2004年3月 7日インマヌエル教会聖日メッセージ


 1部/ 岩の上に建てた家
(ルカ6:46〜49)
  
・梨花女子大の総長をしたことがあるキム・ファナン博士が死んだ後に、こういう事がありました。葬式をする時に、百万名が出てきたということです。多くの人々が、立派な人が亡くなったと、哀悼を表しました。その人が、死ぬ時にこう話したということです。私は福音を受けて神様の子どもであるから、天国へ行くと話しました。それで、悲しい歌や葬送曲を歌わないでと言いました。神様に栄光を帰す賛美をして、勝利の歌を歌ってくださいと言いました。それが最後の遺言だったということです。そのようなことを、岩の上に建てた家だと言うのです。岩の上にという話は、滅びないでずっと味わう祝福のことを言うのです。
 
・神様の前に栄光をたくさん帰すことを決心したロックフェラーは、大学だけでも24個を建てました。これよりもっと大きい教会堂を2000個以上建てました。ところが、死んだ後、今でもみわざが起きています。実際に、今でも世界を動かしています。米国を動かしているので、世界を動かしていることでしょう。真に岩の上に建てた家ということは、そのようなことに対して言う話ではないかという気がします。チュ・キチョル、ソン・ヤンウォン牧師のような方達が、偶像崇拝はしてはならないと監獄に行きました。ところが、その祝福がいままでずっと続いています。
 
・今日、私たちは重要なみことばをいくつか悟らなければなりません。岩の上に建てた家の反対語が出てくるのですが、それが、土台なく地面の上に建てた家です。簡単に話せば、滅びてしまったのです。皆様が生きていて、滅びてしまえば、どのようになるでしょうか? 私たちは、なぜそうなのかを知っていなければなりません。そして、岩の上に建てた家とは何かを、私たちは正確に知っていなければなりません。そして、土台なく地面の上に建て、砂の上に建てて崩れる家がどんな家かを確かに知っていなければならないのです。こういうことを知らなければ、事実、大変なことが起きます。基礎を堅くしておかなかったので、以前、三豊百貨店が崩れました。とても大切な人々が、たくさん死にました。生まれて初めて見物にきて死んだ人もいました。その建物が突然に崩れるとは、誰も考えることが出来なかったのです。簡単に話せば、基本が強くなかったから崩れたのです。
 
・米国でも、飛行機のなかで事故がおきた時、三百何名という多くの人が死にました。飛行機がハイジャックされていくので、ある人が最後に飛行機のなかから自分の家に電話をしたということです。どうも最後の一言のようだ、本当に子ども達とあなたを愛していると話して切りました。これがなんの話かと思ったのです。そして、すぐにニュースが出てくるのを見ると、飛行機に事故が起きたのでした。自分の意志とは違って、他のことによって困難にあったのです。土台なく地面の上に立てた家のように、ずっと崩れるはずです。この話がなんの話なのかを早く悟らなければなりません。イスラエルがこの話を分からなかったのです。ある日、良い生活をしようとエジプトに行ったのに、奴隷になってしまいました。それまでは理解できたのです。イスラエルから出て、カナンの地で暮らしていたのに、ある日また、イスラエルのエルサレムの神殿が燃えたのです。ところが、問題は、なぜこのようになったのかを知らないことです。なぜ自分達は、エジプトに入っていって奴隷にならなければならなかったのか? 私達がくやしいという内容には、間違いありません。私たちは奴隷ではないから、行かねばならない。それは、正しい話しなのですが、なぜそのようになったのかは知らなかったのです。それが、今日の理由です。それは、今の私たちとそっくりです。イスラエルが知らなかったのです。だから、恨みだけがいっぱいになったのです。イスラエルの胸には、恨と憎しみがいっぱいになったのです。今でも、イスラエルは、世界に向かって歯ぎしりしています。それで、やっとのことで帰ってきたのです。その後は、もっと怖い事が起きました。滅びが迫ったのです。たぶん、映画にもそのようなことはないでしょう。たぶん、私達が小説を読んでも、こういう事はないでしょう。23ケ国に捕虜になって行きました。ありうることでしょうか? あなたがたもご存知のように、ヒットラーに一人に600万名が殺されました。60人ではなくて、600万名が殺されたのです。スペインやトルコのような所から苦しめられたことは、話す必要もありません。それでも、悟ることができなかったのです。これからも問題です。イスラエルは、今でもその恨みが、いっぱいあるのです。これから、より大きい問題が来るはずです。今のイスラエルは、むかし程度ではありません。
 
・米国に行ってみたことがありますか? ワシントンにホロコーストという建物を作りました。それがなにかというと、今までユダヤ人がやられた全てのものを、資料で集めた所です。私達が見ても、ひどすぎるという気がしました。私たちは、単なる旅行客なのに、見る時に、こういう事が起こったんだなあという気がしました。ユダヤ人は、入っていって出てきながら、悲しみの涙を流すのです。「自分の国がこのような目にあったんだなあ。私たち民族がこのように苦労したんだなあ。私たちの先祖が、このように苦労をしたんだなあ。分かった。今に見てろ。あらゆる世界を征服するはずだ。復讐するはずだ。」そのようなことで、満たされて出てくるのです。これからが、また問題です。今、ユダヤ人たちは、話をしなくても、今、起きている問題が事実イスラエルと関係しています。問題です。今、戦争が起きているのも、事実、みなイスラエルの影響があるのです。言わば、イスラエルと反対国家です。こういう何かの事が、ずっと行われているのです。ほとんど、まちがいなくそうです。簡単なことではありません。
 
・すると、土台なく地面の上に建てた家とは何でしょうか? これを知らなければ、全く同じ問題に陥ってしまいます。皆様が信仰生活を思い切りして、滅びてしまえば、どうしますか? それが何でしょうか? 土台なく地面の上に建てた家です。基盤もなく、砂の上に建てた家です。聖書は、私達が勝手に、このように、あのように解釈することができます。それが問題です。それが失敗です。私たちは、聖書を詳しく見るべきです。イエス様が、何を言うために、このみことばを言われたのでしょうか? 6章全体を見なければなりません。あなたの民族が盲人と同じで、盲人が盲人を導くので、滅びるのではないか? 6章39節です。それから、その前には、何となっているでしょうか? だから、愛なく憎しみで、恨みで生きていく以外にあるでしょうか? 6章42節に、兄弟の目にあるちりを取り除こうと、あなたの目の前にある過ちは一つも知らずに、ちりを取り除こうとけんかをするのではないか? そのみことばを言われた後に、わたしの話がわかる者は、岩の上に家を建てたことと同じで、わたしの話を聞かない者は、土台なく地面の上に建てた家と同じだとおっしゃいました。
 
・私は、韓国の政治家たちに頼みたいのです。韓国が本当にうまくいくことを望みます。私たちは、政治家でなくて、クリスチャンなので、国のために祈っています。けんかはこれ以上しないでください。これは、牧師ではなくて、民としてのお願いです。毎日、相手の悪いところをつまみだそうとしています。福音がない証拠です。いつも、相手のあること、ないこと、誤解されることなどを、みな引っぱり出します。いまはインターネット時代です。いまは、米国でも韓国放送が出てきます。いまは、日本、台湾に行っても、韓国放送が出てきます。毎日けんかして、毎日捕えられて、それだけずっとニュースに出てくるのです。どれくらいかわいそうな境遇なのか分かりません。過ちを無条件に覆ってあげなさいということではありません。お互いに相手と、正しくもない話しをやたらしてけんかするのです。事実は、日本では、私たちより政治資金をたくさんやりとりするのではないでしょうか? それでも、そんなにけんかはしません。いっしょにやりとりして、分けるのです。そして、けんかせずに、国家のために行くのではないでしょうか? 韓国だけが、ずっとけんかをします。
 
・今日、私たち弟子夫婦が結婚して1年になったと、私に挨拶をしにきました。それで、私がこういう祈りを しました。単なる夫婦にならず、キリストを知っている夫婦になりなさい。夫にならず、キリストの愛で妻を見なさい。妻にならず、キリストの愛で夫を見なさい。すると、神様の途方もない作品が演出されるはずです。
 
・イスラエルが滅びた理由を見るように願います。イスラエルは、福音がないから、夜昼なく、毎日、けんかをする時間でみな過ごしたのです。自分の過ちを知らずに、恨みだけが固まって「あのバビロン、今に見てろ。エジプト、今に見てろ」というようにだけするのです。間違って悟ったのです。神様は、これを望まれるのです。イスラエルが目を開かれて、エジプト福音化をすることを神様は望まれるのです。イスラエルが目を開かれて、バビロンを福音化することを望まれるのです。このようにしなさいと祝福を与えたのに、エジプト、バベロンに恨みだけかたまって、歯ぎしりしているのです。皆様も、全てのものがみな同じです。簡単に話せば、福音を知らない盲人、福音がないから生きていく間に起きるあらゆる傷と憎しみ、だから、それで起きる傷によって、あらゆる批判、恨み、戦いのようなものが、土台なく地面の上に建てた家と同じようなものなのです。風が吹いたり、洪水が起これば、崩れてしまいます。これは、イエス様の話です。私が見る時には、イエス様3年の公生涯で教えられたことは、どれくらい重要なのか分かりません。ところが、ほとんどみな、人々がよく分からずにいます。岩の上に建てた家とは何でしょうか? 砂の上に建てた家が崩れることは当然なのに、砂の上に建てた家とは何でしょうか? 福音を正しく知らない霊的盲人が、家を建てておくので、その家が正しい家に建てることができるでしょうか? 福音がない人が、相手を見る時、福音がない人が兄弟を見る時、正しく判断することができるのでしょうか? それで、イエス様がそれに対するたとえだけで、数十個、言われました。放蕩息子が本当にいたのではありません。イエス様のたとえです。放蕩息子が帰ってきたのですが、父がどれくらい喜んだでしょうか? 遊女と食べて遊んで、お金がないことが問題ではなく、生きて帰ってきたのではないでしょうか? 神様は、パーティーをするのに、あなたはなぜ気分が悪いのですか? それが、まさにパリサイ人にされた話です。イスラエルが、それで滅ぼされたのです。福音なく、常に律法を持ってする、そのようになったのです。
 
・皆様が必ず記憶しなければなりません。岩の上に建てた家とは何でしょうか? 岩の上に建てた家ということは、福音の上に立てた生き方という意味です。福音の中で愛を行う者は、岩の上に建てた家と同じようなものです。三名だけ例を上げます。ヨセフです。創世記 37章を見れば、ヨセフは福音と世界福音化を理解しました。あなたがたもおわかりの通り、奴隷として行きました。そして、ぬれぎぬを着せられ、監獄へ行きました。皆様ならば、どうするでしょうか? 奴隷まで行ったことは良いのですが、ぬれぎぬを着せられて、監獄まで行ったのです。ところが、ヨセフは勝利して総理になりました。ヨセフを神様は、岩の上に建てた家のように立てられたのです。
 
・あなたがたがよく知っているでしょう? ダビデを見ましょう。ダビデは、幼い時から、聖霊充満したとIサムエル16章13節に記録されています。サウル王からものすごく困難にあいました。どれくらいたくさん困難にあったのか、皆様ならば狂ったでしょう。私でも狂ったでしょう。ダビデがどれくらい困難にあったのか分かりません。神様の愛を実践したダビデに、神様は彼を岩の上に建てた家のように、王位に立てられました。
 
・今日、イエス様がとても簡単な話のように見えるのですが、土台なく地面の上に建てた家、岩の上に建てた家を、この話三個をする中で出てきたことです。皆様が、この話を理解できなければ、これから教会生活、家庭生活、社会生活をするのは難しいのです。もう一名、例を上げることができます。パウロです。イエスを信じるパウロをどれくらい殺そうと付いてまわったでしょうか? その時、パウロは彼らが福音を受けることさえできるならば、私が死ぬなら死を選ぶと話しました。もし私が死んで、あの人々が救われる道があるならば、それをすると話したのです。神様は、パウロの働きを岩の上に堅く建てられました。
 
・今日、皆様がやさしい神様のみことばを早く理解すべきです。三番目です。何を岩の上に立てるのでしょうか? 2番目は、私たちの人生を岩の上に建てる福音を知らなければならないのですが、それからは私達が何を 岩の上に建てるべきなのでしょうか?
 
・やさしい例をひとつ話します。韓国のチョン会長は、大きいグループがありました。その方は、大きい鉄鋼会社をしたのです。それが不渡りになって、崩れてしまいました。どれくらい心が難しいでしょうか? ところが、その方だけ不渡りになったのではなくて、その方が不渡りになったので、続いてつながっていた所が、全部、不渡りになったのです。それが、事実上、韓国のIMFの開始でした。それで、韓国が全国的に困難にあいました。私たち韓国人と関係した米国人までも、困難にあったのです。なぜそうなったのでしょうか? この方が、大きい鉄鋼に手をつけて崩れたのです。裏話で面白いことを発見しました。この方の家は、ものすごかったということです。ところが、この方が、いつも玄関わきの部屋で寝たということです。本当におかしな気がしました。むしろ他の人が良い部屋に寝て、この人は玄関わきの部屋で暮らしたということです。理解が良くできないでしょう? 韓国の話をたくさん作るジャーナリズムでも、こういう内容を掲載していました。すると、その茶の間には誰がいたのでしょうか? 当時、最高の占い師が、そちらで暮らしていたのでした。この占い師が、その人にみなさせたのです。それで、経験が少ないのに、鉄鋼に手をつけたのでした。その占い師が茶の間を占領して、玄関わきの部屋に会長をおいて、このようにすれば成功して、あのようにすれば成功するといつも指示をしたということです。もちろん、私が確認をしたのではありません。文章で見ました。キリスト教新聞でなくて、一般新聞にそのように書かれていたのです。
・私たちの事業を岩の上に建てるべきです。それが機能宣教です。皆様の事業を岩の上に建てましょう。本当にです。皆様が、これは必ず記憶しなければなりません。皆様が福音の上に、事業を立てれば、絶対に崩れません。キリストの愛の上に皆様の事業を立てれば、絶対に崩れません。それが宣教です。その話を合わせれば、機能宣教です。今日、私たちは機能宣教献身礼拝をささげています。誰でもみな悟らなければならない部分です。ある方は、とても重要な話をよく理解できなくて、気分悪く思うのです。私が2度、そのような経験がありました。慶尚南道の最高の財閥がいる所で、集会を行いました。この方が、どれくらいすごい方でしょうか? 私が行くと、大統領を接待するように接待してくださったのです。ホテルも持っていて、船もたくさん持っているとても金持ちでした。自分のホテルで、大統領が泊まる所に、私を迎えてくださいました。その方が直接こちらは大統領が来られたら、お迎えする部屋ですが、先生が休んでくださいと、そちらにお迎えしますと話しました。私は驚いたのです。その当時に、部屋の中にサウナがありました。こういう所もあるんだなという気がしたのです。ところが、問題はそれではありません。私がこの方と親しく話をできる時間がなかったのです。なにか私に感じられることがありました。その話を私が出来なかったのです。私たちの教会の長老ならば、私が簡単に話をするはずなのに、集会をする私が他人の貴重な方に、むやみに話すことはできませんでした。結局、私が口に出して言えなくて別れました。本当に残念でした。その後に話はすべきでないと言う気がしたのです。
 
・私は韓国の最高財閥に会った時にも、この話しをしたいのにできませんでした。それで、私が誠意を込めて テープを差し上げました。もちろん聞かなかったでしょう。なぜならば、あまりにも基礎的なことだからです。福音とはなにか、伝道はどのようにしてするかという話であるためです。すると、あなたがたが、あれこれ、 ありますが、イスラエルという国をよく見るように願います。問題はこの産業を岩の上に建てることができなかったことです。イスラエルが、岩の上にいることができなかったから、産業を岩の上に立てることができなかったのです。
 
・皆様が今日、必ず記憶しなければなりません。初めて告白をしました。主は生ける神の御子キリストです。この時、イエス様が、また岩という言葉を使われました。 'あなたはペテロです。わたしがこの岩の上にわたしの教会を立てます。ハデスの門もうち勝つことはできません' 絶対に崩れません。福音を持ったあなたがたが、この上に産業を立てるならば、永遠に崩れません。それが、岩の上に立てた家です。この告白をしたペテロに、主は最後にこうおっしゃられました。天と地のあらゆる権威を持ってあなたがたと共にいるとおっしゃられました。それで終わったのではありません。この契約を持った、岩のようなペテロに聖霊充満を受けるようになるはずで、地の果てまで証人になるはずだとおっしゃられました。その契約が、本当にマルコのタラッパンでなされて、ローマまで行くようになりました。その人物が、ローマ16章です。
 
・今日、私たちの長老と、あらゆる機能宣教に参加する方達、全世界にいる方達が、この祝福をそのまま受けてくださることを願います。もう一度、切にお願いします。砂の上に建てた立てた家庭、砂の上に立てた個人、家はみな崩れるようになっています。それが何でしょうか? 今日、イエス様が直接、6章でおっしゃられました。福音を悟っていない建物、福音を悟ることができなかったから、いつも律法で争う建物、ある場合には、自分の目の中の梁も知らずに、兄弟の目の中にあるちりを取り除こうとする、その建物を建てるので、崩れるしかないでしょう? しかし、岩の上に建てた家は、風が吹いて、雨が降っても崩れないのです。このように、皆様の産業、皆様の生き方、家庭を岩の上に建てるべきなのです。崩れないようになるはずです。岩の上に皆様個人を建てるべきです。岩の上に皆様の家庭を建てるべきです。岩の上に皆様の産業を建てるべきです。崩れるはずがありません。多くの方達が聞きます。本当に愚かな質問で、答です。私の耳に尋ねます。韓国に来てみて、核心運動でたくさん集まる秘訣は何かなにかと尋ねるのです。秘訣はないと答えました。福音の上に建てれば、そのようになると話しました。これから、私たちの教会は、どれだけ、どのように、みわざが起きるでしょうか? 岩の上に建てた家は、続いてみわざが起きるはずです。いまは弱いかもしれませんが、私たち長老達、役員の産業は、岩の上に建てられた産業であるゆえに、こういうみわざが起きるはずです。ただ悟ることができないことであって、それから実際に悟れないことで、それで適用ができないのです。しかし、そのようになれば、大きなみわざが起きるはずです。
 
・皆様は、福音を悟ったゆえに、岩の上に立っている人であることが確かです。それなら、皆様の夫、皆様の 妻、皆様の家族を、福音の中へ入って、福音の目で見れば、それがまさに岩の上に立てた家になります。それなら、あのレムナントと全世界に向かって岩の上に皆様の産業を立てることが、機能宣教です。崩れることができません。イスラエルが滅ぼされたのは、彼らの責任です。イエス様が確かに話しをされました。あなたの信仰が砂のようで、その上に建てた家は、みな崩れるようになるはずだとおっしゃいました。イエス様が、このようにおっしゃったのです。あなたたちが、一番好きなエルサレム神殿は、石の上に石ひとつ残らないだろう。その時、ユダヤ人がどのようにしたでしょうか? ぶるぶる震えました。イエス様を石で打とうと、ぶるぶる震えたのです。どのように、エルサレム神殿が崩れるのか? それで、イエス様につけた罪名の中のひとつが、神聖ぼうとく罪です。どこまで神聖をぼうとくするのかと、イエス様を殺そうとしました。しかし、AD70年頃、エルサレム神殿は崩れてしまいました。いまだに回復できません。神様のみことばは、変わりません。200年間、戦争を起こして立て直そうとしたのですが、立て直すことはできませんでした。
 
・福音がない人々が、逆に悟って、私達が罪が多いのだと言いながら、中世時代には、幼い子ども達を選んで戦争に送り出しました。それでも、悟ることができなかったのです。カトリックの話をするので、申し訳ないけれど、どれだけ福音を悟ることができなかったのかというと、女の人を聖歌隊に立てませんでした。どのように、敢えて女性が聖歌隊に上がって行くのかと話しました。福音を悟ることができなければ、ものすごく人が無知になります。正して見れば、罪を犯す数字で正せば、男性のほうがはるかに罪が多いのです。ボーイソプラノという言葉を知っていますか? 女性がいないから、ソプラノの声が出ないでしょう? だから、細い声が出る少年を立てて、ソプラノを出したのです。それがボーイソプラノです。これくらい、福音を悟ることができない律法は、怖いのです。私たちは何の過ちもない。私達がどれくらい敬虔に生きているか? と言いながら、福音だけ防止してしまうのです。これが砂の上に立てた家です。
 
・簡単に話します。霊的問題を解決できない人生は、砂の上に建てた家です。サタンの攻撃を防止できない人生は、砂の上に立てた家です。簡単に話せば、福音を知らない産業は、砂の上に立てた産業です。皆様は、岩の上に立てた人生であるゆえに、滅びないでしょう。 'あなたはペテロです。わたしがこの岩の上にわたしの教会を立てます。ハデスの門もうち勝つことはできません' なぜ数百カ所、数千ケ所から、タラッパンを攻撃するのに、なぜ私たちのレムナントの福音運動はずっと起きているのでしょうか? 岩の上に立てた教会は、崩れないのです。どのように、この答えを受けることができるでしょうか? 真の福音の中へ入ればよいのです。すると、皆様の問題は解決し始めるはずです。皆様が、箱舟の中に入るように、福音の中に入れば、あらゆる困難と関係なく、勝利するようになるはずです。
 
・それから2番目です。あらゆる人、あらゆる判断を、福音のなかでするように願います。皆様が罪を犯した人を本当に福音の目で見るように願います。私は裁判官の中にも、私たちのサイ判事のような方が、福音がある方なので、罪人を見る目も違うと思います。なぜなら、キリストの愛で見るので、哀れに見えるはずです。できるならば、手助けする方向で裁判をするはずです。しかし、福音がない裁判官は、律法で見るので、憎く見えるはずです。そして、できるだけ権限内で、罪をたくさん与えるはずです。このように差が出るようになるのです。ある人がそう言いました。裁判をしに行ったのに、家庭問題がかかった裁判でした。だから、この裁判官が自分自身の家庭が全く同じ問題を持っていたから、とても裁判で重い判決をくだしたということです。あらゆる面が、みなそうです。ソウルを見る時に、福音の目で見るように願います。敵を見る時に、福音の目で見るように願います。バビロンを見る時、福音の目で見れば、宣教の対象であって、敵ではありません。これをするために、私がお金を儲けなければならないという心を持たなければなりません。それが、産業宣教です。それが機能宣教です。すると、私の機能をこの働きにささげるべきだなというのが、機能宣教をおいて岩の上に建てた者だというのです。皆様の生活を岩の上に建てることができる強固な方法があります。それが3つです。反復することですが、もう一度聞いてください。
 
・最初は私が本当に福音の中にあるのか? 長老、執事、勧士、あの幼い子ども達を見るのに、福音の目で見るように願います。その人の祈りが答えられるのです。私は福音の目で長老を見て、皆様を見るので、とても貴重で、神様にあって感謝して愛することができます。私は霊的問題を持った方が、教会のなかでおかしな行動をするのに、福音の目で見ると、どれくらいかわいそうか分かりません。その人が、果して他の宗教団体に行って、解決されることができるでしょうか? あの人が果して仏像の前で解決されることができるでしょうか? 人の話、悪霊の声を聞いて、解決されることができるでしょうか? 神様のみことばを聞かねばならないのです。私は、そのような目で見ました。だから、一つも憎くありません。彼らを助けるという気がしました。それなら、私の生涯を福音のなかにささげるべきです。これが機能宣教で、岩の上に建てた家だということです。すると、 皆様の周囲にある問題は、ひとつずつ解決するだけでなく、完壁な答えでくるはずです。
 
・少し前に、法的に問題になった事がありました。夫が離婚訴訟を出したのです。ところが、離婚訴訟を出したのに、とても重要な理由を出しました。その人が教会に行くために離婚をすべきとなったのではなく、タラッパンをするために離婚をすべきだと言ったのです。それで、私が人を送りました。あなたは嘘をつかずに率直に話してくださいと言いました。人2名を送りました。あなたは、タラッパンを知っているのですか? 福音を知っているのですか? あなたが、教会を知っているのですか? そのように引続き尋ねたら、その人が狼狽したのです。それで、その人が自分で話したのです。この言い訳、あの理由を上げたのです。その時見たら、何の話なのか分かりました。この人はこれを言い訳に決めたのでした。それで、私がこのように話しました。あなたが、そのようにすれば、いくつかの罪を犯すのです。私たち教会が、あなたに悪いことをしたことはありません。あなたの奥さんにしたこともありません。私が正確な答を出してあげても良いでしょうか? あなたが、私を非難したから、私があなたに対して話をしてもかまわないでしょう? 私が正確な答を与えても良いでしょうか? 私がこう話しました。あなたがた夫婦は、元々合わなかったのです。あなたは、たくさん学んで、たくさん力があって、準備しているが、福音がない人です。あなたの奥さんは、あまり前後も分からない、あまりにも慌てふためいて、おかしな人で、教会に通っています。たぶん私が見る時は、あなた方に幸福な日が一度もなかったでしょう。そうだと返事をしました。それなら、安らかに別れることが一番の望みでしょう。色々な名誉と財産問題がすこし気にかかるでしょう? あなたが、それが問題で、福音も知らないのにタラッパンのことを話して良いでしょうか? それで、私は肉体的な戦いでは戦いません。これは真理であるゆえに、私はある力を総動員して対応するはずだと話しました。その時になって、その人が話を変えたのです。これから自分を話したのです。奥さんが、夜昼なくきて、服をひっくり返して、かばんもひっくり返して、おかしなことを常にするので、狂いそうだということでした。あまりに水準が異常で、話しも通じなくて、狂いそうな境地だということでした。するとそのように話すべきで、タラッパンの話をなぜするのかと私が言いました。奥さんゆえに狂うために生きられないとしなければならず、伝道する団体のタラッパンで言い訳をしても良いでしょうか? すると、その事は簡単なことではなくて、その家のことだけでありません。自分自身の過ちは知らずに、私たちはしばしば他の所に理由を上げます。福音なく、妻を包容できない、その人の過ちであって、夫に正しく合せられない奥さんの過ちであって、教会、他の人、となり、親戚のせいだと言って、二重三重に罪を犯すことです。それで、それは砂の上に建てた家と同じです。今でも道があります。早く自分自身へ帰って、福音を捕まえることを願います。福音を知れば、あなたは福音の目で家族を正しく見ることができるのです。すると、あなたはあらゆる人生を福音のなかで新しく始めるようになるはずです。すべての問題は、神様が解決できます。それが岩の上に建てた家です。もちろん、悟れなかったのですが、私がする話はみなしました。
 
・私たちは信仰生活の中で、下手すると岩の上に家を建てることができません。それで、今日から岩の上に家を建てるように願います。私が福音の中へ入っていくことです。私が福音の目で、人と仕事と家族ととなりと敵と全てのものを見ることです。私の産業、才能、機能を福音のためにささげることです。それが機能宣教です。皆様が福音の目ですべてのことを見ることが、信仰生活です。福音の目で見ることが信仰生活です。福音を持ったことが救いです。すぐにそばに敵となった人々がいれば、福音の目で見ることを願います。それが信仰生活です。皆様が見れば、礼拝堂で礼拝もささげることができないおかしな人がいれば、福音の目で見ることを願います。皆様が礼拝堂にきて、みことばも聞くことができなくて、うとうとしている人がいれば、福音の目で見ることを願います。どれくらいかわいそうでしょうか? それがまさに信仰生活です。皆様が小銭をひとつ与えて行くことは、信仰生活ではありません。足のきかない者を福音の目で見たのです。この人にキリストが必要だな。小銭ではないな。それで、私たちを見なさい。私にあるものをあなたにあげよう。ナザレのイエス・キリストの名前で歩きなさい。そうだとする時、私たちの生活、人生、その貴重な産業、皆様の事業を福音のためにすることを願います。それを絶対に滅びない岩の上に建てた家だと言うのです。この祝福をそのまま受けてくださることを願います。これが理解ができないならば、皆様は本当に普通の人ではありません。皆様が今、この話が理解できないならば、本当に悪質です。皆様が、これが理解できないならば、本当に自分を見ることができないでいるのです。すると、ユダヤ人のようにならざるをえません。私たちは、この契約を捕まえて、あらゆる所に勝利を始まる新しい日になることを主の御名でお祈りします。
 
<<契約の祈り>>
神様、私達が福音の中に入っていくようにさせてください。全てのことが解決にする箱舟の中に入っていくようにさせてください。私たちの人生が、逃れの町の中に入っていくようにさせてください。私たちの歩みが、 血の契約の中に入っていくようにさせてください。私たちの奴隷の生き方が、契約の内に入っていくようにさせてください。捕虜のような私たちの生活が、インマヌエルの契約の内に入っていくようにさせてください。今日から信仰生活を新しく始めるようにさせてください。あらゆる問題を福音で見るようにさせてください。あらゆる人を福音で見るようにさせてください。あらゆる問題を福音で見るようにさせてください。私たちの仕事と産業を福音のためにささげるようにさせてください。産業が岩の上に建てる産業になるようにさせてください。今日、岩の上に建てる祝いができる祝福を味わうようにさせてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン
 
 


2部/ 聖所での悟り
(詩73:12〜17)
 
・むかしに、釜山のある教会で、私が伝道師だった時です。全国的に、とてもうわさが出ていた教会です。やはり、行ってみると、金持ちがたくさんいました。ところが、その教会の長老二人が、こうおっしゃいました。私たちの教会は、子どもが集まりません。私を見て、伝道師がちょっとたくさん集めてくださいと言われたのです。私たち教会が生まれて、子どもがあまりに集まらないので、私たちには本当に未来がないと心配をしていました。私が分かりましたと答えました。金持ちの教会なのに、聖日になると、子ども達が少ししか来ないのです。先生半分が教会に来ませんでした。後ほど見たら、来ないのではなく、遅く来るのでした。ですから、何の特別な心も関心もないようでした。それで、私が分かったと決心をしたのです。
 
・その次の週から、私が夜明けに行きました。 9時に行っても良いのを明け方4時頃に行きました。教会に行く準備をしておいて、まずよく欠席する先生に電話をみなしました。なぜ先週の聖日に欠席したのかをたずねたのです。そのようなことは、初めてだったので、電話をしたところ、うろたえて何かと弁解しました。それで、赦してあげるから、今日、明け方祈りに出て来なさいと言いました。それで、出てきました。そのような方法でして、後には先生 100%を明け方祈りに参加させました。そして、6年生の子ども達を呼びました。6年生ならば、6年生のように行動をしなさい。弟や妹をみな目覚めてさせて連れて来なさいと言いました。聖日には、子どもたちがほとんど寝ています。だから、みな起こして連れてきなさいと言いました。そのようにだけしたのに、100人越えない教会で300人を越えました。それでこの300人を連れて、学校に伝道をしに行きました。後ほど使命者の子ども達が約1000人集まりました。司会者を各々させて、私が説教を上でして、下でして、回りながら三回しました。子ども達がたくさんくるという言い訳で、話しがわかるように、1年、2年を集めて、3年、4年を集めて、5年、6年、このように集めたのです。ですからもっと簡単です。1年、2年は絵で説明して、5年、6年くらいになった子ども達は、ちょっと水準高い説教をしました。
 
・ところが、聖日の夕方になったら、誰もこなかったのです。聖日の夕方になぜ誰も来ないのかとたずねました。元々、来ないと言いました。 ' そうなのか' と思いました。それで、重要な執事達の子どもが聖日の夕方に何をするのか、私が分析してみました。経済的状態が良いから余裕があります。それで、書道する先生を呼んで、子ども達に書道を教え、バイオリンのようなものを特別にする先生を呼んで、自分の子ども達にバイオリン教えるのでした。水準が違います。私は、しまったと思いました。それで、私たちの教会の内と外で、釜山市内全体で私が調査をしたのです。書道をよくできる人を呼びました。その次にバイオリンをよく教えて、チェロをよく教える先生を呼びました。ある時は、ハーモニカをよく吹く先生を呼んだのです。そして、サッカーを上手にやる先生を呼びました。そして、夕方に特別活動をしました。夕方にメッセージを与え、書道をする子ども達は、聖書箇所を書いたりしました。そして、数ヶ月くらい練習をさせて、発表したのです。先生がどれくらい上手にやったでしょうか? 事実、みな生かされました。先生が生かされ、子ども達も生かされ、雰囲気がみな生かされました。それが機能宣教です。難しいことではありません。機能宣教という言葉をわかるできない人は、愚かです。あらゆる教会は、機能を持って神様に栄光を帰さなければなりません。
 
・今日、1部礼拝の時、説教しました。皆様は滅びない岩の上に建てる方法があります。絶対に滅びません。岩の上に立てる3つ。今日、1部の時に話しました。私が福音の中へまず入っていくことです。普段の時、知らないでしょうが、私が逃れの町の中へ、私が箱舟の中へ入っていくことです。それが救いです。それを岩のような祝福を受けたというのです。それで、ペテロに 'あなたはペテロです。この岩の上にわたしの教会を立てる'.とおっしゃいました。
 
・その次の2番目は、信仰生活です。これからは、福音を持って助けましょう。福音を持って見て、福音を持って献身するのです。しかし、私たちはここでほとんど失敗します。福音を持ったのかもしれませんが、献身する時は律法でします。福音を持ったのかもしれませんが、献身する時は世の中の方法でするのです。その中で一番できないこと、色々な中のひとつが、ユダヤ人が一番だめなことの中のひとつが赦しです。それで、イエス様が赦しに関する話を総動員なさったのです。福音のまず最初のことが赦しです。律法にまず最初のことが、憎しみです。神様の別名は愛です。サタンの別名は憎しみです。その話をイエス様が多くされました。それがだめになるためです。弟子もできないのです。パリサイ人たちは、いっそのこと福音がなくて、だめなのです。
 
・一度は、パリサイ人が、石を持って姦淫した女を捕まえてきました。だから、この姦淫した女性が捕えられたから、ぶるぶる震えながらきたのです。この人たちが、一斉に手に石をみな持ってたずねました。この女をどのようにしなければならないのですか? ユダヤの法律によって、石で打てば死ぬでしょう。その時、イエス様がどのように言われたでしょうか? なんの話もしないで、地面に字を書いておられました。何の字を書いておられたのかは、聖書に記録されていません。たぶん、私たちの予測で、石を持っている人々がわかることをみな書いておられたのでしょう。そして、こうおっしゃられました。あなたがたの中で、この罪に一つも該当しない人が、まず石で打ちなさい。ですから、打つことができませんでした。みな石を置いて行ったのでした。イエス様は、わたしもあなたを赦すので、二度と罪を犯してはなりませんとおっしゃられました。ところが、パリサイ人の問題は、ユダヤ人がきたが、石を置いたのは、申し訳ないな! と思って置いたのではありません。 殺さなければならないのになと思って置いたのです。それが律法です。それで、イエス様が、しばしば説明されたのです。
 
・皆様、福音の生活ということが、岩の上に建てば簡単なのに、理解があまりできません。ですから、ペテロがたずねたのです。何度まで赦せば良いのでしょうか? とても歯ぎしりしながら、7度耐えれば良いでしょうか? また耐えて、また耐えて、7度耐えれば良いでしょうか? その時、イエス様が七度を七十倍にしても耐えなさい。七度を七十倍しても赦しなさい。すると、490回ではないでしょうか。すると、イエス様が490回は赦して、491回目は半殺しにしなさいということでしょうか? だから、ペテロが歯ぎしりしたのです。どのように、そんなに赦せるのでしょうか? この悪い人間を、490回も赦せるでしょうか。だから、イエス様がこうおっしゃられました。一万タラントを借りた者が、赦されました。すると、百デナリを借りた者を赦せないのでしょうか? この話をイエス様がされたのです。その話をわかることができないのです。どんなにせっぱつまれたのか、ない話を作って放蕩息子の話までされました。放蕩息子の話は、実際にある話ではありません。イエス様が苦しくて作られたのです。元々、イスラエルは豚を飼うような所がないらしいのです。イエス様が知っていて、比喩を言われたのです。それほど、この部分がだめになるのです。
 
・そして、私達がもっとだめになる三番目が、私たちの機能を福音の中に、この岩の上に建てることが、よりできないのです。ほとんどみな、私たちは職業とは別に、福音が別です。私たちはほとんどみな、祝福とは別に事業は別です。ほとんどみなそのようなことです。皆様がする仕事と神様の祝福が一致しなければならないのに、ほとんど別にしています。ほとんどみな、信仰生活は私がして、仕事はまた自分の力でするやり方です。しかし、ヨセフのように、ダビデのように、私がする仕事に神様が祝福なさる、このように感じられる時、本当に幸福なのです。私がする仕事一種類と 世界宣教すれば良いだろうと感じられてこそ、幸福なのです。そのことが機能宣教です。難しく考える必要がありません。私たちの教会は、多くのチームがあります。今、技能を持った子ども達も育てるべきです。今、音楽をする子ども達も育てなければなりません。そして、私たちは多くのこれからの未来に重要な働き人を育てるべきです。それが、機能宣教です。ですから、一人ずつまずできることから、じわじわと育てなければならないのです。そして、今、教会の中には、職業別に多くの未来を持った働き人がいます。
 
・それで今日、私がパク・キボン執事に言いました。教会の中には技能のある人が多いのです。彼らをみな生かすのです。それが機能宣教です。私が今日、チョ・キボン長老にこう話しました。これから将来に、福音が最も必要な人が誰でしょうか? 医者です。人々が、医者の事情を一番知りません。この話と、あの話しをして、お金がたくさん儲けるのかと言って、またいろいろな事を言います。私は今回見て、ちょっと驚きました。突然に私が風邪になったようなので、病院に行きました。それで私が注射を一本打ってくださいと言ったのです。私が風邪がちょっとひどくなったようでした。だから、この方が、鼻を治療して、のどを治療して、注射を出してきて打ちました。ところが、私には医療保険証がなかったのです。医療保険証がなかったのに、全部みなして、2,300円でした。そばで、薬を作ってもらうのに1,000円かかりました。あまりに申し訳なかったのです。思い切りしてもらっても、2、300円でした。それでも、私を見て、保険証を持ってくれば割り引くと言いました。それで、私がこのようにして医者は、ご飯を食べられるのかと思って、計算をしてみました。これならば、何名がくるべきでしょうか。200人、300人集まるべきで、このようにきては、医者が何かの肉体労働者のようだなと思いました。こういう面で、難しい部分が1つ2つではありません。
 
・それから、医者になる人々を育てて、霊的な武装をさせましょう。医者の先輩が、後輩を呼んで、武装させましょう。それが機能宣教です。何も難しいことではありません。今日、私たちはどのようにすれば、本当に神様の祝福を回復するのでしょうか? 私の機能を、どのようにすれば祝福を回復するのでしょうか? 今日のタイトルが、聖所での悟りです。先週に話が出てきました。私の足がたわみました。なぜそのように悪い人がよくなるのでしょうか。私が滑り落ちるようだと言いました。どうして、悪い人がよくなるのでしょうか。それを話したのです。簡単に話せば、衝撃を受けたのです。私達が試みを受けたということです。
 
・ある方が、私と話す中に、福音を伝えたところ、以前に教会に通ったと言いました。ところが、この方が何と言うかと思えば、いまは通わないと言いました。私がなぜ通わないのかとたずねました。そうしたところ、私が教会に行って、ある長老ゆえに試みにあって行かないようになったと言いました。その瞬間に、私はなにを感じたかというと、その人がそうであるんだなと感じたのではなくて、足りない人だなと感じました。単に人が価値なく見えました。私はたいした人物だと思って対話してみたのですが、自分が教会にちょっと通っていたのに、長老ゆえに試みにあって教会に行かなかったと言う、その話しを聞いた瞬間に私はちょっと足りない人だな、そのような気がしました。試みにあうようなことが何があるのでしょうか? 知らないから試みにあうのです。それで、私がその方を見て、こういう話をしました。すると、あなた永遠に救われることができません。その長老ゆえに、あなたがその貴重な救いをあきらめる必要はありません。いろいろ話をしましたが、人であるゆえに、そのように愚かな話しをして、行動するようになります。私達が誰々をみつめて、世の中を みつめて、試みにあうということは話にならないことです。私達がどのように、どのようにして、私がどのようになって、それは話にならないことです。
 
・今日、見たら、聖所に入っていく時に、悟りました。この話は、普通の話になりません。聖所に入っていく時、悟りました。皆様はこの話がなんの話なのか知っているでしょうか? 聖所を知っているでしょうか? むかしの礼拝堂、聖所の話です。壁があって、こちらは至聖所、あちらは聖所です。実際にあったことです。それで、外から入る時、何からするのでしょうか? 手を洗います。そして、入る時、全部、羊の血を持って入るのです。この至聖所に入る時は、祭司長、大祭司長が、羊の血、やぎの血を持って行くのです。もしそうでなくて、血を持たずに、ばら撒かないで入れば、みな死ぬのです。問題は私はものすごく義人だと思っているのに、私も血を持って入らなければならないということです。その時、分かったのです。誰でも血を持って入って行くべきなのだな。いまは恵みの時代ですが、その時は、説明がとても簡単です。血を持たずに入って行けば、聖所のなかで死にました。むかしに、誰かがそのような話をしたではないでしょうか。あの慶尚北道の地域に行けば、大きい寺があるということです。僧侶が出てきて、こう話したということです。悪いことをしていなければ、鐘の音は鳴らないけれど、皆様がもし盗んだり、人をだましたり、強盗をした人が行けば、音が出る。一人ずつ過ぎてみなさい言いました。怖がって誰も行かなかったということです。うそをつくことは、少しずつみなしています。人というのは、完壁に良い生活をする人はほとんどいません。ですから、聖所に入ってみて、聖所にくるなら、全部、血を持って入っていかなければなりません。知らないから、その時、悟ったのです。あの人は、ものすごく悪人で、私は義人だと思っていたのに、私も聖所に入っていく時、血を持って行かなければならないということです。
 
・一度は、何年か前に影島警察署から連絡がきました。小さな紙が来たのです。罰点がたくさんあるので、教育を受けなさいと来たのです。何の罰点を私が受けたのかと見たら、罰点が多くありました。私はそのようにしたことがなかったのです。自信満々に、腹を立てながら行きました。それを持って警察署で一番高い人を訪ねたのです。地下で仕事をする人がいて、警察署長が直接きました。先生ちょっと見せてあげましょう。これがなにかと出したのです。署長がそのようにするからどうなるでしょうか。警察が丁寧に、私に、では先生、一度確認してみようと言いました。影島警察署の地下かに行ってみると機械がいっぱいありました。そこに入っていって、ちょっと押さえたら出て来たのです。私は記憶してもいないことが出てきました。何年、何月、何日、忠武から南浦道方向に入ってくる信号違反。影島、東三道の三つ角で、中央線侵犯。その時、私が静かに考えてみたら、影島ここで中央線侵犯は誰でもすることなのに、私が警察に引っかかったことが一度ありました。それが点数にみな入っていたのです。以前に車に乗っている途中で、警察が南浦道で捕まえた時、すまないとそのように適当にすれば良かったのに、私は普通だと思って、切りなさいと言ったところ、罰点を受けたのでした。そらら、ずーっとみな出ているのに、全部、私がしたことであることに間違いなかったのです。出てくる時、申し訳なかったのです。私が軽率で、こういうことを持って警察署長まで訪ねるとは、どれくらい浅はかでしょうか。出てきながら、その警察官を見て、すまないと思いました。次に会えば、食事でもしようと言ったところ、挨拶して行きました。あの人が内心、私にどれくらい悪口を言うかと思いました。
 
・皆様のあらゆる事を全部記録に書いて出せば、ここで生き残る人は、一人もいません。聖所に入っていったところ、全部みな引っかかるのです。その時、必ず分かったでしょう。そうだな。自分は堂々と血を塗らずに入っていくべきなのに、そうすると死ぬということです。それで、イエス様が十字架を背負われたその日に、聖所と至聖所の幕が上から裂けたと言われていないでしょうか? その時から、私たちは羊の血、牛の血が必要なく、まさに十字架の恵みで、救われるようになって、祈るようになったのです。これをかなり以前から説明したことが旧約聖書です。それで、いまは聖所で受ける祝福が、どれくらい貴重か知るようになりました。聖所でどんな祝福を受けるのでしょうか? 罪の赦しの祝福を受けます。私たちは、これから羊の血をばら撒く必要なく、私たちは罪の赦しの祝福を受けるようになりました。皆様が、罪と暗闇の力、未信者状態、運命から、抜け出すことができません。そこから完全に解放されたのです。この前に申し上げましたが、神学を勉強する人々は、聖書に7つの事件をよく研究してみなければなりません。創世記1:2に暗闇という、その単語を研究してみましょう。創世記3:5で、サタンとへびと女の子孫に対して研究してみましょう。皆様が研究する必要があります。創世記4章で、カインとアベルは違うのです。福音と宗教も違います。それで、宗教人がどんどん失敗すれば、あなたがたが理解して、悟らなければなりません。創世記6章で、ネフィリム時代にネフィリムも研究してみなければなりません。なぜ創世記11章にバベルの塔が崩れて、カルデヤから出て来なさいと言われたのか、研究してみなければならないのです。なぜ神様の民のイスラエル民族は、永遠に奴隷で、捕虜で、人生を終えるようになったのか、研究してみなければなりません。ところが、ペテロが '主は生ける神の御子キリストです.'と告白したのに、なぜあなたは岩だとおっしゃったのか、研究してみなければなりません。この解放された祝福が、皆様の家庭、家系、社会に現れねばならないのです。この祝福を味わうのが、聖所です。
 
・2番目です。聖所でどんな祝福をもらうのでしょうか。みことばの祝福を受けます。皆様、旧約時代は申21:5を見れば、祭司長にだけ3つのことを与えました。祭司長にだけ、礼拝権、判決権、祝福権を与えたのです。ですから、預言者や祭司長が出てきて、皆様を祝福したのです。祭司長にだけ礼拝権、判決権、祝福権が あったのです。皆様がみことばを聞く時に、少しだけより詳しく聞いてみましょう。聖書を誤って悟ったと中世教会からプロテスタントが出てくるようになった単語が何か知っているでしょうか? 簡単に話せば、ローマカトリックからプロテスタントが出てくるようになった理由の話です。どこが違うのでしょうか。私達がそれを主張したのですが、いくつかの単語があります。その中の一番目のことが、信仰で救われることです。献金を多くして、徳をたくさん立てて救われるのではなく、信仰で救われるのです。その次に主張したことが、万人祭司です。イエスが十字架にかかられて、私たちは全部、祭司になりました。このように今、変わったのです。私達がヘブルを見れば、大胆に神様の前に進むという話しは何の話かというと、キリストが十字架にかかられ、私達が全部、その祝福をみな味わうことができるのです。これからイエスを信じる皆様に、祝福権、礼拝権、判決権がみなあります。以前は、祭司長にだけあったのに、今は、皆様にもあります。それがプロテスタントとの差異点です。それで、私達が何をたずねたのかというと、何ゆえにあらゆる罪を神父に告げるのでしょうか。神様にすれば良いでしょう? それがまさに旧約時代の時、犠牲のいけにえを持って祭司長が代わりに入っていってくれたことと違うでしょうか。いまはイエス様が十字架で終えられたのではないでしょうか? 今、壁の中に神父が入って、みな話すでしょう。今はイエスの名前で神様に言えば良いのに、なぜ人に言うのでしょうか? ここに修道女出身の方もいますが、次に証しを聞くようにしましょう。カトリックで、こういう返事をしました。相談するのです。そのような相談があるでしょうか? だから、旧約そのままです。それを終えてしまったのです。
 
・イエス様が十字架で死んでくださる日、神殿にあった幕が上から裂けて分かれたということは、ものすごく 重要な話です。私と皆様が呪われるしかなかったのに、キリストによってあらゆる呪いが退いてしまったということです。それで、皆様に祝福権、礼拝権がみなあるのです。それで、皆様が行ってみことばも導いて、家庭で礼拝もささげようとするのです。ですから、聖所でみことばを受けるように、私達が神殿になって、全部、回復してしまいました。この神殿では、そのようなことだけではありません。ものすごく霊的なことがたくさん起きます。皆様が祈る時、どんなことがおきるのでしょうか? 神殿で祈る時、U列王19:35を見ると、神様が主の天使を送られて、勝つこともありました。しかし、福音時代のいまは、皆様が神殿になったゆえに、皆様がどこでも祈ればこの働きが行われるのです。皆様が聖書を見ながら、いつも旧約、新約を区分して、応用、理解をよくしなければなりません。簡単に話せば、羊の血を塗るその日に救われたということは、旧約時代にイエスの血を話したのです。いまは血を塗る必要はありません。以前は、聖所で神様のみことばを受けて、霊的な事が起きたことのように、いまは皆様はどこでもそれができるということです。皆様が賛美する時、詩22:3に、神様が共になさるとなっています。ダビデが賛美する時、悪い霊が離れました。それで、皆様の子どもたちが育つのに、みことばを聞いて、賛美を聞くようにすることは、ものすごく重要です。病院で統計を出しました。患者たちが横になっていて、福音を聞いて、賛美を聞くようにした病室と、そのままの病室と、治癒が半分程度の差が起こりました。たぶんそのようなことでしょう。皆様が聖所で礼拝する時、祈る時、相当な事が起きるということを知っていなければなりません。
 
・今日、皆様が神様のみことばを捕まえながら、何を回復しなければならないでしょうか? イエス・キリストがこれから救いを完成なさったので、私たち自身が神殿です。パウロがこう話しました。 'あなたがたが神の神殿であることと、神様の聖霊があなたがたの中に宿られていることを知らないのですか '皆様、この部分は そのまま過ぎ行く話のように見えるけれど、ものすごく重要な話です。イエスの名前で救われた皆様に、神様の聖霊が共にいらっしゃるということです。これから礼拝堂に来るのは、共にみことば受けるために来ることであって、皆様はどこでも祈れば良いのです。そして、これから皆様の家が神殿にならなければなりません。皆様の家で礼拝する時、神様の驚くべきみわざが起きるようになるのです。これから皆様の機能と皆様の事業現場に神様の神殿になるみわざが起きねばならないということです。これを機能宣教と言います。今日、皆様がこの祝福を回復することを願います。簡単に話せば、結論は、皆様が行く所に聖所の祝福が現れることを願います。この契約だけ捕まえれば良いのです。皆様が行く所に、最も簡単に、この頃で話せば、神殿の祝福があることを願います。これを私達が回復するようになったのです。より簡単に話せば、ここは今、礼拝堂です。しかし、英国の王がいつも来ていれば、この所は王宮になります。もし私の家に大統領がいつも来て、そこで業務をするならば、私の家が大統領府になるのです。
 
・皆様と私は弱いけれど、神様の聖霊がいらっしゃるために、神殿だと言うのです。この契約をのがさないようにしなければなりません。より簡単に話せば、皆様の産業に暗闇の勢力が離れなければなりません。機能宣教です。皆様の家庭に暗闇の勢力が離れるべきです。それが家庭の祝福です。皆様個人に暗闇の勢力は終わりました。それが救いです。それで今日、皆様がこの祝福を全部回復するように願います。これをどのように簡単に伝えることができるでしょうか? 今日から皆様が私にだまされたかと思って、一度してみましょう。詐欺師の話しも聞くのですから、私の話しも一度聞いてみてください。今日、足りない牧師の話をちょっと聞いてみようとしながら、一度、だまされてみてください。事実は、だまされることではないのですが、だまされるように、一度してみろということです。皆様が約一ケ月だけしてみましょう。一ケ月だけ、皆様の家で祈ってみましょう。どんなことが行われるでしょうか? 皆様は、救われた子どもであるために、すごいことになります。そして、かならず一ケ月だけ皆様の職場で祈ってみましょう。そして、皆様が礼拝をささげようといらっしゃったら、ここでこの神殿で、聖所で私が祝福を回復してくださいと、礼拝の前に少しだけ祈ってみましょう。ロックフェラーは、40分前に礼拝堂にいつも出てきて祈りました。それが世界を征服したではないでしょうか? その時に、福音がどれくらいすごいのか分かるようになるはずです。皆様の家で、たくさんもせず、一度だけすれば良いのです。皆様の子どもたち、家族のために、本当に祈ってみましょう。律法の祈りではなく、福音の祈りしましょう。皆様の職場で、事業の場で本当に祈ってみましょう。これひとつだけでも、神様は驚くべき働きを成し遂げられるはずです。聖所での悟り、今、タイトルを変えれば、神殿での祝福です。これを皆様の契約で捕まえようとするなら、神殿の祝福になります。これが今、簡単に話そうとするなら、皆様に臨むインマヌエルの祝福です。この契約を皆様が捕まえてくださることを願います。今、皆様の家に最も必要な祝福がインマヌエルです。私は皆様に祝福して上げたいのです。皆様の事業に最も大きい祝福がインマヌエルです。神様が私たちと共にされます。事実上、私個人にも最も大きい祝福が、インマヌエルです。それで、ヨセフが、神様がヨセフと共にされたのです。この祝福を皆様が今日から回復して、味わうようになることをイエスのお名前でお祈りします。
 
<<契約の祈り>>
神様に感謝申し上げます。本当に私たちの事業の場、職場にインマヌエルの祝福があるようにさせてください。私の家庭に福音の秘密のインマヌエルの祝福があるようにさせてください。福音を知らなく霊的な祝福をのがす者にならないようにさせてください。神様の最も大きい祝福である福音の中へ入っていく私達になるようにさせてください。これから福音の目で、福音の力ですべての世の中を見ることができる目を開けてください。私の産業と機能を福音の岩の上に置くようにさせてください。それで、今日から実際に答えを受ける祝福を、実際に味わうようにさせてください。イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン