2003年 12月 14日 インマヌエル教会聖日メッセージ


  1部 / 漁師を呼ばれたキリスト
 (ルカ5:1〜11)
  
・幼稚園の子どもは、単語を500ケくらいしか知りません。それで、話そうとするなら、その単語の内で話さなければなりません。田舎の人々や、あまり勉強をしていない人は純粋です。しかし、知っていることが少ないために、話がよく通じないことがあります。それで、ちょっと申し訳ない話ですが、高等学校を卒業した人と、大学を卒業した人とは、ちょっと違います。小、中、高等学校では、一つだけ習います。大学に行くならば、それに対して、この人はこの話で、あの人はあの話をして、誰はどんな話をして、ずっとそのように並べます。考えがちょっと広くなるのです。あること一つに対して、反対側の人はこのように話して、あの人はあのように話して、色々な学説を話します。ところが、高等学校までの勉強は、たった一つだけを話します。それで、すこし差が出るのです。それで、たくさん知らなければ、がんこです。そうしたあと教授くらいになったり、博士にくらいなれば、よりがんこになります。一つだけ研究したためです。
 
・人間は多様で不思議です。エジソンは、2時間も寝なかったということです。それで、文章によれば、寝室がなかったということです。椅子に座って、寝て、研究して、ずっとそのようにしたということです。606号という話があります。605回試みて失敗したのに、606回目に成功したということです。すごいことです。ソ・ヘギョンという人をTVで見たことがあります。米国でピアノを弾いて一位になりました。その当時で最高のピアニストになったのです。インタビューをして、どのようにしたのですかと聞いたら、いろいろな話をしました。あまりにたくさん弾いて、指がみな麻痺したのです。ある日、自分の手を使うことができないほどになって、医者も手を使うのは難しいと診断を下ろしたということです。そのような状況の中でも、練習をして、指も回復して成功したということです。何を言うのでしょうか? 人間は、このように努力してこそ成功するのです。しかし、それだけではありません。人間は努力してもできないことがあります。私たちは教える時に、やればできるというように教えるのですが、しかし、どんなにしても、できないことが あります。
 
・私達が聖書のみことばをそのまま見れば、人間を広く見ることができます。本当に努力せねばならないことがあって、努力してもできないこともあります。これを早く区分することが、聖書のみことばの知恵を得ることです。私が幼い時に見た映画です。題名が 'ジュリアス・シーザー'という映画です。とても有名なローマの将軍です。戦争に行く所ごとに勝利しました。勝利して凱旋将軍になって帰ってきました。その映画を見れば、ローマ人は特殊な服を着ていたのですが、そのローマの人々がすしづめのように道ばたにぎゅっと集まったのです。皇帝シーザーが戦争で勝って帰ってくるので待っていたのです。ですから、戦争に勝利したシーザーが帰ってくるので、ローマ市民がみな出てきて、歓声を上げました。すべてのローマが 'シーザー'と呼びながら、歓声を上げたのです。ところが、この人が色々な政治的な陰謀にかかって、死ぬようになりました。映画ですが、幼い時、私がその場面を見て、事実であるゆえに衝撃を受けました。その中に友人も含まれていました。ジュリアス・シーザーを刺し殺したのですが、ジュリアスが 32ケ所を突かれました。全身から血を流したのです。どれだけたいした将軍かというと、32ケ所突かれて、血を流しながらも、倒れなかったのです。最後の期待をかけた所があったのです。自分を刺さずに、遠くで他の所を見ている友人がいたのですが、その友人を呼びました。助けてくれと言いました。32ケ所突かれたのに、どのようにできるでしょうか? 他の人がみな刺して逃げたのに、友人が残っていたので、助けてくれと言いました。ところが、この友人が振り返るや、自分の友人を見て助けることができたのに、最後の33番目の刀を心臓に刺したのです。このシーザーがあきらめました。それで、その場で倒れて死んだのです。
 
・私は多くの英雄の末路を少しずつ研究してみました。そして、多くの人々が本当によく生きてきたのに、病気で死んで行くのを見ました。それとともに感じたのは、人間は努力してもできないことがあるということです。人間は努力してこそ成功します。しかし、努力してもできないことがあります。そして、もうひとつ、努力しなかったのに、できることがあるのです。これが人間です。私達がみな人間なのですが、人間に対してむやみに話すことはできません。どんなに、どんなに努力してもできないことがあって、努力しなかったのに、できることがあるのです。
 
・今日の本文を見ると、ペテロは漁師です。今日の本文を見ると、シモンだと出てきました。この人は、漁師であるために、魚を捕る仕事には専門家です。夜通し魚を捕ったのに捕ることができませんでした。 '今日は魚が捕れないな'と考えたのです。それでも、万が一の場合に備えて、海の深い所に網を投げたのです。夜通し、そのガリラヤ湖で魚を捕っていたのに、一匹も捕ることができませんでした。皆様、海には、そのような時があります。私が副牧師だった時、私が主任牧師が釣り好きでした。教会の真ん前に釣りの店があったのです。この釣りの社長が、私たち牧師たちを見ると、どこに行けば魚がいて、どこに行けば釣れるという話をしました。といったところ、釣りが好きな私の牧師が、静かに聞いて、唾液をごくりと飲み込みながら、早く行ってみようと言うのでした。この方が、何と言うかというと、船に乗って行くと、自分がすべての入れ物に山盛りに釣ってあげるということでした。それは、気分悪い話ではありませんでしたが、私は内心、こういう気がしたのです。この人は、釣りの店をするのを見ると、釣りに対してちょっと知っている人であるはずなのに、ちょっと軽い人だなと感じられました。なぜなら、海というものが、そのようなものではありません。自分の思う通りに行ったところ、ぎっしりとつかまえて... そのようなことではないのです。その日は、よりによって寒くなってきて、雨もちょっと降ってきたのです。船を借りたのに船の主人と私と、主任牧師と、釣りの社長と4人が乗りました。夜に船で海に行くので、雨が降って寒かったのに、釣ってもたったの一匹も釣れませんでした。この人を見ると、ものすごく申し訳なくうろたえていて 'ここは、異常だよ。今日はなぜだめなのか'と言いました。この人のスタイルが、うそばかりをパンパン言うスタイルでした。 'ぎっしり満たしてあげるから、心配しないで'と大口をたたいていました。とにかく、たったの一匹も釣れなかったのです。それで、主任牧師が見たらだめで、寒いこともあったので、帰ってきました。それが海です。どうかといえば、それが人生です。私はそこで魚一匹釣ることができなくて家に帰ってきながら、そのようなことを感じました。人生ということは、そのようなことではないでしょうか。ある時は、想像もしなかったのに、できる時もあって、ある時は全くだめなこともあります。
 
・ペテロが魚を捕っていたのに、一晩中、一匹も捕まえることができませんでした。ところが、イエス様がいらっしゃって、あの深い所に網を投げてみなさいと言われたのです。その時、ペテロが '本当にここは魚が捕えられる所ではありません。私は、夜通し捕ろうとしました' と話したのです。 'しかし、おことばですから、一度投げてみます' として投げたら、これがなぜでしょうか? その大きい網に魚がある程度捕えられたのではなくて、ぎっしりと積まれたのです。引き上げることができない程になりました。それで、他の船にいる人に来てくれと言って、引き上げたのです。その大きい網の中に魚がぎっしり詰まっていたのです。今日の本文を見ると、船が小さくて2艘に満たして余りました。皆様、実際にこういう事になったら、驚くでしょう。皆様、実際に病気の部分がなおれば、私たちは驚きます。その時、イエス様がこうおっしゃいました。わたしは、これから後、あなたを人間をとるようにしよう。簡単に話せば、人を捕る漁師になるようにするということです。ですから、この人たちが、全てのものを捨てて、イエス様に従いました。そのような話です。今日、私は自分で話さないで、神様のみことばを持って皆様にいくつかの真の祝福の勧めを申し上げようとしています。
 
・人間の重要な部分は、全部、神様の恵みでなることです。ちょっと重要なことは私たちの努力でできるのですが、とても重要なことは私たち力でできるのではありません。ソウルに私たちの執事一人が、からだが病気になって、私が訪問に行ってきたのですが、4、5番目の脊椎の所に問題があったということでした。それで細い神経一箇所を触ったのです。その神経一箇所を触ったのに、全身を使うことができなくなりました。目、口は動くのに、その他は動かすことができなくて、身動きできずにいました。病院でも対策がなくて待つと言いました。物理的治療をしてみたら、よくなるかもしれないので、待つと言いました。私たち人間は、そのように強いのですが、弱いのです。私たち人間にとても重要な部分は、私たちの力ではすることができません。
 
・神様がイエスを信じなさいとなさった理由は簡単です。滅びの中から救われなさい。その部分は私たちの勝手にはできません。それで、神様が滅びの中から救われなさいと言われるのは、私達ができれば、そのように話す必要がないのです。私たち人間ができる部分ならば、何ゆえにキリストを送るという約束をあらかじめして、送って、またおっしゃって、そのような理由がありません。私たちは、霊的な存在です。私たちのたましいをはじめとして、私たちの霊的な部分、聖霊、サタン、天使、こういう霊的な部分があります。こういう祝福は、私たちの勝手にはできないのです。
 
・皆様、重要なことはほとんど見えないように作られています。皆様の顔の部分も、重要な部分はみな中に入っています。目玉も中に入っています。このようにカエルのように出ていれば、頭が痛いでしょう。皆様、鼻のような部分は、特別そんなに重要ではないために、出てくるようになりました。そして、鼻の中の穴は中にあり、下を向くようになりました。仮りにこれが上を向いて、ずっと水が流れるようになれば、私達が歩き回ることができません。1、2箇所の問題ではありません。仮りに、この鼻が上になったとすれば、鼻をかむ時、どのようにするでしょうか? まず下に出さなければならないので、大変なことになるでしょう。皆様、私たちのからだ隅々の重要な部分は、中に入っていて、外から骨で覆って、このようになっています。より重要なことは、見えません。私たちの精神、たましい。確かにあるのに見えません。私たちに起きる霊的な部分は、私たちの勝手に出来ません。全部、これは神様の恵みで、科学で、医学で、努力で、超越した神様の奇跡でなることではありません。それで、救われたというこの事実は、私たちの努力ではありません。それで、聖書を見れば、神様の恵みだとされています。それでエペソ2章 8節を見れば、その恵みによって、そのようにしたと書かれています。私たちの代価ではだめなために、私たちの信仰によってと言われています。私達がローマカトリック教会と分かれるようになった理由がそこにあります。カトリック教会では、救いを努力に置いたのです。私たちは知らないにしても、あまりにも知りません。救いは信仰で受けるのです。一見、その人々の話が正しいようですが、本当に知ればそうではありません。それで 'おことばですから、私が網を下ろします.' と言いました。より重要なことは、このみことばを下さる方が誰でしょうか? キリストです。今日、仮りに皆様が私の講義を聞いたとすれば、皆様は本当に無駄骨をして戻ることになります。そのようなこともないのですが、皆様が、私が勉強した、研究した講義を聞いて行くならば、皆様は貴重な時間を無駄に来たことになります。皆様が勉強がちょっと足りなくて、インマヌエル教会に訪れたとすれば、皆様は、今日、無駄骨でしょう。
 
・今日、皆様は神様のみことばを聞くために来たのです。ただ私がする役割は、説明して読んであげるだけであって、他のことはなんにもありません。キリストが網を深い所におろしなさいとおっしゃいました。神様が、私たちを救われ、キリストが病人に手を置くと、病人が起きたと確かに記録されています。長血の女がイエス様のすそに触ったのに、血のもとがかわいたとなっています。イエス様が悪霊につかれた者に現れて悪霊につかれた者から悪霊が逃げて癒されたとなっています。今日、皆様の個人、家庭、事業にこの祝福があるようになることをイエス様のお名前でお祈りします。なぜでしょうか? 私たちは、ご飯だけ食べて生きるのが目的ではありません。それは未信者の目的です。私たちには、もう一つの目的があります。神様の子どもであるためです。私たちは、この事実を他の人に話さねばならないために、成功しなければならないのです。
 
・今日、キリストが皆様に臨在するその時間に働きが起きるようになるはずです。皆様が今日、私の話を聞きながら、聖書のみことばを認めて、キリストの前に皆様が心を置けば、働きはすぐに始まるはずです。どれくらい簡単でしょうか? これが驚くべき恵みです。悟った後にペテロが驚いて、イエス様の前にひざまずいたとなっています。8節を見ると '私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。'この話はなんの話でしょうか? 何で魚をちょっとして捕まえられなかったことが罪なのでしょう? その話ではありません。経験だけ信じて、高慢になったこの罪人を赦してくださいということです。現実の状況だけを見て、いつも不信仰になった私を赦してくださいということです。キリストであるあなたをよく知らなかった私の罪を赦してくださいということです。そのような意味です。皆様がこういう感じが本当にならなければなりません。当代に最高の知識人のパウロがこう話しました。今まで私が自慢したことを、ちりあくただと思う。ところが、その後の話が重要です。キリストを得たとなっています。そして、彼に発見されることを願うとなっています。その話は、単純に私達が話す皆様が知っている、そのようなキリストではありません。何かを発見したのです。ですから、ペテロがその発見をしたということです。イエス様の前に膝を屈してひざまずきながら、私は罪人であるから私を離れてください。それは、相手をするのがいやだから行け、ということではありません。私を離れて下さいということは、あまりにも恥ずかしいということです。
 
・私はむかしに訳が分からなくて、教会を軽く見ていました。私が福音を悟って、伝道運動をしながら、それを悔い改めたのです。私は幼い時、勉強がちょっとできるという理由で、牧師、長老を軽く見ました。私は神学と神様のみことば自体をとても見くびっていました。私は後ほど福音を知った後に、あまりに恥ずかしいということを知りました。私は自分自身が何でもないのに、あまりにも大きい恵みを受けたのをあまりにも知らなかったという事実を恥に感じました。まさにその話です。皆様の中で、時々こう話す人がいます。「あの人は、本当にすごい人だ。あの人は一度するとすれば、終わりまでする人だ。本当にすごい人だ。」そのように話します。しかし、福音の目で見る時は、そうではありません。私達、福音を持った人が見る時は、それが間違っているのです。また、ある人は、自分の考えが正しいと考えれば、終わりまで! それは、とても立派な人です。しかし、福音がない人です。福音の目で見る時は、それではありません。福音の目で見る時、私たちは、私が誰だということを知ったゆえに、そのように固執しません。そして、そのようにやたら自慢しません。 
・一度は、私たちの信徒がケガをして病院にいた時、医者が本当に忙しかったのです。そして、その方は、顔がちょっと高慢に見えました。聞く話に、返事もあまりしてくれなかったのです。理解できます。あまりに疲れているからです。この方が少しだけ良くすれば良かったのに。教会のすぐそばにある病院だから、その次にまた訪ねたのです。私がその医者に冗談を言いました。お医者さんは、本当に良いと言いました。ですから、その医者が私を見つめながら、なぜだと言いました。痛かったら、あらかじめ薬を飲めば良いから、死なないだろうと私が話しました。あらかじめ診断して、ちゃんと飲んで、痛かったらちゃんと飲んで、老化も防止させるように、度々飲めば、500歳、600歳ずっと生きるだろうと言いました。その時、医者が笑ったのです。私が冗談を言ったことを知っていました。死ななければどれくらい良いのかとする話が冗談ということを分かりました。この人が、私がそのようにおかしな人ではないとのことを分かって、笑いながら顔がちょっと変わりました。言わばものすごく意味ある冗談をするということを、この人が知ったのです。その時、私がその方を見て、こう話したのです。忙しいでしょう。しかし、聖書にこういうみことばがあります。一度死ぬことは人に定められていると言いました。ところが、それ以後には審判があります。私は今、先生にいくつか尋ねてみたいと言いました。神様は信じないのですかと言ったら、そうだと言いました。しかし、神様がいらっしゃるという事実は信じるのですかと尋ねました。それは信じると言いました。しかし、自分は神様を信じないと言いました。神様がいることは知っているけれど、信仰生活はしないということです。すると、まちがいなく失敗していらっしゃると言いました。確かにいる神様を信じないので、失敗しているのではないかと言いました。時間がたくさんなかったので、仮りにと言いました。仮りに私達が、地獄がなくてなんにもないならば、今、先生がしていることは本当に良くしていることだと話しました。500歳、700歳生きることでもなく、明日死ぬこともあるのに、仮りに地獄があるならば、あなたはまちがいなく行かなければならないと話しました。本当に簡単な話ではないでしょうか。今あなたは、大きい失敗を2つしています。神様は確かにおられるのに、あなたは信じないと言いました。そして、確かに地獄が、来世にあるのに、知らないならば、それは失敗したのではないかと言いました。そのように話しているのに、医者を待つ患者がとても多かったので、話ができませんでいsた。その方が、私が行く時、扉の前まで来て、私に挨拶をしました。その医者がそのようにすることはありません。ものすごく忙しいのに、そして、私は患者でもないのにそのようにしたのです。少しの間、話をしたのに、なにかあったのです。
 
・今、イエス様の前にひざまずいて、本当に私は罪人であるから、私から離れて下さい、この話は私に対する抹殺ではありません。それが特別に私に対する固執でもありません。何かを今、発見したのです。皆様、信仰生活の中でこれが本当に重要なのです。イエス・キリストに膝を屈して、私は罪人だと告白しました。皆様に本当に、この祝福があるならば、どんなことがおきるでしょうか? 今日10節を見ると、3番目にこうおっしゃられます。 'これから後、あなたは人間をとるようになるのです。' マタイの福音書4章19節を見ると、 'わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。'全く同じ背景なのに、聖書が違うように説明しています。マタイの福音書11章を見れば、イエス様が 'すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。'と言われました。 'わたしがあなたがたを休ませてあげます。'それとともに重要なみことばは 'わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。' 人生が変わったのです。親牛がいたら、子牛はその下で練習するために付いて回るらしいのです。ですから '軽い'のです。 わたしのあたえるくびきをあなたが負いなさい。すると軽くてやさしいのです。疲れて、重荷をみな持っていず、私の所にきなさい。
 
・イエス様が嘘をつくために十字架を背負われたのでしょうか? 神様が私たちをだますために、聖書のみことばを与えて、キリストを十字架にかけられたのでしょうか? 信じてもかまわなくて、信じてなくても良い事件のために、このようにものすごい事件を起こされたということでしょう? それで、教会が間違っているのです。この部分をあまり粗雑に話したためです。皆様がいのちをかけるに値する発見です。 'これから後、あなたは人間をとるようになるのです。'これから後は、あなたは人を生かす者になるはずだ。魚を捕ることも重要だけれど、魚を捕ることがそんなにうれしいか? あなたが、これから死んでいく人を生かすようになると言われました。驚くべき変化です。今日、皆様に本当にこの祝福があるようになることを希望します。
 
・私は皆様に強要は出来ませんが、証しはできます。本当に私は現場が時間が経てば経つほど、なぜこの福音が必要で、なぜこれが恵みなのかを知るようになりました。それで、本当にキリストの前にひざまずいたということが分かります。人を捕る漁師にするという、私に与えられた祝福が何か、本当に感謝して理解できるのです。今日、私たちはこの短い時間に、どのようにすれば、この祝福をすこしでも味わうことができるでしょうか? キリストが誰でしょうか?この質問をしてみる必要があります。今まで多くの影響を与えた
のがキリストです。あらゆる王、あらゆる将軍、あらゆる政治家の力をみな合せた力より、もっと大きい影響を与えたキリストはいったい誰なのか? すぐに、悪霊につかれた者、霊的な問題がある者が、イエス・キリストの名前にぶるぶるふるえます。いったいその名前は何でしょうか?私たちを救われた神様の方法です。
 
・すると、私たちはこの短い時間に、今日の本文みことばがなにか理解するだけでも良いのです。そして、みことばどおりにしたということは、私達がみことばを信じて、少しだけ従順にしても良いのです。この従順という言葉は、基準を自分に置いたのではありません。本当に神様のみことばの、その驚くべき祝福に基準をおいたために、それに従順だということです。今日、皆様の生涯に本当に意味ある日になることを希望します。これが 2000年前の事件でしょうか? ローマ15章4節にあるように、今、成就しているみことばです。私たちの家庭は、なぜこうなのか? なぜしてもだめなのか? 私はなぜこのように生きるのが難しいのか? 他の人はみな知らないけれど、私はなぜこのように大変疲れていているのか? 簡単に質問すれば良いのです。キリストが皆様にこのようにおっしゃっておられます。深い所に網を投げなさい。その時、ペテロが言うのに、おことばですから、私が網を下ろすと言いました。奇跡がおきました。それが問題ではありません。わたしがあなたを人を捕る漁師にする。わたしがあなたによって、家系を生かす人にさせます。わたしがあなたを医者になることが問題ではなくて、医学界を生かす人にあなたを呼んだ。事業が問題ではなくて、あなたの事業はもちろんで、事業界を生かす人に呼んだ。
 
・なぜ漁師を呼ばれたのでしょうか? まずパリサイ人は、この話がわかることができません。政治家たちは、わかることができません。分かることができる人を呼ばれたのです。それで全てのものを捨てて、イエス様に従ったとなっています。この話は、皆様の家、仕事をみな捨てろということではありません。ある人が来て、恵みを受けて職場も行かないと言いました。そのような話ではありません。今まで、皆様を滅ぼしていた不信仰と、あらゆる世の中的なことをみな捨てて、キリストに従うということです。皆様、信仰生活をものすごく誤解するのです。ある人は、こういう話をします。私は教会に行きたくても行くことができない。それで教会が問題ではなくて、イエスを信じなさいと言いました。私は五十何年間、酒を飲んだので、切ったら生きられないと言いました。いっそカトリックや、そのような酒を飲んでもかまわない所に行く。私は教会に行くことができないと言いました。それで、私が飲んで来なさいと言いました。礼拝をささげて、また帰って飲みなさいと言いました。それでも良いのですかと言いました。私は初めて聞いたということでした。私の妻は、私に酒を切って教会に行きなさいと言うのですが、私は酒を切れば教会に行くことができないと言いました。それではなくて、教会にきて、イエスを信じて恵みを受けて切りなさいと言いました。それが問題ではないのです。私たちは、何か信仰生活を逆に知っているのです。私は教会にきて、熱心にしなければならないと聞くのですが、なにを熱心にするのでしょうか? 全てのものを捨てて、イエスに従う、この話が分かるでしょうか? 皆様が 3,40年仕えたあらゆる偶像、あらゆる皆様の自慢した体験が問題ではなくて、イエスに従うのです。これをものすごく誤解します。このイエスを信じる人々が、教会に通いながら誤解が多いのです。この話がなんの話なのかを知りません。この人たちが、イエス様の弟子に従って出ようとしたら、船を捨てねばならないではないでしょうか? そのことであって、イエスを信じたら、全てのものをみな捨てろということだと理解するのです。実際に、釜山でそのようなことがありました。外国に通いながら、買って置いた高い物をみな外に捨てたのです。それで、外でお互いに持って行こうとけんかになりました。それで、私が言いました。捨てることが罪で、けんかになることをするのも罪です。それをなぜ捨てたのですかと言いました。そのようなことではないのです。
 
・皆様の現場に、キリストとともに行こうということです。皆様の事業現場にキリストとともに行こうということです。その方に従うということは、その方にお迎えして、これから勝利しようということです。このようにしばしば誤解するから、イエスを信じることが難しいのです。違うように信じるためです。皆様、最も素晴しい人がなることです。皆様がキリストをお迎えして、キリストに従うことは、最も素晴しい人になります。ある人はやたら成功のために従うのですが、私たちは、成功は基礎で、キリストに従うのです。未信者はやたらお金をもうけます。私たちは、それは基礎です。私たちは、キリストに従うのです。ある人はいろいろなことが目標だと言います。私たちは基礎です。目標ではありません。そのような時、あなたがたには驚くべき働きがあるのです。この12弟子が世界を変化させました。今日、皆様に真に変化する貴重なみわざが起きるようになることをイエスの御名でお祈りします。今日、皆様の事業がキリストとともに新しい祝福が始まることをイエスの御名でお祈りします。
 
<< 契約の祈り >>
 神様に感謝申し上げます。夜遅くまで魚を捕ることができなかったのに、イエスが深みに網を投げろとおっしゃいました。おことばどおりに網を投げたのに、驚くべきみわざが起きました。その事が問題ではなくて、あなたを人を捕る漁師にしてあげようとおっしゃられた主のみことばが私たちに成就するようにしてください。神様が共におられる驚くべき祝福が、聖徒達にあるようにしてください。私たちの主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン
 
 


  2部 / 地を征服するレムナント
  (詩65:1〜13)
  
 
・皆様が持っている心配を完全に神様に任せれば、既に半分は解決したのです。皆様が人間関係でも、あまり固執を持っていないで、神様に完全に任せれば、既に解決は半分以上なったのです。皆様は救われた神様の子どもです。それで、あなたがたが本当に感謝して、心配しなければ、癒され始めます。精神的に苦しめられたり、精神病者に会ってみると、特徴がものすごく心配が多いということです。心配しないでも良い部分をしばしば心配します。そして、特徴が恨むのです。私の父がどうで、私の母がどうだと恨むのです。精神が狂うならば、恨み始めます。つまらなく心配します。誰も来ないのに、誰かが捕まえると言いながら心配するのです。皆様は神様の子どもであるゆえに、心配を任せて感謝しながら、本当に信仰生活を始めれば、あらゆる問題は解決し始めるはずです。今から救われたあなたがたは、一つだけなせば良いのです。うつわだけ準備すればよいのです。うつわがものすごく重要です。これだけ準備すれば、祝福はいくらでも味わうことができます。
 
・私が成功した人、良くする人を近くで見れば、何かが違います。台湾に行ったのですが、良い生活をして、大きな病院を持っている金持ちがいます。この人が福音を受けたのです。人が違います。私達に福音運動しなさいと後から助けてくれます。年齢が若くなくて、頭も白く、顔もやせています。いつか韓国に合宿訓練を受けようときたのを見ました。今きておられるファ・ソヨン宣教師が通訳をして、私たちの教会にきたのです。来たから私の部屋に挨拶をしようときました。あいさつをして、訓練を受けることになって感謝ですと言って、挨拶をして行きました。韓国語を全く知らないから、中国語でしました。夫人が何か話したので、そばで早く行こうと言いました。夫人がそれも知らずに、どんどん話をするので、引っ張りながら行こうと言いました。中国語で何か言いながら、早く行こうと言っていました。ファ・ソヨン宣教師に何を言っていると尋ねました。先生は疲れておられるので、煩わせないように早く行こうと言っていると言いました。普通、年齢が 70才を越えた人は、むしろおしゃべりになります。誰がさせることもしないのに、述べた言葉をまた言ったりします。この老人は違ったのです。若い人が煩わしい話を多くするので、そこまでにしろと連れて行こうとしたのです。年齢が若くなくなるほど、話を減らしましょう。老いればおしゃべりになるのです。若い人々が嫌います。人は、簡単なほうが良いでしょう。それでも、老いても頭がある人はそうではありません。
 
・その次に集会に行ったところ、本を一冊くれました。何の本なのかと尋ねたら、福音を聞いてあまりに良くて、私がこの福音を伝えることができるかと悩んだということでした。考えた末に方法がひとつしかないということでした。通おうとしても時間がありません。一年間、福音を悟って、祈りの答えを受けたことをみな書いたということでした。それで本を作ったということです。本を売り飛ばそうという商売ではありません。祈りの答えを受けたことを書いた本です。受けては祈りの答えを受けた聖書箇所を書いていました。それで良い本を作ったのです。それまで自分が知っているあらゆる人に送ると言いました。私はそれを見て、人が違うなと思いました。すでに成功する人は人が違います。合宿にきて狭苦しいとか、キムチがどうだとか、おもにこういう話をするのに、この人はそうではありませんでした。秩序があるとかないとか、事務員の印象が汚いとか、おもにこういう話をします。すでに大きい人物は、見ることが違うのです。私が集会に台湾に行ったところ、その遠くまで挨拶をしようと来ました。それも夫人を同行してきて、あいさつを丁寧にして行きます。なにか挨拶することもマナーが違います。成功した人は違うのです。
 
・釜山でお金が多い長老が一人いらっしゃいました。この方は、北側からきたのに、時間があれば冷麺を食べに行きます。ところが、私たちに冷麺を買ってあげるから行こうと言われました。ついて行って見たら、かなり遠くに行きました。すみのみずぼらしい家に入っていったのです。冷麺を食べました。長老がこういう話をしました。 "私がこの家にだけ 40年きています"と言いました。この家が40年にもなるのかと尋ねたら、そうだと言いました。自分は北朝鮮から越えてきて落ち着いたのに、この家にだけずっと来ると言いました。冷麺をひとつ食べるのにも、この人はなにかが違います。私たちは、あっちこっちおいしい家を尋ね歩くのに、この人は一ケ所だけ行くのです。だから、冷麺を一杯食べるのにも、自分の人間性は何かがあるのです。静かに見れば、細かい部分に人が違っていました。他の人は事業する時、酒場で酒を飲みながら事業をするのに、自分はそのようにできない。自分は2つの理由で酒を飲むことができないと言いました。最初は長老であるためで、二つ目は心臓が良くなくて、飲めば倒れると言いました。私が冗談で、長老も心臓だけ良ければたくさん召し上がるでしょうと言いました。ところが、事業は一等です。酒を飲む必要がないと言いました。人々の細かい部分まで良くわかって、そこを満たしてあげるのです。あの人々が事業をして通うのに、家に帰ってみれば思わしくないらしい。それで子ども達を手助けすると言いました。子どもが学校の勉強をするのが難しければ手助けしたりしたのです。すでに人が違います。この人の事業は成功しました。そして、ノートを一冊持っていました。古くなったノートでした。他の人のものを見てはならないけれど、少し見ました。今、告白するけれど、私は人の家の引出しを見る習慣があります。幼い時にそうです。確かにお話しするけれど、盗まないけれど、あけて見るのが私の趣味でした。おもに親戚の家に行って引出しを開けてみました。不思議に幼い時から、それがおもしろかったのです。長老がいないので、その引出しをあけてみたのです。私はそれが何の本かと見たところ、自分が宣教費を送って、献金することをみな書き留めていました。何か人が違うのです。
 
・すでに成功する人の特徴は、可能ならば自分の自慢をしません。小さな人物は、自分の自慢をして、自分を度々前面に押し出します。普通、大きい人物であるほど、そのようにしません。小さな人物であるほど、称賛を聞くことを願って称賛を好みます。以前に、韓国のにせ物 アナウンサーが女子大生 150人をたぶらかして、ニュースに出てきていました。すると、どのように女子大生 150人をたぶらかしたのでしょうか。それを尋ねたら、2つの秘訣を言いました。顔の出ないラジオアナウンサーで、人気があるアナウンサーだと話せば、ほとんどみなだまされると言いました。すると、前後に称賛してしまえば、みなだまされるということです。2つの戦略で女子大生 150人をたぶらかしたのです。にせ物のアナウンサーが、そのように言ったのですが、本物はどれくらい上手にやるでしょうか。これから出世する人で、司法高試を勉強すると言えば、からだも、心も、お金もみな持ってくるらしいのです。それは、小さな人物がそのようにするのです。大きい人物であるほど、私、私としません。大きい人物であるほど謙遜で、大きい人物であるほど堂々としています。人々と話をすれば、その人がこれから大きく用いられるのかすぐ分かります。難しいでしょうか? すでに、話すようすを見ればすぐに分かります。この人は祝福を受ける人なのか、すぐ理解できます。すでに大きい人物であるほど、他人の助けを受けようとしません。こういう人々も、大きい人物です。他人が一回手助けしたことを10年、20年になっても有難いらしいのです。小さな人物であるほど、思い切り手助けして、一度下手すると誤解するのです。
 
・信仰にもうつわがあります。なにか祝福を受けるだけの、違う人がいます。何かスケールが違うのです。私たちは神様の子どもであるゆえに、祝福を受けるうつわだけ準備すれば簡単です。特にレムナントが、そのような祝福を受けることを主の御名で祝福します。
 
・今日、ダビデを通じてうつわ3つを注意深くみるべきです。簡単にお話しします。
 
・最初です。詩篇はダビデが作った詩です。 65篇を見れば、ダビデの詩だと書かれています。この詩篇をダビデの詩といってもすごいのに、すこしより研究してみれば、もっとすごいのです。刈りいれ、穀物をおさめて入れる時、賛美するようにダビデが作った詩だということです。この人は、普通の人ではありません。ある人が賛美歌の歌詞を作りました。 'ゲツセマネの園で'という賛美歌を作ったのです。それで、どうやって私がこういう良い曲を作ったのかとたずねました。聖地巡礼に行ってきながら、とても感動して作ったと言いました。やはりこの人物は、違う人物だなと思いました。私の友人が聖地巡礼に行ってきてどうしたのかとたずねたら、海に行って泳ぐことが良かったと言いました。うつわ通り遊ぶのです。ダビデがこの穀物を治めるのに感謝するという詩を作ったことは、普通の人ではないのです。これは何を言うのでしょうか。生活に意味をおいたということです。皆様はまちがいなく、ここに座っているのは、歴史の中の一ケ所に座っているのです。皆様が否認しても、しなくても、皆様は教会史の中に座っています。それなら、すごいことなのです。私たちが今、姜執事が賛美の導きを上手にしましたが、世界史、世界福音化、歴史の中のひとつです。ですから、ダビデがそのように生きたということです。皆様の人生を今日、見つめるのに、皆様の一生を置いての今日です。私が事務室から説教しようとここに歩いてきながら、考えて祈ります。私が皆様とともに一千万世界福音化するメンバーが行く道に、その中に今、今日の箇所です。すると、ものすごく意味があるのです。すると力が生まれます。ダビデの単なる詩ではなく、収穫感謝節にどのようにすれば賛美を上手にやるかと作った詩です。それのために作りました。私はより一層尊敬するのは、私がメッセージを多くします。私のメッセージで作詞して曲を付けたのですが、良かったのです。私はそれを一度書いてみようとするのに、時間が良くできません。時間がないということでしょうか? そのような余裕がないということです。それを見て、ダビデは普通の人でないと考えました。本当にこの人は、祝福された人だな、本当にこの人は、うつわができた人だな。私達が学ばなければならず、私たちのレムナントが学ばなければなりません。 
 
・複雑に考える必要はなく、ダビデの生涯を簡単に考えてみることができます。羊を飼っているのに、私たちならば、そのまま羊を飼うはずです。ダビデはそのようにしませんでした。羊を飼いながら、どれくらい祈りをして、どれくらい文を書いたでしょうか。神様がダビデを王に指名されたと、詩篇 78篇に出てきています。今日一日、礼拝をささげて、皆様がそのまま行くことができます。他の人がすることであるから、羊を飼うことができます。そこで差が出るのです。ダビデは、そのように見ませんでした。その羊を飼うのに、一番祝福を受ける人として羊を飼いました。ゴリヤテに会いました。それを世界史で絶好のチャンスに見ました。
 
・追われました。死の中に追われると考えてみましょう。どれくらい恐ろしいでしょうか。牧師夫婦が日本に行って、ホテルにいたのですが、地震が起きて揺れました。非常に揺れるから、牧師が奥様をおいて逃げたのです。奥様があまりに残念で、あなたは、どうして、そのようなことが出来るか。私を連れて行くべきで、どうして一人で逃げたのかと言ったところ、牧師の返事が傑作でした。本当にすまないと、あまりに急だったから、あなたを思い浮かべなかったと言いました。ある牧師が祈りを多くすると噂された方なのに、からだが病気になったので、私が訪ねました。この頃、苦労でしょうと言ったところ、とても痛いから神様も考えられず、祈りもできず、痛いことしか考えができないと言いました。死に追われたのです。この時、ダビデの詩を見れば、この人は普通の人ではありません。王になるあらゆる準備をその時にみなしました。今日、皆様がここに座ったのに、まさに皆様の生涯がそのような祝福になることを願います。皆様、明日も一日一日が意味のある祝福の日になることを願います。ダビデのように、苦難が来ても、この苦難を完全にひっくり返して祝福にしました。
 
・王になりました。私がどのようにすれば正しい王になるだろうか。私がなぜ王になったのか。この悩みをいつもしたのです。このようにして、時代的な仕事を残したのですが、神殿を建てる準備をしました。どれくらい心よりダビデが話したでしょうか。民が献金を持ってくるのに、あまりたくさん持ってきて、持って来なくて良いと広告したということです。これがダビデです。私達が、一日一日の生活の中で、こういう祝福を探すことは、ものすごく重要です。これがダビデが成功した生活の哲学です。今日、あなたがた、特にレムナントは、こういううつわを準備するように願います。
 
・2番目、ダビデのうつわです。前のことを生活の哲学だと見れば、2番目は信仰の哲学です。詩 65:1を見ると, '神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。あなたに誓いが果たされますように。' 5節を見ると '私たちの救いの神よ。あなたは、恐ろしい事柄をもって、義のうちに私たちに答えられます。あなたは、地のすべての果て果て、遠い大海の、信頼の的です。' ここで重要なことが出てきました。私達が絶対にのがしてはならないことが出てきたのです。ダビデはどんな人生を生きたでしょうか。救いの秘密を正しく知って、神様を見上げる生活を送ったのです。なぜなら、正しいことを見上げたゆえに崩れることができません。私たちが本当に隠している心の中で、永遠なことを見上げたゆえに、絶対に崩れることが出来ません。率直に、ダビデが一番たくさん使った言葉が何でしょうか? 主を見上げるという言葉を一番たくさん使いました。この貴重な時間に、この話をどのように解釈するでしょうか。これを、このみことばを、私のみことばにすることができるでしょうか。私はそのように思います。ダビデが最も安全なことを見上げたのです。ダビデが最も中心が正しかったのです。利益のためにでもなくて、自らの目的のためにでもなくて、ただ主のために見ました。仮りに私たち賛美する人々や仕事をする人々が、目的を置いてすれば、どれくらいかわいそうでしょうか。しかし、主を賛美します。
 
・今日、来ながら飛行機に人がどれくらい多かったでしょうか。ソウルまで来るのが難しくて、きわどくきました。この前は、行くときにご飯をこぼしたりもしました。私が仮りに、他の目的があったらならば、どれくらいかわいそうな人でしょうか。私が世界福音化のために、本当に、主の栄光のために、主を見上げる祝福のためにするとすれば、どれくらいうれしいことでしょうか。これがダビデの信仰哲学です。私たち学生達が、必ずそのように学ぶように願います。私たち聖徒たちも必ずそのように学ぶように願います。私たちのつまらない成功、そのようなことではありません。主の栄光のために。先週に世の中を見くびることもなく、恐れることもなく、主を見上げなさいということでした。ダビデがたとえ苦難の中にいても、目はどこにあったのでしょうか。主を見上げました。それで、私はそのように思います。私たちの理想と目は高い所になければなりません。そして、私たちの目と心は、本当に神様を見上げなければならないのです。私たちの中心と実際的な生活は、低い所になければなりません。そのようにしてこそ成功して、正しく行くことができるのです。ダビデの目がどこにあったのでしょうか。主に向かって、賛美を持って生きた人です。詩65:1に、神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります..
 
・私は、人物をたくさん研究してみました。説教をするために、わざわざ偉人伝を一冊ずつ読んだのです。むかしには、立派な人々の本を買って、どのように生きたのか、いつも研究しました。ずっと研究していたら、浮び上がることがありました。2種類が出てきました。影響を与えた人物の中で、完全に滅びた人物がいて、完全に成功した人々がいます。不思議に出てきました。神様を知っている者と、神様を知らない者です。ダビデは賛美する人でした。パウロや伝道者は、ほとんど賛美する人でした。皆様の生活が賛美する生活になることを希望します。すると、皆様の多くの信仰、人格に多くのうつわが準備されるのです。2節を見ると '祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。'そして4節に '幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。' 1節に '〜 あなたに誓いが果たされますように。'となっています。ダビデは、賛美の時間があって、ダビデは神様の前に誓いを持っていたのです。今からそのような信仰のうつわと哲学を準備しなければならないのです。ダビデは、神様の前に重大な誓いを持っていました。私たちレムナントがのがしてはならないならない部分です。そして、祈りの答えを受けるべき皆様は、のがしてはなりません。
 
・この前に話しました。ロックフェラーの両親がロックフェラーにそのような話をしたのです。いつでも礼拝時間 30分か1時間前に行きなさい。そして、一番前の席に座って恵みを受けるように祈りなさい。両親が教えたのです。そして、主の仕事は無条件にしなさい。理由を上げるな。三番目、教えたのは、主のしもべは無条件に手助けしなさい。4番目は、献金を一番多くする一般信者になりなさい。ロックフェラーが、その誓いをとらえて祈りました。本当に、そのようになったのです。ダビデは神様の前に誓いがありました。皆様は、今日からうつわを準備するように願います。皆様の一日一日が意味あるということを知っている、そのようなうつわが用意されなければなりません。私たちは、他の目的がありません。私たちは、神様を見上げる救いの秘密があるのです。それで、賛美が回復した皆様になることを願います。そして、誓いを持っていなければなりません。これは、心の中に重大な題目があるということです。そして2節を見ると.'祈りを聞かれる方よ〜'となっています。これは、祈りの秘密の中にいるということです。これは、いくつかの信仰の哲学があったのです。ダビデは、どんな人でしょうか。ダビデは神様を知っている救いの人でした。ダビデは賛美を正しくする人でした。ダビデは祈りの秘密を持った人でした。ダビデは、神様の前に誓いを持った人でした。
 
・その証拠があります。そして 4節に '幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。'この当時、神殿がなかったので、この祈りをしました。だから、神殿準備ができるのです。今日、皆様の胸にみことばを聞いて、祈りの大きい誓いをいだく祝福の日になることを願います。5節を見れば '私たちの救いの神よ。あなたは、恐ろしい事柄をもって、義のうちに私たちに答えられます。あなたは、地のすべての果て果て、遠い大海の、信頼の的です。' 3節に '咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。' 神様の前に自らの誤ちを、いつもおいて話す人がダビデです。これは悲観するということではなく、神様の前で自分のことをすべてさらけ出して、いつも祈るダビデでした。ダビデは重大な信仰の秘密を持っていたのです。王になる人だと、うつわが違いました。今日、皆様が祝福を受けるうつわを準備するように願います。
 
・経済哲学が出てきました。三番目、経済哲学は 9〜13節です。2つのことで記憶するように願います。9節を見れば、地がみな主のものだと。6節を見ると 'あなたは、御力によって山々を堅く建て、力を帯びておられます。'表現したことを見ましょう。 '力を帯びておられます' 詩的な表現です。7節に 'あなたは、海のとどろき、その大波のとどろき、また国々の民の騒ぎを静められます。' 9節を見れば 'あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、これを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています。あなたは、こうして地の下ごしらえをし、彼らの穀物を作ってくださいます。'. 11節を見れば 'あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、あなたの通られた跡にはあぶらがしたたっています。'一言で何でしょうか。地の意味を知っている者です。この地が全部、神様が治められるのです。そして、ダビデはそれだけでなく、世界福音化の征服の祝福を持っていました。今日、皆様がこういう祝福を悟るならば、答えの門が開き始めるはずです。単純な祈りをせず、この契約をよく握って、うつわを準備しなければなりません。衛星で礼拝する教会がたくさんあります。聖日のメッセージを聞けば、約五千ケ所で今、インターネットに入ります。皆様の教会が復興して、答えを受けなければなりません。どのようにしなければならないでしょうか。うつわを準備しなければなりません。皆様はみな終わったのです。うつわを準備しなければなりません。ここは 2,000人しか座ることができません。うつわが 2,000人だからです。皆様が 50人, 100人を越えて立てようとするなら、皆様のうつわを破らなければなりません。皆様が、本当に経済祝福を受けようとするなら、うつわを準備しなければなりません。祈りの答えを受けようとするなら、うつわ準備をしなければなりません。
 
・どんなうつわでしょうか。皆様の生活の哲学が重要です。今日、この席に座っていて、皆様が明日、生活することが何でしょうか?.そこに全部、神様の秘密が入っているのです。そして、主を見上げる秘密を持っていなければなりません。そして、地を見る秘密を持っていなければなりません。このように、ダビデは大きい祝福を受けた貴重な人になったのです。私は今日、皆様にお願いします。皆様が神様の子どもであるゆえに祈りの答え受けるためにマスタープランを立てましょう。私は個人がどのように、どのようにしなければならないということを作るように願います。間違って立てず、立てておいて祈り始めれば、神様は答えてくださいます。
 
・私たちの教会のマスタープランがあります。今現在、世界キリスト教は 99% の畑を置いておいて、1%の畑でさ迷っています。毎日してみても、信徒があちこち移って通うことしかありません。外国でも、今晩に米国に行くはずですが、大韓イエス教長老教会です。だから、米国の人々が、そこになぜ行くでしょうか。だから、韓国の人々を捕まえて毎日しているので、それ以上、畑がないのです。だから、ものすごい 99%の畑は知らずに、1%の畑でさ迷っています。教会の外は見通すことができなくて、教会のなかでだけ、1%でいつもぐるぐる回っています。だめになっているのです。99%の畑を見ましょう。それで、私たちは2,000ケ所弟子を植えましょう。2,000ケ所で働き人を立て起こしましょう。2,000ケ所で光を放つキャンプをしましょう。 釜山には700ケ所でしましょう。といったところ、蔚山は100ケ所ですると言いました。このようにして、タラッパン運動が一斉に起きて、一千万箇所にみことば運動を開きましょう。これが私たちのマスタープランです。
 
・2004年には、本格的に入っていくはずです。今現在、20億名になるレムナントが待っています。南北合わせて7000万人の人々が福音聞くことができなくて待っています。20億名になるレムナントが、そのまま待っているために、あちこちに伝道学校を作りましょう。伝道神学院はなにか知っていますか。7000万名が待っているので、伝道を理解すべきです。伝道神学院、宣教師訓練院とは何か知っていますか。50億名が待っているのに、宣教がなにかを知るべきです。それを教える所です。私は心に確信を持って、私たちの神学校を作りました。確認してみましょう。他の神学校に学生が減っています。私たちは減らないでしょう。減ることができないのです。学生達の実力がどんどん増えます。なぜ立てたのか知っていますか。米国とヨーロッパに神学校が門を閉めて、教会が門を閉めています。正しい福音を持った神学校を作らなければなりません。今、コンピュータ時代、インターネット時代がきて、大騷ぎが起きています。参考にしましょう。それゆえに、みな滅びるはずだとデービッド・ウィルクスが予言しました。私はデービッド・ウィルクスが話した予言は正しいと考えます。全世界は、そこにみな合わせて滅びると予言しました。それも 30年前に予言したのです。インターネットが出てくる前に予言しました。私はその人の話がはじめには、無駄だと考えました。私がこの本を読んでみたくて読んだのではなく、私たちの英語の教科書でした。 'ビジョン'という本でしたが、そこには面白いことが出てきます。これから起きることを全部予言したのです。私は元々、そのようなことを好まないために、聖書通りに生きれば良いと考えました。しかし、この人の話が意味があったのです。インターネット時代がきて、資料があまり多くて混乱がきました。正しい証拠を立てなければならないと考えました。それが米国のAUCです。私が名節(韓国固有の盆・正月)に AUC 講義しにいきます。なんの話なのか知っていますか。私たちの教会が、この契約を捕まえる時、神様はその時だけ、皆様の経済を祝福なさるはずです。私はこの契約をどれくらい強く握っているでしょうか。この契約を捕まえた時、あらゆる弱さもみななくされました。
 
・皆様、今日、祝福を受けるうつわを準備することを願います。人がすでに祝福を受ける人は、どのように受けるのでしょうか。祝福を受けるうつわを準備しましょう。皆様がしている仕事が、人の前ではなく、神様の前で、あまりにも重要なことです。それから悟らなければなりません。私たちは、救われた神様の子どもであるゆえに、神様の中にある秘密をまず悟らなければなりません。そして、世の中を征服して生かさなければならないのです。これがダビデが持ったうつわです。この祝福を皆様が今日、そのまま受けることを願います。今日から答えを受ける祝福があることを希望します。皆様のうつわが大きいうつわに変わることを願います。うそではなく、大きいうつわに変わることを願います。年をとっていると考えるならば、その瞬間から急速に老います。年を取ればとるほど、格好良いようにしましょう。うつわを準備しなければなりません。以前に、東亜大学校にパク・キスンという教授がいました。とても驚きました。20代の乙女があそこから歩いてきました。不思議です。教授が講義しに来るはずなのに、なぜお嬢さんがくるのかと思いました。近くに来たのを見ると、その教授でした。年齢が 60才を越えたのに、乙女のようにスタイル管理をしてきたのです。そして、ピンクのツーピースを着ていました。そして、頭にピンクの帽子もかぶっていたのです。近くきたのを見ると、やはりおばあさんでした。一旦 後から見たら、乙女でした。歩みを見ると、60才を越えたおばあさんは、変に歩くのに、この人は乙女のように歩くのです。私に言うのに、人が老いれば臭いも出て、他の人が嫌うと言いました。老いるほど格好良くしなければならないと言いました。本当にそれは正しいのです。私たちの母に老いるほど、格好良いようにしてと言ったのに、そうのようにはしなかったようです。そのようにしなければなりません。祝福を受けるうつわを準備しなければ、いつもそのようにしていたら、どのようになるでしょうか。
 
・私が以前に話しました。私が尊敬する教授は、年齢 80才を越えた時です。その方に用事があって、頻繁に会ったのですが、その家に行ったところ、とても驚きました。80才を越えた方が、勉強をしていたのです。この方は、目が悪くてかけていためがねがあります。その方は、目があまり良くなくて、中で掛けることもありました。倍に文字を見る虫めがねも別にありました。すると、目がいくつでしょうか。本来持っている目、 めがね 2ケ、そばにさしためがねと都合 7ケ個です。めがねをそのように使って、何かをしていているようだったので、見たらギリシヤ語を勉強していました。皆様、ギリシヤ語を知っていますか。ものすごくむずかしいのです。むかしにギリシャが世界を征服した理由があります。字がものすごく科学的です。学ぶのに若い神学生は、半分死にます。今、それを暗記するために、私の妻も今、半分死にそうな思いをしています。それを勉強していたのです。私が驚いて長老、これはギリシヤ語ではないのかと尋ねました。なぜ勉強するのかとたずねました。返事がより笑わせました。聖書を深く見るために、原文を見なければならないと言いました。今、習って読んでいるのかとたずねたら、少しずつ読んでいると言いました。本当に申し訳なかったのです。神学院に通う時、ギリシヤ語の試験を受けるために勉強して、卒業と同時にみな忘れてしまいました。それを見たのです。違うんだな。皆様、祝福を受けるうつわを準備しなければなりません。
 
・そして、私たちは世界福音化をしなければならないために、言葉もちょっと格好良いようにしましょう。可能ならば、私たちの働き人は、職分者、役員は、話もちょっと格好良いようにしましょう。言葉もできるだけ祝福を話して、できれば人を踏みつける話はせず、祝福することを話しましょう。本当です。 '山荘の女性'を歌った歌手は山荘で死にました。祝福を受けようとするなら、先ず一番に口から変えなければなりません。本当です。皆様、エルビス・プレスリーを知っているでしょう。有名な歌, '落葉によって行ってしまった愛' を歌って38才で死にました。その歌をチャ・ジュンラがリバイバルして歌って、30代で死にました。米国では、誰か歌手が死んだ時、悲痛な歌だけ歌ったのですが、本当にそのようなことがおきたのです。箴言6:2に 'あなたの口のことばによって、あなた自身がわなにかかり'と言われています。言葉も素敵になれば、考えも格好良いということです。そして、私達が世界福音化をしなければならないために、外形も格好良いようにしましょう。私はこのように生じて出来ないけれど、あなたがたは格好良くできるでしょう。贅沢する必要はありません。ちょっと格好良いようにしましょう。女の人もあまり悪霊のようにして通わず、ちょっと格好良いようにしましょう。そのように世界福音化をするのです。世界福音化をうわべで見るのです。夫にいろいろ言わずに、女の人は、内と外を格好良いようにするならば、殆どなるようになっています。私が前に話しましたが、女の人は、内側は日ごとに美しいことを研究しなければなりません。そして、外形はちょっときれいにしなければなりません。ちょっと新しくしましょう。毎日変な顔をしていてはだめです。仕事をちょっとしても、格好良いようにしましょう。つめだけ長くして通うのではなく、仕事をちょっと格好良くしましょう。なぜでしょうか?
 
・私たちは、世界福音化の主人公として呼ばれました。できればそのようにしましょう。私はどこに行っても、人々を激励する話しをします。私たちの秘書、ホテルに行けば、値切りません。できればたくさん与えようとします。みな値切って小言を言うのですが、私は絶対にそのようにしません。封筒にお金を入れてあげます。この人たちが、ものすごく感動を受けるのです。一度は職員が多いので、計算して封筒にお金を入れてあげました。いつでもそのようにします。なぜでしょうか? どうせなら、格好良くお金を使うのです。私一人で使うべきでしょうか。ある変な人々がきて、お金 50万円を封筒に入れて、ホテルの人を誘惑したのです。柳光洙牧師と対話することを、全部、録音してくれと言いました。この人がしないと言いました。そして、私に知らせてくれたのです。私が普段の時、その人を無視したとするなら、値切っていたなら、誰かがそのようなことを与えながら頼めば、することができたでしょう。結局、何でしょうか。私に益になります。私達が与えることが、私に益なのです。子ども達を育てる時も、両親が子ども達にあまり小言を言ってはだめです。それも子ども達の目と心を広くしてやらなければなりません。素晴しいうつわに準備しましょう。女子にだけして申し訳ないのですが、男子も素晴しい男子になりましょう。後のほうにいる男の人たちも記憶してください。素晴らしい人になりましょう。今、前のほうにいる女の人に話しましたが、後にいるのに男の人たちがより良くしなければなりません。女たちは、男たちがすることに従ってできます。下手すると老いて、ご飯ももらえなくなります。男子が良い姿がなければなりません。妻が見る時、夫が素敵だ、他に行くのではないかと不安だと考えるほどでなければ、良い姿もないと感じられればだめです。祝福受けるうつわを準備しましょう。そのように一年を送って、ダビデのように大きい祝福を受ける皆様になることをイエスの名前でお祈りします。
 
<<契約の祈り>>
 神様に感謝申し上げます。ダビデのようにうつわを用意するようにさせてください。私たちの生活と信仰と経済哲学が正しく立つようにさせてください。福音で完全に勝利した私達に、この祝福を味わうようにさせてください。イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン