2009年6月20日 伝道学校講師団 場所:イエウォン教会



レムナント伝道学(186)
レムナントの答え(19)
幼い時の体験
(詩篇78:70-72)


☆☆☆要約資料☆☆☆
1.牧場で技能を
(1) Ⅰサムエル17:35
(2) Ⅰサムエル17:45-47
(3) Ⅰサムエル17:18-20
2.牧場で信仰を
(1) 詩1:1-6
(2) 詩78:70-72
(3) Ⅰサムエル16:13、23
3.牧場で未来を
(1) Ⅰサムエル16:1-13
(2) 詩78:70-72
(3) Ⅰ歴29:10-14
(The end)

☆☆☆録音資料☆☆☆
序論
▲私たちのレムナントの幼い時の体験です。幼い時ということは、年で違いが生じるでしょうが、特に私たちの中高生の時です。
▲私たちのレムナントが学校に行けば一番たくさん聞くことがあります。また、家に帰ってくれば一番たくさん聞くことがあります。それをまた教会に行って聞くようになれば負担になります。それが何でしょうか。レムナントが家で一番たくさん聞くのが何でしょうか。それが小言です。それは、何の話なのかというと、小さいことを言うことです。大部分の私たちのレムナントに大きいことを要求するのではありません。レムナントが小さいことをとても誠実に、大きい夢を持っていても、方法はたくさんあるようでもありません。小さいことを誠実にすべきです。小さいことを祈りながら誠実にするのです。
-ヨセフもそうでした。奴隷生活を忠実によくしました。それは希望がくて、小さいことを良くするということではなくて、重要な希望を持っていることです。
1.羊飼いで技能を
▲ダビデもそうでした。ダビデは牧場で技能を見つけ出しました。とても小さいことです。
(1)牧場で祈りながら誠実にしていた時に、Iサムエル17:35に見ると獅子と熊も勝った証拠が現れたのです。
▲大部分の人々はこういうものを普通に見ます。普通、レムナントの家に行ってみれば、家の掃除もよくできていません。それで、信じない親が見る時、世界福音化どころではないのです。ですから大きいことではありません。とても小さいことです。ダビデが羊を飼っていた時、その小さいことをよくしたのですが、この程度まで答えがきました。
(2)そうするうちに何まできたのかというと、ゴリヤテに勝つことまで行われました。小さいことが、小さいことではないということを分からなければなりません。
(3)Iサムエル17:18-20に見ると、しるしを持って来なさいと言いました。すでにその小さいことが、大きいことと関係する証拠を見たのです。レムナントは、これは誰でもできるのにのがすのです。

2.牧場で信仰を
▲また小さい牧場で信仰を育てました。小さい牧場にいるように見られるのですが、それは牧場ではありません。
(1)詩篇23:1-6に見ると、自分が羊飼いなのに、ダビデはどのように習ったのかというと、主が私の羊飼い。これはとても重要な言葉です。自分は羊飼いをしているが、主が私の羊飼い。まさにその信仰を学ぶのです。
(2)詩篇78:70-72にも、信仰が単なる信仰ではなくて、技能と共にした信仰です。皆さんが勉強している、それをまさに信仰と関連させなければならないということです。
(3)そして、ある時起きたことがダビデに聖霊が臨まれたのです。これはとても重要な話になります。

3.牧場で未来を
▲そして小さいところにいるように見られるのですが、ここで未来を体験するようになるのです。私たちのレムナントが必ずすべき体験です。これは牧師も同じです。教会の信徒が試みにあったり、難しかったり、教会がよくならない理由は、とても小さいところにあります。小さいことがからまって大きいことになるのです。とても大きいことではなくて、とても小さいことです。
▲私がこの間にも話しました。私が知っている後輩は、学校に通っていた時、ほとんど勉強を一番でした。私はその人がとても好きでした。その人はいつも見れば、教会にくる時も、いつも本を読んでいると感じることができました。そして、大学もとても良い大学を卒業しました。それで、どれくらい使命があったのかというと、幼い時から自分は牧師になると言っていました。それで牧師になったのです。ところが、どうしても教会が復興しません。それを知らなかったのです。なぜ復興できないのでしょうか。もちろん福音も確実ではありません。ところで、福音が確実でなくても復興する人はいるでしょう。それで、私が訪ねて行って会ったのです。自分の家とみな合わせて、鍵を二十個ほど持っていました。要らない鍵は家に預けなさいと言いました。あなたは伝道だけしなさい。そして、あなたは祈りだけしなさい。とても小さいことです。ところで、その小さいのを理解できなかったために、その人は私が分かることでは主が再臨して来られる時までは復興できません。親しいからその話をしてあげました。
▲私たちはとても小さいように見られるが、とても大きいのです。私たちが少しだけ小さいことをよく見れば、大きいことを得ることができます。
(1)ここでダビデは王という未来を見るようになりました。王という夢を見たのではありません。王になることを預言者が約束をしたのです。
(2)それと共に、それを知って、ここに合う技能と信仰を準備したのです。羊を飼ってずっといたのですが、王になることが確実だったために、そこに合うことをするから、牧場も王宮と同じ訓練になります。
(3)それと共に、サムエルがした話を記憶したのです。契約の箱です。それで、一段階さらに契約の箱を迎える神殿を立てなければなりません。王になれば、どうしても作りやすいからそのようにして成就したのでした。これは、単に重要なのではなく、とても重要なことなのです。
▲大部分、私達ができない部分が、みな小さいところで起きるのです。どれだけ小さいのかというと、相手が言ってあげるのが難しいほど小さいのです。教会の中にも問題がどれくらい小さいことかというと、出てくる話はみなにせ物で、本物は他のところにあります。それで、こういう部分を私たちのレムナントが幼い時から習えば、まちがいなく成功します。神様が小さい働き人になりなさいを言われているのではありません。大きいことを与えるためです。あなたが小さいことに忠誠したので大きいのを任せると言われました。私たちのレムナントの前にある小さいことは小さいことではありません。未信者が勉強するのとレムナントが勉強するのは違うのです。あたかも一般の人々が新聞を読むのと、牧師が新聞を読むのが違うように違うのです。
▲ところで1人も例外なく、レムナント7人にこのようになりました。とっても小さいことが大きいことになったのです。ヨセフが夢を見て祈ったのが、王を生かすようになりました。それがどれだけ大きいことになったでしょうか。世界を生かすようになりました。これがまさにレムナント7人が持ったものです。それで、小さいように見られるのですが、モーセにも全く同じでした。イスラエル民族を戦って救い出せということではありません。ただ王に行って話だけしなさいと言われたのです。すべてのレムナントが、みなそうでした。
▲初代教会の使徒ではなく、初代教会のレムナントを見てください。代表的人物がテモテ、テトスこういう人々です。こういう人々にパウロを助ける小さいことのように見られるのですが、神様が大きい時代を任せられたのです。私たちのレムナントは、必ず記憶しなければなりません。
▲ローマ征服250年の間に起きた、その中にいたレムナントです。ローマ時代が続く時、その中はすでにレムナントが育っていました。とても小さいことです。たんに勉強して、仕事をしていたのですが、神様は大きいことをくださったのです。今でも全く同じです。それで、私たちのレムナントは、今日、この契約を握って小さいことを一度見つめながら大きいことを考えなければなりません。
▲今日、このようにソウン(通訳者)が立っている現場は、世界福音化の現場です。すでに牧師だけ数百人で、このメッセージを聞くレムナントだけで数万人です。それを見ることができなければなりません。私たちは小さいように見られるのですが、それが小さいことではありません。
▲それで必ずレムナントと私たちの牧師が記憶しなければならない最後の部分があります。今、教会の中もそうで、現場に行ってみれば結果的に一つです。人々が結果的には力を得られないために、私たちのレムナントが入って力を与えてあげなければなりません。そのためには、力がなければなりません。それで、主が私の羊飼い。私は乏しいことがありません。私が率直に話すことができないことが多いのです。私がひょっとして外国を行ったりすれば、目に見えるのに話せないことが多いのです。この部分だけこのようにすれば本当にできるはずなのに、こういう部分がとてもたくさん感じます。ですから言えないのです。それで私たちのレムナントには、これを話してあげて教えなければなりません。
▲私が本当に尊敬した牧師ですが、私が伝道師の時、行って英語も習ってしたとても立派な牧師です。統合側の牧師様なのですが、説教もとても上手でした。そして釜山に教会もとてもよく作っていました。ところで、ある日、問題がおきて、この方が教会を辞任したのでした。その教会の執事と私がよく知っているから、私が尋ねたのです。牧師先生は、なぜ辞任されたのですか。長く続いていたことですということです。何の問題なのですか。特別な問題はありません。そのように立派な牧師が辞任されるほどならば、大きい問題ではないですか。それで、その方がこのような話をずっとしました。この方は何でも自分の思いどおりにするということです。何でも自分の思いどおりにするから、教会のすべての信者がすることがないということです。何まで自分一人でするかというと、教会に献金が入ってくるのを自分がみな持っていくということです。それは何でしょうか。計算を自分がみなするということです。そして部屋に行けば、キャビネットがあるのに開けば、一万ウォン、五千ウォン、千ウォンで整理ができているということです。それでは、執事が必要で取りに行けば、ぴったり開いて与えてくれるということです。その方がそうだったんだなあ...
▲ですからどれくらい小さいことがどれくらい怖いことなのでしょうか。そんなことは真に言うことが大変です。私たちは何でもない小さいことに引っかかって、大きいことをみなのがしてしまうのです。それで私たちのレムナントは、そのようなレムナントになってはいけません。小さいことを見ながら、大きいことを見る、こういう祝福を受けるレムナントにならなければならないのです。祈ります。
(祈り)
神様に感謝いたします。今、この時間、私たちのレムナントを祝福してください。神様が聖霊で訪ねてください。主の使いを先に送って、レムナントが道に迷わないようにしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
(The end)