2005年6月12日インマヌエル教会聖日礼拝メッセージ


1部/からし種ほどの信仰があるなら
(ルカ17:1〜10)

■今日も、私たちの神様のみことばを通して恵みを受ける日になるように願います。ドフトエフスキーという人がいました。罪人だと、捕らえられて、死刑判決を受けるようになりました。死刑執行する人が‘5分後には、死刑が執行されるから、したい話があればしなさい’と告げたのです。実際に何を話すかもわからなかったのです。5分後に死ぬと考えました。それで1分程度、昔のことを考えるようになったのです。幼い時に育ったことを考えてみて、友達のことを考え、そして、自分が死んだ後に惜しむ家族のことを考えてみたということです。そうすれば、5分はすぐに過ぎ去ります。しかし、皇帝の特命で、急に赦免されるようになりました。それで、その人が死について文を書いたり、作品を残すこともしたのです。私たちが急な事に出会うと、多くの真理を知るようになります。米国で勉強をよくした学生が、からだの調子が良くなくて、韓国にしばらくきて、病院で検査をしました。検査後に、医者たちが結果の紙を持って話をしていました。この人が聞こえないように専門用語で話をしていたのでした。この人は、韓国人でしたが、英語をもっとよくできました。静かに聞いていたら、深刻な話をしていたのです。調査をもう少ししてみるべきだが、癌であるというような話でした。来週に精密検査をもっとするべきだが、今見るには、癌であることが明らかだということでした。こういう話を、この人が聞いたのでした。
■医師がきて、そのまま話したのではなく、特別なことではないが、もう少し正確に検査をしてみなければならないとだけ言いました。それまで、自分たちが研究をするから、来週にもう一度検査してみようということでした。医師がたいしたことではないと言ったのですが、この学生は、病院から戻った以後、全てのものが変わったのです。その短い瞬間に、癌にかかったので、いくらも生きられないということを考えたので、それならば、このように生きたのに、それでもとてもくやしいのが、私がもう少し生きることができる年齢なのに、死ななければならないかということに対して、いろいろ考えながら寝ることもできなくて、ご飯も食べることができずに、一週間を送ったのです。そして、病院に行ってまた検査をしました。それで、完全に結果が出ました。私たちが初めて調べた時は癌だと思ったが、詳細な調査をしてみたら、癌ではないと話されました。少しだけ治療すれば良いようだ。そして、健康をもう少し用心したら良いという結果を語ってくれたのでした。その一週間に、この人は若い人が多くの考えをするようになったのです。短いというならば、短い瞬間ですが、学校でも習うことができないことを学び、思うようになったのでした。
■私たちは、先週から金持ちとラザロの話からしてきています。事実は、信仰生活するということがどんなことなのかについて考える時、本当に難しいことでもあり、ある時は本当に分からないことでもあります。人ごとに自分の言葉を主張するので、どの話が正しいのか、混乱する時があります。まるで、幼い頃に国語の本に出てきた話のようです。お父さんと息子が、ロバを売りに行こうとしていたら、町の人々があざ笑うのでした。ロバに乗って行けば良いのに、愚かに、そのまま歩いていくということでした。お父さんは、そのとおりだと思って、ロバに乗って行くことにして、お父さんがロバに乗って歩いていっていたのです。そのような中で、また他の人々が言うのに、幼い息子を乗せないで歩くようにして、自分は気楽にロバに乗って行くのかとコソコソ言い始めたのです。その話が正しいと思って、今回は息子がロバに乗って、お父さんはロバを引っ張って行きました。そうしたら、また人々が言うのに、親不孝な子どもが、お父さんにロバを引かせて、自分は気楽に行くと言ったのでした。静かに聞いてみたら、その言葉も正しい言葉でした。
■それで結局は、お父さんもロバに乗って行ったのです。すると、また人々が言うのに、あんな人情がない人々だ、2人も乗って、ロバがどれくらい骨を折るかとあざ笑ったのでした。私たちが多く読んでみた話でしょうが、読む時には単にそうかと思ったのですが、今思うのには、非常に一理ある話です。あまりにも人々は、話が多いということです。そうするうちに見ると、私たちがどんなことが正しいのか、間違ったことなのか識別しにくい状況がきます。私たちが信仰生活しながら、そのような場合が多いのです。事実は、祈りの答えがないのに、どこかへ行ってだめだと話すこともできないから難しいのです。私がしないふりをしながら、信仰生活するのに、とても困難が多いのです。誰かがそのような話をしました。白鳥がじっとしているようでも、水の下では、足を継続して動かしていると言いました。それで、私たちの人間も、何もなくそのままいるようですが、苦しい心で、とんでもない努力をよくしなければならない状況になったりもするのです。教会で信仰生活をするということで、本当にいろいろ多くの問題が生じたりもします。
■本当に聖書を見ながら、どのように答えを受けられるのでしょうか? 私は神様の答えを受け始めて、いくつかのことを見るようになりました。それで、そのいくつかのことを見ながら、本当にそのとおりだという気がしたのです。私たちが救われた神様の子どもであるということは、すごいのです。親がなくて貧しいならば、子どもが勉強をよくできないこともあります。しかし、親がいて良く暮らすのに、勉強をしない子ども達もいます。それはさらに大変なのです。また、持っていることがなくて困難を受ける人がいます。しかし、持っているものがあるのに、おかしなことをして、ずっと困難を受ける人もいます。あたかも、私たちが救われて、途方もない祝福を受けたのにもかかわらず、実際に味わわない場合が多いのと同じです。それなら、それはさらにくやしいのです。
■私たちは全てのものをみな受けたのですが、良くならないのです。信仰生活を長くする方々も、始めたばかりの方々もみなともにいます。からし種ほどの小さな信仰であっても、桑の木を海に移して植えられるのです。皆さんが新しい家族だといっても、この信仰があるならば誰でもできます。からし種のように小さい地位にいて、パリサイ人のように、高かったり、上にいなくてもできるのです。迫害と苦難の中にいて、ひょっとして貧しいとしても、信仰があればできるのです。そのようにイエス様が説明されました。それなら、私はなぜだめなのでしょうか? それを必ず捜し出さなければなりません。私はこれを捜し出すのにとても長くかかりました。私の家は、イエスをよく信じるのに、だめなのでした。そして、教会生活をしながら、多くの牧師、長老を見ました。よくならないのを見たのです。もちろん、感じただけですが、だめだったのです。詳しく見たら、事業も祈りもだめになるのを見たのです。ですから、普通の問題ではありません。私は知らずに、途中で教会に通いませんでした。それで、教会に行かずに歩き回ったら、おもしろかったのです。日曜になったら、早く起きて海に、山に遊び回りました。胸もときめいて良かったのです。それでも、幼い時から聞いた律法があるから、ひょっとして船に乗るようになったりすれば、ひっくり返るかと思って祈ったりしました。
■列車のようなものに乗れば安全だから、そのまま行って、そのような程度でした。ますますおもしろかったのです。教会に出て来て、苦しいのに座っているより、外で風に当たりに出て行くのが、はるかに良かったのです。釣り場に行って釣りもして、どれくらい良い所が多いでしょうか。また、ある時には、自転車を借りて、自転車旅行もして、本当に良かったのです。それがはるかに良いことで、何の面白味もなくて、答えもない教会になぜ行くのか。うちの母のような人が座っているが、私がなぜそこに座っているだろうか。そちらにそんなに忠誠にあふれるように座っていて、献金をよくするうちの母を見ながら、哀れに思ったりもしました。しかし、不思議でした。不思議に完全に滅びたのです。それで、一つ悟ったのは、信じることがなくても、教会は行かなければならないということです。しかし、答が出なかったのが、私がなぜ祈りの答えがないのか、神様がおられるのか、色々なことで混乱したのです。私はある日、救いが何か、福音が何かを知るようになりました。救われた神様の子どもの中で、答えをたくさん受けなければならないのに、事実は受けられない人が多いのです。今日、皆さんがこの部分が本当にいやされる祝福の日になるように願います。
■事実は、私は答えをたくさん受けて、とても感謝する部分が多いのです。今週には、日本に行ってきたのですが、日本にも多くの復興と証拠が起きていて感謝しました。また近頃は、米国で、韓国で、私たちのレムナントがたくさん起きています。祈りの答えの門が、本当にたくさん開かれています。昔に、教会も行きたくなかった私が、どのように神様の答えをこのように受けられるのか、どれくらい感謝しているかわかりません。そして、いよいよ大学や中・高等学校で、私たちの学生たちがとても実力もあって、信仰もあるように育っています。近頃は確信しています。これからは、レムナント共同体も作って、全世界を生かす時刻表がきたのです。ある時には、考えただけなのに答えがくるのです。また、人に会って話したのに祝福が来ます。また、私たちは建物もなく始めたのですが、信徒が立ち並んで、1.2部で礼拝を分けてささげるようになりました。目に見えない答えがたくさん起きています。そして、レムナント達のゆえに気持ちが良いことがたくさん起きているのです。
■ここに今、アン・ジェジュン選手が座っています。私が自慢するのではありません。詳しく見れば、これから育って上がってきているアン・ジェジュン、ハン・ジェガンは、みな私たちの家族です。これからサッカー界で分かれば驚くでしょう。女の中でサッカーを一番上手にする選手も私たちの家族です。そして、近頃、スーパースターになっているパク・ジュヨンも私たちの家族です。日本でも大騷ぎが起こっていました。韓国とクウェートがゲームをした時、私は日本にいたのですが、どれくらい関心が多いのか、日本がその夜明けに生中継で放送をしました。それでみな見ていたので、夜が明けてしまいました。ですから、日本のアナウンサーや解説する人々が驚いて感嘆の声を上げていました。またパク・ジュヨン選手が韓国にいる限り私たちの日本が10年ほどは苦労するという言葉も言いました。それで、私の心の中ではアン・ジェジュンやハン・ジェガンも大きくなって上がってくるはずなので、それでは20〜30年は苦労するだろうと考えました。私たちのレムナントが、とても良くするから、本当に気持ちが良いのです。
■他の人は知らないでしょう。福音という、キリストという奥義を持っているのです。どのように、それを説明することができるでしょうか。それで、記者がパク・ジュヨン選手にその幼虫が何かと尋ねたら、秘密だと答えたのです。話をすれば分かるでしょうか。皆さんが今、どのようにこういう祝福を受けられるのでしょうか。私も救われたのですが、祈りの答えを受けられるのでしょうか。今日、聖書に確かに言われるのに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。確かにそう言われました。どんな信仰ならば良いのでしょうか。
■私は今日、皆さんにお願いすることがあります。皆さんが5つのことだけ発見してください。それで、まちがいなく答えが来ます。第一に、今から全てのものを見る目を、キリストで見るように、福音の目で見ましょう。不思議に変わります。福音の目で見れば、戦うことがありません。夫が変なのでしょうか? 福音というメガネをかけて見つめれば、すぐ分かります。この頃、精神病者がどれほど多いでしょうか。福音というメガネをかけてみたら、すぐ見えます。私たちが、なぜこういう選手たちのために祈って、政治家のために祈るのでしょうか。福音の目で見たら、すぐ理解できるでしょう。科学者が知らない、目に見えないサタンは、人間を完全に掌握しているから、完全福音に入って、福音の目で見ようということです。それで、全部、変わり始めます。答えが見え始めます。
■二番目です。皆さんの方向です。私たちの方向を伝道に置きましょう。私たちの方向を、ご飯を食べて生きる所に置くのではなく、伝道に置きましょう。レムナントは、記憶しなければなりません。私たちは、食べて生きるためではなく、世界福音化のためなのです。皆さんが判断するのも、どちら側が伝道に有益なのか確かめてみたら、すぐ方向が出てきます。そして、私が生きる目的は、世界福音化です。このようにすれば、すばらしい目が開き始めます。福音の目でながめて、伝道に方向をおきましょう。そして、三番目は目的が何かです。動物のように、ご飯を食べて、私が良く暮らすためではありません。ただ、このことのために献身するのです。そして、四番目はこのものすごい祝福をどのように味わうのでしょうか。祈りで味わいます。それで、完全祈りの中に入りましょう。働きが起きます。四つのことを話しました。完全福音の中に入りましょう。これは難しいことではありません。
■福音を持っているから、福音的な目で見つめれば全てのものが変わり始めます。皆さんが福音の中に入ったら、皆さんの家族を捕まえている暗闇勢力が崩れるようになっているということです。皆さんが福音という契約の中に入ったら、皆さんの事業にある暗闇が逃げるようになっているということです。それで、私たちのビジョンは世界福音化です。それで、私のためのものや、肉体のためのものでない、真の献身をするのです。こういうものすごい祝福をどのように味わうのでしょうか。救われたので、祈りで味わうのです。私たちは、救われた神様の子どもであるために、祈りで味わうのです。私の場合には、完全祈りがどのようなものかというと、難しくないのです。
■完全祈りというものは、全部を祈りの中に入れるのです。それで、安らかで、すばらしい答えを受けられます。例えば、私たちの長老、信徒やお客さんに会って運動をすれば、少なくとも4〜5時間は一緒にいられる絶好の機会です。ですから、その人のために4〜5時間を祈ることができるのです。すごいではないでしょうか。ですから、祈りの中に入るのです。何でも祈りの中に入ったら、完全に違います。私は、聖日礼拝を終えた後に、私たちの信徒といちいち握手をします。しながら、いちいち私の胸の中で祈るのです。この人が、患者だと思う時は、特別祈りもします。この人が霊的問題がある人のようならば、違うように祈ります。このどれくらい意味があるでしょうか。また、長老や重要な重職者だと思うと、また別の祈りをします。それが祈りです。
■ですから、どれくらい大きい祝福でしょうか。それで、このいくつかだけが分かれば簡単です。福音ならば、信仰がからし種だけあっても、働きが起きます。これをよく合わせれば、全てのものがみな変わるようになるのです。そして、最後に一つあります。なぜ人々がしばしば問題がおきて争うのでしょうか。全部、何のためにそのように事が多いのでしょうか。何のために、試みに会うのでしょうか。悪魔の中で、第一水準が高い悪魔が寂しい思いをさせる悪魔なのですが、何のためにさびしいことが多いのでしょうか。一つを知らないので、そうなのです。すべての栄光を神様に。ひょっとして残ったら、他の人に。ひょっとして余裕があるならば、相手方に。すべての栄光を神様に帰したら、この五つのことを持って大きい知恵ができるでしょう。今回の核心の時に話しました。私は、これを持ってとても重要だから、完全福音、完全伝道、完全祈り、完全献身、完全栄光と言いました。
■それだけすれば、ここですべての答えが始まります。今回、日本で大きい事業家一人に会いました。私がメッセージを簡単にしました。完全福音に入ってください。完全福音に入るのが、あなたの勝利の道だと話したのです。この地域で、本当に福音を伝え、祝福を受けた長老になってください。そして、この地域を福音化してください。もちろん、そばで誰かが通訳をしていました。すると、この方がその話を聞いて、じっとしていたのです。ですから、通訳した人がアーメンと言いなさいと言いました。この方があまりにも、驚いたのか‘ア’だけ言って‘メン’は言いませんでした。これも、出会い自体が祈りになることができます。祈りが難しいのでしょうか。祈りは、すれば良いのです。神様の子どもは、祈れば、そのまま答えられるようになっています。
■あるものは、皆さんが福音をもっているから、祈らなくても答えがくるようになっています。皆さんが、まして祈るのに、すぐに答えをくださらないでしょうか。今朝、私の家内が、お金が必要だからくれと言いました。それで与えながら、領収書を持ってきなさいと言いました。しかし、私の娘には、何も言わないのに、私が呼びました。米国で休みになって、韓国に戻ってきています。それで、お小遣があるかと尋ねました。ないと言えば良いのに、あると言いました。あると言ったのに、与えました。なぜ、同じ女性なのに、1人の女性には領収書を持ってきなさいといって、1人の女性にはあるというのにも与えるのでしょうか。1人の女性は、私の娘であるためです。それが違うのです。私たちは、神様の子どもです。あるものは祈らなくても、答えをくださるようになっています。まして、私たちが祈るのに、答えを受けられないはずがありません。
■それでは、こういう5つの重要な話が出る理由は、私たちがずっととんでもないこと、とんでもない体質、とんでもない考えのために多くのことをのがすということになります。全く難しいことがありません。皆さんが、福音の中に入ってしまえば、誰も皆さんを害することができないのです。賛美にも見れば、千歳の岩が開かれるので私が入ります。となっています。有名な詩人の聖徒が、雨が降るので、大きい岩の中に入って隠れたのです。だから、外で雷稲の光がしても大丈夫です。そこで思って作った賛美です。キリストは、千歳の岩のような中にあるので、私がこのように安全だな。
■仁川(インチョン)で蠅一匹が入ってきたが、どこまで行ったでしょうか。LAまで行きました。その蠅がLAまできて、私たちがおりようとドアをあけるので一緒に出てきたのです。どのように蠅が飛んでLAまで行くのでしょうか。飛行機の中にあれば簡単です。私たちがキリスト中にあれば、神様の中にあれば、誰も害する者がいません。それなら、ただ一個も抜かずに、福音の中に持って入りましょう。そして、私の人生の方向は、とんでもない失敗する所に置かずに、世界福音化に置きましょう。持ち出して受けて、もう受けることがありません。献身だけすれば良いのです。もう私たちはみな受けたのです。受けることがありません。お金も少しなければならないと言います。それは、これから祈れば出てくるようになっています。世界銀行が、みな神様のものであるから、祈りだけすれば良いのです。それが、何の話か、祈れば良いのです。私たちは、みな受けました。それで、ただ献身、完全献身です。皆さんは、神様の子どもだから、救われた神様の子どもは、祈りだけすれば答えがくるのです。うまくいく時ごとに、すべての栄光を神様に。どのように、皆さんをサタンが触れるかということです。触ることができません。どれくらい、大きい祝福かわかりません。
■私が先週に話しました。カナダ集会に行ったところ、すぐそばがナイアガラの滝です。行くのに一時間もかかりません。私は本来、集会に行って一緒に遊びに行く所には行かないから、初めて近いと言われたので行ってみたのです。皆が見てすごいと言いました。私はそれを見て、すごいと感じないで、どこからこのように水がたくさんくるのか気になりました。水がきてこそ、これが滝になるのではないでしょうか。このアメリカ大陸には、すばらしく資源が多いのです。水だけ見ても、どれくらいすばらしいかわかりません。それで、私が祈りました。これも、みな神様のものです。私たちが不可能なことが何があるでしょうか。ある牧師が、米国へ行って言ったということです。ナイアガラの滝の前に立って、うちのお父さんはすごいと言いました。そばで見る人が、これがあなたお父さんのものなのかと尋ねたのです。そうだと言いました。不思議だ、ナイアガラの滝は個人のものではないのに、これがあなたお父さんのものに間違いないのかと尋ねたのです。ずっとそばであなたのお父さんが誰かと尋ねました。誰か。父なる神様だと言ったのです。冗談のように見えますが、冗談ではありません。
■皆さんが今日、この五つだけ記憶すれば、本当に答えを受けます。皆さんが、福音の中に入ってしまえば、誰も皆さんを触ることができません。皆さんの人生が、福音の中に入ってしまえば、サタンは絶対に触ることができないのです。皆さんの方向が神様側に、世界福音化に合わせれば、すべての祝福が、そこみな備えられています。私たちは、すでにすべての天国までみな所有したので、これ以上することがありません。Only献身。どのように味わうのでしょうか。Only祈り。私たちの人生は、どのように生きて終えるのでしょうか。Only神様に栄光。私はこの五つのことを発見しました。それ以外の残りことは、してもかまわなくて、しなくても格別重要なことではありません。どれくらい大きい祝福を受けたのかわかりません。
■今日、私たちが二番目に思わなければならないことは、イエス様がそれのために比喩四つを語られました。今、前に私がした話が通じなければ、後に何の話なのかがわかりません。イエス様と弟子が、それが通じなければ、今、これからする言葉を聞き取れません。今日1〜2節には、小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましですと言われました。これが何の話なのでしょうか。教会と私たちが、他の人に全てのものをみな説明しておいて、救われる祝福を知らなくさせれば、水に投げ込んで殺すようなことなのです。それも上がってこられないように石臼を首にゆわえつけて落とすようなことなのです。
■今日、教会が深刻に聞かなければなりません。今日、すべての職分者が、詳しく見なければならない部分です。牧師は、命をかけて責任をとって見なければなりません。教会は知識も必要ですが、勉強する所ではありません。教会に来る人が習おうとして来ますが、実際に勉強しにくるのではありません。教会に来る人は、神様の子どもで、神様の恵みを受けて、神様の祝福を受けて、救いの奥義を味わうのです。これを誤って教えたり、教えなかったりすれば、首に石臼をゆわえてうけて、海に投げ込むようなのです。この比喩をわかるでしょうか。4〜5節には、何と言われたのでしょうか。誤った人がいれば、一日に七回でも赦して上げられるのです。することができないことが、何があるのでしょうか。私が神様の祝福の奥義を分かったら、兄弟を許せます。福音を知らなければできないのです。福音を分かったら、許せます。皆さんの家族、皆さんの夫、皆さんの妻、皆さんの友人、兄弟がたくさんいるでしょう。皆さんに一生忘れられない悪いことをしたと仮定してみましょう。福音をもってみる時、人の目で見れば恨みになりますが、本当に霊的な目で見ましょう。簡単に解釈が出てきます。それで赦せないことはありません。
■私が福音を知って、救われたものすごい奥義を持っているのに、なぜ赦せないのでしょうか。七回でなく、一日に七回でもできます。その話です。分かるでしょうか。6節に何と言われたでしょうか。もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。桑の木をどのように海に植えるのでしょうか。それは不可能な話ではないでしょうか。だから、イエス様がなさった話です。あなたに信仰があれば、マイクを持って下におろせる。それは、信じることがなくてもするのです。とうてい不可能なことも神様の力にできるのです。皆さんに困難きたら、信仰を告白して、信仰で挑戦することを望みます。初めに話した五つのことを皆さんが守りながら、信仰で挑戦すれば、神様はできないことがありません。
■そして、四番目の比喩を7〜10節に言われました。高慢になることもなくて、自慢することもありません。なぜか、神様がくださったのです。7〜10節、しもべの姿勢を話されたのです。しもべが外で仕事をしてきたと告げたら、主人とともにご飯を食べるのか。しもべは、思い切り苦労してきて、主人が食べるご飯から先に準備して、自分は後ほど食べるだろう。それで、もしかして、主人がしもべにご苦労さまと話せば、しもべは何と言うのでしょうか。違います。私は無益なしもべです。することをしただけです。と話さないでしょうか。その話です。イエス様が比喩を語られたのです。皆さんがぱっと見れば、これが何の話なのかと思うでしょうが、すばらしい話です。気をおとすこともなくて、自慢することもありません。私たちは赦すことができないこともなくて、他のものがなくなって、惜しむこともありません。教会で、他に重要なことはありません。重要なのを教えられなければ、首に石臼をゆわえつけて投げ込むようですが、それが重要なことで、何が重要なのでしょうか。イエス様がそう言われたのです。
■永遠にほろびない契約を捕まえるのが重要なことであって、他のものが重要なのでしょうか。今、小さな者が救われることができなくて、滅びの中に入るのがくやしいことで、違うことでくやしいことが何があるのでしょうか。救われた神様の子どもの祝福を受けたのですが、私たちは赦せないことがまた何あるのでしょうか。神様が億万の罪悪から私たちを救い出されたのですが、桑の木を海に植えるほどの力が神様にないのでしょうか。それが何の話なのでしょうか。信仰で出来ないことがあるでしょうか。そして、しもべの話を何故されたのでしょうか。また、高慢なことは何があるのでしょうか。だから、問題になることもありません。どれくらい、大きい祝福を受けたのかわかりません。今日、皆さんが、この祝福を味わうことを、主の御名によって祝福します。
■今日、詳しく聞いた人々は、本当に答えがくるでしょう。この暗闇の勢力が、皆さんを防げないように、皆さんが契約を捕まえるように願います。最後の三番目です。どのように、この祝福を味わうことができるのでしょうか。今日、神様のみことば、証拠を捕まえましょう。創世記37章を見ると、ヨセフは夢だけ見たのに働きが起きました。多くのことが必要ありません。夢を見るのに、何の夢を見るかが重要です。ヨセフが、その福音の夢だけ見たのに、世界は変化したのです。モーセは、年齢80才になって、出エジプト3:18節に、80年前に聞いた話を、その契約を捕まえたのですが、働きが起きました。Iサムエル16:13を見ると、ダビデは一度メッセージを聞いたのですが、永遠な祝福を受けました。イザヤ7:14に見ると、一つの単語を持って、奇跡を起こす解放される働き、世界が変化しました。マタイ16:16に見ると、主は生ける神の御子キリストです。この一つの告白で、永遠な答えを捕まえました。皆さん、今日、記憶するように望みます。皆さんは弱くありません。私はできる、できないとは、未信者が使う単語です。ある教団ではできると教えるのですが、それは不信仰です。できない。それも不信仰です。神様はなさることができるのです。神様の計画ならば、成功するのです。神様のみこころならば、勝利するのです。神様が私とともになされば、良いのです。これが信仰です。私ができるのとは違います。
■エゼキエルに神様が尋ねられました。エゼキエル、あの乾いた骨は生きることができるのか。何と答えたのでしょうか。できないといえば、それは不信仰ではないでしょうか。私がしてみるといえば、それは高慢ではないでしょうか。何と答えたのでしょうか。主よ。主がなさることができます。と言いました。だから、神様がその骨にみことばを宣布しなさいと言われたのです。皆さん、絶対に高慢になる理由もなくて、気をおとす理由もありません。福音を本当に悟ったのです。あせることもなくて、怠けることもありません。福音を本当に悟ってしまえば、そのように主張することもなくて、それでもしないこともありません。すばらしいのです。この祝福を、今日、皆さんが受けなければなりません。聖書の一節が世界を変化させました。義人は信仰によって生きる。マルチン・ルターが、この聖書の一節だけを捕まえて世界を変化させたのです。皆さんが分かるように、サンダーシングという人は、すべて疲れた人、重荷を負った人は、わたしのところに来なさい。その聖書箇所一つで、人生の一切を変えてしまったのです。
■私は、伝道運動を始めた時、聖書箇所一節がぶつかってきたのです。それがマルコ3:13〜15です。いつも悟られなかったのですが、それが悟れたのです。お望みになる者たちを呼び寄せられたとなっています。私が、あなた達を呼んだのは、あなた達とともにいるためだ。しかも、出て行って伝道するためだ。そうだという気がしたのです。ともにおられる部分を言うことが、伝道ではないでしょうか。私とともにおられる主を言うのが、伝道ではないでしょうか。そうです。共にすることを言うのが何が難しいのでしょうか。皆さんが服を買ったが、自慢するのが難しいのでしょうか。私が良い家を一つ買いました。他の人に話すのが難しいことはありません。しなくて耐えているのが難しいことで、話すのがさらにやさしいのです。私が指輪を一つ良いものをしても、人々に自慢したいでしょう。時計を買っても自慢したいでしょう。私は、時計をみな他の人にあげました。ローレックスの時計をプレゼントされて二つあったのですが、一つは義父に差し上げました。一個は、カン・ホイン牧師にあげました。なぜ、カン・ホイン牧師にあげたのでしょうか。
■一度、見たら、ローレックスの時計をはめていたのです。私の前で、袖を引っ張って隠すのです。時計を見て、ローレックスを買ったのかと尋ねてみました。すると、にせ物だと言いました。それで、あなたが、にせ物を付けていても良いのかと言ったのです。それで、私がにせ物でないのを一つあげたのです。福音を伝える者は、にせ物をつけていてはいけないから、あげました。みんな上げて、私は一番安いのを一つつけて回っています。人が自分が持っているのを与えるのが、何で難しいでしょうか。私がそのような時計を買おうとするなら難しいでしょうが、あるのをあげるのに、何も難しいことはありません。それが、伝道ではないのでしょうか。さらに恐ろしい話を見ました。悪霊を追い出す権威を与えるためだ。私は昔に、この話がわからなかったのです。伝道をしに行かない時は知らなかったのですが、行ってみると、全部、悪霊に仕えていました。その時になって、この話なのかと思ったのです。未信者で滅びる人100%が、悪霊に仕えています。このムダン(霊媒師)が、全部、悪霊につかれています。それで、悪霊を追い出す権威を与えるためだとおっしゃられたんだなあ。このみことばを捕まえたのですが、答えがき始めました。本当に答えがきたのです。
■今日、皆さんが体質を変える祝福の日になることを希望します。事実上、福音の他は、みな捨てても大丈夫です。伝道の他は、みな捨てても大丈夫です。本当に、主のために生きるという献身の他は、みな捨てても大丈夫です。なぜか、全てのものみな持っているためです。それで、祈りの中に全部あります。とても、感謝することです。すべての栄光を神様に。どれくらい感謝しているでしょうか。皆さんが本当に難しいことがあるのでしょうか。本当に捕まえれば答えが来ます。しばしば誤解するのです。大きい信仰ではない。皆さんの信仰が小さくても、それが福音ならば、働きが起きます。いくら皆さんが弱くても、神様の子どもならば、神様の祝福を受けられます。全く気をおとさずに、新しく始めましょう。さっき私が話さなかったでしょうか。サンダーシングという人が、どれくらい難しかったのか、自殺をしようとしたのです。過ぎ去った伝道者が落とした伝道紙なのに、紙が飛んで行って、サンダーシングの顔にくっつきました。たくさんではありません。一節だけありました。紙を見たら、すべて疲れた人、重荷を負った人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。この一言でこの人が変わったのです。世界的な宣教者として答えを受け始めました。どれくらい感謝することでしょうか。
■皆さん、今日のメッセージをよく聞く時、私の説教を聞こうとせずに、聖書をよく考えてみましょう。私の話を聞こうとせずに、聖書をよく考えてみましょう。今日のこの本文は、イエス様と弟子たちの会話です。数千年前に約束されたその方と、弟子との対話ということです。すべての暗闇の勢力をみなうち破ったその方と弟子との対話です。それで、序論で記憶すべきことは、私と皆さんが、福音を正しく知る主との対話にならなければなりません。それで、皆さんが人生を五つのことに合わせれば、まちがいなく成功します。完全福音の中に入りましょう。それでは、赦せない人がありません。そして、できないこともないのです。サタンが皆さんを触ることができないのです。そして、方向は完全伝道側につかみましょう。そして、何も誰も認められなくても私は関係ありません。完全献身で行きましょう。人々が考える以上に、他人に認められれば喜んで、認められなければ気分が悪くなります。大きい祝福を受ける人物ではないと私は思います。大きい祝福を受ける人物は違います。すでにすべて持ったので、ただ献身だけが残っているのです。
■そして、全てのものをすべて持っているから、注文だけすれば良いのです。Only祈り、それで考えれば考えるほど、すべての栄光を神様に。それで、それが最初の序論でした。今日、皆さん何も心配しないようにしましょう。皆さんは、永遠に救われたので、石臼をゆわえつけられて投げ込まれて死ぬのではないのです。いくらくやしいことがあって、いくら敵でも、許してあげれば良いのです。なぜか、皆さんは桑の木を抜いて、主の力で海にも植えられるのです。そして、これは全部、神様の恵みだから、私たちはしもべの姿勢で、高慢になることもありません。その話です。
■それなら、今日、皆さんが三番目で証拠を捕まえましょう。ところで、証拠をずっと違うように捕まえるのです。私は教会にそれほどすることもない。関係ありません。私は誰にも認められない。関係ありません。それは、未信者の話です。救われなかった人々は、人が認められなければならないのですが、私たちは神様の子どもだから、そのような心配をする必要がありません。私は多くのお金はない。関係ありません。皆さんが、この証拠だけ捕まえれば、もう答えがき始めるのです。答えがくれば、その時から本当に献身するから、何の問題になることもありません。今日、この契約を捕まえて、答えを受けることを主の御名で祝福します。本当に答えが始まる日になることをイエスの御名でお祈りします。
<<契約の祈り>>
神様に感謝申し上げます。今日、絶対にのがさないように、契約を捕まえるようにさせて下さい。答えが始まるようにさせて下さい。世界を生かすみわざが起きるようにして下さい。私たちが完全福音の中に入って、勝利するようにさせて下さい。それで、完全伝道のために生きる人生になるようにさせて下さい。全てのものみな持ったので、祈りで神様に栄光を帰すようにさせて下さい。今日、重要な日になることを信じます。生きておられる主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン