならないかというと、詳細に注意深くみれば、50人しかくることが出来ないうつわになっているのです。それを変えるべきです。それが牧会です。後から静かに変えなければなりません。それ以上が来ることができないシステムになっているのです。それを発見することが、知恵です。そのようにしなければ、無理に人を引っぱって集めようとするとか、そうでなければ、自分が苦闘するとか、そのようにして、世の中の事ができるならば、だれができないでしょうか? それではありません。皆様がお金をもうけるのに‘私はお金をもうけなければならない’と無理にするからといって、お金がもうかるのでしょうか? お金がもうかる色々なシステムがあります。それを知っていれば、もうかるのです。そのようなことであって、無理に努力するからといって、しないことよりは良いでしょうが、結局はできないのです。
 
・ 米国に黒人が白人を見て主張するのに“私たちの人権を尊重してくれ。なぜ私たち黒人をこのように無視するのか?”という運動がおきました。今でもそのようなことがおきているけれど、白人は黒人を無視したり、人権を尊重しなければならず、黒人と言って無視してよいのではありません。しかし、黒人が考えねばならない部分があります。ただ人々が顔が黒い色だから、そのようにするのではないのです。私達が、白人に無視されないように準備すべきなのです。そのようにしなければ、ずっと白人を見て“私たちを無視するな”とだけ言えば、困るのです。もちろん白人が、そのようにすれば悪いのです。しかし、もっと重要なことは、たとえ顔の色が違うとしても、国籍が違うとしても、あなたがたが少しそのような準備をすれば、それがなくなり始めるのです。
・私達がない人が、ある人を見て “あなた方のお金と私たちのお金の貧富があまりに差がある”と多く言います。今回の大統領も、こういう話を多くしたのですが、もちろん、それは必要な話で、政治的に必要な政策です。お金を持った人が多く持っていて、ない人はないので良いわけではありません。政治をしようとする時には、まんべんなくよく生きることができるように政治をすべきです。しかし、ない人々が考えねばならない部分があります。ない人々が、自分達が多くのことを揃えて、このようにしなければと無条件に“共に生きよう”と言えば、それは共産主義です。それは抑止です。無条件に“あなたも私も同じように食べていきよう”ということは、話にならないのです。それは共産主義思想です。どうして、そのようにできるでしょうか? 実力がある人は、たくさんもうけて、ない人は少なくもうけるのです。ですから、法律で無理にない人々を不利にさせたり、ある人を有利にさせることはしてはいけません。しかし、私達が何かを更新して準備をすべきです。皆様は、心、考え、信仰のうつわを育てなければなりません。あなたがたが、これを記憶せねばならないのです。
・今日、私たちの大学の卒業生が私を訪ねて来て、少しの間、そのような話をしました。「皆様、世に出てみれば、ものすごいように見えます。当惑しないように。また、皆様が世に出てみれば、あまりに堕落しているように見えることもあります。あまりにそれに惑わされないようにしましょう。また必ずしも、そうなのではありません。皆様が世に出てみれば、変に見えることもあります。あまり、そのようなことには巻きこまれないようにしましょう。よくしっかりしましょう。聖書には、知恵を得なさいとなっています。よくさがせば、道はたくさんあります。」このようにして、ある大学生はうろたえて卒業をして異常になるのです。
・ソウル大を卒業した学生が、私を訪ねてきました。訪ねて来て“先生。私が小学校の時から勉強を熱心にして、ソウル大学に入りました" 今、生き甲斐がないということです。なぜでしょうか?小学校で一等、中学校で一等、高等学校で一等、ソウル大学に入りました。ソウル大学でもほとんど良い成績で、Aの成績点で卒業しました。就職をしたのです。‘私がこれゆえにいままでこのように生きてきたのか’こういう気落ちするようになったのです。それで“どんな気落ちなのか?”と尋ねたら、大企業に入っていったのに、‘大企業が何でこうなのか?’ということです。‘人々が、だまして、嘘をついて、何でもないことでけんかして、企業で仕事をする人々が、このように仕事をするのか?’“私はここで仕事をして、これからご飯も食べることができない”ということでした。“そうでしょう。しかしそれは誤って見たのです。それで、神様が私たちを見て光の子どもとして行きなさいと言われたのではないか? それで私たちに伝道しなさいと言われたのではないか? それで、世界宣教しなさいと言われたです。何ゆえに、その人々が正しければ、そのようにまで気を遣いながら、努力をする必要があるのでしょうか? する必要がないではないでしょうか?”この人がまた職場へ帰って、これから開始するのを見ながら“新しく開始をしなさい。あなたが思ったようなだけではないでしょう”と話をしました。
・何人かを見て、うつわを知ることができます。むかし、韓国では王宮でこういう役人を選ぶ時、3つのことを見たということです。それで“身言書判”です。「身」という言葉は容貌を話します。容貌を見ながら‘この人がどうだ’「言」は話をさせてみることです。‘この人が話すのを見ると、どの程度か’それから、書は文です。文を書かせて、文を作るようにさせながら‘この人はどの程度だ’と判断するのです。それで、“身言書判”と言いました。その他には、分析する方法がないから、そのようにしたのです。私たち人間を見れば、ある利益関係に置かれたり、損害関係に置かれたりする時、多くのうつわが分かることができます。また、私たちは名誉、物質、こういう部分に会えば、特に、人間関係で葛藤がくる時、この時にうつわが分かることができます。また大部分の人々を見れば、良い生活をしていて、決定的な瞬間にずっと違った決定をするようになって、崩れるようになります。こういうものが本当に重要です。その中で、苦しみに会う時に見れば、うつわが特に分かることができます。
・今日の詩篇 22篇は、ダビデの詩です。私達が多くのことを見ることができますが、私たちは、いつうつわを育てることができるのでしょうか? 苦しみに会う時です。皆様が最も祝福の門が開かれる時が、どんな時でしょうか?困難がきた時です。また一方、そばから言うと苦しみに会う時、その人の態度を見れば、最もうつわをよく知ることができます。そのようになれば、私達が色々な利益、損害関係に置かれたり、名誉がかかっていたり、物質がかかっていたり、色々な人間関係がかかっているような時、多くのことが分かることができます。しかし、たぶん簡単に表現しようとするなら、苦難がやってくる時に、 時が最も重要な時です。そのようにする時、多くのことを探して得ることができるのです。
 
・今日、私たちは第一に、この本文で考えねばならない部分は、1節から21節までは読まなかったのですが、 ダビデが出会った苦難が出てきました。それが1節から21節 まであるのですが、今日のタイトルが“苦難の後にくる祝福”で、22節から見ました。1節から21節までちょっと見ると、ダビデが何と言ったかというと、神様に捨てられたかの様に話をしました。1節にこういうみことばがあります。“わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。”と言いました。これほど、苦難にあったのです。うめいたということです。2節には、なぜ祈りに答えてくださらないのですか? また6節には“しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。”となっています。7節には、他の人があざ笑って、唇をとがらせて首を振るとなっています。9節から10節を見れば、何と言っているでしょうか? 他の人が言う話が“神様があなたを救うのではないか? あなたが普段に神様をよく信じているから”と話しています。本当に悲惨です。神様を信じない人が “君が神様を信じるから、神様に祈りなさい” このようにまで出てきたのです。これが実際に、最も私たちの心が痛むことです。“君が間違ったから、そのように困難にあう”と言われたらいえば知りませんが“君が神様を信じるのだから、神様に祈りなさい”と 出てくるのです。ダビデがこのようにまで困難に会ったのです。11節に見れば、迫害の危機が私に近く来るのに、助ける者がいません。ダビデが苦しんだ内容を見ることができます。牡牛の群れと獅子の群れが私に押し寄せるようだと、12節と13節に、そのような表現をしました。骨がみなろうのように溶けたと14節にそんようになっています。
 
・皆様が祈りをずっとできるというのは、あまり急でない時にです。人が本当に急ならば “全知全能でおられ...”という祈りが出てくるでしょうか? 本当に急になれば、出てくるでしょうか? ‘私がどのようにせねばならないのか?’このようになるしかないでしょう。幸いによく回復できたのですが、今までインマヌエル・ソウル教会にチェ長老が病気になって手術をしたのですが、この時は祈りがたくさん出て来ないのです。本人であっても、家族であってもです。そこで、祈りがよく出てくるというのは、あまり急でない時に出てくるのです。神様が全能で、どうして、わたしを呼べ等、聖書箇所を覚えて言うのは、あまり急でない時、出てくることです。人は、とても急ならば、それも出てきません。今日、ダビデがそのまま表現しました。骨がはずれて、心が溶けた、とあるでしょう? そのような困難と死の危機が迫れば、そのようになるはずです。皆様、少し困難にあっても、そのようにするはずなのに、ダビデが長い歳月の間、そのような困難に会いました。
 
・16節に見れば、悪者どもの群れがきて、私の手足を引き裂いたとなっています。どれくらい苦しんだのでしょうか。18節には、私の上着を互いに分け合って、下着をくじ引きにしたとありますが、これは何かというと、その後、イエス様が苦しまれた時、イエス様の服をくじを引いて分けて持っていったのです。それに対する預言でもあって、それに対するメッセージでもあります。ダビデが、それほど苦しみにあったのです。だから、イエス様の服を兵士がくじを引いて分けて行く時、それに対する預言がまさにこの本文です。この体験を誰がしたのかというと、ダビデがしたのです。だから、ダビデの苦しみがどれくらい深刻だったを知ることができます。20節と21節を見ると、犬、獅子、野牛が私に押し寄せるとなっています。こういう大きい困難にダビデが会うようになったのです。ところが、ダビデを見れば、重要なこういう困難を、信仰でみな勝ち抜くようになったのでした。
 
・ダビデの生涯を見れば、ダビデはいくつかの重要な信仰を持っていました。それが何かと言うと、救われる信仰を持っていました。困難に会うあなたがたが、どのようにこれに勝ち抜くのか? ということが、ものすごく重要です。骨がはずれるような困難が、ないこともあるでしょうが、きた時はどのようにするのでしょうか? でなければ、皆様に大小の困難が来ていることもあるでしょう。今ここに座っている皆様が‘神様にとても感謝する’と言うことができるけれど‘私がどのようにせねばならないのか?’と言う時もあるでしょう。皆様がまた見れば、とても何かがよく成っていって、神様が祝福を注がれている時もあります。そのようにする時には、問題になる必要がありません。ところが、私に問題が迫って、外で話すこともできない家庭の問題が迫るような時には、どのようにするのでしょうか? そのような時が、実際には重要な時なのです。この時、ダビデは信仰を見れば、救われる重要な信仰を持たなければならないのです。神様の力を信じました。
 
・次週に出てくるのを見れば “主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。”と言いました。その有名な 詩篇 23篇が、次の週に読むことになりますが、それがダビデの詩です。皆様、普通、どこかに行ってみれば、有名な詩を書いてある中に、私が見る時、ダビデが書いたその詩のように恵みが深い詩はありません。詩篇 23篇だけの話です。ダビデがどんな信仰を持っていたのかというと、救いは神様の御手にあって、神様の力を本当に信じる信仰を持っていたのです。これが重要です。皆様、本当に神様の力を信じるとすれば、揺れることがありません。ダビデは‘確かに神様は生きておられ、私は神様の子どもだ’という信仰がありました。
 
・皆様にこの信仰がなければ、生きていく間に、普通の時はよく知らないけれど、私達がいろいろな部分に多くの判断をせねばならないために、表にあらわれるようになります。単にここに座っていているようでも、神様の力を本当に信じる人と、信じない人は差が出ます。結果は、途方もなく差が出るのです。今日、新年を始めながら、準備すべきです。神様の力を本当に信じる牧師と、本当に信じない牧師は、相当な差が出ます。神様の力を本当に信じる役員と、信じない役員は差が出ます。後ほど、相当な差が出るのです。これは、ものすごく重要です。私たちは、こういうこと、ああいう事がありえます。ここに今、多くの聖徒がいて、今、たぶん数万名の人々が、メッセージを聞いているでしょう。ところが、ものすごく結論は簡単です。皆様がどんなに良くしても、本当に神様の力を信じる人がいて、信じない人がいます。サウルを私が見るには、神様を信じていませんでした。しかし、ダビデは神様を信じていたのです。ダビデは愚かな話も本当に多くしました。 “神様は私の盾だ。神様は私の砦だ”と話したのです。この話は、なんの話かというと、神様を本当に信じていたということです。
 
・本当に神様を信じますか? すると、心配する必要はないではないでしょう? 私達が、神様の力を本当に信じて、救いの秘密を信じるならば、私がいつ死ぬのかという心配も、実際にする必要がありません。ある時見れば、人々に会えば、話を多くするでしょう? ある時には、一日中、不信仰になる時が多いのです。牧師が健康に気を付けなければならず等という話をします。こういう話を静かに聞けば正しい話です。ある時見れば、人々が信仰の話をしれいるようです。すると、またその話が正しいようです。このように、人は行ったり来たりします。ある牧師は、このように話をします。“先生。あまり時間がないでしょう? 健康に気を付けなければなりませんよ”という話を多くします。良い話です。
 
・一番笑わせることは、ササンに行ったら以前、パク・チャンワン牧師がおられました。その先生は、私に会えば“柳先生。健康に気を付けるべきです。健康を惜しまなければ。あまりに通っていてはだめですよ”と言います。それで私が“そのようにしようとします。私が不思議にそのようになります”と言いました。“健康に気を付けねばならないのですが、お願いがひとつあります” それで“何ですか?”と聞いたら、“私たちの教会の集会をちょっとしてください”と言われました。それで“先生が、健康に気を付けろとおっしゃったではないですか?”と言ったら“そうです。健康に気を付けて、私たちの教会にだけ集会をしてください”と言われたのです。その方の論法です。ところが、私達が笑ってしまいましたが、人はこのようにしばしば話をしていれば、不信仰が生じたり、終わりがありません。しかし、本当に神様の前で、私たちのいのちを神様ではなく、私が勝手にできるでしょうか? もちろん、用心もして、みなせねばならないのですが。結局は、神様がいのちを治めておられます。ある人を見たら、どんなに用心してもだめな人は、まただめです。もちろん、私達がすることはせねばならないのですが。
 
・やや下手すると、皆様が信仰生活をするのに、最も大きいのは何でしょうか?神様が私とともにおられるという事実に揺れ始めることです。これは紙一重の差です。他の見方をすれば、また何の準備もない人のように見えます。それでなくて、紙一重の差です。ダビデは、どのように、こういう苦難にみな勝ったのでしょうか? 確かに神様の力を信じて、自分が神様の子どもであることを信じたのです。これは、ものすごく科学的です。皆様が、霊的な力を得れば、事実はすべてです。皆様が‘聖霊充満を受けたら、からだの病気が良くなった’という話を、どのように科学的だと思っているのでしょうか? 私は間違いないと考えます。皆様が聖霊充満を受ければ、皆様の心と考えの中に、相当な関係があります。皆様が霊的に力を得れば、肉体に相当な関係があります。
 
・私たちのすべての聖徒が、聖霊充満を得て 2003年度には、すべての病気が解決するように願います。私はそのように信じます。ダビデが、どのように、こういう苦難に勝ち抜いたのでしょうか? 3つの信仰ですが、ひとつが神様の力を信じたことです。それとともに‘私は神様の子どもだ’間違いありません。今日の1部礼拝の時、話をしましたが、私は‘神様を信じない人は、本当に頭が悪い人だ’と考えます。どんなに、国会議員、長官に会っても、この人達は、頭が悪い人です。どんなに、自分がソウル大学を出て、ハーバードを出て、みな出てきても、その人は頭が悪い人です。それは、なぜか熱心にしてそのようになったのでしょうが、それは頭が悪い人です。頭が本当に良い人ならば、神様を信じるしかありません。本当に 知性人ならば、神様を信じるしかないのです。
 
・私たち人間は、動物ではありません。人間は、神様を信じるしかないのです。創世記 1章 27節に、神様のかたちに創造されました。確かにそのようになっています。2003年度に、私達がどのように歩いて行けば良いのでしょうか? 私達が頑として、無条件に神様を信じるという意味ではありません。神様は確かに生きておられて、私のいのちを治めておられることが明らかです。皆様のいのちを誰が支配なさるのでしょうか? 神様が支配なさることが確かです。私はそれを見ながら‘そうだ。私は、神様の子どもだ。私は神様のしもべだ。私たちの教会は、世界の福音化ゆえに神様が立てられた教会であることは確かだ’と思いました。
 
・誰かから私に連絡が来ました。連絡がきて、切実にお願いをしたのです。誰かがあなたがたを見て、そのような話をしても、あなたがたはだまされないように望みます。“今、韓国で一番大きい教団の合同側で、柳牧師を前に異端としたことが、間違ったことであると現しました。そのように新聞に出ました。それで、不法でしました。自分たちが、自ら認めて、新聞に出してけんかをしています。このような時が、チャンスです。ですから、この時にそのような人々を告訴すれば、回復するはずです。”誰かがそのような話をしました。そのようにする必要はありません。もちろん、そのようにすることはできます。自分たちの間でそのようにしたゆえに私達が今すればできるでしょう。ところが、絶対にそのようにする必要はないのです。一昨日、総会長に会ったのですが、総会長もそのように言うので“絶対に、そのようにしてはなりません。私たちは、そのようなけんかをしてはなりません。私たちは、そのような戦いに巻き込まれてはなりません。また、異端という話を聞いたら、どうなのでしょうか?” それで、総会長は祈りを多くする方なので“そうです。”と言いました。私たちは、絶対にそのようにしてはなりません。そのような戦いはしないのです。なぜでしょうか? ある日、神様の時刻表が来れば、みなひっくり返ってしまうのです。私は、歴史を勉強してみた者です。私は教会史の勉強をしてみた者です。聖書を読み取る以前に、教会史の勉強をしました。私は、教会史を勉強しながら、神様が生きておられると思いました。こういうことがあるのでしょうか? どんなに皆様が頭を使っても、神様の力を変えることはできません。どんなに皆様のどんなによく生きたとしても、生きられなかったとしても、神様の計画を変えることはできません。だから間違いないのです。そのようなけんかをする必要はありません。まちがいなく、神様が生きておられるのです。いままで教会史を見れば、本当に福音を防止した場合にはいつでも生じたことがあるのですが、それが何かというと、戦争がおきたのです。教会史を見れば、そのようになっています。福音を妨げるならば、必ず戦争がおきます。ところが、そのようなことはありません。私たちタラッパンがあって、福音運動する教団があるかぎり、神様は伝道者一名がいるかぎり、神様は滅ぼされません。アブラハムを見ておっしゃられました。“義人が十人だけいても、この町を滅ぼさない”と言われました。こちらに本物の伝道者が何名かだけいるかぎり、神様は変えられないでしょう。皆様は、相当な契約を捕まえて、うつわを大きくひろめる、そのような祝福があることを希望します。
・ダビデは2番目です。どんな信仰を持っていたのでしょうか? 神様の時刻表を見る信仰です。普通のではありません。時刻表がある、この時戦って良いでしょうか? 来週に見ますが「主は私の羊飼い。私は乏しいことはありません。その困難に会いながら、私が死の陰の谷を歩むことがあっても、私は災いを恐れません。主のツエとむちが私の慰めです。」ダビデが言った言葉です。その困難の中で、「主は私の羊飼い。私には乏しいことはありません。」どのように不足することがなくて、こういうことを話せるのでしょうか? それも死の中で、この話はダビデが単なる信仰を持ったのではなくて、神様の時刻表を見ることができたのです。
・私は、私たちの教会とタラッパンにいるすべてのエリートに話します。すべての役員とすべてのエリートに必ずお願いします。何のお願いをするのかというと、今、米国や日本に行ってみれば、少し狂った人以上に、おかしな人ばかりです。そのような時代です。時刻表を見ましょう。今、私がしている話が分からなければ、相当な混乱がくるはずです。今、霊的に苦しめられる人が多くて、それは話す必要もなくて、実際に狂って完全に家を出ている人が多いのです。私の話をよく聞いてください。この人達が行く時がありません。まちがいなく、この人達がどこへ行くかというと、あれこれを正す律法の教会には絶対に行きません。行くことができないのです。行かないのではなくて、行くことができないのです。この人達は、寺には絶対に行きません。狂った人も霊があります。魚は知能が低いのです。魚の知能指数がどれくらいかというと、魚によって他に15しかなりません。どれだけ知能がないかというと、釣りする人の糸に引っ掛かって、痛くて逃げたのですが、また来ます。釣り糸にまたやってきます。それほど、知能が低いのです。そのように魚の知能が低くても、どこへ行くかと思えば、自分が生きることができる水に行きます。自分も知らず、絶対に死にそうな水には行きません。生きる水に行きます。精神が狂って、自分に対して区分出来ない人が、自分も知らずに、絶対に寺には行きません。教会へ行きます。もし他の宗教人が教会を見て、異常だと話してはなりません。賢い人は、そのような話をしません。絶対に精神が狂った人は寺には行きません。教会へ行きます。そして、教会へ行ってみて答がなければ、どこへ行くかというと、福音がある教会へ行きます。間違いありません。したがって、あなたがたが目をよく開かれるべきです。だから、当分、私たちタラッパンに霊的な問題がある人が来るしかありません。これを見て、エリートが誤って表現すれば、この中で罪を犯すのです。教会来ると、何でこういう人々がいるのかと時々見ます。そのようにすれば、あなたがたは、この中で罪を犯します。神様の時刻表を見ることができない罪を犯して、その人々が行くところがありません。行くところがないから、福音がある教会へ行くしかないのです。だから、違った所に行くことができないことを知らなければなりません。本当に水が必要な魚は、違った水に行くことができないのです。皆様であるから水道水を飲んでも大丈夫ですが、本当に澄んだ水を飲まなければならない魚は、滅んで行かざるをえないのです。だから、当分10年間は、タラッパンに霊的な困難を受ける人が追い込まれてくるはずです。それしか仕方がありません。それを見て、何だと話せば、この中で罪を犯すのです。それを見れば、悟らなければなりません。このたましいが、どこへ行くでしょうか? 行く所がないので、あなたがたが福音を伝えればそこに、あなたがたがメッセージを与えて激励すれば、そこに来ざるをえないのです。そうしながら死んだり、いやされたり、そのようになるはずです。
・ここに時刻表があります。その後にいつでも見れば、イエス様に付いてきた人は、悪霊に取りつかれた人がついてきたのですが、パリサイ人はついて来ませんでした。パリサイ人は行っても、話が通じないということを狂った人がよりよく知っています。誰がパリサイ人のような考えをしているのでしょうか? だからパリサイ人が二重の罪を犯したのです。「あのイエスという人は、悪霊につかれたベルゼブルか?王か?何か悪霊につかれた人が付いてまわって、それをよくいやすのか?」イエス様をねたんで言った言葉です。「あなたの家の強い者を縛らなければ、その家のもの取ることができるだろうか?」イエス様が言われた言葉です。「わたしがもし、悪霊につかれた者であれば、悪霊の間で戦うことがではないか? それが話になるか?」はなはだしくは、イエス様がどれくらい強く話されたか、「この話を悟ることができなければ、神様と関係ない人だ。」とマタイの福音書 12:29-30節で言われました。その後に、いつでも教会に霊的な問題がある人が集まれば、その時からいつでも経済の祝福を注いでくださったのです。このような時、また錯覚してはなりません。「神様の時刻表が、このようにきているんだな。」その後に教会はものすごく大きくなるのです。時代を掌握し始めました。その時から、教会は教会権力の内に堕落し始めたのです。時刻表をよく見るべきです。
・私が牧師に何回も話をしました。よく分からなかったのです。私が3年間一生懸命作ったことがあります。それがなにかというと、世界福音化社団法人世界福音化伝道協会です。それを作り出すのに3年かかりました。正式的に法的に作るのに4年がかかりました。社団法人世界福音化伝道協会、私がその人間中心主義を使わなかったのです。そのお手伝いをキム・ヨンギ執事がしたのですが、絶対に人々を見て助けてくれと言わないように。しかし、私が牧師に対して話をしました。私も老いて死ぬようになっていて、あなたも老いて死ぬようになっています。ここに私たちは、良い長老達がたくさんいるのですが、あの方達も50年のうちにみな亡くなります。確かです。のろいではなくて、預言です。確かです。この方達がどれくらい良い長老達でしょうか。私を手助けしようと、どれくらい努めているか分かります。そのような方達が、どんなに良い方達だといっても 50年のうちには、亡くなります。すると、どのようになるでしょうか? この伝道運動は、なくなります。これがまさにサタンの勝利になるのです。それで、世界福音化伝道協会を作って、この資料を保存、持続するようにするのです。そのようにして、私たちの子孫、私達が死んだ後に私たちの子孫が見て、きて伝道運動をすべきなのです。私がこの資料のために、どれくらい苦労したか分かりません。神様が完全なからだで投資なさるようにされました。一度、想像してみてください。しかし、世界福音化を初めて話すのです。世界福音化タラッパン協会、この話をわかる人がいません。私ならば、タラッパン協会に関心を持って祈ります。これがなんの話なのか理解するならば、私たちの堂会員達、長老達は、みな祈るべきです。足りないから必要なのではありません。キム執事が私に聞きました。“先生。良い方達は加入させなくても良いでしょうか?” “置いておきなさい。聖霊の導きを受けた人ならば、みな分かるでしょう。なぜでしょうか? これだけは、完全に聖霊の導きを受けたい” ある時は、キム執事があいまいになります。重要な集いがある時、文書を回して、会員を集めようとしますが、それをしないようにと言いました。それを見れば分かるでしょう? 聖霊の導きを受ける人は、聖霊の導きを受けるようになっていて、みな寄ってきます。蠅はごみ箱に、蝶々は花を探して行くようになっているので、自然に出てくるようになっています。元々、私のスタイルが、作ることではなく、作られている所へ行くのです。なにかを無理に作ろうとすれば、問題が起きます。行く通りに行くのです。まちがいなく、私たちの総会が大きくなれば、大きい伝道をする団体になるはずです。今からすでにそのような兆しが見えています。恐れる団体になるはずです。私がいつも若くいることは出来ません。多くの人材がおきるはずです。私たちの子孫がたくさん起きるはずです。しかし、いつかはこの伝道運動が、また消えるようになるはずです。それで、消えないようにするのです。それが協会です。何でも時刻表があります。皆様がどれくらい長生きするのか? いつ死ぬのか? そのような心配はしないで。時刻表が確かにあります。伝道の書3章、皆様が生まれる時間、行く時間が確かにあります。これを知っている者が知恵者です。
・ダビデがこれを知っていました。だから、どんなに困難が来ても揺れなかったのです。時刻表です。どんなに答えを受けても、高慢になりませんでした。時刻表です。ダビデが答えを受けた時、何をしたか知っているでしょうか? ダビデが世界的に大きい人物になりました。ダビデが世界的な王になったのです。イスラエルの国旗がダビデの星です。ダビデは、ものすごい位置にあった時、何をしたか知っているのでしょうか? 神様が最も希望されることが何か? これがまさにダビデという人物です。‘神殿を建てねばならない!’これがまさにダビデです。普通の人ではありません。本当の信仰の人です。苦しみに会う時、逃げながら主は私の羊飼いだから、心配することはないと逃げて回りました。いくらでもサウル王を殺すことができたのに、逃げていました。これがまさに時刻表です。王になりました。王になれば、することがどれくらい多いでしょうか? 記念碑も立てて、ダビデというなにかを残さなければならないでしょう?
 
・一度、北朝鮮の金剛山に行ってみました。行く所ごとに金日成主席です。所々、景色も良くて空気がきれけならば、全部、金日成主席が立っています。内心これから‘これみななくそうとすれば、頭が痛い’はなはだしくは、北朝鮮で金剛山に上がる道に良い場所があったのに、金日成主席が座った場所でした。ちょっと行ったのに 1・2箇所ではありませんでした。ダビデも人なのですが、そのようにしたくなかったでしょうか? ダビデは、そうではありませんでした。王になった時、時刻表が何か?神殿建てることでした。この人を見ましょう。ダビデは、死ぬ時までそうでした。
 
・三番目、ダビデの信仰です。ダビデは、祝福を受けるうつわが用意されています。うつわが準備されている人物です。全部、ゴリヤテの前にぶるぶる震えていた時、いのちをかけて行った人がダビデです。あなたがたもおわかりの通り、そんなにも悪くて精神が狂った義父サウルが、そんなにもダビデを殺そうとした時、ダビデが何と話すのでしょうか? 主が油を注がれた者に、私達が手をつけることができない。サウル王が完全に狂った王です。あんな王は、国家のためにいなくならなければならないのに、主が油を注がれた者に手をつけることができない。ダビデは、王になって成功した時にも、そのように言いました。ダビデの願いは何だったでしょう? 主の神殿で祈ることでした。ダビデのうつわです。ダビデが、夜明けに祈るのに、すでにうつわが準備された人です。後ほど、ダビデが王宮で息子ゆえに反乱が立ち上がり、追い出された時にも、シムイがのろう時にも、ダビデが何と話すでしょうか? 神様がさせておられることではないか? うつわが違います。後ほど、ダビデが死ぬ時、どのようにしたでしょうか? そのサウルの息子ヨナタンが死ぬ時、ヨナタンの息子メフィボシェテと一生、一緒に食事をしたではないでしょうか? ダビデが死ぬ時、何と話したのでしょうか? ソロモンに “ソロモンよ。君は苦労して強くなって神様を知りなさい。他の事を必要がない。主を知りなさい。” それがダビデの遺言です。そのように話しながら、遺言をいろいろ言いました。ダビデにのろったシムイ族に気を付けなさい。ダビデの遺言の中に、必ず神殿を建てなさい。また、ダビデは何と話したかというと、自分の友人ヨナタンの息子。戦争が起きて逃げだしたのですが、落とされて足がきかなくなったのでした。敵のサウル王の孫です。サウル王が非常に悪く狂ったゆえに、戦争がおきたのでした。戦争中にサウル王は死んで、ヨナタンも死んで、孫一人がいたのですが、その名前がメフィボシェテです。このメフィボシェテを運んで行く時、兵士が落としたのです。死ななかったのですが、足がきかなくなりました。ダビデが、一生の間、食事する時、メフィボシェテと食事しました。そのうつわを見ましょう。私たちならば、適当に見てあげなさいというようにするではないでしょうか? 一生、メフィボシェテをダビデの食卓の前に置きました。足のきかない者でヨナタンの息子、自分の友人ヨナタンの息子です。ダビデが死ぬ時にも、ソロモンに遺言して、メフィボシェテを見てやりなさいでした。普通の人ではありません。人のうつわが違います。私達があることに会えば、うつわから分かります。皆様は祝福の受ける人であることは確かです。ここに私たちのレムナントがいます。両親が何がどうだと言うようなうつわになってはなりません。いっそのこと、そのようなうつわは、祝福を受けると考えないようにしましょう。私たちの両親がどうであれ、私たちの両親が貧しいからどうだといううつわでは、絶対に世界福音化はできません。 神様の祝福を味わうことができないのです。私の環境が何がどうで、そのようなうつわになって良いでしょうか? そのようなうつわになってはなりません。いくら両親が私に間違って、環境が良くなくても、ここにみな神様の計画があります。ここで実力を揃えて準備しろということです。
 
・本当に感謝します。ある学生は、こう話しました。勉強をよくできる学生がいます。「君がいままで一番感謝する人は誰か?」と聞きました。私は、もしかしたら、私だと話すかと期待をしたのに“私の両親です”と答えました。私が見る時、この両親は、良い両親ではありません。それで私が驚いたのです。なぜそのように考えるのかと尋ねたら、その後の話がもっとすごかったのです。「他の人は、私の両親を見くびります。私はそのように見ません。」なぜそうなのかと尋ねたら、「私の両親が私をイエス様を信じるようにして、東三第一教会に出るようにしました。インマヌエルになる前に、東三第一教会の時、私の両親が私をイエスを信じるようにして、東三第一教会に通うようにしたのです。私の両親をとても尊敬します。」その程度ならば、大きいうつわです。「君はまちがいなく成功するはずだ。」私達が、すでにうつわが準備されるべきです。人がなんでもないのに、どんなに立派でも、うつわがなければ、どのようにご飯を入れられるでしょうか? 手にスープを入れて食べることができるでしょうか? 私が見る時は、信仰がみなうつわです。私はいつも思い出します。以前にいた教会で伝道したのですが、私をそのように手助けした執事一名が、手助けするのに、私を手助けするのでなく、福音を伝える人を手助けしていたのでした。この人が自分の家に冷蔵庫を買うために、お金を集めて買いに行っても、買う前に牧師の家に冷蔵庫が大丈夫なのか必ず電話をします。牧師の家に冷蔵庫が良くないのに、私が冷蔵庫を買うことができないということです。それまでは良いでしょう。自分の両親が田舎にいるのに、そこに電話をして、冷蔵庫が大丈夫かと尋ねるのです。大丈夫だと言われたら、買うのです。いまは家に電話がみなあって、みな携帯電話を持って通うけれど、むかしには電話がありませんでした。一つの村に電話が一台あれば、それに電話をかけにいったのです。自分の家にあれば、誰かが電話きたと呼びにきます。約20分の道を走ってくるのです。すると、20分の道を走って行って受けました。幼いころの夢のような話です。このような時、電話を一台申請しておけば、長くかかって買うことができます。この人が自分の母が田舎にいたのに、そこに電話をまず置いてあげたのでした。理解ができませんでした。私ならば、まちがいなく、私の方にまず置いたのに、この人が言う話が“私は若いから走って通いながら、公衆電話でしてもかまわないし、他人に借りてもかまわないけれど、私の母は足も良くないのに、どこに行って電話をするのでしょうか? 私の母が電話がもっと必要で、私がどのようにもっと電話が必要でしょうか?”と言いました。分かったと言いました。なんでもないけれど、電話機ひとつにも、その人の人格が出てきて、うつわが出てくるのです。まちがいなく、あなたは祝福を受けると話してあげました。うつわがどれくらい重要か分かりません。
・私が知っている長老一人は、どれくらいお金を惜しんでいるか、とてもかばんが古いので尋ねました。“長老、かばんが古いでしょう? かばんをひとつ買って差し上げましょうか?”と言ったら “これはどうですか?”とかばんを下げていたら、下に穴が空いていました。この人が本当にケチだなぁとと考えたのですが、そうではありませんでした。この人が、神様の前ではそのようにしなかったのです。それで、神様の前では、重要な時に献金しました。それを見て、この人は、このようにして祝福を受けるんだなという気がしたのです。お金がものすごく多いのですが、かばんが古くて穴があいたかばんを持って通ったのです。皆様、みな穴があいたかばんを持って通えということではありません。その人が、そのようにしながら、神様の前ではそうでなかったのでした。誰が知っているでしょうか? 神様の前に適当にして、かばんは良いもの、ピカピカしているのを持って通えばどれくらい素晴しいでしょう? そうではないでしょうか? 献金を公開するのでしょうか。しようがするまいが、見せることもしないのに、人前でいくらでも格好良くすれば、格好良くなるのに、その人格と私が人の前にすこし無視されればどうなのでしょうか? 私が神様の前にささげるのではないでしょうか。人格とどちらが、よりよいでしょうか? うつわが違うのです。
・ダビデが救いと神様の力を知る人で、2番目に時刻表を知る人で、三番目にうつわが準備がされていました。今日の本文を少し確認して、越さねばなりません。苦難の後にくる祝福です。22節に何となっているでしょうか? 22節に‘私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。’この話が出てきたのに 22節, 23節, 24, 25節、4箇所で、すべての会衆の中で、あなたを賛美しましょう。私を見て多くの人々が主を賛美するようになるはずです。また敵が私に主を賛美するようになるという話が4回出てきました。そして 27節, 28節, 29節に国々が主の前に帰ってくるようになるはずだと言いました。この信仰を見ましょう。主のために国々がこれから帰ってくるようになる。これが 27節, 28節, 29節です。特に30節, 31節に、子孫に神様が共におられる。証拠です。特に30節, 31節に ‘子孫たちも主に仕え、主のことが、次の世代に語り告げられよう。彼らは来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう。’ ダビデの信仰です。苦難の後にくる驚くべき祝福です。
 
・2003年の最初の聖日です。今日の1部礼拝では、神様が私たちにどんなみことばを下さったでしょうか? この時代を見て、教会を回復して、私達が本当に信仰で挑戦することです。特に、私たちの学生達は、恐れず挑戦しましょう。挑戦するのも、よく注意深くみて、神様の計画であることが明らかならば、挑戦するのです。死んでもかまわない時があります。神様の計画であることが明らかならば、死ぬのです。怖がる必要はありません。すると成功します。そのような中に、今日、詩篇を通じてダビデを見ながら、祝福を受けるうつわを準備するのです。ダビデのように、救いと神様の力を知っている信仰。時刻表を知っている信仰。この祝福を受けるだけのうつわ。すると、すべての人に主を賛美するようになるはずで、国々が主を賛美するようになるはずで、子孫が主を賛美するようになるはずです。
・今回の新年メッセージを記憶しましょう。あなたがたが多くすることではなく、私達が祝福を受けるべきなのですが、全イスラエルが、かもいと門柱に羊の血を塗った時、奇跡がおきたという事実を記憶することを望みます。マルコのタラッパンの 120人しかならないけれど、全聖徒が集まって祈る時、世界を生かす働きが行われたという事実です。今回一人ももれなく、あなたがたは祈り3つを開始しましょう。何でしょうか?私がいる所に神様の証拠が現れることを。地域教会です。私がする事業、私がする職業に、神様の証拠が現れることを。機能宣教です。そして、最後に私達が世界宣教のために、全信徒が参加するのです。一般信者宣教会です。必ず記憶なさって、2003年度の今年に、皆様に大きい祝福がずっと臨むようになることをイエス様のお名前でお祈りします。
 
<<契約の祈り>>
神様に心より感謝申し上げます。2003年度を始めるようにされた神様に感謝申し上げます。神様の力を信じる信仰を与えて下さって、時刻表を見る目を開けてくださって、うつわを準備して、大きい祝福を受ける証人になるようにさせてください。生きておられる主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン