学院福音化:2008年1月22日  場所:ソウルイエウォン教会


2008年2月-ヤコブの手紙



(録音資料)
序論
▲第1課 信仰の知恵がすべての解決の開始です。ヤコブ1章2〜3節を見れば、私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
▲ヤコブの手紙は、とても律法的だというように話した人がいます。ヤコブへの手紙は、聖典ではないのに入ったのではないのかと話した学者がいます。テルトゥリアヌスという学者は、ヤコブへの手紙を一度も引用したことがないと言われています。他の聖書7千ヶ所越えて引用をした時、ヤコブの手紙からは一度も引用しなかったという記録があります。
▲ヤコボの手紙は、とても行いを強調したのではないか。そのように言う人もいます。聖書は、本来たくさん記録されていました。しかし、この聖書が一つにまとめられる時、聖霊が確かに働かれたと私は信じています。
▲真に伝道者ならば、伝道してみれば三つのことが引っかかります。
(1)救われた人も過去、運命による体質がそのまま残っていることが分かります。
(2)そして、なかなか霊的問題が解決にできません。認めるでしょう。
(3)そして、外からは、必ず伝道する人に迫害を加えます。この部分を越えて立てる生き方が必要です。
▲私はヤコブの手紙を見て、とても重要だと思います。必要だから神様が聖書の中に置かれるように働かれたと確信します。それで、私たちが主の霊で充満する時だけ、勝つことができ、癒されることができます。
▲とても重要な使命をモーセに与えられました。80才がなるまでは知らせられませんでした。ホレブ山で聖霊充満を受けた時、その時に知らされました。マルコのタラッパンでの世界的な働きも、聖霊充満以後に起きました。そして、初代教会を見ると、アンテオケの門が開かれた時も、ステパノが聖霊充満したと出ています。私たちが詳しく見ると、使徒の働き19章を見ると、あなたがたが信じた時、聖霊を受けたか、このように記録されています。そのことあった後に、ツラノのみわざが起きます。私たちが主の霊に満たされる時だけ、体質も変えられて霊的問題も癒されます。
▲そのことのために、私たちには必ず規模が必要です。それで、皆さんは今年には勝利できる規模をはっきりと握らなければなりません。そうでなければ、救われたのですが、上の3つのことにやられるようになります。これがある面で伝道よりさらに重要な、私たちの最後の戦いだと見ることができます。確かに救われて、伝道の働きが起きるのに、私の過去の体質に勝てません。これほどメッセージを握っているのに、霊的問題が解決にならないということです。そして多くの迫害がずっと起きます。それで、必ず必要な規模をヤコブの手紙で話したのです。それでもう一度言いますが、今回の集会で、私たちのレムナントに、ここに対する話をしました。成功者の体質を準備しなさい。そうしてこそ、勝てます。そして、時代を生かす体質を準備しなさい。
▲成功者の体質の中の三つが違います。
@考えが違います。
Aそして、現実を見る視角が違います。
Bそして、この規模、生きる方法が確かに違います。
それで、福音に根をおろしてこそ、勝利することができるのです。その勝利は、世界を変えるほどのものに変わるようになっています。それが私たちの今回レムナント集会のメッセージでした。
▲私たちがこのようにしていくのに邪魔になることがいくつかあります。一番最初が何でしょうか。試練が来るのです。ところで、試練に会う時に見れば、その人が分かるでしょう。今日、ヤコブの手紙には、色々な試練にあったら喜びなさい。その程度ではありません。この上もない喜びだと思いなさい。
▲私たちの信仰の知恵が、すべての問題解決の開始なのに、試練に関する話が出ました。それで、1講が信仰の知恵です。これがすべての問題解決の開始です。

第1課 信仰の知恵がすべての解決の始まりです
ヤコブ1:1〜8│私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。(2〜3)

1.試練に会う時に、最も良いことを得ることができます。
▲試練はヤコブの手紙1章に出てきたのですが、神様が与えられる試練があります。それは、私たちを成長させるための試練です。神様がアブラハムを試みようと。それは英語でtestと言います。しかし、悪魔が与える試みもあります。それはtrialと言います。それは悪魔が私たちを打ち倒そうと試みに会わせるのです。しかし、この二つが神様の御手にあるということを知っているべきです。
▲それで、私たちが時々、試練を受ける、こういう言葉を使います。また、試みられる、こういう言葉を使います。また、試みを受けて、こういう言葉を使います。試みに陥って、こうした言葉も使います。それで、試みを受けるということは、誰もがみな受けています。ところで、試みにあったということは、そこに引っかかるのです。試みに会った。これは負けてしまったことを話します。それで、私たちはここに対する重要な答えを確かに持っていなければなりません。試みられる時に、神様は最も良いものを与えられます。最も良いものを、試みられる時にくださるのです。確実です。それで、皆さんがこういう霊的問題を持った人々は、一番最初に回復しなければならないことが、感謝です。そして、反対に霊的問題が激しい人は、一番多いことが不平です。しかし、霊的問題に勝てる一番良い方法が感謝です。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。なぜなら、信仰がためされると忍耐が生じるからです。忍耐という言葉は、うれしく思う時、耐えられるでしょう。忍耐。
▲ところで、単に忍耐するのではありません。神様が私たちの足りないことを成し遂げようと、試練をくださるのです。
▲それで試練に会うときには、揺れてはなりません。神様が私たちの足りないことを満たそうと試練を与えられたのに、揺れたら、どうするのですか。それでここに負けるのです。皆さんの教会に試みがどれほど多いでしょうか。だから、しばしば陥るのです。皆さん個人的にもどれくらい試みが多いでしょう。普通、私たちが、このようにタラッパンするのにも、行ってみると、信仰、恵みより試みがさらに多いのです。ある集いに行ってみると、試練充満するようにしてあります。そのようにみな陥ってしまうことがあります。それで、これが最初にそろえなければならない契約です。
(1)試練に会う時、全て喜びだと思わなければなりません。信仰がためされると忍耐が生じます(ヤコブ1:2〜3).
(2)忍耐を完全に働かせなければなりません。これは忍耐を通して、何一つ欠けたところがないようにされるためです(ヤコブ1:4)。
(3)試練に会う時、疑って揺れてはいけません(ヤコブ1:6〜8)。
@疑う人は、風に吹かれて揺れ動く海の波と同じです(ヤコブ1:6)。
A疑う人は二つの心を抱いて、すべてのことを決めない人です(ヤコブ1:8)。

2.試練に会う時、言い訳をしてはいけません。
▲失敗者の特徴があります。しばしば言い訳します。そして、他の人のことをしばしば話します。他の人のせいで。そして、不平を言います。これが失敗者の特徴です。そのために言い訳してはなりません。皆さん一人を意識しなければなりません。皆さんのような重要な人が出て来たら難しいから、サタンはずっと攻撃するでしょう。試練がくる時は、神様は解決することができるからです。サタンは、皆さんがどうなることを望むでしょうか。
▲それで、身分が低い兄弟は自らの高さを自慢して、富んでいる人は自らの低くなることを自慢して、たいした話しではないようでしょう。しかし、そうではありません。教会で、とても成功した人、一流大学を卒業した人、家系が良い人が教会に来ることがあります。これは何で教会がなぜだ、タラッパンがなぜこのようなことで、こうなると、皆さんは絶対に答えを受けられません。私のような者が、こういう現場を見るようになったので本当に感謝です。小学校も正しく出られなかったあの人が、どのようにあのように信仰生活ができるのだろうか。これを悟らなければなりません。私がたとえ外では社長だけれど、教会にきたら、お手伝いもしなければならない。昔に釜山にものすごい女性の会長でしたが、教会に来たら皿洗いをしていました。富んだ人は、自らの低くなったことを自慢しましょう。身分が低い人々がどれくらい大きい祝福を受けたでしょう。皆さんが、あのものすごい人と握手もして。高くなったことを自慢しなさい。
▲それでは1章12節に、いのちの冠が約束されています。13節に試練に会う時、神様を恨んだり言い訳してはなりません。神様がなぜ私をこのようにされるのですか。このようにするなということです。そのような人が多いのです。神様が生きておられるのに、このようなこともあるのか、このように言います。
▲1章14節〜18節を見れば、試練の大部分は、自分からきたことを知らなくて、神様に恨んで、このように言われています。
(1)貧しい兄弟は、自分の高い身分を自慢しなければなりません(ヤコブ1:9)。
(2)富んでいる人は、自分が低くされることを自慢しなければなりません(ヤコブ1:10)。
(3)試練に耐え、耐え抜いた人は、約束されたいのちの冠を受けることができます(ヤコブ1:12)。
(4)試練を受ける時に、神様を恨んだり、言い訳してはいけません(ヤコブ1:13)。
(5)試練の大部分は、自らの欲のために来ることです(ヤコブ1:14〜18)。

3.みことばを聞いて行う時、最も良いものを得て、試練の中で最もはやく、そして正しく勝利できます。
▲それで、みことばを聞いて行う時、癒されるのに、最も良い方法です。どのように癒されるのでしょうか。私たちは解決する時、ひどい苦難が来た時に解決できることがあります。また私たちは病気になったら、すぐ悟ります。
▲それよりもっと良いのが、神様のみことばの中で悟ることです。このみことばを聞いて行う時、最も癒しがはやいのです。それで、どのようにみことばを聞いて試練に最もはやく抜け出すことができるのでしょうか。
▲聞くには速く、話すにはゆっくりとしなさい。私たちは普通、反対でしょう。聞くのは聞き取れなくて、話すことはよくして。これがもう試練に勝てない方法です。聞くのをはやくわからなければならないのに、聞くことは遅くわかって、話をはやくしてしまいます。それで、聞くには速く、話すことはゆっくりとしましょう。
▲また怒りの心を持っていては、神様のみこころを悟ることはできません。20節にそう言われています。
▲21節以後を見ると、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。また、みことばを実行する人になりなさい。ところで、聞くには早くと言われたのですが、聞くだけで行わない人は、自分自身をだます行為と同じです。それは、まるで鏡を見ても自分を置いておくことと同じです。鏡を見ると、変なものがついていました。それでは、はやくふかなければならないのに、忘れてしまって〜そのままでいるのと同じなのです。また、ある人は、まあ私は何と、自ら敬けんだと思うのです。神様が受ける敬虔は、力がない者を世話して、この世から自分を守ることだとなっています。
(1)聞くには早く、語るにはゆっくりとしなければなりません(ヤコブ1:19)。
(2)怒る心を持っていては、神様のみこころを悟ることができません(ヤコブ1:20)。
(3)柔和にみことばを受けて行なう人にならなければなりません(ヤコブ1:21〜27)。
@聞くだけで行わない人は、自分をだます行いをすることです(ヤコブ1:22)。
A行わない人は、鏡を見ても、自分の顔がどうだったのかを忘れてしまう人と同じです(ヤコブ1:23〜24)。しかし、実践する人は恵みを受けます(ヤコブ1:25)。
B自分が敬けんだと思いながら、口にくつわをかけない人は、むなしい宗教をすることです(ヤコブ1:26)。
C神様が受けてくださる敬けんは、力がない人の世話しながら、世の中で自分を守ることです(ヤコブ1:27)。▲結論は何でしょうか。このみことばを捕まえて、みことばの中に入る行いを言います。どんな試練がきても、神様のみことばで解決できて、その中に答えがあります。試練にあったら、この上もない喜びと思いなさい。これが最初です。私が見る時は、ヤコブの手紙は、とても重要です。何が重要なのですか。教会に行くと、全部、ここに陥るのに。信徒の大部分の揺れる人々は、試練に陥るのに。初代教会や勝利した人々は、試練に陥ることはありません。すでに答えがみな出ているでしょう。必ず足りないのを満たされるためです。
▲今晩から、どのようにすべきなのでしょうか。この上もない喜びと思いなさい。試練がきたのに、それでもですか。後にあることを、分かれば大丈夫です。必ず神様はこの試練を通して祝福をくださると言われたので、感謝するのです。少なくとも、霊的問題に勝てる伝道者は、これを見られなければなりません。サタンに勝てる確実な方法は、すでにこれを分かっているから感謝が出てきます。失敗した人々は反対です。誰かのせいでどうであり、誰かはどうで。それが正しいのですが、そこに陥って、出て来ることができないのです。どのように無理に感謝できるのでしょうか。本当に考えれば感謝できます。神様が私にこれを悟るようにされて、滅びないように、試練をくださったのだなあ。神様が私に大きい答えを備えておいて、試練をくださったのだなあ。また、私が間違った試練を、神様は悟るようにされようと許されたんだなあ。それで、この話は神様に言い訳しないでということは、私たちは不信仰で神様がなぜこのようにするかと言うからです。しかし、信仰が弱い人はこのようにします。本当に不思議です。タラッパン伝道するのに、なぜ異端と言われるのだろう。伝道もしない人々がなぜ迫害するのだろう。そこに神様の計画が入っているのです。ところで、このやさしいことが、大部分の人々が悟れないのです。
▲もし私がそのようなことを十何年前に受けなかったならば、今、この運動をできません。皆さんに会えません。私は昔に気が動転しました。使命でもないのに、どれくらい、あちこちから来て下さいと言われたか、申込書を受けて正常な感覚ではありませんでした。ある時は、間違って教会2ケ所一緒に行くことになってしまっていました。だから、一ヶ所を取り消そうとしたら、みな待っているのです。それで、9時を過ぎて行きました。行って何をするのでしょうか。毎日、基礎を話さなければなりません。ですから、これでは何もできないということです。ところで、それは本当に弟子を捜し出すための神様の確実な方法ではありません。私の話が理解できますか。
▲皆さんは、神様の子どもなのに試練がきて、足りないことを、神様は満たされようとするのです。本当に悟りさえすれば、大きい試練が来たら、大きいうつわです。小さい試練きたら、小さい答えです。だれも小学生を見て微積分、積分を解けと言わないでしょう。ところで、なぜこの話を書いたのでしょうか。これを知らずに負けるからです。それで、皆さん、教会は今日から皆さんのために行く所ごとに試練がみな、なくなるように願います。行く所ごとに試練がなくなるべきで、皆さん行くと生じれば困るでしょう。率直な話で、ある人は対話するのが怖い人がいます。なぜなら、必ず見れば試練を探そうと、試みにあって、対話するのが難しいでしょう。そのような人がいるのです。どのようにしてか、しっかりと他人の弱点を記憶しておいて、試みに会おうとするから、人は完ぺきに神様のようにはできないでしょう。
▲本当の弟子とは何でしょうか。ちょっと安らかでなければならないでしょう。ちょっと私が失敗しても、私のために祈ってくれて、そのようでなければならないでしょう。やたら小さいことに試みにあって、言葉で試みにあって...そのような人がいます。レムナント7人の特徴が何でしょうか。どんな試みも通じませんでした。レムナント7人がした事は何でしょうか。行く所ごとにすべての試みをなくしてしまったのです。試みを祝福に変えてしまいました。試みを答えに変えてしまったのです。試みを祝福の力に変えてしまいました。そこで神様の計画を発見したのです。もし、ここに陥ってしまうと、私たちは何もありません。レムナント7人に試みを与えたように見えたのですが、みな答えだったのです。
▲それで、地教会運動、伝道運動の答え受ける人の最初の条件が何でしょうか。試みに勝てなければなりません。私が見る時は、ヤコブの手紙はとても重要です。

第2課 神様の愛で行うのが生きた信仰です
ヤコブ2:19〜26│たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。
▲二番目です。私たちは神様の愛を持って行う信仰が生きた信仰です。下手すると誤解します。行いがある信仰でこそ生きた信仰です。ところで、本文の背景は、どうもそうではありません。ヤコブ1章からずっと読んでみて下さい。神様の愛が強調されて出てきます。それをもって行う信仰が生きた信仰だということです。
▲教団は話しませんが、何年か前に釜山であることが行われたのでしょう。人が試みにあって、しばしば人間主義を使うなら、終わりがありません。世の中では、おもしろいことですが。牧師と長老と争いました。牧師と長老と争うことが何があるでしょう。明らかなことですが。明らかだから、毎日、ポジション争い、明らかな意見争いであるのですが、譲歩してしまえば良いでしょう。この争いを継続したら、教会の中に牧師派、長老派ができました。それで、ますます争っていたら、戦いも充満なるのでしょうか。本格的に争ってしまったのです。それで、どんな段階まで行ったかというと、後に階段から牧師が説教しに上がるのに、長老がついて行きながら、行けないようにしたのです。礼拝時間になったら、上がらなければならないでしょう。後に付いて行きながら、行けないようにさせたのです。礼拝をささげてからしよう。言う言葉があれば、礼拝をささげた後にしろ。あなたは礼拝も何も必要ないから、降りてきなさいと言い争ったのです。それで、のけと長老を押したら、頭を打って死んでしまいました。結果的に牧師が長老を殺してしまったのです。これが話になりますか。聖日に。殴って死んだ人も相当なのですが、殴る方も相当です。
▲私はそれが聖霊充満だとは思いません。私は、それはサタンがした事だと確信しています。それは簡単な試みではないと思います。ですから、私たちに一番、癒しと聖霊充満の壁が試みなのです。その次が人です。皆さんが聖書ずっと読んでみて下さい。神様は愛ですという言葉が出ます。それを持って行う信仰でこそ生きた信仰なのです。すべての愛には条件があります。異性、家族、友人、みな、条件があります。神様の愛には条件がありません。それをアガペーの愛と言います。それが入らない以上は解決されません。それで、私たちはややよく知らなければ、そのような試みに陥るようになります。

1.人に対する時に差別してはいけません。
▲それで最初は、何でしょうか。人を差別して対してはなりません。なぜそうですか。みな神様の子どもです。会いたくなくても、天国に行ったらまた会うようになります。差別してはなりません。ところで、ここでは何と記録されているでしょうか。
▲栄光の主であるキリストに対する信仰を持った人にならなければならないと2章1節に話しています。富んだ人、貧しい人を差別してはなりません。差別しますか、してはなりませんか。ところで、本当に難しい話です。少し気をつけないと難しい話です。私のように場合にも、気をつけないとそうなって、さらになることがあります。例えば、秘書が、お金も多くて成功した人で、牧師先生と食事を一度としたいと言っています。そうしたら、自分も知らずに日を決めなさいと言っています。本当に暮らすこともできない人が、いたずらに日を決めて会いたいと言うと、何のためにそうするのかと言います。私もそうなります。私たちが気を付けけて、考えをよくしなければ、困るようになるのです。ところで、福音を悟ったら変わるでしょう。私は今まで伝道運動をしたのですが、金持ちが献金をよくしたことはありません。本当に不思議です。ないのか分からないのですが、とにかくしません。むしろ、貧しい人々がよくします。そして、伝道者のために切に祈る人はむしろ貧しい人々です。
▲私たちは、やや下手すると霊的な目が暗くなります。何、あの人たちは、何をするのか。そうではありません。人を差別しながら、悪い考えで判断する人になってはいけないと2章4節におっしゃっています。こういうことまで言われました。神様は貧しい人を選んで、信仰に富む者とさせると2章5節におっしゃいました。神様はご自分を愛する人の約束された国を相続されると2章5節におっしゃっています。あなたの隣人を、あなたのからだのように愛すのが最高の律法だと2章8節に言われています。
▲伝道者である皆さんは、教会に行ったら、人を差別してはなりません。皆さんの子どもで、少し足りない子どもは少し神経を使うでしょう。差別してはなりません。神様の愛がない行いは死んだ信仰です。その通りでしょう。これは、神様の愛を受けていないのかということです。どうしてヨセフが兄を許したのでしょうか。神様の愛をたくさん受けたからです。どうして、ダビデがサウル王のために涙を流したのでしょうか。ダビデは神様の愛をたくさん受けたからです。私の力になる主よ。私は主を愛します。それが本当に受けた人ならば、できます。
(1)栄光の主であるキリストに対する信仰を持った人にならなければなりません(ヤコブ2:1)。
(2)富んだ人と貧しい人を差別してはいけません(ヤコブ2:2〜3)。
(3)人を差別しながら悪い考えで人をさばく人になってはいけません(ヤコブ2:4)。
@神様は、貧しい人を選んで信仰に富む者とされます(ヤコブ2:5)。
A神様は、ご自分を愛する人に約束された御国を相続させてくださいます(ヤコブ2:5)。
(4) あなたの隣人をあなた自身のように愛すのが最高の律法です(ヤコブ2:8)。
2.神様の愛がない行いは死んだ信仰です。
▲それで行いがない信仰は有益ではありません。2章14節、16節にそう言われています。17節に、それ自体が死んでいるのです。神様の愛がある信仰は、行いがある信仰は、その信仰が生きた信仰です。それと共に、二人を例をあげました。アブラハムを見なさい。神様を愛する心なしにイサクを捧げられるでしょうか。遊女ラハブを見なさい。神様の契約を信じて愛さないならば、どのようにそのような事ができるのでしょうか。
▲このように、本文では二人を例をあげました。アブラハムを例をあげて、ラハブを例にあげました。ところで、私たちはそのまま一行で分かりますが、今日の本文を見ると、このラハブという人が、神様の多くの愛を味わったと見られます。これが今日の本文です。
▲私たちは必ず悟って行わなければならない信仰が生きた信仰です。何を悟らなければならないのでしょうか。私たちは今、何に根を下ろしているのかが重要です。
(1)行いがない信仰は、役に立たない信仰です(ヤコブ2:14〜16)。
(2)行いがない信仰は、それ自体が死んだ信仰です(ヤコブ2:17)。
(3)神様の愛がある信仰は、行いがある信仰です。その信仰は生きた信仰です。
@アブラハムは、息子イサクを祭壇に捧げることによって、彼が行ったことで義と認められました(ヤコブ2:21〜23)。
A遊女ラハブは、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められました(ヤコブ2:25)。
3.必ず、悟って行ってこそ、生きた信仰です。
▲行いがない信仰は死んだ信仰です。しかし、律法的に行うのは無駄な信仰です。どのようにしなければならないのでしょうか。福音的に行う信仰が真の信仰です。なぜでしょうか。神様が私たちに福音をくださったので...そうでしょう。
▲それで、皆さんが人を見る時、ちょっと足りないように見えても、神様があの人のため十字架に血を流されて、救われた。そして、さらに重要なのは、何でもないようでも、その後にある答えがより大きいのです。何の力なく見られるおばあさん1人がイエス様を信じるようになりました。何人かの家族が参加したのです。町内で何のすることもなくて、とても悪口をよくする悪口を言うおばあさんとしてうわさが立っていました。この方がイエス様を信じるようになりました。何かその人に価値があるのでしょうか。そうではありません。全町内を伝道をするそうです。多くの人を救い出しました。そして、家族、息子、娘がたくさんいたのですが、一気にみな救い出しました。この方は証しも確かにします。昔にけんかをよくしたのか、とてもけんかのように。娘が三人いるのに、婿をみんな呼んで、私がイエス信じるようになったので、お前たちもイエスを信じなさい。イエスを信じないというなら、明日から離婚しなさい。それでおじけづいて、みなきたのですが、この人たちが、みな恵みを受けたのです。それで、一度は私たちのそばの隣教会で私を困らせると牧師のうわさが立ったのです。それで、このおばあさんが、怒って、殺しに行くといって来たのです。それで、私が耐えてくださいと言いました。イエスを信じても性質は変わらないのです。ところが、ものすごく実が結ばれました。普通、一般の牧師ができないほど大きい影響を与えました。
▲それで私たちは、簡単に話せば福音的に行うのです。神様の愛で行うということです。
(1)行いがない信仰は死んだ信仰です。
(2)律法的に行うことはむなしい信仰です。
(3)福音的に行うのが生きた信仰です。

第3課 ことばは成就して、未来を決めます
ヤコブ3:1〜12│私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。(2)
▲この中で、私たちに最も問題になることは何ですか。この言葉がまた問題です。それで、言葉に対する話が3章に出てきました。
▲言葉がなぜ重要なのでしょうか。私たちの考えから出るからです。ところで、考えから出て、これが何になるのでしょうか。習慣になります。ここから言葉が出るのです。これが何になるのでしょうか。私たちの体質になります。これが今は私たちのたましいに深く根をおろしてしまうのです。ここから出てくるのが言葉です。それで、言葉はものすごく重要なことです。皆さんは言葉だけ正しくしても、世界福音化が可能です。ところで、私たちが皆さんも、人生を歩んできたでしょう。必ず見れば、語り口が他人のその弱点を引っぱり出して話す人がいます。それもとてもレベル高く、大切にするようにしながら引っ張り出すのです。ところで、必ず失敗しました。しかし、見ると、心より他の人がだめなのを残念に思いながら、このように生かそうとするこういう人がいます。ただ牧師、長老に対する良くない話といえば、それが心が痛くて、こういう人がいます。信徒が何か失敗をしたら、残念がって、こういう人がいます。ところで、大部分見ると、こういう人々が答えを受けます。
1.ことばで失敗がないように努力しなければなりません。
▲それで言葉に失敗がなければ、正常な者です。それで言葉が多い、先生になった人は気をつけなさいと言われました。この話は、教師たちがみな気をつけなさいということではありません。言葉を私たちが本当に多くする先生になった者は、気をつけなさいということです。言葉は全身を引き回すくつわとなります。そうでしょう。これを見れば、正しいでしょう。全身を引き回すくつわとなるのです。箴言6章2節を見れば、あなたの口のことばによって、捕えられるとなっています。このことが、とても重要です。それで、皆さんが昔の話しで、韓国にも良い言葉一ことで、千両の借金を返す話があるでしょう。ある人は、言葉を変にして、千両の借金をするのです。これがそんなに難しいのでしょうか。だれかが何かいろいろ話をしても、ひとまずそれを受け入れて、後にいくらでもできるでしょう。
▲昔、私の父は、勤勉でした。商売をよくしました。本当に勤勉で、明け方には醤油を売って、夜には油を売って、昼間には店をしていました。ところで、昔には見ればノートがありました。それが何かというと、近所の人々がきて、後払いで持って行くのを書いておいたのです。ある方がきて、我が家でモチを食べるのです。そのように食べているのに、私の父が行きます。お金があるでしょうか。このようにしましたと見せます。この人は、頭にきて、いやなぜですか。あなたは前の後払いも返さなかったではないですか。私の父は、そのような性格です。本当にちょうど面前にノートを当てて、お前はこれを返したか。だから、私の母が、そうしてはならないと言っても、私の父は、そのようにします。だから、その方がもう老いた独り者のおじいさんなので、食べて投げて行くのでした。それが私の父のキャラクターです。そのためか、一生懸命にしたのに、53才で亡くなりました。このように、私の父の性格と人格がそうです。
▲だからこの言葉が、すべてなのです。言葉があなたのくつわとなります。そして、言葉があなたの全身を引き回すくつわとなるのです。それと共に、言葉はすべてのからだを制御するようになります。この舌は、大きい船の小さいかじと同じです。かじは小さいけれど、船を動かします。山に大きい火事が起こるのも、小さな火から始まるのですが、その火が誤ってしまえば、大きい山に火がついてしまうのです。そして、ここに見ると、飼い慣らさない舌は、悪で殺す毒だとなっています。ちょっと言葉を正しい言葉に飼い慣らして言うべきで、そのまましてしまえば、そのまま毒になります。これぐらい言葉が重要です。また、言葉は一つの口から出るのに、これが賛美もできて、呪いもできるのです。どのように、同じ泉から、甘い水、苦い水が出せるのでしょうか。言葉はそうすることができます。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。このように話をしました。ところで、言葉はそうではなくて、それなのです。言葉は、ぐるっとさかさまになって出ることができます。言葉がどれくらい重要でしょうか。
▲それで、私たちが言葉だけ気をつけても、多くの働きができます。それで、私は秘書にいつもそのような話をします。ひとまずだれかから電話がきたら、無条件にOKしなさい。そうしておいて、後から調節すれば良いのです。初めからノーと言ってしまえば、壁ができてしまうでしょう。
▲私は、昔に米国に行きました。本当に、とても真実だしても、正しいことではありません。私が今でも思い出します。ニュージャージー集会をしたのですが、その日、牧師、聖徒もとても恵みを受けました。それで、帰りながら、キム・チョルヒョン牧師が度々お願いするのです。室長に。その時、イ・コンソン牧師でした。牧師先生! このように牧師先生の集会を一度されたら、私たちが恵みを受けるのに、米国でしばしばしてください。それで、とにかく米国ではしばしば集会をしてください。それでこそ、私たちが生きるのですと要請をしました。何か言うべき言葉でしょう。可能ならばそのようにします。このように言うべきなのに、時間がありません。全世界のスケジュールが一杯になっています。米国にだけ弟子がいるのでしょうか。これらの言葉は、確かに正しい言葉です。それで、私が静かにキム・チョルヒョン牧師の顔を見て、その時から、口を閉じました。終わって帰る時まで口がへの字に曲がっていました。いや言葉がどれくらい影響を与えるでしょうか。そのようにします。私もそのように考えます。米国は重要です。そうしておいて、聞かなければ良いのです。言葉、それがどれくらい重要でしょうか。言葉をそのようにして、いくら正しい言葉でも、それではだめです。
▲その上に、ある人々は歩き回りながら、教会がさびしくて牧師先生が、私にさびしくさせて、長老がさびしくさせてと言って回りました。それは完全に精神病の水準です。これは絶対に勝利できません。全身を引き回すくつわになってしまいます。そうでしょう。
▲ですから、ある人は、言葉でも子どもたちも、朝お母さんがご飯を出しながら、お母さん、早く起きて食事の仕度をしてくれて、ありがとう。こう言う子どもたちもいます。ご飯が冷たくて、食べられない、こういう人々がいます。だから、味もまずくて、それではみな、同じ食べ物でも、する人は腹が立ちます。特に、教会にはたくさん集まるのに、行って教会で言うのです。私たちの人間が言葉でもって、ほとんどみなするのに、これをよくできなければ人生がそのとおりになってしまいます。
▲私たちがするプログラムの中で90%以上が言葉なのに、言葉を間違ったり、むやみにするということは、人生90%をひとまず滅ぼすことです。そして、皆さんの言葉は、霊的にもとても関係があります。言葉を見れば、これをいつも見れば、否定的な人は否定的な人生になります。他人には役に立ちます。いつも批判する人は、違ったことには役に立っても、自分には損です。
▲そのような話しをしなかったですか。私が不思議に、釜山の人々は、慶尚道(キョンサンド)の人々は、親しい人に悪口を言います。久しぶりに会ったら、おい!お前とは久しぶりだな。このようでなければならないのに、まあ病人、どこかに行ってきたか。会って、友人を見て病人だと。そのためか、慶尚道(キョンサンド)統計に出てきました。慶尚道(キョンサンド)にハンセン氏病の患者が最もたくさん出ています。親しい人なのにそう言うからです。そして、子どもが産まれて、悪口を言って、舌がいっぱい長く抜ける奴、このように言うのです。これを通訳すれば、舌がいっぱい長く出て抜ける。慶尚道(キョンサンド)の言葉で舌を「セーラ」と言います。舌を抜き出そうとすれば、首を締めなければなりません。驚くことに、首をくくって自殺した人が、慶尚道(キョンサンド)で最もたくさん出ました。この話は、霊的にも関係あります。あの有名な米国の歌手、歌謡20世紀歌手という人が、落葉について行く愛を歌って、死んでしまいました。歌もよく歌った人です。ですから、その歌を韓国でチャ・チュンナクという歌手がリバイバルして歌ったのですが、その人も死んでしまいました。そして、どこか静かな所に行って悲しい歌を歌う人がいます。こういう人は悲しくなります。
▲だから、私たちの言葉が、私の人生全体を治めるのです。できれば、家族にも、子どもに良い話、祝福して下さい。あなたは勝利します。このようでなければならないのです。どうして、あなたはそんなのなのか。ですから、言葉です。夫を見ても、あなたは神様が祝福されます。私が祈っています。このようでなければならないのです。後ろの家の誰かを見なさい。だから、夫が頭にきて、そこに行って暮らせ。このように同じ言葉なのに、このようになります。
▲それで、昔に夫婦を癒すのに、そのようなことがあったでしょう。釜山である執事の奥さんが、夫婦の癒しをするため訓練を受けに来ました。そこに行ったところ、教えてもらったのです。ご主人にありがとう。あなたを愛します。神様があなたを祝福されます。そのように言いました。それで、ご主人が行く時、決心して言葉がよく出てこないのに、がんばって愛します。このように言ったそうです。だから、慶尚道(キョンサンド)の男は変だから、それではありがとう、こう言えば良いのに狂ったのか、と言いました。これがまた、慶尚道(キョンサンド)とソウルとの差異点です。ソウルの人々は、奥さんに良くします。慶尚(キョンサン)の人々は奥さんに変にします。愛すと言うと、狂ったのか、声がねじれていると思いながら。私たちには、言葉がどれくらい重要でしょうか。
▲特に地位が高い人であるほど、言葉を上手にしなければなりません。また、皆さんが難しい人に、力になる言葉をかけてあげたとすれば、忘れません。皆さんは知らずに相手に傷を与えたのですが、その傷は忘れてしまいません。そして、皆さんがいくら忠誠にしても、教会に行って長老や牧師など、上の人々の自尊心が傷つく言葉を言えば、忘れられません。何をしにそのような話をするのですか。力を与える言葉を言って、難しい時、手助けする言葉をかけなくてはなりません。話すのにお金がかかるのでしょうか。そのまま良いと話せば良いでしょう。あえて言葉を変にする人がいます。
▲そして、必ずほろびる人々はこういう人々です。他人の良くない話はひとまずしてこそ消化できる人々がいます。そして、他人の弱点のようなを後で言う時に、新陳代謝ができる人々がいます。それは、確かにその人がほろびます。そして歩き回りながら、他人の話をとことん言って歩き回る時、力がわく人いるでしょう。必ずほろびます。言葉は重要です。祈りもです。神様に話すのが祈りではないでしょうか。
(1)ことばが多い先生になった人は、さばきというわなに陥るようになります(ヤコブ3:1)。
(2)ことばは、全身のくびきになります(ヤコブ3:2)。
(3)ことばはすべてのからだ(人生)を制御します(ヤコブ3:3)。
@舌は大きい船を調整する小さいかじと同じです(ヤコブ3:4)。
A舌は大きい山を火事にする小さい火種のように、大きな威力を持っています(ヤコブ3:5)。
(4)制御しない舌は、悪であり、殺す毒です(ヤコブ3:8)。
(5)ことばは、同じ口から賛美とのろいを共に出てこさせます(ヤコブ3:9〜10)。
@しかし、一つの泉から、苦い水と甘い水が一緒に出てくることはできません(ヤコブ3:11)。
Aいちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりできません(ヤコブ3:12)。

2.上から来る知恵を得なければなりません。
▲それで、私たちはこの言葉は、それこそ重要なことだから、私たちは上で来る知恵を持たなければなりません。そのように聖書はおっしゃっています。良い行いを通して知恵の義と認められる行いをしなさい。
▲上から出たことでなく、地に属し、地から出たことが何だと説明されているでしょうか。ねたみや敵対心、争い、自慢、嘘、情欲、こういう悪いことは、悪霊から来たものだと確かにおっしゃっています。
▲しかし、上から出たことは、純真、冷え和、寛容、温順、あわれみ、良い実、義の実と言われています。
▲それで、皆さんが今からは今年には多くの人を祝福するように願います。皆さんの舌は普通の舌ではありません。キリストがおられる伝道者だから、祝福して下さい。ところで、私が知っていることでは、私は講壇で説教しながら、誤った人々、信徒を呪ったりしたことはありません。それは大変なことになることです。主のしもべ、牧師は、言えば成就するのです。それを少し信徒が間違っていると、呪う式で話してはいけません。
(1)良い行いを通して、知恵の柔和な行いを見せるべきです(ヤコブ3:13)。
(2)上からではない、地から出たことがあります(ヤコブ3:14〜16)。
@苦いねたみ(ヤコブ3:14)   A争い(ヤコブ3:14)   B誇り(ヤコブ3:14)
C嘘(ヤコブ3:14)         D情欲(ヤコブ3:15)
Eすべての悪いことは悪霊のしわざからきたのです(ヤコブ3:16)。
(3)上から来ることがあります(ヤコブ3:17〜18)。
@純真(ヤコブ3:17)    A平和(ヤコブ3:17)      B寛容(ヤコブ3:17)
C温順(ヤコブ3:17)    Dあわれみ(ヤコブ3:17)   E良い実(ヤコブ3:17) 
F義の実(ヤコブ3:18)
3.私たちの人生を治めるものがあります。
▲私たちの人生を治めるものがいくつかあります。その最初が考えです。描いてしまうのです。そして行い。これが私たちの人生を治めます。その中で、とても重要なのが言葉です。
(1)私たちの考えが人生を治めます。
(2)私たちのことばが人生を治めます。
(3)私たちの行いが人生を治めます。

第4課 世の友とならずに、主の力を味わいながら忍耐しなければなりません(待たなければなりません)
ヤコブ5:12〜18│あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。(13)
▲第4課です。四番目のことが、また重要です。私たちに四番目に来る重要な問題は何でしょうか。習慣です。私たちを霊的に恵みを受けられないようにするのが試みで、私たちにすばらしい癒しが起きる祝福を受けられないようにするのが人間関係で、私たち自らを倒す最も怖いのが言葉で、その次に私たちを倒すのが習慣です。それで、レムナントに今回メッセージしたのが、良い習慣を持ちなさい。成功者の習慣を持ちなさい。後には止められないことが行われます。失敗者の習慣を持てば、必ず失敗します。成功者の習慣を持てば必ず成功します。
▲このように見る時、私たちには重要です。ある方が米国で子どもを勉強をさせたということです。ところで、自分は知らなかったそうです。米国に行って、死ぬほど苦労しながら子どもの教育をさせたそうです。自分は米国で果物の商売のような物、クリーニング屋、そのような仕事をしたそうです。それこそ言葉が通じないのに、行って言葉を習うべきで、何かをすべきで、ほとんど死ぬほど一生苦労したそうです。これをもって息子を勉強させたのです。ところで、休みになって子どもが帰ってきたのですが、おかしいのです。それでも知らなかったそうだです。ところで、また会ったら、学校にまた行ったそうです。何か心配にはなったのですが、そんなに考えしなかったそうです。ある日、分かったそうです。ある日、警察署から連絡がきて見たら、子どもが深刻な麻薬患者でした。それで、この方がとても嘆いて、どうして、子ども一人なのに、このようになったのか。いっそ死んでしまえば知らないのに、生きているから、とても悩んで、これで他の人を避けて。私たちは誰でも二重三重生活ができます。ところで、これが激しくなる場合、深刻な場合には、私たちの良心、心、たましいがみな死ぬのです。それで、私たちも、レムナントも必ず記憶しなければなりません。誰でもあることなのです。これが過度になれば問題が来るのです。それで、私たちのレムナントは、このようなことに陥らないように手助けしなければなりません。おもに見ると、二重生活、霊的傷があれば、これで陥ってしまいます。お酒で人生を。これは食事で家でワインを、こういう話ではなく、酒で人生を滅ぼすのです。これがどれくらいかわいそうな人生でしょうか。そして、ある人は、どんな所に陥るのかというと、ギャンブルだったりします。そこに人生をかけて。ここに陥ってしまうと、これは深刻な中毒になると言われます。ある時は、ある人は自分の娘が登録金を持って学校に行くのに、それを奪って勝負してなくしてしまう人もいます。そして、これがまた浮ついた気持ちになって、やたら歩き回って。これが、そのように中毒性が強いのです。これは、お金であれ、何であれ、家からすべて滅びてしまいます。解決できないのです。そして、これと似ているのが麻薬です。ところで、本人が証明したのですが、TVで言っていました。麻薬より切りにくいのがギャンブルです。ギャンブルをする人々が話しました。顔を隠して言っていましたが、麻薬より切るのが難しいそうです。それで、この四つの中の一つに陥ってしまっても、問題がきます。そして、ある人は勤勉で、この四つみな引っかかる人がいます。これは完全にほろびてしまいます。解決がどうなるのでしょうか。
▲それで、皆さんは子どもたちもですが、何か行き過ぎてほめてはいけません。そして、とても行き過ぎた干渉をしもなりません。行き過ぎた干渉をすれば、何かが積もりますので二重生活になります。また、行き過ぎてほめれば、違うようになります。
▲それで、皆さんは幼い子どもたちが何かを拾ってきたら、それ持って置いて来なさいと言わなければなりません。なくした人々がどれくらい心痛いか。元の所に持って行くべきで、自分が持ってくることではないのです。このようにしなければなりません。それを良くやった。まあ、お前はこれをどのように拾ってきたのか。これがいくらなのか!こう言うのです。そうすれば、それがとても良いことだと思って、度々拾ってきます。拾ってきたら、境界線越えて拾ってくるのですが、それを盗みと言います。絶対にそれはだめです。私が幼い時に、経験しました。学校へ行って帰るのに、岩の上にピンク色の筆箱があったのです。あけてみたら、鉛筆がいっぱい入っていました。瞬間的に、うれしい心になりました。それをカバンに入れてきたのです。帰ってきて、母に自慢しました。帰って来るときに、こういうものがあって、それで自慢しました。そのような面で、私の母は、本当に立派でした。それを持って来ても良いのか。それをなくした子はどれくらい心が痛いか。そのまま岩の上においておくべきで、持ってきたら、それで良いのか。私の母がこのように叱りました。持って来る時はカバンに入れてきました。しかし、それが問題ではなく、戻しに行く時はカバンに持って行けないでしょう。それで、私の母が、私の心情を分かれば、カバンを持って行きなさいと言うでしょうが、カバンを持って行って置いてくれば良いのに、そのまま持って行かなければならないと言ったのです。ところで、岩までの道がかなり遠かったのです。それで、その筆箱も大きくて。それを持って行くから、人がちょっと変です。後から見る可能性もあるでしょう。それを持って行って置いてきたのですが、本当に恥ずかしかったのです。私がこれをなぜ拾ってきたのかと思いました。そうでなくとも、恥ずかしがり屋の性格なのに。それが良いことだったのか。その時、それが私の頭の中にぴったり打ち込まれました。他人の物は、私の物でもないのに、なぜ拾ってくるのかということです。ある母親は、とても良くて、ほめるので、だから子どもたちがしばしばそのようにするのです。それで、私たちが悪い習慣が生じることがあります。

1.むなしい世の友となってはいけません。
▲それで世を友とせずに、主の力を味わいながら待ちましょう。それが4講です。むなしい世の中。世の中がみなむなしいということではありません。むなしい世の中を友としてはなりません。結局は、むなしい世の中です。この程度を越えなければならないのです。そこに陥っていたら、それはすでにだめです。素晴らしいスター、芸能人を見ると良く見えるのは、正常ですが、そこに陥っていたら、それは、すでに違います。
▲世を友とする者は争いと情欲に奴隷になるとなっています。それは祈っても答えられないとなっています。なぜなら、世を友としたことは、神様と敵になったのです。神様は高ぶる人をはね除けて、謙虚な人に恵みをくださるとなっています。
▲そして世の中に勝つ力がなければなりません。悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、逃げるだろうとなっています。神様に近づきなさい。世の中の楽しみを憂いに変えなさい。そうでしょう。皆さんが芸能人を見て、哀れでなければなりません。世の中の楽しみを憂いに変えられる水準にならなければなりません。
▲それで、これから祈りの課題の中で、RUTCが作られれば、公演会場、撮影場を作るので、私たちのレムナントを連れて作品を一度作ってみなければなりません。とても変だからです。前に話さなかったでしょうか。踊る、歌う、それが悪いのではありません。ところで、それがそんなに良くて、世の友になって、陥っていれば、それでどのように成功できるでしょうか。私、個人的にそうです。私は学生、青年、このような時、とても堕落をして、その時は生きがいがありませんでした。私も学生の時、踊りませんでした。チョ牧師はよく踊ります。私がエイ〜狂った奴、このように言っていました。その時、私が今、踊る立場なのか。それが私の状態でした。毎日、さまよっているのに、私は踊れませんでした。恵みを受けてすることでもないのに。それで、一度は私たちの同期が集いをするというので、ナイトクラブがあるでしょう。そこで集いをしたのです。一度、行ってみました。一応、私はうるさいから行ってみたのです。ところで、ワ〜とたくさん来ました。たくさん来て、商売は良いように見えました。人々がものすごく来ます。ところで、何を久しぶりにきたのに、話ができません。どれくらいドーンドーンして騒々しいのか、私が話をできなかったのです。ところで、私が一度静かに見ました。人々が遊ぶのを見たのです。私は、その人々の顔を見たら、全部、自分を失ったようでした。私たちはイエスを信じないでも、自尊心が傷つけられてできません。私がしたいことをすべきです。無理にしていました。それは狂ったのでしょうか。私たちはイエスを信じないでもそんなにできません。だから、イエスを信じれば神様の子どもです。話す必要もないでしょう。それで、どれくらい騒々しいか、私は気が動転して、私はお金を払っても行けません。何がいろいろと面白いものがたくさんあるのでしょうか。ふらつく女性も多くて、男性も多くて、面白いことがあるのでしょうか。明日することもなくて、夜に何が良いのでしょう。正常に勤めて正常に勉強しなければならない人がそれが可能な話でしょうか。
▲ですから、むなしい考えの中にみな陥ってはいけません。
(1)世の友となる者は争いと欲望の奴隷になります。
@争いは戦う肉の欲望から出たのです(ヤコブ4:1)。
A祈っても答えを受けられません(ヤコブ4:2〜3)。
B世の友となるのは神様と敵になることです(ヤコブ4:4〜5)。
C神様は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与えられます(ヤコブ4:6)。
(2)世に勝つ力があります。
@悪魔に立ち向かわなければなりません(ヤコブ4:7)。
A神様に近づかなければなりません(ヤコブ4:8)。
B世の喜びを憂いに変えなければなりません(ヤコブ4:9)。
C主の前で自らを低くすれば主が高められるでしょう(ヤコブ4:10)。
(3)むなしい考えを捨てるべきです(ヤコブ4:13〜17)。
2.忍耐しながら待たなければなりません。
▲私たちは保守的ではありません。正しく目を開かなければならないのです。世の中を悲観的に見ようとするのではありません。正しく目を開かなければなりません。私たちのレムナントに、世の中の歌を歌うな、そんな話ではないということです。目を正しくあけなければなりません。待たなければなりません。重要なことを。何をでしょうか。忍耐しながら待たなければなりません。金持ちと物質を愛する人に対する警告が出てきました。私たちは重要なことを神様が与えられた多くの契約を待つ中で、主がまた来られるその日、歴史的な重要なことを待っています。それは、結末を知って待つということです。そのまま待つのではありません。忍耐しながら待ちましょう。それは、忍耐しながら待つということは、何の話でしょうか。これを分かるからです。これからなることが何かを分かるのに、なぜ待てないでしょうか。
(1)金持ちと物質を愛する人に警告します(約5:1〜6).
(1)金持ちと物質を愛する人に警告します(ヤコブ5:1〜6)。
(2)待たなければなりません。
@主がまた来られる日を耐え忍んで待たなければなりません(ヤコブ5:7)。
農夫が大事な実のために秋の雨や春の雨を待つように、待たなければなりません。
A心を強くして待たなければなりません(ヤコブ5:8)。
B預言者とヨブのように、結末を知って待たなければなりません(ヤコブ5:10〜11)。
3.主の力を味わいながら待たなければなりません。
▲その次に、三番目に何でしょうか。主の力を味わいながら待ちましょう。そうです。主の力は、必ず働き起きるでしょう。
▲それと共に、重要な話をしました。あなたたちの中に苦しんでいる者はいますか。祈りなさい。喜んでいる者はいますか。賛美しなさい。病気になった者がいますか。長老に頼んで油を塗って祈ってもらいなさい。
▲それと共に何と出てきたでしょうか。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。互いに罪を言い表して祈りなさい。義人の祈りは働くと大きな力があります。エリヤのように切に祈りなさい。切なる祈りは、同じようにエリヤのように力を見られます。
▲それで、最後には罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。
(1)苦しんでいる人は祈り、喜んでいる人は賛美しましょう(ヤコブ5:13)。
病気になった人は、教会の長老を招き、主の御名でオリーブ油を塗ってもらい、そのために祈ってもらいしょう(ヤコブ5:14)。
(2)信仰の祈りは病気の人を回復させます(ヤコブ5:15)。
義人の祈りは大きい働きを起こします(ヤコブ5:16)。
切なる祈りは、エリヤのような力を起こします(ヤコブ5:17)。
(3)罪人を迷いの道から引き戻す人は、罪人のたましいを死から救うことであり、数多くの罪を覆うでしょう(ヤコブ5:20)。
▲私たちのレムナントはタイトルだけ少し変わりました。
1課、試練は最高の機会であり、祝福です。
2課、神様の愛で行う行いが真の信仰です。
3課、ことばは過去の隠れた私、今日、未来を左右する。
そして、世の中を分別して神様の力を味わいながら待つのが真の信仰です。
(The end)