(2003年 01月 12日 インマヌエル教会/ 柳光洙 牧師)


聖日@部: メシヤに対する論争
(マルコ11:27-33)
 
 
 
・一時、全世界の鉄鋼を動かした人がいました。カーネギーという人ですが、鉄鋼王だと言われました。米国の鉄鋼を動かしたゆえに、世界の鉄鋼を動かしたと見たら良いでしょう。この人が学校に行くようになりました。学校に行く前に、幼い時、自分の家の庭に少しだけ箱を作って置いて、そこでうさぎも育てて犬も育てたのです。この幼いカーネギーが、うさぎに草をやってずっと世話して育てたのでした。そうして、学校に行くようになったのでした。すると、うさぎを誰が育てれば良いのでしょうか。幼いカーネギーが、どんな知恵をしぼり出したかというと、学校に行かない近所の子どもを呼び集めて、月曜日には君が世話をして、火曜日には君が世話をして、というように決めたのでした。きめて条件をつけたのです。うさぎが子を産んだら、一匹ずつやると言ったのです。そのようにして、うさぎを育てたのでした。そして、学校に通っているカーネギーに、両親がお手伝いをさせたら、しないのでした。なぜなら、自分がすることは、勉強だからしないと言うのでした。それでも、母親が忙しいからと言ったら、いくらくれるかと尋ねたということです。だから、母がびっくりしたのです。この子どもが買い物に行くのに、お金を上げなければ行かないと言って、明らかに代価を与えれば、するということです。この子どもが、中・高等学校に通う時、幼い時、両親からもらったお小遣を集めて置いたので勉強をしました。大きい人物です。父母も驚いたのです。私は外国に行けば、私たちの韓国の子ども達が、隅々の食堂のような所に集まって遊んでいるのを見ることがあります。そのようなことを見ながら、「食べて太ることは良いけれど、あのように祝福された時間を、あのように送っているんだな。本当にだめだな」という気がします。私たち韓国の人々が、本当にかわいそうだという気がするのです。隅々に集まって遊びます。その時間に、勉強もしなくて、金儲けもしなくて、何にもしないのです。父母もなくて、誰も干渉する人がなくてハレルヤなのです。それを見ながら、本当に哀れに見えました。それで、韓国から子ども達を外国に送ることは、可能ならばするなと話すべきだと思うほどでした。このカーネギーは、大きくなって鉄鋼王になったのです。この人が、後ほどやめる時、自分の後継者を選択するのに、自分の息子は選択しませんでした。かと言って、自分を手助けした学者にしたのでもありません。清掃夫で入って仕事をしていたシーバーという人に任せたのです。任せながら述べた言葉があります。「私は、いままで生きてきた過程の中で、神様の恵みで多くの祝福を受けて知恵を得た。私たちの会社のなかで、私が知っている人の中で、神様を一番よく信じる人があなただ。あなたは、まちがいなく、私たちの会社を生かすはずだ。」という話しをしたということです。その時、シーバーが、「社長は習ったことが多いけれども、私は習ったことがないのに、社長ほどの大きいことができるでしょうか」と言ったのです。その時、カーネギーが話しました。「科学者が必要ならば、呼べばよい。お金を与えればくる。もし計算を良くする会計士が必要ならば、お金を出せば良い。お金を与えればくる。あなたは神様に仕えている。それはお金を与えても買うことが出来ないではないか」と話したということです。私達が神様を理解するということは、小さな祝福ではありません。少なくとも、今日、メシヤに関する論争をするなかで、3つのことを見ても大きい祝福を受けました。
 
・最初に、私達が福音を正しく理解するということは、祝福の中の祝福です。本当にこの祝福を受けたとすれば、私たちは勝利するはずです。勝利しないわけがありません。今年は、皆様の生活の中にも、福音が入っていって、皆様の考えの中にも福音が入っていって、大きい祝福を受けるように願います。愚かな人間達が知らないで偶像崇拝をして、自分たちは死ぬと知っていながらも、悪霊につかれて、やむを得ずムダン(霊媒師)になったり、今、宗教人がみなだましています。自分たちが困難を受けると知っていながらも、止むを得ないのです。ところが私達が、福音を知って、神様の子どもになったということは、どれくらい感謝なことか分かりません。これは驚くべきことです。あなたがたは、反対のことを見ることができないでしょうか。あなたがたが、ムダン(霊媒師)の家に行ってみるならば、私がどれくらい大きい祝福を受けたのかが分かるようになります。ムダン(霊媒師)の子どもとして生まれた人は、一生、悩まされるのですが、その子孫まで困難を受けるのを見れば‘私は祝福された者だな'と分かるようになるはずです。ある人は、何の誤ちもないのに、霊的な問題が深刻にきて、勉強したこととなんの関係もなしで、お金を儲けたことなんの関係もなく、滅びる人が多いのです。こういうことを見る時、この福音を理解するということが、どれくらい大きい祝福でしょうか。それならば、創造主の神様が私を救われたことが間違いないならば、私ができない事はありません。神様のなかで。私が福音を知って‘この中に全てのものがみな入っているんだな'と発見しました。
 
・今日の本文のみことばに、この愚かなパリサイ人達が、どれだけ無知なのかというと、祝福を受けたということを知らないのです。イエス様が宮をきよめる場面が前に出てきました。教会は、すべての民が祈る家なのに、商売人の家にしたと、マルコ福音書を見れば、ムチを作って動物を追い出したとなっていて、怒られたとなっています。このすべての民が祈る家を、強盗の巣にしたのだと言われました。皆様は理解がよくできないでしょうが、イスラエルの国は、神殿に入る時、傷がある動物を捧げることができなかったのです。それを理由にして、宮の門の前で動物を売りました。本当に良い理由です。世の中で使ったお金を神様に捧げることができないので、宮のお金に換えるべきだ。本当に良い理由です。それを換えてあげるのに、お金をまたもらいました。遠くから動物を持ってきた時、すぐに入っていくことができず、検査せねばならないのですが、検査費6ペンスを受けたということです。本当に良い理由です。このようにして、ものすごく財産を集めたのです。これでパリサイ人が暮らしました。イエス様が、それをご覧になったら、そのようにしている庭が異邦人の庭だったのです。簡単に話せば、宣教する庭なのに、そちらでそのようなことをしていたので、イエス様がムチで動物を出されたということです。その時、大祭司長と律法学者、今日の本文に出てくる宗教人が、イエス様を見て、何の権威でこのようにしているか? あなたが敢えて誰の権威でこの宮で大騒ぎをするのか? その時、イエス様がこのようにおっしゃられました。「すると、わたしが聞く話に答えることができるか?」と言われ、パリサイ人に「バプテスマのヨハネの権威は人からか? 神様からか?」というように尋ねられました。なぜならば、バプテスマのヨハネは、公式的な祭司長の部族です。バプテスマのヨハネは、偉い部族です。この人がイエス様をメシヤだと答えました。その人がイエス様にバプテスマを与えたのです。すると、バプテスマのヨハネの権威が、だれから与えられたのか? このように尋ねられたので、人からきた、神様が与えたのではないと言えなくて、神様からと言うならば、イエス様がまさにメシヤだという証拠ではないでしょうか? だから、パリサイ人が何と答えたのでしょうか? そこに対する返事はできないと言いました。すると、わたしも答えてあげることができないと言われたのが本文です。事実はメシヤに関する論争です。
 
・今日、私達が受けた祝福が何でしょうか? とても多くの宗教があるのですが、福音を知ったという事実です。私は敢えて神父をはじめとして、すべての僧侶に自信をもって話すことができます。皆様がやられている霊的問題は、イエス・キリストでなくては、絶対に解決出来ません。神様が二人を送られませんでした。送る必要もありません。‘世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。' 私は確かに証拠があって、確実に話すことができます。どんな宗教人の前でも話すことができます。その人がやられている苦しみまで話すことができます。間違いありません。私が数十回、新聞に易、シャーマニズム人に手紙を送っています。易、シャーマニズム人にあらゆる困難とやられている部分を記録しているのです。今、易、シャーマニズムをしている人が一斉に口を閉じています。なぜでしょうか? その人々が降参して手をあげたのです。なぜでしょうか? 絶対にその人々が嘘をついてはならないのです。やられている霊的な問題が深刻なのです。解決しません。それが息子に行って、孫に行くはずです。解放される道は福音しかありません。私は確実な証拠があります。それなら、私達ができないことはありません。神様の子ども。驚くべき祝福です。
 
・今日、私達が勝利できる2番目の理由が、ユダヤ人が知らなかったことを私達が知っているということです。驚くことです。ユダヤ人が何を知らないでいたのかというと、律法を徹底的に守ったのですが、福音は全く知らなかったのです。やや間違うと、このような信徒が多いのです。世界の信徒の中に、こういう信徒が多いのです。律法は徹底的に守ったのに、福音を知りませんでした。どれだけ律法を徹底的に守ったかというと、安息日には5里以上歩かないようになっています。すると家が10里以上ある人は、どのようにせねばならないのでしょうか? 家が10里以上ある人は、5里以上を歩きます。宮がある所から10里以上ある所は、どのようにするのでしょうか? ユダヤ人がどれだけ愚かだったかというと、礼拝をささげる前日の夜に行くのです。夜に行って、そこに立っていて、朝にまた行かねばならないでしょう。それで、その場所に杭を打って置きます。‘神様、私がここまできました。明日、行く所はここから行くのです'というようにして、また帰ってきます。すると、どうなるのでしょうか? 5里行って、帰ってきて、10里です。また行けば10里です。20里を歩くのです。こういう愚かなことをするのです。それがユダヤ人です。律法を徹底的に守ります。こういう人々が、福音を知らなかったのでした。
 
・人々は律法をよく知っています。一度、酒を飲んだ人が教会に来ました。私をさがしてきたのですが、なぜきたのかとたずねたら、ソウルに行かなければならないのに交通費がないと言いました。なぜ交通費がないのかと言ったら、お金は銀行にいくらでもあるのだけれど、入浴していたら、誰かが服を持っていったと言いました。それでは、あなたは酒のにおいがするけれど、どのように飲んだのか?と聞いたら、来る途中でもらったので飲んだと言いました。私は、あなたを支援することができます。しかし、あなたが教会に通いながらこういう方法で神様の前に捧げた献金を、ソウルにも行かないまま、それも嘘をつきながら、お金を勝ち取るならば、あなたに大変なことが起きます。もし、あなたがソウルに本当に行かなければならないのに、財布を忘れてしまったとするなら、私が完全に責任をとって送ってあげることはできます。服を忘れてしまったのならば、服を買ってあげます。新幹線の特別室のキップも買ってあげ、おりて行く時交通費がないならば、タクシー費をあげましょう。もしソウルに行くならば分からないけれど、そうではないのでしょう? なぜ教会を回りながら、酒を飲むのか? 私が熱を出して怒ったら、この人が言う話が、イエスを信じる人がなぜ怒るのか? それが律法です。なぜイエスを信じる人は、怒らないのでしょうか? 喜怒哀楽は、人間の本性なのに、それで「分かりました。列車の切符を買ってあげるから行こう。」と言ったら、この人がぶつぶつと言って‘イエスを信じる人が'と出て行きました。だから、教えていないのに律法を知っているのです。怒ってはならない、こういうことをパリサイ人は律法ではよく知っているのに、福音は知らなかったのです。皆様が福音を知らなければ、どんなによく通っても、教会は宗教と全く一緒です。宗教の良い点は、律法です。しかし、福音ではありません。パリサイ人は、律法はすべて知っているのに、福音は知らなかったのです。パリサイ人は、生き方は徹底的に知っていました。ところが、霊的なことを知らなかったのです。クリスチャンが霊的なことを全く知らないで、肉体的なことだけをしばしばします。問題がきても分からないのです。自分に霊的な問題がきたのに、肉体的なことだけをしばしば見ては、解決しないのです。こういうことを、神様が私たちに知るようにされました。パリサイ人は、信仰的な面ではものすごく模範であったし、祝福を受けたのですが、誰を知らなかったのかというと来られるメシヤを知らなかったのです。本当に残念なことです。この人達が、聖書をそんなにたくさん暗記していたのにメシヤを知らなかったという事実です。神様が私と皆様が努力もしなかったのに、福音を知るようになさって、イエス・キリストを知るようにされました。このことは、奇跡の中の奇跡です。一度考えてみるように願います。あなたがたは、そのまま恵みで受けたので知らないのですが、イエス様の名前で救われたのは、奇跡の中の奇跡です。今回の新年メッセージを記憶なさることを望みます。きている祝福を知らなければなりません。皆様がいるすべての場所に神様のみわざが起きます。すべての地域教会は、契約を捕まえてくださるように望みます。私たちの地域教会から宣教師を派遣するほど、私たちは働きを起こすはずです。そうであるべきです。宣教師を派遣するほど、はじめからそのようにすべきです。
 
・私たちの教会が開拓を始めた時、私たちの教会の長老と在籍の何名が集まって、私に尋ねました。「開拓を始めたのに、老会に報告をして補助を受ければならないのでしょうか? 」それで私がそのような話をしないでと言いました。釜山合同側の老会に行ったところ、会員が60になるので、私たちの教会が1ケ月ずつ老会にいくらずつ納付するのに、一番びりから2番目でした。その受ける牧師と長老がいます。「私たちの教会の払ったのはこれですか?」と尋ねたら、この人が錯覚をして "申し訳ありません。東三第一教会は、開拓教会なので、受けようとしなかったのに、少しだけ入れました" そういうことではありません。"金をたくさん出せば、祝福を受けるではないでしょうか? 今、私たちの教会がびりから何番目なのですか? ちょっとたくさん出すようにしてください" 話がわからなくて、なんの話なのかと見つめるのでした。お金を多く出すようにさせてくださいと言ったところ、異常だと静かにみつめていました。理解がよくできないようでした。その次に見たら、私たちの教会が中間くらいにあがっていました。人々の信仰思想にしたがって。あの首都圏に行ったところ、「先生。私たちの地域に人が多くいなければならないので、バスがひとつなければならないのに、ワゴン車がどうだ」と話すので、内心笑いました。私が執事ならば、そのような話はしません。私達が集まり祈って、バス一つを買って子どもとおとなを乗せて教会に行こう。私ならば、そのようにするはずです。いっそなければ、歩いていこうというような信仰を持ってはなりません。はじめに開拓を始めたのに、35坪になりませんでした。 20 何坪しかありません。共有面積みな引くと、子どもが入っておしっこをして、大便をして、犬も入っておしっこをして、私たちの教会を管理する人がどれくらい大変でしょうか? 「先生。ここでおしっこをしてはなりません。門を閉じてもよいでしょうか」と言うので、「だめです。教会は門を閉じてはなりません。おしっこをして、大便をして、犬がおしっこをするなら、あかりをつけておきなさい。真暗だからおしっこがしやすいのだ。あかりをつけなさい」と言いました。電話を置いたのに、どれくらい強く回したのか、番号がみなへこんで、故障しました。それでもかまわないのです。教会はそのような所ではありません。信仰が質素なことと、けちなこととは違うのです。私たちは神様の民です。
 
・すべての地域教会が祝福を受けるように願います。私達が世界福音化できるように、インマヌエル本教会を助けようという信仰を持ちましょう。全世界にいる宣教師が祈ることを望みます。私達がこの地域で宣教師を派遣しよう。私達がこの地域で世界を宣教できる宣教師を派遣しよう。なぜでしょうか? 神様は創造主の神様です。年をとった方は、自分の生涯がどれくらい残っているか知っているでしょうか? 神様のために格好良く生きましょう。それが信仰です。それが創造主なる神様を信じる信仰です。すべてのいる所に神様の働き、地域教会です。記憶すべきです。当然の話です。皆様がする職業、学業、機能に神様の祝福が、機能宣教、私たちのチョ・ギゴン長老をはじめとして、機能宣教の担当者は、機能に祝福を受けましょう。あらゆる一般信者は、宣教に参加しましょう。子どもまで宣教に参加しましょう。私が結婚する前には、一つしたことがありました。それは、祈ることも知らないから、一週間に一回くらいは、トングの修正洞から48番バスに乗って、終点まで行くことでした。そこは箕察でした。乗ってじっとしていれば、無条件に終点まで行きます。その時は、そこが良かったのです。そこには、水も流れていて、静かで良いので、車に乗って降りるのでした。一週間に一度ずつ、本一冊を持って、本も見たければ見て、見たくなければ見ないで、最も安らかにまっすぐ行くのでした。その終わりまで行けば、太陽が沈むまでいました。そして、水も見て、いろいろ聞いて見て帰ってくるのでした。重要です。その時は、祈る方法を知らなかったゆえに、考えたのでした。次の聖日には何をせねばならないと考えました。考えただけでも、相当な答えがきたのです。結婚してからはしませんでした。妻がどこに行くのかとたびたび尋ねるので、説明するのが大変なので、止めました。そのような習慣が私にはあったのです。幼い時、私の母がお小遣をくれれば、使わなくて缶の中に集めて置いて、地面の下に置いておきました。何ゆえに集めたのかはよく分かりません。そのように集めていました。今、私ができるならば、缶を作って、これは十分の一献金、これは特別に祝福を受ける時、これは宣教献金、難しい人に手助けすること、こういうことをあらかじめ作るでしょう。他の人より十倍をもうければ、祝福されるようになっています。そのようにして、世界宣教をするのです。いくらでも可能です。私たちのあらゆる一般信者は、当然に一般信者宣教会に参加しなければなりません。それで行くか、送るかをすべきです。行くこともせず、送られることもないということは、話になりません。ところが、絶好のチャンスは、私の小さい思いに合わせて、全世界に人が行けるようにするのです。あなたがたがよく理解ができないようです。世界の現場に出てみなかったゆえに、本当に理解ができないのでしょう。反対に、私たちの韓国が、とても遅れて牛、馬が荷物を積んで通ていた時に、外国人が私たちの国にきて福音を伝えてくれました。今でもそのような国が多いのです。そのような国に福音を伝えるべきです。それよりもっと重要なことは、福音がない国の暗闇の勢力が、全世界に広がっているという事実です。こういうことを理解するならば、私たちはせざるを得ないでしょう。どれくらい大きい祝福を受けたのでしょうか? 私達が、福音を知ったという事実は、奇跡の中の奇跡です。今日、2番目にすべての宗教人、パリサイ人が知らなかったことを私達が知ったということは、驚くべき事実です。今日の本文を見ながら、最後に記憶せねばならないことは、これは単なることではなく、旧約聖書に預言されたことが成就した現場だということです。それで、今日、よく捕まえねばなりません。契約のみことばが成就しました。バプテスマのヨハネを通じて成就されたのですが、今日、私たちは3つのことを最後に記憶すべきです。契約のみことばが成就するこの祝福を私達が受けるようになりました。また、イエス・キリストの権威です。神様が多くの聖人を送られたのですが、イエス様はなぜ送られたのでしょうか? 暗闇の力に勝つためです。この権威が聖徒にも与えられています。すべての一般信者、すべての機能宣教、すべての地域教会で、神様の大きい祝福の門が開かれるようになることを希望します。この場には、仕事がうまくできない人もいるでしょう。また、この場には霊的問題が深刻な人もいるでしょう。戦うように願います。また、この場には、なにか知らない真の使命を果たさなければならないという人もいるでしょう。全部すべてが解決する祝福があることを希望します。
 
・釜山の駅に行けば、以前に姿はやくざのようだったのですが、実際にはやくざではない、青年がいました。私と一緒に釜山駅の後の柔道場で運動をしました。それで、この人が私を「お兄さん」と呼ぶのです。釜山駅で、時々見ました。挨拶をして、「君は何をしているのか」と尋ねたら、この人は、「私が何をすれば良いでしょうか? することがありません。」と言いました。それで、イエスを信じればすることが多いと言ったら、教会に通ってみたのにだめだったと言いました。「イエスを信じれば神様の子どもになるので、することが多い」と言うと、「本当に何をすれば良いのですか」としばしばたずねました。それで、「本当に何をしたいのか。ちょっとそこに座ってみなさい」と言って、「今、あそこにあるおでんの屋台で、お金が1ケ月にいくらがもうかると考えるか?」「よく分からない。」あそこにお金が何十万円が出てきているか考えてみなかったのです。「この町で最高に回る乞食ではないか。私がおでんの屋台を整えるようにお金を出してあげるから、収入を半分渡したら食べられるか? 私は宣教して、君は商売をするか」と言ったら、本当にですかと尋ねました。次の週に研究したら、この人の考えが変わったのです。「考えてみたら、お金がいくらももうからないので、私が一人でする。」と言いました。分かったと言ったのです。かまぼこの屋台がいまはものすごく大きいのです。その友人が柔道4段です。少しは、やくざのようだったのに、今は違います。今はお金を儲けるのです。私にお兄さんの言葉通り、お金になると言うことでした。イエスを信じれば良いのです。知らないからで、祝福の現場がぱっと広がっているのです。私達が神様を理解するということは、何にもない状態でもできます。
 
・ある日、大邱で牧師達300人集まった集会で、ある人がきて証しをしました。ここの牧師達も何名か参加したでしょう。証しを聞きながら、どれくらい笑ったか分かりません。この人が小学校を中退したのに、田舎で夢に見るほどの願いが、ジャージャー麺を思い切り食べることでした。どのようにすれば、ジャージャー麺を思い切り食べることができるのかと考えていて、ジャージャー麺の店に就職をすればよいのではないかと思いました。それでジャージャー麺の店を訪ねてお願いをしたのです。この家で働くことができるかと言って、配達をするようになったのでした。この人が配達を10年したら、年齢が20才を越えてしまいました。配達を10年したら、主人にやめなさいと言われたのでした。習ったことは小学校中退で、することもなくて、何をするのか? 道を行くときに力を失ってしまったそうです。行く途中で、はじめてある教会に入っていって、牧師だとは分からなかったのに、分かってみたら牧師だったそうです。なぜここに来たのかと尋ねられて、ジャージャー麺を配達する者だけれど、職場で首が飛んで、何をすれば良いのか分からないと言ったら、牧師がそれが何の問題かと言ったそうです。君がイエスを信じて、神様を信じた後に、力を得てジャージャー麺を配達せず、ジャージャー麺を直接作って売れと言われたのでした。お金があってこそ、売れるのですよと言ったら、祈りなさいと言われました。祈れば良いということで、この人がそこでイエスを信じることに決心して、その教会に出てきて、牧師の下でずっと祈ったのでした。祈ることがないから、毎日きて、「神様、ジャージャー麺」と言ったのでした。だから、牧師がきて「ジャージャー麺、ジャージャー麺と言わずに、本当に神様を私がどのように信じて、どのように仕えるのかを祈らなければ。毎日、ジャージャー麺、ジャージャー麺と言っていてはだめだ」と言われたのでした。この人が大邱で一番小さい店を得て、ジャージャー麺の店を祈りながらし始めました。これが、うわさになり始めたのでした。ところが、驚くべきことはジャージャー麺を作ったゆえにうわさが立ったのではなく、この人が「神様が私にこういう祝福を下さったんだなあ。すると、私はどのようにせねばならないのか」と奥さんも知らないうちに、誰にも知られないで、学校に行くことができなかった学生がいれば、行って手助けしたのです。何と、そのような人を隠れて20名手助けしました。なぜなら、自分のように習うことができなければだめだと考えたためでした。小学校に通って中退して、字も知らないのに、ジャージャー麺を配達していて、成功してジャージャー麺の店をしているのに、私のようにこういう人がいれば、手助けしたのです。それで隠れて探して、20名を手助けしたのですが、それが見つかったのです。後ほど20名を手助けするという事実を、大邱市長に知られるようになりました。小さいジャージャー麺売りの人がかわいそうな子ども達を誰にも知られないように支援したのでした。市長が職員をたくさん連れてきたのですが、来て驚いたのでした。テーブルが一個ある食堂でしかありませんでした。なぜ食堂がこのように小さいのかと言われたので、お金がないからですと言いました。それでも、テーブル一個だけで商売できるのかと聞かれたら、それでも大丈夫だと答えました。お客さんが自分を手助けするために、テーブルが一つしかないから、列をつくって食べて行くのだということでした。これで子ども達20名を助けたのでした。それとともに、一名一名に福音を伝えたのでした。どれくらい驚くべきことでしょうか? 奥さんが証しをしたのですが、ご主人に一回だけ肉を買って欲しいと言いました。20名の学生を育てるので、お金を勝手に使えないのです。一回は奥さんが肉の料理店に肉を食べに行こうと言ったら、行こうと言っておいて、その店の前できたり行ったりして、家に帰ろうと言ったそうです。奥さんが、とても腹を立てたら、行ったり来たりしながら臭いをたくさんかいだではないか、と言うのでした。それとともに言う話が、私達がここでみな食べて、どのように神様に仕えて人を助けるのかと言ったでした。奥さんは、ご主人に一回もごちそうになったことがないということでした。それで、この奥さんが、夫はものすごくけちな人だと思っていたのでした。無能な男、けちな男だと思っていたのに、この人が自分も知らないで、学生20名を育てたのでした。これがうわさになったのです。それで、この人についたニックネームが、ジャージャー麺博士でした。食卓一つしかない人が、熱心にジャージャー麺を売って、福音を伝えて他の人を手助けして、その上にテーブル一つで世界宣教をするのです。私たちの牧師達が300人集まった所で証しをしたのです。先生達が、私が作るジャージャー麺を一度召し上がって、全部、健康でおられるように願いますと言ったので、ジャージャー麺を食べたのですが、特別な味ではありませんでした。神様がその人の実力より、思いとその中心を祝福なさったのです。
 
・神様を理解する、これは普通の祝福ではありません。私たちは、神様の大きい恵みで、福音を知るようになって、救われました。どれくらい大きい恵みでしょうか? 悪魔の子どもではなく、神様の子どもです。パリサイ人、宗教人が悟ることもできない悟りを神様は私たちにくださいました。単純な契約ではなく、契約が成就する驚くべき祝福を私たちにくださったのです。パリサイ人を見ながら、むしろかわいそうだという気がします。メシヤを悟ることができなかったのです。福音を悟ることは、簡単なことではありません。福音を悟ることは、恵みで悟ることであって、知識で悟ることではないのです。どんなに経験しても、悟れないことが福音なのに、神様の恵みで悟るのです。皆様に率直に告白をするのは、私がこの福音を悟った後に、神様は毎日のように一歩ずつ一歩ずつ答えを下さいました。それを体験しました。だから、福音を話さざるをえないのです。これから、皆様の未来と私たちの教会は、本当に心配する必要がありません。福音は、そのようなものではありません。神様の子どもです。罪と呪いと悪魔の力から、完全に解放されたのです。神様の子どもです。皆様がよく知らないのです。十何歳しかならなかった学生が、人生だと話せば、人生を知っているでしょうか? 米国に行ったところ、小さい子どもが出てきて、私を見て手をあげながら、主は生ける神の御子キリストです。キリストはすべての問題の解決者ですと言いました。それで、あ、この子は、ビデオをたくさん見たんだなあ。説教を多く聞いたんだな。ところで、すべての問題? あの子どもが、すべての問題を知っているのだろうかと内心考えました。私たちの学生達が、ここに座っているということも奇跡です。この子ども達は、人生経験がありません。ところが、福音が良いことだけは知っていたということ自体が、嘘でなければ奇跡です。本当に奇跡です。30年間伝道しながら、奇跡です。皆様、福音を理解するということは、終わりです。それで、あなたがたは、今年はそのまま座り込んでいるのではなく、暗闇の勢力に向かって挑戦しましょう。神様は創造主なる神様です。皆様がいるすべての所で、神様の証拠を見せましょう。地域教会です。皆様の学業、機能、職業、事業に神様の証拠を見せましょう。すべての一般信者は、力を合わせて世界宣教の門をあけるのです。
 
・ある長老が、私といっしょに宣教地域に行って来たら、「先生。本当に私がお金を儲けなければなりません。」と言いました。「そうです。お金ゆえにではなく、本当に福音ゆえにお金をもうけてください」と言いました。この方が、あのイルサン側に最高級の浴場を作ったのですが、私は単に作ったと思っていました。最近に分かったら、この人は、普通の人ではないということが分かりました。この人は、お金ゆえに作ったのではなく、教派を超越してすべての牧師は、私たちの浴場で無条件に食べて休んで欲しいと言いました。もうひとつ、そこから出てくるあらゆる収入は、私に持ってこず、あらゆる収入は牧師と宣教師に捧げると言いました。この方が、なぜそのような決定をしたのかというと、世界宣教をしなければならないからです。神様が祝福なさるのです。証しをしたのですが、じっとしていても途方もない世界の門が開いて、神様が経済祝福の門を開けてくださっているということです。私たちの小さい中心が、どれくらい重要でしょうか?
 
・私が知っているある方は、その時、釜山に住んでいたのですが、小さい会社に通った方でした。牧師が土曜日に来る前に発表して、中・高等部の部長をしなさいと言われたのでした。その話を聞いて、夜通し寝られなかったということです。寝られないでとても感謝したのでした。自分のような人間が、どのように中高等部の部長をするのかと、とても感謝して、夜通し寝られなくて祈ったのでした。それで、祈る中にどんな答えが来たかというと、私は、本当に福音のために生きねばならないという考えになったのでした。それで、職場を放棄して、牧師と相談して事業を始めたのですが、神様が祝福なさったのでした。職場が変わったゆえに祝福なさったのではなくて、その人の中心です。その人を見ながら、あなたは神様の祝福を受けると言いました。聖日学校の中高等部の部長になったのを、1ケ月間知らずにいる人々も多いのに、その話を聞いて、夜に寝られなかったのです。私が釜山中央教会にいた時、ある執事がいました。この人が、ソウル大の英文科を出たのでした。この人が、ある日説教を聞いて祈っていて、私に言う話が、「伝道師先生。先生が悪いということではありません。私が本当に説教を聞いてみたら、私も伝道をして、宣教をすべきだと思います。」と言いました。自分の奥さんも英語の先生で、自分も英語の先生です。どのようにすれば良いのかと言ったら、夫人が儲けてご飯を食べて、自分は宣教のために事業をするということでした。何の事業をするかと言ったら、食堂をすると言いました。食堂は誰もがするのではないと言ったら、その方が言う話が、自分の奥さんの家系が、食堂で成功した家系だから、食堂のノウハウがあるということでした。それで、チャンソンド、カンポクドの裏道にとても高級な町があるのですが、そこに高級食堂を立てました。そこでこの人が、食堂事業を始めたら、神様がそこに祝福を注いでくださったのです。それで教会を建てたのですが、大きい祝福を与えられました。私達が本当に決心するならば、神様は私たちに奇跡のように救いを下さって、一般知識人が知らないものすごい答えを受けるようにさせてくださり、今、神様のみことばが私と皆様に成就するという事実は、驚くべき事実です。私達が福音を理解するということは、終わったことです。皆様そのまま愚かに霊的に座り込んでいず、かと言って、私達が何か大きな事をするのでもなく、皆様が本当に挑戦でき、神様の前に小さいけれど実際に献身できることを希望します。
 
・新年集会を終えて堂会員達と話をしたら、「先生が説教をなさったら、信徒が一般信者宣教会に約30%参加をした」ということです。説教をもう一度以上すべきだと考えました。それが問題ではありません。あなたがたが、本当にこれからは、神様の祝福を味わうように望みます。終わったのです。絶対にだまされてはなりません。私は、福音を受けたその瞬間から、問題になる必要がないということを悟りました。3つのことを記憶すればよいのです。私が行く現場で人を生かすはずです。私が現場で祈って私を生かされるはずです。私を生かしてこそ、他の人を生かすことができます。私が行くすべての現場で、弱いために祈って私を生かすはずです。それが最初に悟ったことです。新年集会の時、話しました。実際に、一生、記憶せねばならないことです。私がしている仕事が何かは知りませんが、神様が与えられたタラント、これを持って世界の福音化をするはずです。違ったことでするのではなく、私の持っていることでするのです。そして、これからは、私達が行くことができなくても、全世界に向かって宣教師を助けて祈らねばならない。これが私たちの新年メッセージだけでなく、一生、悟らねばならない祝福です。イスラエルの人々が、メシヤについて論争している途中で滅びたのですが、私たちは奇跡のようにメシヤに会ったのです。皆様は救われた神様の子どもです。本当に勝利することを主の名前で祝福します。最後に、一言でお願いします。むずかしいと考える人がいるためです。そうではありません。私が伝道運動を始めながら、率直に韓国の中にある韓国語と、英語で出ている2種類の本をみな集めて研究しました。研究する時、動機でしたのではありません。本当に福音を伝えるためにしました。全部違う研究を調べたのに、簡単な答が出てきたのです。何の答が出てきたのか?というと、聖書的ではないということです。それで、私は聖書で捜し出さねばならないと、それをしたのに、みわざが起きました。これから起きることは、ものすごいのです。あなたがたが、新しい希望と挑戦を持って、福音のなかで勝利することを主の名前でお祈りします。年をとった方達は、より大きい祝福を受けるようにイエスの御名でお祈りします。
 
 (祈り)
 神様に感謝申し上げます。私たちは神様の子どもです。これから行く所ごとに神様の祝福が現れるようにしてください。私たちは世界福音化せねばならない人々なので、機能と事業と学業と、私たちの産業を通じて神様のみわざが起きるようにしてください。私たちの教会が、これから世界宣教の門を開かれる時代的な祝福を受ける教会になるようにさせてくださって、衛星で礼拝するすべての教会とインターネットでみことばを受ける世界の使命者に神様の祝福が臨むようにしてください。私たちの主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン
 
(The end)
 
 


聖日A部: 主は私の羊飼い
(詩23:1-6)
 
 
・ミョンドン、カンナン、カンサンという地域に、人がたくさん集まっている地域があります。行ってみると残念なことは‘はじまりは弱いが、後の日には大きくなるだろう' あるいは‘愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。' こういう聖書箇所がついている食堂があります。信徒だということです。こういうのを見れば、ほとんどすべてがうまくできない位置にあります。時々行く食堂が、とても良くて位置も良い所を探して行ってみると未信者がたくさん占めています。その人々は滅びる人々なのに、そのようなことを見る時に、私が何の考えをするかというと、牧師はお金を好んではならないけれど、経済をよく知らなければならないということです。この牧師達が説明をしてあげないので、信徒がそのようになるのです。江西地域に一昨日食事をしようと行ってみました。座る席がないほどでした。外で人々が待っていました。だいたい尋ねたら、そのような人々が一日に1千万円を儲けるらしいのです。一ケ月ならば 3億円を儲けると言うことができます。私がそれを見て、世界宣教をしようとするなら、クリスチャンが目が開かれなければ、こういうことでは世界宣教をいつするのでしょうか。一ケ月に月給15万円を儲けて世界宣教をするのでしょうか?本当に残念です。そのような考えを多くしてみました。食堂の話をなぜするのでしょうか? その忙しいので、「ご飯、キムチ、スープを持ってこい」とここあそこで叫んでいます。「何かを持ってこい。味噌を持ってこい。キムチを持ってこい。」人があまりに多くて、気が楽ではありません。仕事をする人は多いのに、あちこち行ったりきたりします。その時、人の顔を見れば、この人が従業員なのか主人なのかを分かることができます。目につきます。従業員だとか、その家の主人の息子だとかいう人々は、すでにどこが違うかというと、目の色が違います。瞬発力があって、お客さんに困まったことが無いようにする勘が良いのです。しかし、一日の給与だけをもらう従業員は、あまりに疲れて忙しいから、すでに目を見ると‘面倒臭い' というような表情です。全く同じように仕事をするのに違うのです。「あの人は従業員だ。あの人は主人だ。」と分かることができるます。なにを話すのでしょうか? 絶対に持っている者と、持っていない者は違うのです。
 
・この有名な詩篇 23篇を見ながら、この部分をよく理解すべきです。一度は、安らかに休まねばならないと思って、運動服を着て一番気楽なスリッパをはいて、光州にある食堂にジャージャー麺を食べたいと中華料理店に入って行きました。外が騒々しくて、部屋に入っていくと言ったら、従業員が私にホールで食べなさいと言います。簡単に話せば、ジャージャー麺を食べるのに、なんで部屋に入るのかということです。私は部屋に入って行きたいと言ったら、ホールで食べなさいと言います。それで部屋がないのかと尋ねたら、あるないという話はしなくて、このホールで食べなさいと言いました。そのようにしていたら、主人が来て、なぜそうなのかと言ったので、部屋に入って食べたいと言ったら、この人がここで食べなさいと言うと言いました。主人が私の顔を見て、中へ入ってくださいと言いました。それで、私が見る目があるんだなと思いました。その時、持っている者と持っていない者の差です。部屋に入っていってジャージャー麺をひとつ食べて "糖水肉あるか? "と尋ねたら、あると言いました。糖水肉ひとつ持って来なさいと言ったところ、高いと言いました。それでいくらかと聞いた、その時一万ウォンか、一万五千ウォンだと言いました。持って来なさいと言いました。それで、持って出てきながら、人はかくも重要だなと思いました。私が洋服を着て入っていけば、その人は、私に対してそのようにするでしょうか? 私が気楽にしようと、運動服を来て、スリッパを履いたら、この人が私をそのように見たようでした。糖水肉と言ったところ、高いと言ったのですが、主人は人がわかります。
 
・神様を知っている者と知らない者は違います。どのように全く同じことがあるのでしょうか? 私は士官学校を卒業して、すこし司法研修院で勉強して、あの検事や判事として行く方達の研修院、私はこういう所に行って本当に講義をしてみたいのです。あの人々が知って行くのでしょうか? 無視するのではなくて、どのように神様を知らず、聖書を知らず、福音を知らずに霊的問題だらけの軍人を治めることができるのでしょうか? だから事故を防止できないのです。この人達が霊的問題がわからないのに、おかしな突発事故がたくさん生じるのを知らなくて、どのようにその人々を指導することができるのでしょうか? これが神様を知る者と、知らない者の天地の差です。神様を本当に理解すると違います。そのうちでも福音を本当に知っている者、よく知らない者の差があります。その中で、本当に祈りの答えを受けている人、受けていない人は、よく分かります。今日、ダビデの詩は、あの有名な詩です。詩篇 150篇の詩の中で一番たくさん使われる詩です。皆様は、人の家に行ったり、重要な場所に行って壁にかかっている詩を見たことがあるでしょう。これが有名な詩です。この詩は歌もあって、ほとんどのクリスチャンの家に最も愛用にされている有名なダビデの詩です。‘主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。'ダビデの詩です。 今日皆様が一年を始めがら、本当に皆様が信仰生活をするなかで、このように貴重な時間を裂いて来たのに、本当に考えてみるべきです。ダビデが今、何を話しているのか? これが何の詩なのか? 内容がとても良いから書いておいたのです。私は知っています。皆様に重要な部分を話すことができます。
 
・私は、伝道を30年間しながら、困難にたくさん会ったのですが、ある方は "すごいですねえ。その困難をどのようにみな勝ち抜いたのですか”と言う方達もいます。困難が多かったのです。実際に、本当に手助けする人がいませんでした。今はそうではありませんが、とても難しかったのです。‘これはだめだ'と考えたことが多くありました。そして‘私が伝道師ができるのか?' こういう考えを本当に多くしました。‘私が牧師ができるのか?' こういう考えをとても多くしたのです。本当に難しかったのです。ところが、伝道する中で困難がたくさんきたのに、ある時期、キリスト教の月刊誌、日刊紙に私を批判する文が溢れ出る時もありました。本当にそのような時、難しかったのです。ところが、こういう部分をどのように簡単に勝ち抜いたのでしょうか? とても簡単な方法があります。それが何かというと、神様が驚くべきことに、私に毎日毎日答えを下さったのでした。私の人格が、そうでなければ耐えることができないのです。神様は、毎月答えを下さいました。時間が過ぎれば過ぎるほど、重要な答えを下さったのです。それを持って勝ち抜くことができました。今日、ダビデに何があるかすぐ分かることができます。持っている者と持たない者は違うのです。
 
・今回、牧師を集めてこういう講義をしました。持っている者と持たない者は違います。お金も持っているオーナーと持たないオーナーは違います。お金を持っていないオーナーは、どんな人を探すかというと、能力がある人を探します。そうしてこそ、お金を儲けることができるからです。しかし、お金を本当に持ったオーナーは、そうではありません。よく守る人を探します。人が違うのです。福音を本当に持っている人は、どんな人を探すかというと、福音を進行して行く、持続できる人を探します。しかし、福音を持っていない人は違います。この話、あの話、あれこれ何でもします。なぜでしょうか? 持っていないから、どっちみちできないからです。これしてもだめで、あれしてもだめで、どっちみち全く同じなので、この人を使うか、あの人を使うかまったく同じです。本当に持っている人は違います。お金を本当に持っている人と、持っていない人は、戸締まりから違います。そうではないでしょうか? 率直な話で、ものすごく成功した人々、重要な方達は、自分自身が重要です。他の人がとても重要だと言う人々は違います。車に乗る時にも、用心して乗って、ある場合はボディーガードを連れて行きます。なぜなら重要なのを知っているから、そうなのです。しかし、今、橋の下に住みながら、一日一日やっと生きていて、紙を拾ってリヤカーに入れて売って回る人々を見ましょう。その人々は用心することもしません。ボディガードが必要でしょうか? 車が来ても、そのまま過ぎます。自分の人生を自分がよく知っているので、自分はとてもみじめな者だと思っているので、車が来てもそのまま過ぎます。全く同じ人なのに、そのように差が出ます。持っている者と持たない者の差が出るのです。神様を知る者と知らない者。とても差が出ます。神様を知らない人は人か? それは人ではありません。正しい人になることができません。最も重要なことを知らないのに、だから思い切り理解するのが衣食住です。それしか知りません。よく食べて服も不自由なくて良い生活をしていて、死ぬのです。それしか知りません。だから、問題がくるのです。霊的問題が来たら、勝つことができないのです。
 
・ダビデは違いました。なにかがありました。この祝福を皆様が受けるようになることを、イエス様のお名前でお祈りします。なにかありました。ここに自信があるべきです。今日から、この部分を捜し出さなければなりません。ダビデが単なる詩を作ったのではありません。ダビデに対して少し研究してみるならば、詩篇78:70-72節を見れば、ダビデが羊飼いの時期に重要な祝福を受けました。皆様この部分が重要です。皆様が何でもないことのように見える部分、この部分にダビデはすでに目を持っていたのです。その時間に祈ってダビデが何をしたかというと、賛美をしたのですが、専門的にしました。楽器を扱ったのです。専門的に扱いました。それを見ましょう。多くの副教役者や多くの教役者が教会の働きをしながら‘これは何だ'というような時があります。そうではありません。あなたがたが、一日一日、礼拝をささげて生活するのが‘これが何だ'というような時があります。そうではありません。ダビデが羊飼いであった時、最も普通に見え、何でもないことのように見えるその部分に最も大きい恵みを受けたのです。それが 78:70-72節です。どの部分で差が出るかというと、ダビデは何かがありました。ダビデが死ぬ時、息子を見て話しました。あれこれ遺言するなかで "息子よ。力を尽くして主を知りなさい。"もしダビデを呼んで証しをさせるならば、やはりそれを話すでしょう。何かがあります。何かを持っていたのです。これは、単なる詩ではありません。なにかある詩です。ダビデがその時にどれくらい祈って賛美したのかを知ることができて、他の人から無視される年齢で、ダビデがとても無名な時期で起きた事がIサムエル17:47です。その時、ゴリヤテを倒したのです。ゴリヤテを倒す時、ダビデに何かがありました。単に行ったのではありません。ゴリヤテの前に行って言った言葉が、「お前は刀と剣と槍を持ってきたが、私はお前に主の御名を持ってきた。命が刀にはなく、主の御手にあることを証しする。」ダビデが言った言葉です。王の前に行った時にも、「お前がゴリヤテと戦うことができるか?」という言葉に、ダビデが 述べた言葉を見ましょう。持っている者は、言葉がすでに違います。「私が父の家で羊を飼っていた時、羊一匹もなくしませんでした。突然に獅子が羊の群に入った時にも、獅子と戦って勝ったのです。主は、私を獅子の口と爪から救い出してくださいました。まして、神様を侮辱するあの割礼を受けていない者の手から私を救い出してくださると信じます。」王の前で言った言葉です。これが何でしょうか? 単純な話ではなくて、何かがあるでしょう? なにかあります。それが重要な信仰です。今年にもこれを持って出発すべきです。皆様が人であるゆえに、必ず持っていねばならない部分です。動物ならば、持つ必要がありません。皆様が羊や牛ならば、持つ必要がありません。確かに持つべきです。兄達の前でも話をしました。「どうして危険な所にお前がきたのか?」その時、ダビデが何と話したでしょうか。「私がどうして理由がないでしょうか? 」最も重要な時、ダビデがいよいよ王になりました。ダビデが王になった時、詩篇5,8篇を見れば、一般の人々が価値なしと考える部分です。明け方祈りに行きました。王が明け方祈りに行こうとすれば、ものすごく不便です。多くの警護がつかなければならなくて、大騷ぎになります。以前に、ヨクサンドン教会で聖日に大騷ぎが起こったのを知っているでしょう? 大統領が礼拝をささげようと来たので、全部ガードマンが約2時間前にきて調べて、引出しまでみなひっくり返して、礼拝をささげることができなかったということでしょう? I歴代29:10-14節を見れば、ダビデが王になって、主の神殿を建てて礼拝して賛美することが願いだと言いました。ダビデの願いです。なにかがあります。
 
・今日の本文は、詩篇23篇で、ダビデが相当な危機に会った時の本文です。今日、あなたがたがこの主題を見ながら、あまりにもよく知っている詩篇23篇をよく見て、どんな主題を悟らねばならなくて、どんな祝福を受けねばならないのでしょうか? ダビデは詩を作ったというより、なにかが違うのです。皆様の人生を生きていく道に、なにかを持っているべきです。これが何でしょうか? 神様を本当に知る、真の知識を持っているべきです。本当にこの力があるべきです。危機の時です。ものすごい危機に会うと、祈りも出てきません。字を使って祈ります。それもあまり急でない時にする祈りです。非常に急ならば、祈りも出てきません。以前、私も話をしたのですが、危機に何度か会ったのですが、危機の中で一番大きい危機は死です。死という危機に何度か会いました。体験をしてみたことがない人は分からないでしょう。説明することも大変です。私の母さんといっしょに火の中を4時間もさ迷いました。その時、私がとても幼かったら良かったのですが、歩きまわって、何かを分別できる年齢でした。トラックをおいて、火災に会った人を乗せて行ったことを思い出します。それくらいの年齢でした。その時、火の中で4時間もさ迷いました。アメリカ軍のガソリンに火がついて、町を覆ったのです。道を行く人がみな死んで、釜山であった大火災の事件です。その時は、全部アバラ屋であったので、上から火が降ってくるのにどうするのでしょうか? その時、私達が住んでいた町が、佐川洞でした。佐川洞のそばの米軍で起きてひっくり返ったのです。私の家をはじめとして、すべての家に上から火が降ってきました。その時は道がみな狭かったのです。道も狭かったし、あちらの家と私の家の屋根がついている状況でした。その下を這ったのです。その時、どんなに幼かったとしても、何の考えをしたかというと‘死ぬ'という気がしたのです。それで、私も知らない間に私の母を見て "死ぬ"と言いました。その時、その言葉しか思い出せません。 "がまんしなさい" どのようにがまんするのでしょうか? "お母さん。死ぬ"と言ったら、がまんしなさい。その時、いっしょに這いました。何の考えも起こりません。‘死ぬ' という考えしか起きませんでした。そのような危機に会ったのです。何度か会いました。暴風にも一度会ったし、不思議に火災も何度か会いましたし、人が危機が来たらどのようになるのか? 冗談でも祈りができるでしょうか?
 
・ダビデが危機の時に書いた詩です。ダビデが死にそうな危機の時に書いた詩です。どれくらいダビデが重要な信仰を持っていたのでしょうか? 私達が持っているべき祝福です。1節に何となっているでしょうか?‘主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。'すごいものです。‘主は私の神様だ’と言うべきなのに‘主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。’この話は、私と皆様はよく分からないのですが、羊飼いはよくわかる話です。羊飼いは、羊一匹のために命をかけます。羊が百匹の名前を皆知っています。あの羊はどこが好きか、なにを好きなのか、皆知っています。こういう体験を皆言っています。ダビデは、そのようなことを持っていました。主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。今日、賛美したでしょう? それとともに、何と話したのでしょうか? ‘主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。’この話はなんの話でしょうか? 相当な平安の表現です。‘主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。’これは、ものすごく平安の表現です。危機に会ったダビデが、どうして、こういうことができるのでしょうか? 私たちは、この信仰を持って出発すべきです。また実際に、神様がこういう祝福を下さいました。こう言いました。‘主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。’これは深い水準の信仰を話します。神様がたましいを生き返らせ、義の道に私を導かれるということです。特に4節を見れば、‘たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。’全く同じことです。ツエは道を案内して、むちは殴るのです。普通、殴る時、棒を使います。しかし、道を案内するのはツエです。‘あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。' そのように表現をしました。神様の答えてくださる方法、こういうことをすでに体験していたのです。そして、どれくらい確固たるビジョンを持っていたでしょうか5節を見ると‘私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。'それで、彼の水準がある信仰の希望を見ましょう。‘まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。'ダビデはこういうことを話したことがあります。‘親が私を捨てても、主は私を捨てられない' これが生きた信仰です。本当にインマヌエルの私たちの聖徒達が、どんな祝福を受けねばならないのでしょうか? 真の生きた信仰です。皆様が信仰生活する重要な奥義を持っているべきです。何かあるべきです。神様を知っている者と、知らない者とが同じでしょうか? 神様が本当に生きておられるという奥義を持った者と、持っていない者が同じでしょうか? すでに歴史を勉強することが 違います。どのようにして、神様が福音を伝える米国を祝福して、福音を防ぐ共産主義を滅ぼされたのでしょうか? 同じでしょうか? 全く同じではありません。神様が一時、福音運動をしたヨーロッパをどのように祝福なさったのでしょうか? 同じではありません。このダビデの信仰告白を見ましょう。
 
・さて、すると今日、私とあなたがたが、このみことばを見ながら、私たちは何を持たねばならなくて、何を持てば良いでしょうか? 最初です。本当に福音を理解すればよいのです。すると違います。皆様が本当に福音を理解する瞬間、本当に福音を持つ瞬間、みな終わります。この話がいまだによく分からないようです。今、私たちの多くの教役者が心配しています。心配する必要はありません。本当の福音を持っているということは、みな終わったのです。待っているように願います。明日、私たちの大学生、中・高等学生達の集会をしにいくのですが、経験がない学生達に話しに行きます。あなたがたは経験があるけれど、経験がない学生達に話しにいくのに、なんの話をしてこの契約を捕まえるようにさせるのか、祈っているところです。皆様が本当に福音を理解したということは、終わったのです。これが今、理解ができないのです。私は神様の恵みで、30年間伝道しました。そして、どの程度か?というと、受ける祝福まで皆知っています。伝道しながら、あまりにも驚くべき恵みです。‘主は生ける神の御子キリストです。福音はすべての問題の解決' これが実際に理解がうまくできないのです。これが理解できなければなりません。皆様は、神様の子どもになる瞬間、すべての運命から抜け出すようになっています。これから理解できなければなりません。これを持って、もし事業や政治をして、契約を捕まえれば勝利するようになるはずなのに、ほとんどすべてがしないのです。残念です。ダビデはどこで差が出るのでしょうか? この契約を捕まえたのです。サウル王は、神様を信じながらも、実際にはこれを捕まえなかったのです。ところが、ダビデはこれを捕まえて勝利するようになりました。今日この席にいらっしゃったあなたがたは、一人ももれなく勝利なさることを願います。人にもだまされるのですから、1年間、神様のみことばを聞いて、一度だまされてみるように願います。驚くべき証拠が起きるようになるはずです。皆様、人の話も聞くではないでしょうか? 間違った話も聞くのです。驚くべきことです。それで私が一番残念なことがそれです。福音を受ける瞬間、本当に福音ならば終わったのです。私の家に生まれた瞬間、ずっと生まれても柳氏です。奴隷で生まれれば、ずっと生まれても奴隷です。神様の子どもになる瞬間、身分が変わってしまうのです。これを認める信仰人になってこそ、信仰人は勝利するようになるのです。この部分を一番に理解できない方達が、信仰生活を長くした人達です。私が一番惜しむ部分がこの部分です。これを牧師達に、長老達にどんなに説明しても、実際にはわかることができないのです。簡単に終わることなのに、ということです。皆様が時間が過ぎれば、私たちの教会がどのようになって、皆様がどのようになるのか分かるようになるはずです。私がこの話を15年前に釜山インマヌエル教会を始める時からした言葉です。終わりまで心の中で拒否して、終わりまで見ながらゆっくりついてくるのです。内心では、終わりまで拒否しました。それを理解します。口では拒否しないのです。主は私の羊飼い、どれくらい恵みになるでしょうか? 拒否する理由がありません。しかし、実際には拒否するのです。本当に残念なことです。何かがあるべきです。何がなければならないのでしょうか? 本当の福音の奥義です。皆様の事業、皆様の経済、皆様の仕事、皆様がするあらゆる事にみわざが起きるようになるはずです。もしこの契約を持っているダビデみたいな人が政界に入っていくと、政界が生かされるようになるはずです。もしこの契約を持った人が事業体に入っていけば、事業にみわざが起きるようになるはずです。この契約を持っている人が牧会現場に行けば、牧会が生かされるようになるはずです。宣教現場が生かされるようになるはずです。間違いありません。この祝福を受けるように願います。‘主は私の羊飼い。私は乏しいことはありません' 本当にです。この部分を信じないと言う話が、どれくらい残念なことか分かりません。すると皆様は、このように話すはずです。"先生。教会で説教を聞いて、現場に行ってみると、あまりに違います" そうでしょう。皆様が祈りの答えを一度だけ受ければ、同じになります。同じになるようになっています。同じになる日、ずっとみわざが起きるのです。
 
・さて、私たちは何を持って一年を出発せねばならないのでしょうか? この福音を持っているならば、本当に祈りの実際で、少しだけ祈ればよいのです。皆様、今からこの契約を必ず捕まえてくださることを希望します。皆様がこの契約を捕まえて行けば、まちがいなくできます。小さい祈りの実際を知っていれば、勝利するしかない門が開かれるようになります。これを持っているべきです。皆様がもし福音を持ったとするなら、祈らなくても祝福を受けるはずですが、福音を持ったあなたがたが小さい祈りをすれば、神様の働きは始まるようになっています。それで、今年には、一人ももれなく定刻の祈りを回復しましょう。時間を定めてなくても良いのです。あなたがたが、最も重要な時間に一日に何回かずつ祈ってみましょう。驚くべき体験がくるようになるはずです。これを全部回復するのです。何かを持って出発すべきです。その次に、ダビデは、何を持って出発したのでしょうか? なにかがありました。何を持っていたのでしょうか? 霊的な祝福を知っていたのです。ダビデは肉体的な祝福以前に、霊的祝福をまず受けねばならないという事実を知っていたのです。‘愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。'これは順序を話します。これは同じようなものではありません。あなたのたましいに幸いを得ているように、こういう霊的祝福をダビデが知っていたのです。何を持って私たちは出発せねばならないのでしょうか? 実際に、祈りの答えを受けることをずっと体験すれば、みわざが起きるようになっています。インマヌエルのあらゆる聖徒達、今衛星で礼拝するあらゆる教会が、何かを持って出発するように願います。何を言うのでしょうか? 本当に福音と祈りと霊的な祝福の奥義、これを持って出発しましょう。私は皆様に約束します。頭をたくさん使う人もいますしが、皆様の中にはあまりにも、また複雑な仕事場にいる人もいるでしょう。これを少しだけ適用するならば、証拠がくるようになっています。驚くべき証しがくるようになっています。本当に神様の祝福を受けるように願います。
 
・釜山で私が知っている執事一人が、いまは牧師になったと思います。この人が釜山で、有名な商売をしたのです。ところがこの方が、何をしたかというと、仕事をしているお嬢さんが4名いたので、この4名に服を売って店員をして、門を閉めれたら、遊びに行って夜通し回って遊ぶのでした。この頃のお嬢さんは、そうです。そして、出て朝に職場にきて、商売をするのに、商売が正しくできるでしょうか? うとうとするのでした。それでこの人が、祈ったのです。‘神様、今、あのお嬢さん4名が私の家に働き手として送ってくださったのに、神様があの人々に証拠を与えて下さい。あの人々が福音がわかるように、証拠を与えてください。'と祈って、どのように祈るかというと、とても簡単にすこし朝に1時間早く、まず行って、門を開けて祈ったのでした。その次に、合間に、昼に、自分の顧客の中で神様のみことばを必要な人々といっしょに少しみことばを交わして、夕方に終えてそれをしたのに、この四名がみな完全に福音を持った人々になりました。後ほどその店に、その時間に合せて礼拝をささげようと来る人々もいました。その人を見ながら、本当にたいしたものだと感じたのです。釜山インマヌエル教会の初期の時、証し人として一度お迎えしました。たぶん思い出すはずです。私は講壇に他の人を立てたことがありません。その人が一度だけ立ちました。その人が、現場で伝道して働きが起きたことを証ししたのです。少しだけ祈っても良いのです。皆様が福音を持ったことが確かならば、神様はまちがいなく答えの門をあけてくださるのですが、今、私が幼い時から信仰生活をしながら、教会をずーっと経た中で、この奥義を持った人を見ることが出来なかったのです。ものすごく簡単なのです。何かを持っていねばならないのに、これを見られないのです。それであまりにもやさしいことなのに、韓国教会と世界教会は崩れています。難しいことを発見したのではありません。「神様を信じないな。福音がないな。そして実際に祈らないな。」祈らないということは、実際に霊的な祝福を知らないということなのですが、それでクリスチャンはとても崩れて困難にあうのです。あまりにも簡単なのです。‘主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。'どれくらい恵みが深い箇所でしょうか?
 
・ある日、年の初めに率直な話で、私は祈ることを知りませんでした。祈りがどれくらい重要かを知らなかったのです。それで断食をしに行きました。ご飯を食べずに部屋をひとつもらったのですが、そこで祈りの課題を書いてそばに置いておいて寝ました。どれくらいお腹が空いたでしょうか、祈りを知らないから。率直に、伝道師の初期の時なのに、祈りが何か知らなかったのです。それで断食を三日間しながら、横になっていたのですが、それでも、その後に答えが来ました。それで私が何にもしなくて、食べずに横になっているのにも、みわざが起きたのですよ。私が神様の前に祈ろうとしたからです。私がこの話を皆様になぜしているか分かるでしょうか? 2003年度を始めながら、少しだけ一度してみましょう。皆様は神様の人であることは間違いありません。少しだけ祈ってみましょう。インマヌエル教会、東三第一教会を初めて始めた時、信徒の間でチームを組んで、断食しながら祈りました。ところが、皆様がご存知でしょう? 3年がすぎて、影島で私たちの教会が一番、復興してしまいました。神様が一番に祝福なさったのです。私は遅く悟ったのです。ある日、私が神様の前に何の祈りをしたのかというと‘神様、私が世界福音化をせねばならなくて、この方達のために私がすることはひとつしかありません。これからインマヌエルと世界福音化をする人々、この方達のために、本当に証拠を見せることはひとつしかありません。私が本当に高慢な言葉ですが、牧師の中で一番に祈りを多くする牧師になるようにさせてください' そのように祈りました。だから、それをどのようにすればいいのか研究したのです。それで、定刻の祈りをせざるを得なくて、通いながら常時で祈りました。ところが、神様が行ってみるならば答えを下さいました。皆様が、今、座ったこの席は私達は限りがありますが、行ってみるならば神様は働かれます。‘主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。'皆様は、なんにも恐れる必要がありません。2003年度、皆様の周囲のすべての恐れが全部逃げるようになることを望みます。‘たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。'間違いありません。この体験をしましょうということです。簡単な体験です。神様が私とともにいらっしゃるということです。未信者が聞けばあざ笑うか知りませんが、知る人はその人をあざ笑います。神様も知らない人が、どのように重要なことをするのでしょうか? 私たちのいのちを治める神様を知らない人が、どのように政治をするのでしょうか? 私の死ぬ日を治める神様を知らない人が、どのように教授をするのでしょうか? 私のいのちを治めて、その人のいのちを治める神様を知らない人が、国家の重要なことをできるでしょうか? そうではないでしょうか? それならば、福音が何かを正しく理解して、少しだけ祈りを体験すれば、何も不足することはありません。‘主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。'この告白をダビデは奥義として持っていました。これが危機である時、出てきたのです。皆様のすべての心配を今日みな出してしまうように願います。挑戦するように願います。今日、この5節を見ましょう。‘私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。'となっています。いまは私が祈梼院に行く時間がありません。そのようにしなくても良いのです。なぜなら、時間時間、合間に祈りをします。どれくらい簡単にするか、今日、飛行機に乗ってきたのですが、飛行機のなかでメッセージを一つ書いて祈りました。終わったら堂会をするつもりです。堂会をして行けば、車の中でまた祈るはずです。どれくらい簡単でしょうか? こういう祝福の信仰生活を、宿舎に行けばすることをして、祈りをするはずです。どれくらい驚くべきことでしょうか? 行ってみるならば祈りの答えがあります。‘主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。' 危機で死が来ても、簡単に話せばダビデは、まばたきひとつしないのです。‘あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。'これは簡単な信仰ではありません。何かありました。皆様、何かを持つ大きい祝福を今日受けるようになることを主の御名でお祈りします。すると、マタイの福音書 7章にあるように‘求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。'これだけなせば良いのです。求めなさいというのは、何の話でしょうか? 祈りなさいということです。捜しなさいというのは、さがせということです。まちがいなく来ます。すると行動しなさい。たたきなさい開くはずです。世界福音化のためにです。
 
・話を終えます。いくつか、皆様が本当に祝福を受けてみたければ、今から私の話を聞いて記憶しましょう。皆様、今年はにせ物の答えではなく、にせ物の答えは人が答えを受けることを見ることです。それではなく、教役者はいのちをかけて、1ケ月に本当に神様が喜ばれる福音を伝える弟子二十名を探しましょう。それで20箇所をすれば 1年してみれば、200ケしかなりません。すると10年間走っても2000ケしかなりません。正しくなっている使徒13章の働き手を首都圏の中に1ケ月に20箇所ずつ植えましょう。神様が私たち聖徒と長老達を祝福なさるか、なさらないのかをおいてみましょう。マタイの福音書 28章 16節-20節が嘘なのか、本当の話なのか見てみましょう。私たちの教会に出入りする人と、この福音を持った人を祝福なさるか、なさらないのかを見てみましょう。だから教役者が重要です。いのちをかけましょう。釜山にいるイ・スングン牧師に対して言いました。「いのちをかけなさい。神様が喜ばれるか、喜ばれないのかを見なさい。」と言いました。釜山には、一ケ月に7ケ所十年後に700ケ所、真の弟子。教会堂が問題ではありません。正しく伝道する弟子を育てましょう。それが最初で教役者もすべきです。
 
・2番目です。私たちの教会にくる人々は、全部、産業に祝福を受けましょう。それが機能宣教です。前に話したことは地域教会です。すべての地域で正しく約2千ケ所に向かって走りましょう。私たちの教会に来る聖徒は、自分の職業と機能と学業に答えがおきるようになるはずです。機能宣教です。記憶しましょう。1部礼拝の時にも強調しました。インマヌエルの聖徒は、子どもまで世界宣教に賛同しましょう。幼い子ども達もしましょう。皆様の子どもが外国にいれば電話しましょう。孫達に電話しましょう。世界宣教に賛同しましょう。幼い時から教えましょう。正しく大きくなさる方は、目を大きく開けましょう。できるか、できないかを見ましょう。単なることではありません。‘主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。'一番良い詩篇23篇です。あなたがたが、本当にこの祝福を受けるように願います。そして、最後にお話しします。永遠に滅びません。私はそのようなことをたくさん見ます。他のことをするとできますが、後ほどだめになります。ある牧師が説教をなさるのに、良くされています。それで私がお願いしました。「永遠に滅びないとするなら、積極的な考え方を抜いて福音を伝えて下さい。」あなたの事業が永遠に滅びないとするなら、このようにしなさい。絶対に滅びません。今日ここに見ましょう。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。絶対に確かです。あなたがたが、この契約を捕まえて 2003年、今年を出発する祝福の人になることを主の御名でお祈りします。
 
(祈り)
 神様に感謝申し上げます。持っている者になるようにしてください。福音を持った者になるようにしてください。祈りの奥義を持つ者になるようにしてください。霊的な奥義を持つ者になるようにしてください。人を生かすことができる奥義を持つ者になるようにしてください。それで永遠に失敗する者にならないように、私たちの聖徒達が行く所ごとに神様の証拠が起きるように、2千地域教会運動が起きるようにしてください。私たちの聖徒がする事業と機能に、神様の祝福を受けるように、機能宣教が起きるようにしてください。私たちの聖徒の一名ももれなく、世界宣教に賛同して、霊的に勝利する驚くべき恵みを増し加えてください。マルコのタラッパンに起きた奇跡と、紅海で起きた神様の働きが、この主の民が行く所に起きるようにしてください。今日、司会するイ・カング牧師に主の使いと教会の上に神様に驚くべき祝福がともに臨むようにしてください。今日、みことばを聞く全世界の働き人の上に‘主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。’ダビデの真の契約があるようにしてください。生きておられる主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン