2005年10月9日インマヌエル教会聖日礼拝メッセージ


1部/証拠ある生活
(詩119:41〜48)

・現在、ガンになれば直せないと言われています。早期発見をすれば可能だということですが、しかし、肉体のガンは大丈夫です。不信仰は本当に霊的なガンです。私と皆さんが誰でも、少しずつ不信仰になることはあります。私と皆さんが信仰が揺れる時があるためです。しかし、不信仰だと言いながら問題になる時には少し違った話です。私たちのすべての問題がここから始まるのです。私たちがしばしば疑い、心配、このようになっている時には、それだけ根を下ろすようになります。心配と疑う、そのままなるのです。さらに重要なのは、自分も知らない間に不信仰体質になるのです。本人が知らないほど調節ができないようになっていきます。そうしながら、深刻な問題に陥って、サタンに捕えられるのです。これくらい不信仰は怖いのです。

・事実は、はっきり調べれば、すべての問題の原因は不信仰です。アダムが何のためにサタンに倒されたのでしょうか? それも不信仰のためです。神様のみことばをそのまま信じれば良いのに、信じないで倒れたのです。皆さん、肉体的にもいつも体質が心配が多くていたら、とても深刻な問題がきます。また霊的にも、とても心配が多く、不信仰にとらわれれば、他の人にまで問題を与えるようになります。分かってみれば、みな不信仰、反対に信仰、こういうものが重要な話になるのです。多くの教会があるのですが、その中でも信仰が生まれる教会があります。牧師の説教を聞けば、信仰が生じて、牧師に会いたくて、それでこそ生きるのです。説教を聞けばいらいらして、不信仰になって、それでは死ぬのです。子どもたちが学校に行ったら、はやく家に行って親に会いたくなければなりません。親に会いたくない子どもたちは、その中にすでに不信仰が入っているのです。このような時は、どんな問題でも来るということを分からなければなりません。それだけ信仰と不信仰は、大きな差を生み出します。夫婦も同じです。妻にしばしば会いたいべきで、会いたくなければ困ったことです。そこに不信仰が割り込んで、どんどん他のものが割り込むからです。何でもみなそうです。皆さんが日常生活の中でも、信仰生活と不信仰が根をおろせば、それは死です。それで、聖書で私たちに信仰を持ちなさいと言われたのです。

・私たちは、どんな信仰を言っているのでしょうか? 世の中の人々が多くのことを持っているのですが、私たちは証拠があります。聖書にすでに多くの証拠を与えられました。その契約を捕まえる信仰を言うのです。神様はみことばを私たちに与えられました。今まで証しされたことは、私たちに無条件に信じろということではなく、みことばを捕まえて信じなさいということです。ある人は、無条件に信じると言うのですが、聖書では無条件に信じなさいとは言われていません。今まで神様をよく信じる国と時代は生きました。神様のみことばを正しくつかめなかった時代と国はみな滅びました。証拠がないでしょうか? 私たちはこの証拠を捕まえて信じるのです。そのような程度ではありません。私たちはやってくる未来を、聖書を通して確かに知っています。そして、その証拠を捕まえて行くのです。そして、その未来と過去の中で今日を見るのです。それで、今日のタイトルにある通り'証拠ある生活'です。今日、皆さんすべての不信仰を捨てて、証拠を捕まえる皆さんになるように願います。

・しかし、不思議です。神様のみことばでなくとも、皆さんが不信仰を継続すれば、そのままなってしまいます。神様が人間をお作りになった時、宇宙と通じるように作られたのです。皆さんが一つの考えを継続するようになれば、その中で奇跡が起こるようになっています。皆さんが不信仰にずっと陥れば、完全に破滅するのです。神様が人間をそのように作られたのです。人が不信仰にずっと陥れば、どこまで行くのでしょうか? 悪魔のようになってしまいます。反対に、人間は信仰をどんどん持って、神様の力を得れば、天使のようになって、そのように行き来することができるのが人間です。神様が人間をそのように作られたのです。はなはだしくは、悲しいことが好きな人は、いつも悲しくなります。人があまりにも疑う人は、霊的問題が来ます。サタンは生きている存在であるということを知っていなければなりません。皆さんがしばしば不信仰になれば、サタンはずっとそちら側で皆さんを助けます。間違いありません。本当にこの事実が本当ならば、どれくらい深刻なことでしょうか? 皆さんが本当に神様みことばを信じなければなりません。皆さんには、色々な問題がたくさんできることもあります。このような時に、私たちは不信仰をする事もでき、信仰を持つこともできます。そこには、大きな結果が出てきます。

・何のために、聖書にはしばしば不信仰にならないようにと言われるのでしょうか? 目に見えないサタンが、アダムとエバを倒した時、他の方法ではありません。不信仰で倒したのです。'神様がこれら全部の木の実を食べてはならないと言われたのか? 'と告げました。'違う。あの善悪を知る木の実だけ食べてはならないと言われた。' '食べれば死ぬだろうと言われた。' '絶対にそうではない。あれを食べれば、あなたの目が良いなって、神様のようになるので、神様がそれを怖がって食べてはならないと言われたのだ。食べろ!' 不信仰が入ってきたのです。不信仰が入ってくれば見解が変わります。これでサタンにやられてしまったのです。何でも同じです。正しいことを正しいと言って、違っていることを違ったというのに、どうしてそれが不信仰かと話すこともできます。しかし、そうではなく、信仰の目で見てこそ勝つけれど、不信仰すれば負けるということです。

・それでは、すべて話をすることができないから、聖書66巻から信仰の証人を調べてみましょう。皆さんがおわかりの通り、とてもひやかされながらも神様のみことばを捕まえたノアです。ですから、ノアの周囲はすべての人がみな不信仰でした。それが難しいのです。しかし、ノアは神様の恵みを受けて信仰を選択したのです。よくおわかりの通り、どんなことが起きたのかよく知っているでしょう。最も重要なのは、答えを受けて奇跡が起こったのです。こういうものはすべて知っているでしょう。そこで一番重要な話は、その話ではなく、暗闇と呪いが、ノアの家を攻撃できなかったということです。神様の目的がそれであって、他の人はすべて死んで、誰かは生かしたということではありません。ノアが後ほど、しばらく不信仰した時にも、問題がきたではないでしょうか。一つだけ記憶してください。私たちが不信仰して、それで益になることも多いのです。あるものは問題にすれば途方もない利益もあります。しかし、霊的に負けるのです。

・おわかりの通り、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフは、一つの家系です。この家族に多くの重要なことを神様が与えられました。これを知って、しきりに不信仰が攻撃をしてくるのです。しかし、皆さんもおわかりの通り、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフがその不信仰に負けなかったのです。それで、特徴4つが出てきます。アブラハムはいつも損をして悟って、人生の半分を死ぬ思いの峠にあって悟ったのです。ですから、敵の門を勝ち取ると言われたのですが、暗闇が攻撃できないのです。私が今、説明することを聖書をよく見ながら、角度を正しく聞かなければなりません。色々な角度と解釈ができるから、聖書で一番重要なことをのがしやすいのです。しかし、イサクはまた違って、初めから、幼い時から、この信仰を持ったのです。ですから、イサクは一年栽培したら百年分が出てきたのです。多少攻め込まれれば、さらに広い土地を神様が与えられました。しかし、また彼の息子ヤコブはとても行き来したのです。今の言葉で言うなら、とても気まぐれが激しくて、いつも行き来したのでした。そうするうちに、ある日、信仰を持ちました。いつでもそうならないでしょうか? それを教訓にして、ヨセフは幼い時から信仰を捕まえました。ヨセフの場合は、全部、利益になりました。これが族長時代に見られる教訓です。

・それで王政時代が開かれました。最後のゼデキヤ王が24代の王です。24代の王まで、信仰を正しく持った人は3人しかいません。誰でしょうか? 聖書に王三人をとてもほめた部分が出てきます。ダビデ、ヒゼキヤ、ヨシヤです。その他はみな失敗しました。その他は、すべてが不信仰に負けたのです。それでも、ダビデはその当時に勝利しました。聖書に見れば、ヒゼキヤ王を見てダビデのようにと記録されていました。ヨシヤ王も、ダビデのようにとなっています。ですから、王1人が信仰の契約を捕まえたから国が生きたのです。その話は、この暗闇の勢力が、(未信者は暗闇の勢力という言葉は他の人は知りませんが)これが攻撃をすることができなかったのです。皆さんは、必ずこの契約を捕まえるように願います。その次に、捕虜時代が開かれて、捕虜時代の時、完全に滅びてしまったのです。およそ二人の信仰の人のために生き返ったのです。この信仰というのは、普通だと思うのですが、とても重要なのです。私たちが不信仰?普通にするでしょう? それがとても怖いのです。ガンよりさらに怖い霊的なガンです。不信仰に陥ったら、絶対に抜け出すことができません。

・皆さんがおとなになって表に出さないからであって、皆さんの子ども達が不信仰に陥ったら、大きなことになるのです。手や足が一つがないのは大丈夫です。率直な話で、からだがちょっと弱くても、どうでしょう? 肉体がガンになって死んだ。死ぬこともあって、それがどうなのでしょうか? しかし、この霊的なガンである不信仰は、皆さんの子孫までずっと伝えられるのです。これが怖いのです。他のものと戦うことではありません。不信仰と戦わなければなりません。戦う時、夫や子どもたちと戦わずに不信仰と戦いましょう。教会の中で、私たちの同僚どうし戦うのではなく、不信仰と戦いましょう。それがサタンと戦って勝つ奥義です。皆さんの中で、既成世代の中にはすでに不信仰が習慣なった人もいます。それでは未来が明らかです。今までは分からないが、未来が明らかだということです。ですから、どれくらい残念かわかりません。

・普段の時、私をよく手助けした方なのに、その方は人格も実力もみな良い人でした。学校教師だったのですが、私が学院福音化していた時、私をたくさん手助けしてくれていました。個人的にはとても親しかったのです。私をよく手助けして、私を理解してくれたのです。しかし、この方は教会にきたらいつも問題でした。この人は髪の毛の先端からつま先まで、すべての考えが不信仰でした。しかし、どれくらい賢いかわかりません。その人と話して勝つ人がなかったのです。ですから、大きな不信仰の影響を与えたのです。ある日、神様の時刻表になったのか、時刻表がちょっとはやくきて病院にいるというので、行ってみたのです。自分の言葉では、定期的な検査を受けたというのに、肝臓ガンが慢性に広がった状態でした。

・家族の中でも誰かがいれば、肝を移植すれば生きることができたのですが、する人がいないということでした。それで待っているということでした。他の人の肝を移植しようとするなら、2〜3年になるかも知れないということでした。そんなことは問題ではありません。人が完全に変わっていました。そこに驚いたのです。前は、いつも口さえ開けば、不信仰が出てきたのに、人が完全に変わったのでした。完全に神様の人になっていました。祈って出てきながら一人で考えたのは 'あの人がガンになる前にあのようだったら、本当に良かったなのに…'その後また行くことができなかったのですが、亡くなったという知らせを聞きました。人間は、そのように毎日不信仰にとらわれていて亡くなったのです。自分は知っていることも多くて、賢かったのですが、私たちが見る時には、不信仰にいつも苦しんで、家族まで骨を折るようにして亡くなったのです。皆さんが1人だけ信仰があっても、どれほど多くの影響が及ぼされるのでしょうか?

・私たちはどの場合も、死ぬことがあっても、偶像にお辞儀できない。これがイスラエルを生かしただけではありません。そのすべてを見ていたバビロンの人々の心の中にその言葉がみな入っていったのです。私たちが死んでも主は救い出してくださるので、そうでなくても、私たちは偶像にひざまずかない。ところでそれが、王の胸の中にその言葉が入ったのです。これが怖いのです。火の中で入って死ななかった時、王が何と言ったでしょうか? 'シャデラク、メシャク、アベデネゴ、出てきなさい'そうではなく,'いと高き神様のしもべ、シャデラク、メシャク、アベデネゴ出てきなさい'と告げました。もう一つ記憶すべきです。不信仰と信仰は、死と生の霊的な大きい戦いです。皆さんは不信仰の中に陥るのが、サタンの目的です。どれもこれもみな細かく不信仰することがどれほど多いでしょうか? 率直な話で、私たちのそばにいる人々が不信仰だけ与えるので、信仰を与えるでしょうか? これを注意しなければなりません。私たちが知る、知らないのではなく、知識が必要ないということでなく、私が死ぬのにどうするのでしょうか? ダニエル1人のために、皆さんも分かるではないでしょうか? エステル1人のために、それで、新約時代にイエス様がなさったみことばが'地の果てまで証人になります。'と告げられました。ですから信仰の証人になるということです。皆さんは今日これを深く考えなければなりません。

・皆さんがどの場合にも不信仰に溺れ死んではいけません。ある時は、一理はあるが、不信仰に陥れば、それから事が起こるのです。それでは、二番目に、本文に見ると、どんな証拠を言うのでしょうか? 証拠を捕まえるべきなのですが、どんな証拠を言うのでしょうか? 41節に出てきました。こういうみことばがあります。'主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように。
'何をいうのでしょうか?救いの証拠を捕まえましょう。私たちが石の下でも、どこに出て行って、祝福してくださいと言うのではなく、救いの証拠を捕まえようということです。42節に'私をそしる者に対して、私に答えさせてください'簡単に話せば、私たちが未信者と競争して勝つのではなく、その人に答えるほどの伝道の証拠を捕まえましょう。43節を見れば'私の口から、真理のみことばを取り去ってしまわないでください。私は、あなたのさばきを待ち望んでいますから。'出世の秘訣を言うのではありません。生活の証拠を言うのです。主のさばきを捕まえたのです。私の生活の中にこの証拠が現れ始めたのです。46節を見れば'あなたのさとしを王たちの前で述べ…'

・何の話なのでしょうか? 世界を生かす証拠です。言わば最初は福音、伝道、生活、宣教ということです。この証拠を捕まえましょう。皆さん、他の証拠を捕まえずに、この証拠を捕まえれば勝利することができます。それでは、三番目に、この証拠を捕まえる方法が何でしょうか? それが信仰です。47節に'私は、あなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。'それで48節には'私は私の愛するあなたの仰せに手を差し伸べ、あなたのおきてに思いを潜めましょう。'皆さんが勝利する方法は簡単です。この契約のみことばを本当に喜んで黙想することです。喜ぶという言葉は、何の話なのでしょうか? 喜ぶという言葉は簡単な話ではないでしょうか? 私が何かをしたところ賞を受けたり、収入が増えれば良くないでしょうか? しかし、私が損しそうだったら喜びません。私がひょっとして死にそうだというのは喜べません。その話です。皆さんは神様のみことばがそうでしょうか? そうすれば良いのです。今日、私の説教も神様みことば。このようにすれば良いようだ。それは喜びです。その話です。

・こういう恵み、これが喜びでなければなりません。黙想するということは、何の話でしょうか。これが私にそのままあることです。それをもって祈って黙想するのです。大きく勝利するようになっています。皆さん、不信仰を捨てて、この契約だけ捕まえれば、まちがいなく勝利します。

・結論を結びます。信仰は何をいうのでしょうか。ヘブル11章には、信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。簡単に話せば、事実だということです。信仰は望んでいる事がらの保証です。見えないが証拠です。それで皆さんいろいろ複雑な話をきかずに信仰は3つに分けられます。一般的にも信仰があります。私がエステルを本当に信じれば、私を気落ちさせません。皆さんが子どもを本当に信じれば、その子が崩れても、お母さんのゆえに崩れません。皆さんが夫を信じて神様に祈れば、その夫がいつかは戻るようになります。皆さんを愚かに見るように思えても、その心を開くようになるのです。皆さんが信じないで、それでは正しいように見えるのですが、心の門は閉じられます。こういう一般的な信仰もあります。私たちが世の中で信仰をもって信じて、仕事もしてという一般的な信仰もある。

・これも信仰ですが、本当に信仰は何なのかというと、救われる信仰です。また、どんな信仰なのでしょうか。救われたが、神様の力を信じる信仰です。このように信仰というと、複雑にする必要がなくて、3つに区分することができます。一般的にも信じるべきで、いつも焦燥感を持っていてはいけません。損してきても大丈夫だと信じるべきで、いつも心配していれば、その心配のために損をします。それは一般的な信仰です。私たちが救われる信仰は別にあります。救われたといって信仰があるのではありません。救われても、神様の力とみことばを信じなければなりません。不信仰はひどい結果を現わします。皆さんがよく分かるでしょう。不信仰は何でもないことのようですが、さっきの話したのですが、簡単に一言で話せば、暗闇の勢力に結局、捕えられるのです。

・アブラハムが不信仰したのが今まで問題が起きています。ロトが不信仰した事件が、今まで問題が起きています。簡単に分かるでしょうが、イスラム圏は、イシュマエルの子孫です。アブラハムが不信仰をして得た息子です。その子孫です。不信仰は怖いのです。なぜそんなに怖いのでしょうか。世の中の人々が知らないサタンの通路は不信仰であるためです。サタンが思いきり出入りできるところが不信仰です。それで、聖書には不信仰してはならないと言われています。不信仰は深刻な問題を持ってくるのです。皆さんも知らない間に、職業病というものがあります。それも不信仰に陥れば、人がおかしくなってしまいます。しかし、信じればすばらしい実を結びます。

・私は率直な証しですが、幼い時から今まで信仰生活はしませんでした。私に役に立ったということはたくさんあったのですが、別にあります。もちろん、神学校で勉強したのも役に立ちました。しかし、そのような助けは、誰でも受けられる助けです。私が信仰生活する中に信仰の人に何人か会ったのです。これが怖いのです。それが私の中に入ってきたのです。そうだ。ある日、誰かを通して、私が祈らなければならないという気がしたのです。ある日、私の胸の中にキリストがすべての問題解決者だという気がしたのです。ある日、私の胸の中にサタンが生きていて、このように悪いことをすることが信じられました。ところで、これがますます育つのです。それこそ、マタイ13章にある、からし種のようなものが大きい木となるのです。皆さんの胸の中に不信仰がさらに多く席を占めれば、それがまた大きいのです。本当に驚くことです。

・私が幼い時から私たちの両親は誠実な方でした。それで、誠実に教会に通ったのです。絶対にだまさない方々でした。だから、私の両親を通して誠実は良いのですが、信仰は習えなかったのです。むしろ心配ができました。どれくらい誠実に生きたかわかりません。我が家の両親がそうでした。亡くなった時に見たら、私が母にお小遣をあげていたのに、絶対に使わなかったのです。使ったり、通ったりすれば良いのに、献金ぐらいで、残りは集めていたのが、亡くなった後お金がたくさん出てきました。そのような方でした。そうしたら、私が率直な話で信仰ができなかったのです。それも、私が教会を通ったのですが、教会はみな明らかではないでしょうか。教会で一番問題になるのが何かというと、色々なお金の心配です。教会は、お金を心配ないと思ったところ、教会がお金の心配が一番多いところです。だから、こういうものが私に全部、不信仰になったのです。信仰ができませんでした。そうするうちに世の中を出て行ったら、世の中がどれくらいすごいでしょうか。私が信仰が準備できない状態で出て行くのでそのままやられるしかありません。このようにして滅びるのです。本当に私が滅びてしまいました。不信仰、これが怖いのです。

・レムナントに不信仰が入ったとすれば、大変なことになるのです。理解が良くできないでしょうか。皆さんの子どもが、今、胸の中に不信仰が根をおろしたとすれば、大変なことになるのです。理解できないでしょうか。皆さんの子どもの胸の中に信仰が根をおろした。正しい信仰が根をおろした。まちがいなく勝利します。それでは、私たちが今、信仰を正しく持たなければなりません。記憶しなければなりません。どのように、私たちがこういう信仰を持つことができるのでしょうか。私たちが未信者よりは信仰がなければならないではないでしょうか。未信者を見れば、どれくらい一般的な信仰が大きいでしょうか。皆さんが実際に今、信仰を持たなければならないといったのですが、実際に今、教会の事をしてみたら、問題が多いのです。また皆さんが、信仰を持っておいても、家に帰ってみれば問題が多いのです。信仰を持つべきだと説教を聞きながらアーメンしておいても、また外に出て行ってみれば信仰があるでしょうか。みな逃げてありません。アーメンと言っておいて、外に出て行くと不信仰が多いのです。それは当然の話です。それよりさらに大変なのは、私が信仰生活しようと家に帰ってみたらできないのです。これはもう少し狂いそうになるのです。なぜか、外がそうだとしても、私が信仰を持とうと教会に来てみたら、教会はさらに不信仰です。本当にこれは確かに狂うのです。どのようにするのでしょうか。このような時、どのようにすべきでしょうか。皆さん、特に私たちのレムナントはどのようにすべきでしょうか。

・私が2部の時、レムナントに説明をしようと思っていますが、これをどのようにするのでしょうか。確かに神様のみことばは生きているみことばであることは間違いなく明らかですが、私たちが実際に信仰を持つことが大変です。信仰だけ持てばまちがいなく勝利するのに、これが持てないのです。どのようにすれば良いのでしょうか。レムナントにも話すでしょうが、私は3つのことが重要だと思っています。皆さんが本当に事実を見る目がなければなりません。本当に事実を見なければならないのです。何でも問題を正しく見てこそ、答も正しく出てきます。皆さんが問題を違うように見るのに、どのように答が正しく出てくるのでしょうか。とても重要です。皆さんが問題を事実でよく見なければなりません。私は、ほとんど大きい団体の中に仕事をしています。それで秘書もいますが、報告されることを、また確認してみれば、ほとんどみな違います。正しいのに、あるものは自分の立場での話です。正しいのに、あるものは見れば相手方をどうにかしたいからする話です。正しいのに、あるものは感情が混ざった話です。あるものは正しいのに、他の動機がある話です。あるものはまったくとんでもないことなのです。だから祈りの答えを受けられないのです。

・例をあげてみます。ひとりだけ例をあげてみます。ヨセフが兄たちを正しく見たのです。なぜか、幼い時から父がヨセフにはすばらしいビジョンと夢と祈りをしたのです。服も良いものを与えました。ヨセフは自分が見ても、兄たちがねたんでも仕方ないと知っていたのです。そして、普段の時もヨセフにはとても上手にしてくれて、兄たちにはとても苦労させたのです。だから、聖書を見れば、ヨセフは絹の服を着て、兄たちは出て行って仕事をしていました。しかし、理由がありました。兄たちはみな苦労するのですが、本当に契約がありません。ヨセフは契約を持っていたので、これをお父さんが好きだったのです。お父さんが人を差別をしたのではなく、それが好きだったのです。そのようなある日、夢を見たのです。それ以前までは知らなかったが、話したところ、兄たちがひっくり返したのです。兄たちが私の前にひざまずくと言うので、兄たちがとても腹が立ったのです。殺されなくて売られたことが、大いなる幸いでした。兄たちを理解したのです。事実を正しく見たのです。ところで、私がこの夢をかなえようとすれば、ここから出て行かなければならないことも正しく知っていました。何も気をおとすことはありません。どう思ったのでしょうか。まちがいなく、奴隷で行けば、人の家で仕事をしなければなりません。主人が感動を受ける程、仕事をしようと思ったのです。

・皆さん、二番目です。事実を見たら、いつでも答えは立派な答えを捕まえなければなりません。皆さんが問題がきた時、立派に考える人がいて、反対に考える人がいます。事実を正しく見なくて、立派に考えても損する必要はないけれど、利益になることもありません。正しく事実を見たら、その時からは立派な考えがなければなりません。絶対に逃してはいけません。特に私が2部の時レムナントに強調します。レムナントは、これを逃せば大変なことになります。事実を正しく見ることもできないうえに、考えまで立派でないのは、これは完全にめちゃくちゃになるのが当然です。めちゃくちゃになる、それが答えです。この時から何をするのでしょうか。これを機会にする大きい信仰を持たなければなりません。この時から、大きい信仰がくるのです。そうではないでしょうか? そのようなのに、どのようにサタンが攻撃をするでしょうか。サタンがこれに勝てないということです。

・そして、答えを受ければ、事実通りに捕まえましょう。私は私たちの教会が七番目の教会です。七番目の教会だから、ずっといるだろうと予想していますが、今まで六ヶ所を回りました。六ヶ所回りながら共通点として感じたことがあります。見るから、いつも教会に2つの問題がありました。仕事をして、それに従う経済に関する問題、私が見る時には本当に残念でした。おもに見れば、他のものはありません。長老がちょっと節約しようとしたのです。そして下の人々は、おもに仕事をしなければならないから、これが事実通り見れば、どれくらい美しいことでしょうか。事実的な目で見れば、教会生活をする大人たちはどうにかして、皆さんにあまり与えないで節約をよくしようとするのです。節約して持っていくのではありません。節約して、教会を生かそうとするのです。そして、下にいる人々は、仕事をしようとするから不便なので、いつもそういうことです。六つの教会を歩き回りながらいつも見たのです。ところで事実を正しく見たら、すばらしい立派な答えが出てきます。それでは、ここの1人が、私が以前にいた教会の出身の人で私たちの教会にいます。青年部を引き受けたのです。青年たちにこのように教えました。教会で献金があふれる教会はないだろう? '私たちは伝道する1年計画をたてて、予算はとらないで、私たちが集めよう。そして徹夜祈りは100%参加しなさい。その時、すべての感謝献金をしなさい。それで、教会が益になるようにして、私たちが使うお金は、私たちが出して、伝道するのに使うのだ。'それから教えたのです。なぜなら信仰で一度してみようということです。その時、使命者の青年だけで300人でした。徹夜祈りに行けば、教会が満杯になって、青年たちだけでした。これくらい青年たちが起きたのです。私が話すのは基準ではありません。すべての教会や教会学校がそうなれということではありません。

・私が話そうとする基準はそれではありません。私たちが問題がきた時、正しく見る目と立派な考えが全部だということです。皆さんが良くない家庭に会ったとすればどうするのでしょうか? 皆さんが嫁に行ったり、妻をめとったが、良くない家庭に会っておかしな女に会ったとすればどうするのでしょうか? そこに対する事実だけ正しくよく分かれば崩れません。契約を捕まえて祈って、立派に考えれば、立派な答えがくるのです。ここで大きい信仰を捕まえます。どれくらい驚くことでしょうか? 皆さんが今、インマヌエルの家族になったということは、時代的に大きい答えで受けたのです。ですから大きい信仰を持ちましょう。大きい信仰です。それで、私がこのように考えたことがあります。話が出たからする言葉であって,'来年からは、私たちの信徒に献金が何か教えて、経済祝福を受けるようにしなければならない。'もちろん私の祈りです。神様がそのようにさせないこともできるでしょうが、そのように考えました。私は献金する時、小さくよくするのではありません。私の信仰告白です。例をあげたら、私はどこへ行こうが、献金する時、全体の神様の計画を見て献金をします。例えば、今回の宣教大会をした時には、神様の前に私の信仰告白のとおり、私たちの家族の分を献金をしました。実際にしようとすると、百万円ぐらいしなければならないのに、その時に五十万円程度しかなかったので、私たちの秘書陣に話して借りて出しました。それは私の信仰告白です。どこへ行こうが、一つの封筒に一万円入れます。その理由は、私の家族でも近い人々と食事をすれば、その程度するからです。それで、私が神様の前に礼拝をしながらささげる物質は…? そのような信仰告白ができます。事実は、私は以前に'お金がどこにあるか、教役者が何でお金がどこにあるか、副教役者がお金があるのか、神様が分かっておられ与えられるでしょう。'と思ったのですが、それ以前まで経済祝福がありませんでした。ある日、神様の前に信仰告白をしたのですが、今、私たちのタラッパン団体が世界で一番祝福を受けました。ですから、他の団体で私たちがお金を貯めていると思ってお金をもらいにきたりします。そうではありません。すべての牧師、一般信者が列にならんで、会費を出して入らなければならず、会費を出すのがいやならば来るなというのが、私たちのタラッパンです。だから予算が超える必要も、足りない必要もありません。初めには、牧師が恥ずかしくて、そんなことがありませんでした。牧師が列にならんで、名札を持ってお金を出そうとすると恥ずかしいのです。それでは来なければ良いのではないのでしょうか。世界教会の体質を変えなければなりません。私たちが本当に少しだけ信仰を持つならば、本当にだめなことがありません。今日、皆さんは貴重な信仰を回復するように願います。未信者よりは信仰が強くなければなりません。私たちは世界を生かす答えを、大きい信仰を持って始めなければなりません。答えを受ける祝福の日になるようにイエスの名前でお祈りします。

<<契約の祈り>>
神様に感謝します。今日、祝福の日になるようにして下さい。信仰を回復する日になるようにして下さい。証拠を持った生活が始まるようにして下さい。当然、答えられる神様の契約を捕まえる貴重な日になることを信じます。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン