2005年7月17日インマヌエル教会聖日礼拝メッセージ


1部/主が設けられた日
(詩118:1〜29)

・私たちのインマヌエルの家族に、神様の祝福があることを希望します。特に、新しい家族に神様の恵みがあることを希望します。なぜ、このように画面で出てくるのかと思うかもしれません。全世界でインターネットで、また衛星で、一緒に礼拝する人々がたくさんいます。今日のみことばが、皆さんに大きい答えになって、祝福になるように願います。私たちは、干支、占いのようなものは信じません。しかし、時々スポーツ新聞でも、こうしたことを見れば、12支が出てきて、運命がずらっと出ています。私は、それを信じないのですが、目がこっそり行きました。私の干支は、皆さんは信じないでしょうが、虎年です。それで、虎がどうなるのか続けて見ました。ところで、不思議なのは、大丈夫だと書いてある時は、気持ちが良かったのです。そんなことを信じないのに、そうだったのです。ある人々は、いたずらで占う人もいます。また、ある人々は、本当にそこに命をかけてする人もいます。ある人々は、とても苦しくて、およそ10ヶ所も占う人もいます。

・それで、この席に共に礼拝をささげていますが、ある方は、占い師が夫婦に離婚しろと言ったのに、イエスを受け入れ後に解決されたこともありました。姑が占いをして、息子と嫁が一緒に住めば息子が死ぬというから、嫁に出て行けと言ったのです。自分の夫も死ぬかと思って、恐れて出て行けと言いました。そうするうちに、私たちのタラッパンに会ったのです。それで、この福音が何か知るようになって、イエス様を受け入れました。聖書には、確かに救われれば、死から命に移されたと言われています。まちがいなく、皆さんの運命は終わるのです。そのような人が多くいました。今は、引っ越ししたのですが、私たちの下に住んでいた方は、占い師が9月に死ぬからといって、私たちの教会に出てきたのです。さらに恐ろしいのは、色々な所の占い師を訪ねて行ったのですが、みな同じ話をしたのでした。どれくらい不安だったでしょうか? ですから、今は亡くなった勧士が伝道したのでした。その方が、私たちの教会17年前に出てきて、イエス様を受け入れました。それで執事にもなりました。占い師は、9月に死ぬと言ったのですが、その方は17年目になっても生きています。しかし、未信者は不安です。

・普通の人は、5つの中の一つの人生を送っています。最初は、ずっと苦しみ、呪いを受けて死ぬ人がいます。かなり多いのです。とても経済的に押さえられて苦しんで、困難で苦しんで亡くなる人がいます。また、ある人は、呪われて困難の中にいたあとで、後ほど勝利して、多くの証しもして、そうするうちに亡くなる人もいます。またある人々は、初めには良く暮らしていて、昔には良く暮らしたが、時間が経ちながら、最後の時は、滅びる人もたくさんいます。また、ある人は、とても難しく生きていて、恵みを受けて信仰生活して祝福を受けていても、最後には本来の状態に結局、帰る人もいます。こういう人がかなり多いのです。ある人は、初めから最後まで神様の契約と祝福をずっと味わう人がいます。もちろん、思いのままになるのではありません。しかし、確かにどんな人がそうなるのか、聖書が明らかにしているのです。それで私たちが初めには少し苦労しても、後ほどには神様に栄光を帰して、勝利しながら生きなければなりません。そうでなければ、初めから最後までずっと神様に栄光を帰して、勝利して行かなければならないでしょう。これが、真の私たちの思いのままに成ることではありません。しかし、聖書にはそこに対する明らかな答を明らかにしています。皆さんが五つの中でどこかに属すでしょう。しかし、福音を受けてずっと勝利して、神様に栄光を帰して亡くなる人は、およそ1〜2%しかいません。一番多いのが、元に戻って崩れる人が一番多いのです。それで、皆さんにしばしば、祈って、更新しなさいと言うのです。それでは、こういう重要な時刻表に、本当に神様のみことばは、何とおっしゃっているのでしょうか? 私たちがどのようにすれば、本当にヨセフのように、ダビデのように、ずっと勝利することができるのでしょうか? あまりにも重要です。

・今日の聖書に重要な答を与えられています。3つのことで答を与えています。最初です。何をどのように知っていなければならないのでしょうか? よく記憶しなければなりません。本当に祝福が祝福だと思ってこそ、その祝福をずっと味わうことができます。いくら私が良い機会がきても、それを私が知らなければ、結局は私がのがすようになるのです。のがさないとしても、味わうことができません。本当に祝福を受ける人は、祝福が何かを知って、それが何かよく知っている人です。証拠を出しましょう。2節に、こういうみことばがあります。'さあ。イスラエルよ、言え。「主の恵みはとこしえまで。」と。' 1節を見れば'主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。'と言われています。それをそのまま終わらせないで、さあ。イスラエルよ、言え。「主の恵みはとこしえまで。」と。イスラエルがどれくらい大きい祝福を受けたのでしょうか? それ知らなければ、失敗するようになります。人間も同じでしょう。とても私たちが感謝して悟れば、どんどん与えたいでしょう。子どもと家族や友人でも、あまり知らなければ与えたくないでしょう。子どもでも、本当に親に感謝したら、その子どもは可愛くて、どんどん与えたいのです。しかし、感謝することも知らずに、おかしなことをすれば、上げません。それで、死ぬくらいになっても、重要なことは与えないのです。

・今日の3節を見ても'さあ。アロンの家よ、言え。「主の恵みはとこしえまで。」と。'祭司のアロンが、どれくらい重要なのでしょうか? それを知らないから、失敗するのです。祝福を受ける人は、祝福が何か分かります。神様の祝福を受ける人は、私が受けた祝福が何か分かります。いくら神様が全能でも、私がそれを知らなければ、知らないのです。ですから、持っていながらも知らないのです。今日、ここに4節に、何と言われているでしょうか。'さあ。主を恐れる者たちよ、言え。「主の恵みはとこしえまで。」と。'とても重要です。主を本当に恐れる者は、どんな祝福を受けるのか分かります。その人が、ずっと勝利するのです。イエス様は、こういう話をされました。誰が真珠のネックレスを豚に与えるだろうか。どんな人が、真珠のネックレスを犬に与えるのか。イエス様がなさったみことばです。その言葉は、何のみことばなのでしょうか。神様がどうして、祝福を知らない人にずっと与えられるでしょうか。私たちは詩篇を見ながら、とても重要なことを学ばなければなりません。

・一生福音なく苦労して、献金して、大変な試みにあって滅びる人が、この世にいっぱいになりました。福音を持った時代に、福音を持った教会の職分者になったということは、本当に衝撃を受けなければなりません。なぜなら、じっとしていても、これから祝福を受けるので、皆さんがよく知らずにいるのですが、じっとしていても、皆さんの子孫は生きるようになっています。どれくらい驚くべきことなのでしょうか。人は、感謝と祝福が何か分かってこそ、祝福を受けます。祝福が何かわからないのに、どのように受けるのでしょうか。持っていても知らないのです。ヨーロッパの人々が、米国の土地の原住民と金と宝石とアメと変えたということがあったでしょう。祝福を知らないからです。アメを与えたら、金と変えたのです。金は、いくら食べてみてもまずいのですが、アメは食べてみたら、おいしいから変えたのです。霊的にも無知なのは同じです。私たちが祝福を知らなければ、のがすのです。

・今日、重要な話が22節に出てきました。22節は、もちろんイエス様を象徴することです。'家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。'建築する人が必要ないと捨てた石が、その石がとても重要な礎の石になったのです。世の中の人々が知らずに捨てたのですが、それが宝物だったのです。パリサイ人が知らずに迫害して、悪口を言ったのですが、その方がメシヤでした。大部分の信徒が、キリストの祝福を知らずにいるのですが、それが奥義なのです。それを分かってこそ、答えを受けます。私はキリスト教放送にお願いしたいのです。僧侶が聞いても正しいと言う程の福音を伝えるべきなのに、そうでないので、キリスト教放送の説教は、仏教より劣るのです。他の宗教人が聞いても、そうだ私の問題の解決だと答えを与えない以上、ちょっとした話なら、占い師より劣ります。ですから、毎日、キリスト教放送はお金が足りないので、倒産しそうになっています。気をつけて正しく悟りましょう。私たちが福音を正しく持っていなければ、キリスト教は、すべての宗教より劣ります。福音を悟れなかったら、グッ(降霊術)を一度すればさらに確実なのに…それより劣ります。占ってあげるたり、お守りを与えるでしょうか? 何が優れたことがあるでしょうか。何も優れたのがないのに…皆さんが重要なことを悟らなければなりません。それで、真の祝福が何か分かってこそ、祝福をずっと受けるのです。私たちは、神様くださる祝福を悟らなければなりません。今日、皆さんが、この祝福を必ず受けるようになるように願います。

・私たちは、少なくともどのように信仰で答えを受けこそ、今から勝利することができるのでしょうか。二番目です。他の力が必要です。必ず記憶しなければなりません。私たちの力では限界がきます。世の中の人々と全く同じです。さらに足りないこともあります。それでイエス様がこういう話をされました。'わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。’確かににおっしゃられました。そして、権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。ただ聖霊があなたがたに臨めば、あなたがたは力を受けて、その時から証人になります。私たちのレムナントをはじめとして、すべての役員などは、神様が与えられる力を得るようになるように願います。そうでなくては勝てません。レムナントの皆さんが、神様の祝福を受けなくて、外に出て行けば、精神から整えられません。世の中は、そんなに簡単ではないのです。未信者と競争しようとすれば、私たちはすでに負けます。未信者と戦おうとすれば、私たちはすでに負けるのです。私たちのレムナントは、神様の祝福を受けて行かなければなりません。証拠を見ましょう。6節から見ましょう。'主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。'この力が必要です。私たちが、人の力を持って人に勝つということは同じレベルです。

・7節に何と言われているでしょうか? '主は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない。' 8節'主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。'人にいくら話しても、だめなものはだめです。むしろ、さらに問題になってくることもあります。主に身を避けましょう。9節'主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい。' 10節'すべての国々が私を取り囲んだ。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。'こういう力がなければなりません。信者は、世の中の人々と同じ方法では生きることができません。絶対にだまされてはいけません。'先生、教会と世の中は違うのですが、私たちがどうしてそのようになるのでしょうか? 信仰と世の中は違います。'そうです。違うから、持っていなければならないのです。全く同じだったら、持っている必要がありません。同じならば、他の力が必要でしょうか? 全く同じなのに、違うのです。

・やくざのキム・イクドゥが、聖霊充満を受けてリバイバル伝道師になりました。気落ちして自殺しようとしていたサンダーシングが聖霊充満を受けて、世界を動かす宣教師になりました。自殺しようとした売春婦が、神様の力を得て、米国を動かす人になりました。これが神様の力です。皆さんがこれを見られなければなりません。私をなくすということではなく、何もするなということでもありません。何かがあるのです。それで、私があなたがたを孤児のように放っておかずに聖霊を送る。その言葉を悟れなければ、世の中を孤児のように生きるようになるのです。どれくらい皆さんが重要でしょうか。11節を見ましょう。彼らは私を取り囲んだ。まことに、私を取り囲んだ。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。12節に、彼らは蜂のように、私を取り囲んだ。しかし、彼らはいばらの火のように消された。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。13節を見ましょう。おまえは、私をひどく押して倒そうとしたが、主が私を助けられた。驚くことです。この力が必要です。

・皆さん認めるでしょうか。皆さんが、世の中の人々と同じように生きていくのに、神様の祝福が必要です。私たちの執事、長老が外に出て行ってどれくらい苦労するのでしょうか。6日間、未信者と同じ条件の中で生きるのに、どれくらい大変でしょうか。未信者のように思いのままに罪を犯したり、堕落するのでしょうか。それでもなくて、どれくらい難しいのでしょうか。上からくださる力が必要です。絶対にそうです。上からくださる力が必要です。私たちの長老、上からくださる力が必要です。それでこそ、世の中を征服することができるのです。それでこそ、彼らを救い出せます。人の力は限界があるから、その力が必要です。必ず銘記しなければなりません。皆さんが本当に、他の人が見られない祝福、福音を正しく知ってこそ、開始になるのです。

・今日、他の力が必要です。必ずこの祝福を受けることを希望します。その次の三番目は何でしょうか。真の感謝とともに、皆さんが証人で宣言する人として立つようになるのです。そのまま終わるのではありません。この神様の祝福が、私の会社に、私の職場に、私の家庭に伝えられるということです。この神様の祝福が、他の人に伝えられるのです。それで、気落ちした人々が皆さんに会って生かされるようになるということです。14節です。‘主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。それで、喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある。主の右の手は力ある働きをする。’と言われました。16節に、‘主の右の手は高く上げられ、主の右の手は力ある働きをする。’それで、17節に、‘私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう。’分かるでしょうか。神様のこの驚くべきみわざを宣言するのです。皆さんが、毎日この祝福を探さなければなりません。のがさないように願います。祝福が何かを知らなければならないのです。多くの牧師が尋ねます。柳先生は、なぜずっと福音を強調するのか。滅びたイスラエルを見てください。皆さん、祝福が何か分かってこそ、恵みを受けます。何のためにタラッパンではずっと伝道、福音を強調するのか。完全に麻薬に陥った米国とヨーロッパを見ましょう。さらに驚くべき事実、私が今、証拠資料を持っています。英国、ヨーロッパで一日に教会4ケが門を閉めています。門を閉めているのに、イスラム圏がみな買っているのです。それまでは良いとしましょう。ヨーロッパの人、公務員が言う言葉が、電気代も教会が出せないということです。その方たちが言う言葉で、2年内に完全に門を閉めるだろうと言っています。大変なことになりました。それでも、まだ理由を知らずにいるのです。皆さん、祝福が何か分かってこそ、恵みを受けます。この福音は、簡単なようでも、そうではないのです。

・今回も、私がオーストラリアに行きました。私たちのレムナントが、どれくらい福音で育っているでしょうか。パク・ソンス執事の娘のスージーがそこにいました。それで、私が呼んだところ、この子たちが手を握って祈ってくださいと言いました。どれくらい、この子たちが、その困難の中に尊く良く育っていっているかわかりません。私は、パク執事の娘がそのように成長して、伴奏をしているのか知りませんでした。誰かが伴奏が上手なので見たところ、そのように育っていたのです。私が昔、済州島(チェジュド)で、子どもと一緒に写真を取ったようですが、すでにおとなになって伴奏をしていました。それで、私のところにきて、私を見て、祈ってくださいと言いました。それと共に、この子が私を見つめて、こういう話をしました。先生、大変ですね。私が大丈夫だと言いました。意味ある質問をしたのです。私たちのレムナントが育つのを見ると、福音の力がどれくらい強いでしょうか。世の中を知っているでしょう。皆さんの子どもを世の中に、思いのままに出すことができると思うでしょうか。私たちが福音を正しく持って、レムナント運動するということが、どれくらい大きい祝福なのか分からなければなりません。だから、祝福を祝福だと知らないのに、どのように恵みを受けるのでしょうか。そして、このものすごいことを私たち力で行うのでしょうか。神様が他の力を与えてくださると言われました。それで、主に身を避けるのが、君主に信頼するより良いのです。主の保護を受けるのが、人に行くより良いのです。それで、結論が何でしょうか。それなら、私が死なないで生きて、このみわざを宣言する。当然です。こういう答えを受けるようになるのです。いつこの働きと祝福は現れるようになるのでしょうか。いつも現れるのですが、いつ現れるのでしょうか。24節です。これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。この日は、主が設けられた日である。これは、何の話なのでしょうか。だれが防げるのでしょうか。そして必ず来ます。その話です。誰がこれを防げるのでしょうか。

・今日の詩篇は、ある方はダビデの詩だと話す方がいます。ある学者は、バビロン捕囚から戻ってきた話だと言います。どれが正しいのでしょうか。どれでも関係ありません。私たちは、神様のみことばだけ捕まえれば良いのです。このことでも、あのことでも、成ることは主の御手にあるという言葉です。それで、主が設けられた日です。誰が防げるのでしょうか。私は今回、大学集会をしました。本当にさらに多い復興と成長をしました。今回は、サッカー選手たちがきて、共に大学生と集会も参加して、ボールもけりました。その子たちは、これから私たちの韓国を代表する選手たちです。本当に感謝します。その子たちが時間をあけて恵みを受けようと教会に来ます。今回また米国から私たちのレムナントが1人きました。年齢は18才と半分です。大人たち何百人を職員に置いているCEOです。コンピュータを持って、プログラムを作ったのですが、米国で大きなみわざが起きました。私たちのチェ・キルスン長老は、コンピュータ教授でしょう。それで、その子たちに会って対話をしてみて、これ以上、話すことはないと言いました。この子たちは、これからお金で計算するなら、数百億を儲けるのです。それは、お金が問題ではありません。牧師が集まって心配をしました。このような形で出て行って、レムナント共同体を私たちが作るのでなく、レムナント自らが作るのではないかと言いました。確かに時刻表がくるのです。それで、私たちがレムナントを育てる理由は何でしょうか。私は確かに福音の自尊心です。その日は、主が設けられた日です。皆さん、本当にこの契約つかむように願います。人は尊いことを尊いと思ってこそ、大事な人になるのです。人は重要なことを重要だと思ってこそ、重要な人になるのです。人は、祝福が祝福であると知らないのに、何か恵みを受けるでしょうか。そして、世界を変化させる力が私たちの力でできるのでしょうか。それで、権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。と告げられました。その力を受ければ、幼い子どもたちが将来の日を語るようになります。その力を受ければ、老いた者が夢を見るようになります。その力を受ければ、私たちの青年たちが幻を見るようになります。確かにそう言われました。その力が必要です。それを私たちは捕まえなければなりません。少しだけ信じても良く、少しだけ祈っても良いのです。それなら、私が生きて、このことを全世界に宣言します。これが勝利した人の信仰です。それなら、私たちは当然に祝福を受けなければなりません。揺れることもやめなければなりません。なぜでしょうか、必ず主の御手にあると言われています。

・この日は、主が設けられたのです。私はいくら迫害されても、話をせずに耐えています。理由があります。私たちの教会と皆さんと私たちのレムナントが受ける祝福を持って私は証明するでしょう。それで、私はこのように祈っています。神様、戦わないですべての教会の権力、すべての偶像を防げる共同体を与えて下さい。戦わないで勝つように。戦う時間がありません。戦わないで勝つように。その祈りをしています。確かに働きが起きるでしょう。結論を結びます。問題は、私たちが多くの聖徒に会ってみると、神様の導きをよく見えなくなっていることです。それだけ受ければ、簡単に勝利するのではないでしょうか。皆さん、神様の導きを受ければ、簡単に勝利するのに、私たちが神様の導きを受けられなければ、大変でも勝利できません。私たちが違った道を行ってしまえば、熱心にしても難しいのです。しかし、私たちが正しい道を行けば、やさしいのです。それで、私たちが神様の導きを受けようとするなら、2つのことを必ず記憶しなければなりません。私の身分、私は神様の祝福を受ける子どもであることが明らかです。そこに合う自分自身の能力(分際)です。そこに合う役割です。ついて行けば働きが起きます。信徒が何人しかいない教会では、牧師は牧師どうし通わずに、信徒と共に通いましょう。それが身分と自分自身の能力を合わせることなのです。それが導きを受ける道です。副教役者の時は、すべての面が難しいのです。そのまま完全に教会のために、現場のために献身してしまいましょう。それが身分と自分自身の能力です。そこで聖霊導きを受けるのです。私たちの身分は全く同じです。私たちは神様の子どもです。そこに神様のタイミングです。自分自身の能力を合わせなければなりません。それが聖霊の導きです。

・今は私たちの職員と共に通っていますが、昔には全世界を単に通っていました。ある人が、それで牧師が、これは伝道するために、またレムナントのためにと献金もくださって、私がお手伝いをすることもしました。一度は、ある人が何千万円もくれました。それで、私が行って献金をすることもしました。言わば全世界の仕事が多いのです。今は言いませんが、昔には、家内が私に言う言葉が、お金を自分にみな任せてくださいと言いました。それをもってけんかも結構しました。それで、私がなぜ任せろと言うのかと言ったら、他の男の人は、みなそのようにすると言いました。それで、私が説明しました。それは、男がリヤカーや車で、奥さんと一緒に通いながら商売をする人の場合だ。そうでなければ、町長や月給が少ししかない人だから、妻に預けておいて、お小遣をもらって使うのであって、私がそのような立場か。鄭周永氏がお金を妻にみな預けておけば、企業になるだろうか。皆さん、私たちのタラッパンは現代グループより組織が大きいのです。それを分かることが、身分と力量を知ることです。ある平凡な家の女が財閥家に嫁入りして3ケ月も住めなくて、出てきました。その生きる方式を知らないのです。なぜかと尋ねたら、夫が家に帰ってこないと言いました。それがそれしか方法がないのです。この女が精神が変になって逃げて出ました。人には自らの役割というものがあります。皆さんの時刻表もあって、皆さんの年齢もあるのですが、身分は全く同じです。そこに対して、自分自身の能力を合わせられなければ、絶対に聖霊の導きを受けられません。皆さんが今、学生だとします。そこに合う自分自身の能力(分際)があるのです。また、皆さんが他の見方をすれば、大きい答え、祝福がみな役割によって違います。

・このようになる時に、五つのことが見られます。神様の祝福が何か見られます。皆さんがそれだけ知って導きを受ければ、この部分が見えます。そして、何が見えるのでしょうか。神様の答えが見えます。そして、他の人は知らないのに、神様の力が皆さんに臨むという事実を知るようになります。皆さんが、これになる時、何がくるでしょうか。感謝がきます。他の人は知らないのに、私は真の感謝が出てくるのです。こういう神様の前に、本当に感謝が出てきます。それと共に、この秘密を今日、聖書に書かれたとおりに、宣言したい証人になるのです。ここに私たちの学生たちも参加しています。あの学生たちが、今から福音を聞いていけば、これからすばらしくなります。確かに話しますが、教会は皆同じではありません。福音をいう教会でこそ、それは正しい教会です。牧師が皆同じではありません。福音を、本当に話す牧師でこそ、神様が願う牧師です。教師が皆、同じではありません。福音を持った人々が、この学生たちを生かすのです。本人も知らず、多くの証拠が起きるようになります。今日、皆さんがこの契約をつかむように願います。本当に神様が皆さんに与えられる大きい契約が、ある日成し遂げられるのですが、主が設けられたその日にです。使徒2:1を見れば、五旬節に達したのでと言われずに、五旬節の日がすでに来たのでと言われました。その話は、神様が決められた日がきたということです。間違いない時刻表がくるでしょう。皆さん、今日、この契約を捕まえて、答えが始まる祝福の日になることをイエスの名前でお祈りします。私たちのソウルにも、蔚山(ウルサン)にも、京仁(ソウル・仁川)、安山、皆一緒に衛星で礼拝しています。この時間にインターネットで直接、みことばを受ける所もあります。米国では土曜日です。今、インターネットでみことば受ける所もあります。皆一緒に、私たちはこの契約を捕まえて、お互いに祝福しなければなりません。隣の人を祝福することを望みます。あなたは主が決められた人です。間違いありません。

<<契約の祈り>>
神様に感謝申し上げます。この契約の祝福をのがさないようにさせて下さい。それで、神様が与えられる大きい恵みをすべての国に宣言することができるように、恵みをくださることを信じます。インマヌエルのすべての家族を祝福して下さい。衛星で礼拝する教会の上に働いて下さい。インターネットでみことばを受けるところに成就するみわざが起きるようにして下さい。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン