2004年8月22日インマヌエル教会聖日メッセージ


 1部/ 神様の計算法
(ルカ9:10〜17)
・私たちのインマヌエルのすべての家族、インターネットで、衛星で礼拝する教会の上に、神様の大きい祝福があるように願います。2002年度に、私たちはワールドカップをしました。私たち韓国が4強に入っていったのです。全世界がとても驚きました。よりおもしろいことには、外国でも面白い事が起きたのです。私たちの韓国の子ども達が学校で除け者にされていたのに、ワールドカップゆえに人気が出るようになったのです。ある学生は贈り物をもらったそうです。なぜ贈り物をくれるのかと尋ねたら、韓国人なので、あげるということでした。韓国人になぜ贈り物をくれるのかと尋ねたら、韓国の人々がサッカーを良くするからだと言ったそうです。それほどサッカーが人気がありました。宣教師たちが伝道して、宣教する時にも、ものすごく助けになったということです。それで、昨日の夜には、皆様は寝られなくてサッカーを見たと思います。私も3時にサッカーを見て、5時になったので変に寝られなかったのです。それで、そのまま顔を洗って、準備してきたので、足がすこし震えています。今、オリンピックで盛り上がっています。オリンピック選手を見れば、最善を尽くす姿を私達が見ることができます。それを見ながら、私たちの信仰生活も最善を尽くすべきだという気がします。
 
・今日の本文の内容は、皆様がよく知っている内容です。パン五つと魚二匹で5千人が食べても、十二かごが残ったということです。男だけで5千人ということは、今で言うと、何万名にもなると言えます。人々はたくさん集まって、野原で太陽が暮れて、食べるものがないのです。弟子が食べるものがなくて、心配したのです。その時、ある子どもがパン五つ魚二匹の弁当を持ってきたのでした。イエス様がそれを祝福なさった後に、男だけ5千人が食べても残ったのが十二かごでした。私たちは今日、この本文を見ながら、重要な恵みを受けなければなりません。皆様が五つのパンと二匹の魚の祝福を必ず受けなければなりません。
 
・英国の有名な神学者の中に、バークレーという人がいます。その人は、注釈も書きました。その方が、こういう話をしました。どのように、弁当一個で5千人が食べて、余るのか? そのようなことではないと言いました。バークレーという牧師が、そのように解釈をしたのです。全部、弁当を持ってきたのに、子どもがイエス様に差し上げたので、申し訳なくなって、みな差し上げたのだと言いました。それで、食べて残ったのが十二かごだと言いました。もっともらしい解釈をバークレーはしたのです。ところが、不思議に英国やヨーロッパは、教会がどんどん死にます。実際に、神様のみことばの中で理解できないことは、信じないのです。そのように、イエス様が水の上を歩いていくだろうか? 記者が遠くから見たら、水のように見えたのだと解釈します。水の上を歩いていく方法は、足片方が入ってしまう前に抜けば良いが、それが可能だろうか? イエス様が水の近くを歩いていくので、水のように見えたと解釈をします。おもにそのような人々が、ヨーロッパから出てきた神学者です。面白いことには、ヨーロッパ教会が、全部、滅びました。
 
・イエス様が、どのように弁当ひとつを持って、そんなに多くの人を食べさせても余ったのでしょうか? 聖書には、確かにイエス様が祝福された後に、5千人が食べても残ったと言われています。ここに重要なことがあります。今日、あなたがたは、神様のみことばのこの部分を、どのように見なければならないのでしょうか? 五つのパンと2匹の魚事件の意味を悟らなければなりません。それが一番目のことです。今日、ここにいらっしゃった皆様が、これを悟らなければなりません。弁当ひとつで、どのように5千人が食べても余ることができるのでしょうか? それは、質問自体が聖書と合わないのです。この事件の意味を悟らなければなりません。それが今日一番目に捕まえなければならない契約です。これはとても重要です。いったいイエス・キリスト、その方は誰なのか? それに対する説明です。このように接近して生きるので、どのように、弁当で食べて生かされたのかと言ったので、ヨーロッパ教会が滅びたのです。実際には信じないのです。ますます死ぬのです。
 
・米国が小学校の子ども達に聖書勉強をさせなくなってから問題がき始めました。ケネディ大統領の時、聖書勉強をやめたのです。ケネディ大統領が指示をしたのです。ケネディ大統領は、カトリック信者です。カトリック信者は、今でも神様のみことばを信じません。その人々は、妙な原理があります。その人が銃に撃たれて死んだのですが、偶然ではないと考えます。事実上、その後から米国には問題がき始めました。皆様、私達が5つのパンと2匹の魚の事件をどのように見れば、生かされるのでしょうか? いったいイエス・キリストは、誰でしょうか? 一度も争いをしないで、あらゆる世界を征服したイエス・キリストはだれでしょうか? それに対する説明です。
 
・皆様、教会が何かを知っていますか? なんにもないように見えるのですが、全てのものを皆尽くすことができます。皆様、救われた聖徒が何か知っているでしょうか? 皆様がなんでもないように見えるけれど、時間が経てば経つほど、後ほどより一層、多くのことを悟るようになるはずです。その話です。今日、皆様がこの話を早く悟らなければなりません。五つのパンと2匹の魚事件の意味をわからなければならないのです。この話を悟れないので、五千人が食べて余ったので、驚いたのです。その後に見たら、イエス様を王としようとしました。この人に付いて回れば、腹が減ることもないだろうと考えたのでした。誤って悟ったのです。だから、その人々が全部、逃げたのです。弟子たちまで逃げたのです。その中で、お金の心配を一番多くしたイスカリオテのユダは自殺しました。ペテロまで、イエス様を否認したのです。意味を知らなかったためです。これは、ものすごく重要なのです。信仰生活で一番重要なのです。
 
・私はせつないことが、ひとつあります。私たち韓国の指導者の中で、むかしに朴正煕大統領のような人物が出てきたのか、こういう考えをいつもします。せつないとは、その方が12年間、教会に通っていたのでした。それも、亀尾にある自分の家のすぐそばにある教会に、幼い時から高校生の時まで通ったのでした。何の話なのか知っているでしょうか? 重要なことを聞くことができなかったのです。その人に、重要なことを伝達しなかったのです。だから、これは小さな罪ではありません。だから結局は、崩れるのです。私たちは、崩れない信仰生活をしなければなりません。奇跡がおきたんだなあ。弁当一つで5千人が食べても余ったんだなあ。すごいことで、食べたら、とても良かったのです。お腹が空いていたのに、お腹がいっぱいだな。そのようなことを言うならば、未信者のようなのです。
 
・いったいその方は、誰でしょうか? それに対することを知らせようとするのです。簡単に話せば、弁当一つで5千人が食べても余ったということは、創造の力ではないでしょうか? その方は、まさしく創造主なる神様であることを皆様に知らせるためにいらっしゃったということです。私達が、その意味を本当に理解するならば、再創造のみわざが起きるしかないのです。それが集まったことが教会です。皆様、教会が何かを知っているでしょうか? 未信者が見るのにはなんでもないのですが、教会は全てのものをみな持っているのです。皆様自身が、弱いように見えるかもしれないのですが、神様はものすごい計画を持っておられるのです。それが教会です。私たち、救われた皆様一名一名が、どれくらい重要でしょうか? 神様が、あらゆる計画をみな持っておられます。それで、キリストを送られたのです。これを悟らなければなりません。この部分を知らなければ、結局、後ほど信仰生活が崩れるのです。
 
・私は牧師の中では、キム・ジュンゴン博士を一番尊敬します。なぜかというと、福音を伝えられた方であるためです。私はその方以前には、福音を聞いたことがありません。その方が、韓国で一番福音をよく伝えた方です。その方が、こういう話をしました。あらゆる英雄、将軍をみな合わせたことより、もっと影響をたくさん与えたキリスト、その方は誰なのか? 本一冊も書かなかったのに、その方に対する本が一番多い、果してその方は誰でしょうか? イエス様が来られて2004年なのに、歴史の主人公のその方はだれでしょうか? そのような質問を大学生に投げたのです。私はその時、正しいという気がしました。果してその方は、誰でしょうか? これひとつ悟ったのに、あらゆることがほとんど解決し始めました。皆様、これひとつ悟れないことは、何でもないことのように見えるのですが、後ほどみななくなって、むなしい事になるのです。いまだに悟れないでしょうか? 米国教会とヨーロッパ教会が、みな売られて行くのに、まだ悟れずにいるのでしょうか? これひとつゆえに、そのようになるのです。だから、皆様がどれくらい大きい祝福を受けたのでしょうか? 今日、皆様が新しい契約を、新しく捕まえるようになることを希望します。
 
・五つのパンと2匹の魚を食べて残ったことが問題ではありません。今日、五つのパンと二匹の魚の事件が私たちに2番目に与える教訓があります。そこに集まった人々と弟子に信仰を説明したのでした。私たちに信仰を持ちなさいということです。神様の働きを、私たちは全部予測できません。聖書に起きる奇跡を、私たちは想像もできません。私達が神様を信じることはできますが、神様に対してあらゆることを予測することはできないのです。私たちは、キリストによって救われたのですが、それに対する途方もないことをみな知らずにいます。神様の計算と人間の計算は違っているのです。早く悟らなければなりません。五つのパンと二匹の魚を持ってきたのですが、その献身がどれくらい重要な献身なのかを早く悟らなければなりません。
 
・皆様、信仰生活をする時は、 五つのパンと二匹の魚事件ひとつを持っても、とても重要なことが入っています。五つのパンと二匹の魚の奇跡がおきたことが問題ではないのです。いったいその方は誰なのか? これを早く悟らなければならないのです。もしかして、初めて来られた方はいますか? それから、質問しなければならないのです。イエス様が弟子に重要なことを任せる前に尋ねられた質問があります。あなたは訓練をどれくらい受けたのか? あなたは、どれくらい献身をしたのか? そのようなことを尋ねられたのではありません。人々は、わたしのことを誰だと言いますか? あなたがたは、わたしのことを誰だと言いますか? その時、ペテロが返事をし終えた後に、イエス様が重要な話をみななさったのでした。皆様がここに対する新しい祝福を受け始めるならば、あらゆる答えは回復するようになるはずです。初代教会のように、祈りの答えを受けることができるのでしょうか? 受けることができます。皆様の働きが問題ではないのです。だから、起きたみわざが問題ではないのです。今、弁当を五千名が食べて残ったことが問題ではないのです。このことをされた、この方はいったい誰でしょうか? これが私達が持たなければならない最初のことです。皆様がこれだけ悟れるならば、驚くべきみわざが起きるようになるはずです。
 
・この前、映像を見たでしょう? 私たち韓国に先ず一番に派遣されたトーマス宣教師を派遣した教会が、信徒が一人もいないのです。そして、その程度ではありません。イスラム教がひとつずつ教会堂を買っています。また、ヨーロッパでは、法律で古くなった建物は、外側を直すことができません。建物の中は修理ができるけれど、外は直せないのです。だから、教会堂が古くなったので、全部、酒場をする人々が教会堂を買って、そとは教会で、中は修理して酒場に使っているのです。こういうおかしな事がずっと起きています。本当に、神様は生きておられるのでしょうか? 私は祈っても、なぜ答えが来ないのでしょうか? その質問を、今日一番目すべきなのです。どこに関心があるのでしょうか? いったい、その方は誰なのでしょうか? '主は生ける神の御子キリストです' 'バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。' 'あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。' そして、天国の鍵を与えると言われました。天国の門をあけて、閉じることができる鍵を与えると言われたのですが、完壁ではないでしょうか? だから答えが来るしかないのです。
 
・私はある日、神様の恵みで、人々がやさしいと言う福音を知るようになりました。その日から今まで、一度ももれなく、神様は答えられました。本当に驚くべきことです。それで、聖書はあまりにも正しい話しなのですが、私達がしばしばのがしているのです。他のことに関心が行かないほどに、これが良いのです。他の物で価値があるものがあるでしょうか? どれくらい驚くべきことでしょうか? この頃、レムナントをはじめとして、集会で多くの働きがおきています。米国に行って、LAに行ったり、ワシントンに行ったりしました。あちこちで福音の祝祭がおきています。不思議に思う程です。契約を捕まえて、祈りをずっとすれば、考えるだけでも答えがくるのです。
 
・ところが、契約を捕まえて行ってみるならば、これからレムナントがおきるのです。これから、レムナントが受ける祝福は、どれくらい大きいでしょうか? これが正しいならば、2番目にくる答えが信仰です。神様の 働きと人の考えは違います。神様の計算は違うのです。何にもないことのように見えるのですが、神様は全てのものをあるようにされるのです。今日、皆様がこの契約を捕まえることを願います。私がなんにもないように見えるけれど、神様は恐ろしく働かれることができるのです。何もない状態に見えたのですが、神様は五千人が食べても余るようにされたのです。
 
・皆様、教会で働きをする時も、そのようにしなければなりません。私たちの考えと神様の計算は違うのです。この弟子は、どんな水準でしょうか? お金がなくて難しいので、五千人が食べても余る奇跡を起こされたのです。今日、私たちはここで重要な、どのように献身しなければならないのかという答が出てきました。三番目に、私たちはどのように献身しなければならないのでしょうか? この本文には出てこなかったのですが、ヨハネ6章を見れば、幼い子どもが弁当を持ってきました。なぜ持って来たのでしょうか? 子どもが、自分が食べなくて、なぜ持ってきたのでしょうか。ある人は、このように解釈しました。その子が、自分が食べなくてイエス様に持ってきた、その思いゆえに祝福を受けたと言います。そのような解析をする人もいます。しかし、そのような話は聖書にはありません。私が見るには、この子は何にも知らずに、単に持ってきたようだと思います。これを持って行けば、イエス様が奇跡を起こして、他の人もみな食べて余るようになるだろうという計算をして持っていったのではありません。単に持って行って差し上げたのです。人々がイエス様にたくさん従うから、この人は本当に良い方のようだ。そうでなければ、キリストだ、この程度に悟ったのです。お母さんが自分にくれた弁当であるから、私が食べなくても、差し上げるべきだと差し上げたようです。大きい計算なく、知らずに差し上げたのでした。
 
・教会も時々見れば、なんの日でもないのに、献金を突然に一千万円、このように多く出す人がいます。ところが、そのような方達を注意深くみれば、だいたい新しい信者です。知らずに出したのです。知っていれば、そのように出しません。だから、信仰生活を初めてする方達は、献金をちょっと多くします。信仰生活をちょっと長くしてみると、献金も少なく出します。より長くすれば、より少なく出します。多くする方達も、信仰生活をするうちに、多くするのではないなと思って、少なく出すようになります。何も知らない時に、多くするのです。この子が何も知らずに持ってきたのでした。
 
・今日、私たちはここで重要な答を得なければなりません。五つのパンと二匹の魚は、何でもない弁当ですが、主の御手に握られた時、驚くべき事が起きたのです。献金とは何でしょうか? 主の御手にささげることではないでしょうか? 祈りとは何でしょうか? 主にささげることではないでしょうか。賛美とは何でしょうか? 歌を主にささげることではないでしょうか。最も尊いと考えられる方にささげることではないでしょうか。それが、まわって降りてくることが祝福ということです。乾いた棒が使命者モーセの手で捕えられたら、奇跡を起こしたという事実。今日、私達がここで必ず捕まえなければならない契約です。何でもないようなのですが、主が祝福なさったので、5千名が食べても12かごが余るみわざが起きました。神様が与えられる恵みの中で、この契約を捕まえる人は、誰でもこの答えを受けます。
 
・ここに私のボールペンがあります。このボールペンは、一般のボールペンと全く同じボールペンですが、祝福されたボールペンです。これを持って私がメッセージ書くために使います。これで人を殺したり、詐欺を働いたりすることには全く使いません。全く同じボールペンを詐欺師が持っていれば、詐欺を働くのにいつも使います。全く同じボールペンなのに、そうだということです。私の手にあれば、いつもメッセージを記録する時に使われます。人も同じです。皆様が持っている物質、皆様が持っている機能が、神様の御手に使われる時、その時からみわざが起きるようになるのです。
 
・私はこれを本当に証ししたいのです。私は福音を知らない時、いつもあまりにも難しい中にいました。できることがなかったのです。その程度ではありません。幼い時、韓国動乱(朝鮮戦争)に会って、難しい時代がきました。国が貧しかったのです。どれくらい難しかったでしょう? そして事故も起きて、父親も早く亡くなりました。良いことがありませんでした。そうしたあと、私は堕落したのです。それとともに、あっちこっち通うのに、できるようになるでしょうか? ある日、私が神様を知るようになったのです。キリストを知って、神様の子どもになりました。何でもない人間が、神様の貴重な働きに少し用いられてみて、神様がどれくらい 祝福をたくさんなさったのか分かりません。 'そうだな.' と悟るようになりました。私達が持っている物質も、神様に用いられれば最も祝福を受けるのです。
 
・私はこういう経験があります。他のことはよく知りませんが、あの方は本当に伝道する人のようだと感じられる人があります。私達が見れば、分かるでしょう。あの方は、本当に伝道しようという方のようだと感じる場合があります。宣教師の中でも、大部分は伝道しないのですが、本当に伝道する人がいます。牧師達は多いけれど、ほとんど伝道には関心がないのですが、本当に伝道しようという人がいます。私がその人々のために、持っているものはないのですが、宣教費をすこし後援しました。これを神様は喜ばれたのです。なんでもない物質も、神様の貴重な御手に使われるので、これは普通の働きが起きるのではありませんでした。ところが、時間が経つほど、肉体的な祝福もたくさんくださいました。だから、神様の御手に用いられなければなりません。五つのパンと二匹の魚ということは、何でもないのですが、キリストが祝福なさるので、5千名が食べて余ったというこの意味を、私たちは早く捕まえなければなりません。
 
・皆様が成功する道があります。神様の御手に捕まる時!! 皆様の事業が神様の御手に捕まれば、皆様の職業が神様の御手に捕まれば、皆様の機能が全能なる神様の御手に捕まる時、成功するのです。私は確信します。キリストは誰でしょうか? 五つのパンと二匹の魚で奇跡がおきて、いっぱい食べたことが問題ではなくて、いったいその方は誰でしょうか?
 
・この弟子が、ぶるぶる震えていた時、イエス様は "あなた達が与えなさい”と言われました。 "いや、どのように与えるということでしょうか? 今、持っている弁当がひとつしかないのに、どのように与えるのでしょうか?", "あなた達が与えなさい" "私たちは、お金もなくて、何にもないのに、どこから買ってきて与えるのですか?" 全部、列を作って座らせました。座らせておいて、五つのパンと二匹の魚をイエス様が祝福なさったのですが、そこで驚くべきみわざが起きたのです。ものすごく意味が大きいのです。それで、私はその時から変わりました。以前は、献金の話が負担になりました。私はその後に悟ったのです。どこに献金すれば、神様が喜ばれるのか? このように考えが変わったのです。それで、神様の前に、わざわざ注意深くみて、あのような所に神様が喜ばれると考えられれば、言われなくても行って献金しました。
 
・一度は、ある時、ある方が集会される所に行きました。とても貴重な講義でした。会費は千円でした。それで、私がその方に1万円を差し上げたのです。そうしたところ、会費は千円だと言われました。それは知っているのですが、あなたがする事がとても貴重な働きなので、1万円を差し上げたと言いました。私がよりしたいのだけれど、予め知らなかったので、それしか準備出来なかったと言いました。その牧師が、私に言った言葉です。自分は20年、講義をして回りながら、こういう場合は初めてだと言いました。会費が千円なのに、1万円を出す場合が初めてということでした。それが簡単なことのように見えるけれど、ものすごく重要なのです。皆様の信仰です。神様が本当に喜ばれることが何でしょうか? そちらに、自分の機能を、神様が本当に喜ばれることが何か? そこに自分の物質を、そこに私の人生をささげるのです。
 
・今回、LAに行って、ワシントンに立ち寄ってきました。そこで牧師が証しをされました。とにかく、とても喜んでいました。共同体という単語を捕まえて受けた答え、6年前にレムナントという単語を捕まえて、どれくらい答えを受けたのか分かりません。なぜでしょうか?神様が喜ばれる事だからです。たとえ麦のパン5ケ、小さな魚2匹であっても、神様の御手、キリストの御手で祝福されたので、5千名が食べても余ったという事実です。自殺しようとしたサンダー・シングがキリストの手に捕えられたので、時代的な宣教師に、ならず者のキム・イクドゥが、キリストの御手で捕えられたので、復興師に、どれくらい驚くべきことでしょうか?
 
・村の人々が、道を通りならが、木のようなものに石を投げて '今日は、キム・イクドゥに会わないようにさせてください'と願ったということです。あまりにけんかをして、怖いから、今日はキム・イクドゥに会わないようにさせてくれと祈って道を通ったそうです。ところが、キム・イクドゥという人が、ある長老を通じて福音を受けたのです。福音を受けてから、この人が神様の御手に捕まって変わり始めたのです。この人が牧師になる前、青年の時に教会に行く時に、あるならず者が、キム・イクドゥにけんかをふっかけたのです。どれくらいおかしな状況になったか? むかしには、キム・イクドゥがいつも人々を殴って通ったのに、その時は、このならず者が、キム・イクドゥにずっとからんできたのでした。キム・イクドゥがこう話したそうです。そのならず者を、むかしならば半殺しにしたが、殴ろうとしたが、耐えたのでした。それでも、このならず者がからんでくるので、壁を殴りながら話しそうです。 "本当に、イエスは私が信じて、恵みはお前が受けんだな." この人が神様の御手で捕えられて、時代的な復興師になりました。私たち韓国で1900年代に働きを起こした人物です。ならず者も、神様の御手に捕まって、神様の貴重な働きに用いられるので、みわざが起きるということです。アルコール中毒者だったヘンデルという人は、神様の御手に捕まったので、ものすごい賛美曲が出てきました。
 
・今日、信仰生活の原理は簡単です。五つのパンと二匹の魚の事件でも完壁に出てきました。パンを食べたことが問題ではありません。パンを食べたことが問題ではないということです。このパンを食べるさせられた張本人、この主人公が誰でしょうか? これが重要です。そして、実際に私達が教会生活、信仰生活をする時、私たちの信仰が重要です。神様はなさることができます。私達があまりに物質の前に弱くふるまっても困難ですが、あまり無駄に使ってもいけません。しかし、今日のみことばは、そのようなことを話すのではありません。今、イエス様が人々を浮き立つようにする事件を言おうとされているのではありません。神様がなさることは、私達が見るときには、何もないように見えても、想像を超越する事をなさるのです。
 
・インマヌエルの家族のあなたがたが、今、他人の建物を借りて礼拝をささげています。今、見る時は私達が 何でもないように見えるでしょう。しかし、時間がたくさん過ぎれば、神様がこのように働かれたのだなと分かるようになるはずです。今、始める皆様は、見るべきことがないように見えるかもしれないけれど、後ほど恐ろしいことを見るようになるはずです。信仰生活の重要な原理が、そこで出てきます。弁当一個がキリストの御手で捕えられて、キリストが祝福なさったので、驚くべき事が起きたということです。今日、皆様がこの 契約を捕まえることを望みます。
 
・私はこういう気がしました。一番良い時間がいつでしょうか? 神様に祈る時間です。神様の御手に捕まる時間です。私はそのように考えました。そのように考えて、定刻の祈りをしたのに、定刻の祈りをしながら、多くの答えを受けました。それが祈りです。そして、私が持っている物質をどのように使えば良いでしょうか? 神様が最も希望されることに使うのです。それが献金であり、献身です。私達がキリストの御手に捕まるならば、だめなことがありません。今日、皆様の事業、家庭、子どもが神様の力ある御手に捕まることを願います。キリストが祝福なさるならば、誰が防止することができるでしょうか?
 
・未亡人の息子が死にました。そうすると、終わったことではないでしょうか? 夫もいないのに、その未亡人の息子が死んだのです。葬儀が行われ、この未亡人がうらめしく泣きました。イエス様が通り過ぎて、歩みを止められたのです。それで、問題は終わったのです。イエス様が病んだ者のところに行って、会ったら、病んだ者が起きあがりました。イエス様が死者に起きろと命令されたら、起きたのです。いったいその方は誰でしょうか? キリストだということです。それなら、私たちの事業、家庭、私たちの人生をキリストの御手に捕まれば、あらゆる問題が解決します。今日から本当に答えを受けてくださることを願います。どれくらい簡単でしょうか。この福音、秘密を下さいました。神様にとても感謝します。
 
・それなら、私の奉仕は、私の考え通りにするのではなくて、神様の驚くべき神様の計画通りするのです。たとえ、私が弱くても、神様に捕まる時、神様に用いられる時、その時からみわざが起きます。まちがいなく、そうです。この契約を皆様が捕まえなければなりません。五つのパンと二匹の魚の意味を悟らなければならないんどえす。主は、弁当一個を持って5千名が食べさせても、12かごが余ったという事実は、私たちに今でもそのまま適用されます。今日、皆様が契約を捕まえる瞬間、答えをくるようになるはずです。
 
・話を結びます。答えられているか、いないか、3つのフォーラムをしてみましょう。説教を聞く時、私たちの教会は長老たちから始まって、皆がすべてメッセージを記録します。これ自体が祝福です。この教会ではないなら、みことばを書くこともしません。私たちの教会の長老たちを見れば、メッセージを一つ一つ皆すべて書いています。メッセージを記録して聞きながら、今日一日だけ考えてもかまわないのです。このみことばが、私にどんな意味を与えるのか? このようにするだけでも、みことばは生きているために、みわざが起きます。それをみことばフォーラムと言います。
 
・私がこの前に話しました。イエス様が通り過ぎられたのですが、空腹だったのです。いちじくを見たら、実がありませんでした。聖書に記録されているのに、いちじくの時ではないと言われています。ところが、イエス様はその木をのろわれたのです。異常ではないでしょうか? すると、ペテロがその日の夕方に尋ねるべきだったのです。いちじくの季節ではないのに、なぜその木をのろわれたのですか? それが、みことばフォーラムです。もしそのようにたずねていたなら、その日の夜に2000年ぶりの大きい驚くべきみわざが起きたでしょう。その翌日、過ぎてみたらいちじくが枯れていました。その時になって、ペテロが '昨日、イエス様が呪われたた木が枯れているな' と考えたのです。私たちは普通、そのように信仰生活をします。そのような方法で信仰生活をしてはだめです。尋ねなければなりません。なぜのろわれたのですか? そのように、たずねていたなら、イエス様が返事をされたでしょう。イスラエルは今、時間や時を区分する時ではない。いちじくは、イスラエルを象徴することだ。葉だけたくさん出ていて、福音の実がないイスラエルは、滅ぼされるようになるはずだ。だから、そのように知って準備しなさい。みことばフォーラムです。なぜソドム、ゴモラが滅ぼされたのでしょうか? 義人がいなかったからです。義人10人だけいても、滅ぼされなかったでしょう。この話を聞いたアブラハムは生かされて、そうでないロトは滅びたのです。何のみことばなのか、知っているはずです。皆様、今日、みことばを通じて、このみことばが私にどんな意味を持つのか? このようにだけ尋ねても、みことばは生きていて、働かれるようになっています。
 
・果して、神様は私にどのように答えてくださっているのか? 神様は私の祈りに、どのように答えてくださっているのか。フォーラムをしてみましょう。またもうひとつは、私の生き方が直接、間接的に、伝道にどれだけ用いられているのか。この三つを聖日ごとにチェックしなければなりません。そのようになれば、みことばは生きているために、全部、答えられるようになっています。
 
・例を上げるならば、私が説教準備を多くして説教をすれば、それは違うのです。それがなんの話でしょうか? 説教準備はたくさんしなければならないのではないか? と思うでしょうが、違っているのです。それは、私の思い通りにすることです。私たちの教会に、私に、神様がどのように答えられたのか? これでその次のメッセージを準備しなければならないのです。それが説教です。私の思い通りにみことばを与えて投げてはなりません。それで、私たちタラッパンのメッセージは、何も難しいことがないのです。どのように答えが来るのかを見て、みことばと連結して、また行くのです。全部、そのようにしてなされてきました。なんの問題になる必要がないではないでしょうか。
 
・私は、以前には伝道現場に入って行きました。いまは現場にあまり入っていくことができません。すると、私が伝道に用いられているのか、そうでないのでしょうか? 私は、全地域の人々に、伝道しろと目をさまさせるために通っています。どのように、どんな方式で用いられるかは、いつも確認しなければなりません。まちがいなく、答えが来ます。私が果して信仰生活するなかで、何ゆえに信仰生活をするのでしょうか。いのちをかけて信仰生活しなければならないのに、なぜそのようにしなければならないのでしょうか。私が本当に信仰生活をしながら、この教会に出てくる理由が何でしょうか。少しだけ質問すれば、すぐに答えがき始めます。この時代に、キリストの贈り物ということを私にくださったゆえに、その祝福を味わうために、今日もこの席に座ったということです。
 
・教会に来てみたら、いろいろな事がたくさん起きます。それが問題ではないということです。暗い、仕事が多い、人が多い、お金がない...パンがない..そのようなことは、問題にならないということです。キリストをお迎えしている私たちの信仰が問題です。何の話なのか知っているでしょうか? 皆様が教会のなかで信仰生活、宣教、伝道することが本当に多いけれど、私が主にあってどのように献身しているかということです。それが、答えを受ける秘密です。すると、皆様には正確に答えられるはずです。この祝福を皆様が受けることを希望します。一人ももれなく、今日、五つのパンと二匹の魚の意味3つを悟って、正しく答えを受ける皆様になることをイエスの名前でお祈りします。皆様の事業、皆様の家庭、皆様の子どもに、神様の祝福があることをイエス様のお名前でお祈りします。
 
<契約の祈り>
神様に感謝申し上げます。今日、答えの日になるようにしてください。五つのパンと二匹の魚が問題ではなくて、奇跡が問題ではなくて、今日、私達にキリストの秘密を味わう一時代の伝達者になるようにさせてください。教会と職場、家庭で起きる事も重要ですが、神様の計画を見る日になるようにしてください。たとえ弱くても、キリストの御手に用いられ、祝福されるならば、できない事が無いことを確信します。今日、私の事業、私の職業、私の弱さを主の御手に頼みます。力ある神様の御手にゆだねます。私たちの役員とあらゆる主のしもべのあらゆることを神様の力ある御手にゆだねます。神様に用いられる祝福の時間になるようにしてください。五つのパンと二匹の魚がキリストの御手で奇跡が起きたように、今日、その祝福を受ける日になるようにさせてください。イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン
 
 


 2部/ 不信仰の世の中で勝利する信仰
(詩83:1〜18)
 
・今日の雰囲気を見て、説教を短くします。朝には皆様がよく知っている五つのパンと二匹の魚事件についてみことばを見ました。ところが、説教を聞いて、普通の人は、ほとんど忘れてしまうのです。ある人は、先週に何の説教を聞いたのか分からない人もいます。より面白いことは、自分が説教をしても、何をしたのか分かたないこともあるのです。聖書は、生きておられる神様のみことばならば、それでは困るのです。何か皆様に悟りがあって、恵みがくる程の祈りはしなければなりません。たぶん皆様が今日、五つのパンと二匹の魚の事件を持って少しだけ考えていたなら、3つの結論が出てくるはずです。
 
・私たちを暗闇とサタンと罪から救われた、その方がキリストだな! こういう結論が出てくるはずです。すると、2番目の結論が出てくるはずです。たとえ荒野に、何もない野に集っていても、教会とは何か? という結論が出てくるはずです。三番目は、本当に五つのパンと二匹の魚が主の御手にある時、奇跡が現れたように、救われた私達がどれだけ祝福されたのか分かるようになります。こういう悟りが与えられたら、ずっと証しがでてきて、答えがずっと来ます。忙しいので、聖日だけでも礼拝は正しくささげなければなりません。明日から外に行けば忙しいので、私達がいつ聖書をよく見ることができるでしょうか。時間がありません。特に執事達、長老達は、忙しくて月曜日から忙しいので、いつ聖書を持って通って黙想して、そのような時間が実際にはありません。長老、執事は、事業を熱心にしなければならず、いつも聖書を持って通うならば、神様が嫌われます。何の話でしょうか? 聖日に礼拝を正しくささげましょう。何も難しいことはありません。みことばを少しだけ考えてみればよいのです。そして、少しだけ祈れば良いのです。
 
・私は今日、説教しながら、祈りしながら、このような気がしたのです。私が説明を完壁にしなければならないのに、できなかったなあという気がしたのです。ちょっと簡単に説明せねばならないのに、私たち信徒がよく分かっただろうかと思いました。私たちを暗闇から救い出された万王の王キリストを説明する事件です。どんなに貧しく見えても、福音を正しく持った教会の重要性を説明することです。どんなに弱い私たちであっても、主の御手に捕まった時、五つのパンと二匹の魚の奇跡が現れたかのように、救われた聖徒のことを話すのです。こういう答えがきました。それで今日、私たちは特に賛美礼拝を一緒にするようになりました。それなら、私たちはまとめながら、恵みを受けるべきです。それなら、私たちはタイトルにあるとおり、不信仰の世の中で勝利すべきなのです。
 
・世の中はどうなのでしょうか? 一般の人々は知らずにいるのですが、創世記3章、6章、11章が、かたまったのが世の中です。普通の人々はよく知りません。もう一度、私たちの音楽する方達が集まったからお願いしますが、音楽する人ほど、福音をよく悟らねばならない人はいません。なぜならば、神様に賛美した天使が堕落して悪魔になりました。それで、この地球上を歌でひっくり返しています。それで、TVやラジオを聞くならば出てくる音の70%が歌です。簡単に話して歌の戦いです。未信者はどれだけ世の中の歌をたくさん歌うか、私たちはどれだけ正しく霊的な歌を歌って勝つか、ということです。それで、音楽をする人々が、福音を正しく味わうことができなければ、霊的問題が来ます。それで、必ず記憶しなければなりません。今日、賛美する方達が集まったから、皆様が特別な祝福を受けてくださることを願います。創世記3章の事件を原罪だと言います。皆様がしたことでもないのに来るのろいが原罪です。創世記6章が、まさに悪霊文化に捕われたノアの時代です。創世記11章が、途方もなく発展して崩れるバベルの塔です。それが世の中です。ですから、人々は生存競争をして戦うしかないのです。そうしたあと見ると、よくなるかと思っていたのに、霊的問題がくるのです。
 
・私たちの学生達が同じ考えでしょうが、ある学生がこのような相談をしました。正しい話しですが、自分の親が自分にあまりにも訓練を受けろと言うので、自分がストレスを受けると言いました。それで、私がたぶん、方法がストレスであって、内容ではないだろうと言いました。なぜならば、私たちは、正しくいくつかのことはしなければなりません。伝道を1度、2度するのではなくて、一生、せねばならないために、伝道が何か正しく理解しなければなりません。そして、神様の祝福を味わう祈り、福音を正しく理解しなければならないのです。そして、自分の専攻分野に成功しなければなりません。そうでなければ、年ととって問題が来るのですが、その時はおそいのです。本当に残念なことです。それで、私達がそれはすべきだ、してはいけないではなく、当然にいくつかの祝福を味わわなければならないのです。すると、自然になるようになっています。こういう祝福を味わわなければ、私達があまりに難しくてできないことを無理にしながら、どのように生きるのでしょうか? こういう祝福を味わうようになれば、3つのことに勝つようになります。
 
・今日、83篇に3つの内容が出てきました。今日、みな読む時間がありません。世の中の方法が出てきました。世では悪い人々が殺そうとして、お互いを押さえようとする内容が出てきました。私たちは、この祝福を正しく味わってこそ、世の中の方法を超越できるのです。正しく神様の祝福、福音の秘密を味わうことができなければ、世の中の方法を越えることができません。ですから、私たち学生達が必ず記憶しなければなりません。私達がこの祝福を味わうことができなければ、世の中に行けば、世の中の方法は、全部、戦うことです。私達が適者生存という言葉を使います。また、弱肉強食という言葉も使います。学校でも教えるのが、君主論、孫子兵法のように戦うことを教えるのです。だから、どのように勝つのでしょうか? これを超越することができる力がなければなりません。それを私たちは持っていなければならないのです。
 
・2番目です。今日ここでは、信仰人が信仰があるかのように見えるけれど、肉に属している信仰人です。多いのです。これを越えることができる力がなければなりません。そして、三番目のことです。今日、ここに出てきたアサフの子孫のように、霊に属しているのですが、いつも嘆いて相当な悪い話しをしました。これを越えることができなければならないのです。今日、説明する時間がなくて、みなできませんが、この三つを越えることができる力が、福音の中にあります。それで、今日1部礼拝の内容だけ正しく理解するならば、皆様はこれを越えることができるのです。皆様、時間が出来れば、訓練を受けましょう。なぜならば、伝道を1度して終えるならば、受けてもかまわないのです。私が人生を良い生活をする時、すこしして終わるならば、受けなくてもかまいません。正しくこの祝福を味わおうとするなら、正しく理解しなければならないのです。そうだとすれば、私が受けた救いの祝福を、正しく味わわなければなりません。それで、世に行って成功しなければなりません。それをいうのです。これができれば、3つのことに勝つことができます。世の中の方法に勝つことができます。言葉は信仰人であって、肉に属する人がとても多いのです。それに勝つことができます。霊的に神様を慕いながらも、崩れて嘆息する人々が多いのです。それを越えなければなりません。その代表的な人物がダビデです。それで、これはアサフの子孫の詩です。アサフの子孫はダビデが作りだした賛美チームです。ダビデがどれくらい音楽を正しく理解したかというと、こういう賛美チームを作ったほどでした。そして、こういうチームを率いる楽長、聖歌隊長を三名立てたのでした。その中の一名がアサフでした。これがアサフの詩です。アサフの子孫があまりにせつないから、嘆息してのろいます。だから、聖書にあるみことばなのですが、このようになってはならないということです。
 
・ダビデは、どんな信仰を持っていたのでしょうか? 簡単に、いくつかでお話することができます。ダビデは、実力と霊力を兼ね備えていました。簡単に話せば、福音も理解して、世の中も理解していたのです。私は、そのようなレムナントが、私たちの教会からたくさん起きることを願います。世の目も開かれて、福音の目も開かれていました。このようにならなければ、福音に目は開くことは開いたのに、世の目が開かれることができなくて、いつもさ迷って通うこともこまります。世の中のことはちょっと知っているようなのに、福音があまりに暗くて、後ほど霊的問題がくるのも困ります。ですから、ダビデはこの二つの目がみな開かれていました。正しく世の中のものも知って、神様を知っていたのです。それが詩篇 78篇に記録されています。 '正しい心と、英知の手で' その時に、そのダビデを神様は王として指名されました。皆様、このままの祝福を味わうように願います。これができて、ダビデはいつも祈って賛美したのです。これだけなれば成功します。皆様、常時祈りをしなくても、少しだけしても成功します。常時祈りをすれば、世の中がひっくり返るので、少しだけしても成功するのです。
 
・福音を持っている人がすこし正しく祈るだけでも、世界福音化の門がみな開きます。さっき話した三ヵ所だけ陥らなければ良いということです。世の中の方法を私達が知っているけれど、そこに陥ってはなりません。教会に行けば恵みを受けても、救われた人で肉に属している人があまりに多いのです。そのような人々を見て、皆様が試みにあいます。試みにあう必要もありません。言わばサウルが肉に属する人です。ところが、それを見てダビデが試みを受けませんでした。そのようなことを見て、とても嘆息して、涙を流す必要もありません。 越えなければならないのです。その人物がダビデだということです。このダビデは、いつも祈って賛美をしたから、相当になったのです。詩篇 1/3 以上、約半分ほどをダビデが作りました。どれくらい祈りを多くしたのか分かる気がします。ダビデがこういう楽器を扱うのに、楽器を扱えば悪霊が離れました。この人が、どれだけ賛美の人なのか分かります。ダビデはいつも祈ったのです。そして時間があるならば、いつも賛美をしました。だから、働きが起きるしかないのです。皆様がこれを少しだけ理解するようになれば、本当に大きい祝福を受けるようになります。たぶん先ず一番に、皆様に健康がくるはずです。皆様が、常時祈りと賛美を悟ってしまえば、まず健康が与えられます。すると、力が生じます。私達に力が生じれば、何かができるのです。こういう人物がダビデでした。
 
・ダビデは、こういうことを越えたのですが、とても時刻表をよく見ました。祈れば時刻表が見えるでしょう。羊を飼う時は、羊一匹もなくしませんでした。ゴリヤテがきた時、ダビデはどうしたでしょうか? いのちをかけてゴリヤテに勝ちに行きました。サウル王が自分を殺そうとした時は、何のつぶやきも一言もせずに、逃げ回りました。王になるやいなや、何をしたのでしょうか? 契約の箱を移して、神殿を建てる祈りをしました。このようになるのです。皆様が少しだけ福音を悟って祈り始めると、このように神様の正確な導きが出てきます。この祝福を持って、私たちは世に行かなければならないのです。説教を忘れてしまわないで、試みてみるように願います。少しだけ試みれば、できるようになります。ある人がこのように話します。私はとうていできません。私はあまりにひどいのでできません。しかし、聖書はこのようにおっしゃっています。皆様より、もっと困難に陥った人に、このように話しています。主がヨセフと共におられたことを見ましょう。主がヨセフゆえに、ポティファルの家の畑にまで祝福してくださいました。
 
・私はあまりに不安で未来が怖いと言うでしょうか。聖書はこのようにおっしゃっています。主は私の羊飼い。私には乏しいことはありません。何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。今、私が話していることは、知識を伝達しているのではなく、聖書にある話をしたのです。ただ、私がすこし体験したことを話したのです。皆様、これが皆様と私に通じなければなりません。これが、皆様聖徒の間で通じなければならないのです。誰が何と言っても、夫婦もこれが通じてこそ正しくなるのです。そうでなければ、お互いに耐えるのであって、どのようにするでしょうか? 皆様、これが通じれば、本当に何かが違います。この祝福を受けなければなりません。それで、私たちの学生達と皆様に必ず頼みます。無理にせず、時間ができれば、祈りながら訓練を受けましょう。皆様の一生の時刻表がそこで出てきます。皆様が世に行く前に、福音の深さに、本当に根をおろさなければなりません。そうしてこそ、皆様が成功して、その後に崩れません。それでこそ、皆様が永遠に崩れなくて、祈りの答えを受け始めるのです。簡単です。これを少しだけ祈れば、答えがずっときます。それで、難しいから、人物を選択して見る時、ダビデを見なさいということです。幼い時から、福音と実力を持っていました。幼い時から、ダビデは祈った人です。その時は、学院も学校もない時なのに、幼い時から賛美をしました。この人がイスラエルの危機をみな防止しただけでなく、最高の王になったのです。それで、この祝福を受けなさいということではなく、受けるしかないのです。
 
・皆様が今日、この契約を捕まえる瞬間、味わうしかないみわざがずっとなるはずです。不信仰の世の中で勝利する信仰。この祝福が、皆様のものになることをイエスの御名でお祈りします。今日、私たちの賛美チームが賛美する時、皆様が賛美を聞く時、ダビデの賛美を考えてみましょう。今日、楽器を扱って賛美する人も、本当にパウロが監獄で賛美した時、奇跡がおきました。賛美を直接演奏する方達も、あなたがたがその中で祈っていれば、今日、皆様が知らない病気まで、完全に癒される働きがあることをイエスの名前でお祈りします。不治の病や、皆様が知らずにいる病気まで癒される驚くべきみわざが、イエスの名前であるようになることをお祈りします。
 
<<契約の祈り>>
神様に感謝申し上げます。本当に今日、癒される日になるようにさせてください。私達が知らないでいる問題まで解決するようにさせてください。私たちの中にある、知らない病気まで癒される時間になるようにしてください。それよりもっと重要な霊的な祝福を受ける時間になるようにさせてください。今日、賛美の時間に癒される時間であり、恵みを受ける時間であり、祝福を受ける時間になるようにしてください。今日、演奏に参加する聖徒ひとり、ひとりを祝福してくださって、この方たちに、霊的な祝福を与えて下さい。賛美を聞きながら参加する私たち聖徒に、神様の恵みがあふれるようにしてください。イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン