2006年2月5日インマヌエル教会聖日礼拝メッセージ


1部/荒野の奇跡(5)
先にもあとにもない答えは誰に来るのか?
(ヨシュア10:6〜14)


・今日も神様が備えられた祝福が、すべてのインマヌエルの家族にあるように望みます。衛星で礼拝する釜山をはじめ、百ヶ所あまりの教会に特別な神様の祝福があるように望みます。また全世界で、インターネットでみことばを受けている所に、他ではなく、みことばを通して神様の祝福を受けるように望みます。

・昔、私が学校に伝道をしに行ったら、男子高校でバスに乗れば、男子学生がいっぱい乗っていて、女子校で乗れば、女学生がいっぱい乗っていました。そこには、差異点があります。男子学生がぎっしり詰まったバスと、女子学生がぎっしり詰まったバスに乗れば、差があるのです。男子学生とバスに乗って行くと、突然、どこかで'どしん'という音がします。何かと振り返れば、バスのなかで男子学生が、いたずらをしてけんかして、あたって音がしているのです。所々、悪口が飛び出してきます。男子学生は、悪口をよく言います。しかし、女学生が乗っているバスに乗れば、違うのです。砂利を落とすような音がしています。初めから最後までそうです。そばに誰がいても話ができないほど、砂利を落とすような音がします。私がそれを見ながら、確かに女の人は、お話が多いと考えました。ところで、私がこの話をしているのは、理由があります。タラッパンで通訳を上手にする人々は、全部、女性です。エステル、デボラ、ソンハン、ソウン、ナラ、ソラ、みな女性です。みな英語が上手です。韓国語も上手な世界的なメンバーです。その中でLAから来たソラが、今日通訳をするようになりました。LA地域からわざわざ韓国に訓練を受けにきたのです。数年いるようになります。皆さんが、ソラのためによく祈ってくださるように願います。とても実力もあって、韓国語、英語が堪能で、希望あるレムナントです。それで、今日、私が負担を持たずに安らかにしなさいと言いました。

・なぜかというと、私たちのタラッパンだけなのですが、原稿を渡さずに、私と対話もせずにそのまま通訳するのです。そして、私の説教の特徴が原稿がありません。私の説教の特徴が、必ず今日すべき話だけ簡単にメモして出てくるのです。それで、とても一流な人でなければ通訳できないのです。他の牧師を見れば、みな書いて持って読みます。だから通訳しやすいのです。必ず私が神様の前で聞いて伝達しなければならないみことばが何か、それだけ書いて話すから、通訳するのがとても難しいのです。しかし、私たちのレムナントが通訳するのを見れば、すでにメッセージがみな入っているから、メッセージの中で出てくるのです。私たちの神様がレムナントを祝福されないはずがありません。

・今日は、先にもあとにもない答えが誰にくるかというタイトルです。先にもあとにもない答えを私が受けているということが、クリスチャンの基準です。そうでないならば、私が多くのことを今、損しているのです。それで、他の人を直そうとせずに、はやく私を直さなければなりません。私に先にもあとにもない答えが来ていなければならないのです。あの人は医師なのに、あのように答えを受ける医師は初めて見た。このようにならなければなりません。裁判官が、あのようなこともあるのか、私はあのように祝福される人を初めて見た。このようにならなければなりません。正しいでしょうか。間違っているでしょうか。ポティファルが、ヨセフにこのように神様に祝福される人を初めて見たと言いました。私はあのように素晴らしい長老を初めて見た。これが基準です。イエスを信じる人が、なぜあんな状態で。そうすれば、それはとても基準に達っしていないことです。本当に不思議です。同じように商売をするのに、あの人はなぜあのように祝福を受けるのだろうかということが基準です。それをもって福音を伝え、それのためにイエスを信じるのではないのでしょうか。あの牧師を見れば気分が悪い。これで異端なるのではないでしょうか。あの牧師は、どうも素晴らしくて、神様のみことばをよくくださるようだ。このようになってこそ、物事がなるのではないでしょうか。ダニエルが殺されるようになった時、ダリヨス王が何と話したでしょうか。とても残念で、神様があなたを助けられるだろう。このように話すほどではありませんでした。あなたが常に仕えるあなた神様があなたを助けられるだろう。そして、獅子の穴にいた時、王が行って何と話したでしょうか。ダニエルと言いませんでした。いと高い神様のしもべダニエルと言ったのです。あなたが常に仕える、あなたの神様があなたを助けられたか。だから、獅子の穴でダニエルが死なないで、王さま、永遠に生きられますようにと言いました。基準です。皆さんがそうでなければ、はやく自分を変えなければなりません。なぜでしょうか。神様には問題がないから、私をはやく変えれば良いのです。私たちはずっと他の人を変えてくださいと言うのですが、自分を変えましょう。環境を変えようとするのですが、自分を変えましょう。私たちは、人を恨むのですが、自分を変えなければなりません。教会がどうだ、学校がどうだ、会社がどうだと言うのですが、それでは、永遠に解決しません。自分をはやく変えなければならないのです。

・2部礼拝の時は、特にレムナントにメッセージをしますが、レムナントが行く世の中は、そんなに良いだけではありません。私を更新して、祝福を受けなければ解決できないのです。それで、先にもあとにもない答えを今日の本文でくださったとなっています。私はこれを見ながら、クリスチャンの基準であり、答えの基準であり、祝福の基準だと思います。それで、釜山で私が牧会を始めた時、一番はじめにした事が何だと思いますか。開拓する時、開拓教会は助けを受けます。一番はじめに、長老に助け受けるのをやめようと言いました。私たちがなぜ助けを受けるのでしょうか。献金すれば良いのではないでしょうか。私たちが祝福されれば良いのではないでしょうか。それから、老会に行って話しました。私たちが出すお金がとても少ないようになっていたのです。より多く出しますと言いました。老会に予算がたくさんなければならないから、より多く出すと言いました。私をその人々が変に見ました。みな少なく出そうとして、より多く出そうと言う人はいません。私たちは祝福を受けるようになっているのです。そうでなければ、聖書を変えろと言わずに、自分を変えなければならないのです。

・私たち人間には、多くの問題が来ます。そのうちで、今日の本文を見れば、3つの問題がきました。その最初が何かというと、カナンの地に行かなければならないのに、一度も行ってみたことがない道なので不安だったのです。私たちが軍隊に行くのは不安です。一度も行ったことがない道だから不安で、敵が待っているので不安なのです。私たちもそのようなことがあります。一度もしてみなかった事業がうまくいくか、だめだろうか不安です。一度も行ってみなかった道は、不安です。これが、この人たちにあった問題です。もう一つありました。イスラエル民族が来るということを知って、待っている人々が今、どうでしょうか。まちがいなく、降参をしようか、戦争を準備をしようかするでしょう。しかし、失敗をしたのです。何の失敗をしたかというと、キブオンという部族がいます。この人たちが、古着を着て、おかしな姿でヨシュアの所に来たのです。私たちは遠方からきた。私たちはカナン部族でない。私たちを助けてくれ。私たちをしもべに使ってくれと言いました。その話を聞いて、ヨシュアが承諾したのです。これが失敗をしたのです。私たちもこういうことをすることがあります。私たちも生きているならば、悪い人がきて嘘をつく時、だまされるのです。そうでなければ、良くしたのに、これが問題になることもあります。私たちは大きく悪くないと思ったのに、これが問題になることがあるのです。私たちもそうです。言葉も正しい言葉を言ったのに、これが問題になることがあります。ところで、これが小さい問題で起きるのではなく、大きい事件が起きてしまうのです。イスラエルに対抗するのではなく、カナンすべての部族がかたまったのです。キブオンをたたけ。私たちと力を合わせなければならないのに、キブオンが行って降参をしたので、キブオンをたたけ。アモリの全連合軍がみな立ち上がってしまったのです。それで、キブオンが来て、助けてくれと言うのです。それが、今日の6節です。世の中で事がこのようになるでしょうか。今、イスラエル民族が入るのに、全部降参する立場なのに、このキブオンために全部頑張って、戦争準備をしてしまったのでした。このようになることがあります。私たちが人生を生きていくならば、このようになることがあります。

・昔には下水口にふたがありませんでした。そのまま水が流れていました。その上に真っ赤な水が流れてくるのに臭いがガソリンのようだったのです。これが何かというと、米軍部隊でガソリンタンクが漏れて、川に流れてきていたのです。だから、普通に通り過ぎる青年たちが、ガソリンのようだ、違うガソリンが川に流れてくるわけがあるか、これで二人が言い合いをしたのです。それでは、火を付けてみれば分かるだろう。このようになったのです。それで、ある人が、マッチをつけて投げ入れたのです。これがあっという間に全部、火に変わってしまいました。これが変わってどこへ行ったかというと、漏れているタンクの中に入ったのです。だから、そのガソリンタンクが、大きい貯蔵タンクだったのですが、爆発したのです。道を通っていた人を、みな覆ってしまいました。私たちが住んでいる家をみな覆ってしまいました。何百人がその場で死んでしまったのです。昔には、屋根はみなくっついていました。そこに火が落ちるので、上から家が焼けてくるのです。私は、そこで何時間を這って出ました。1人の失敗で、そんなことが行われるのです。誰かがきて助けてくれと言うのに、ヨシュアが普通に思ったのですが、それで、アモリ全軍人がみな立ち上がったのです。今日、私たちが最初に考えなければならないことは、こうしたことが世の中にありえるのですが、このような時、どのようにしなければならないかということです。このような時、ヨシュアとイスラエル民族は、どのようにしたでしょうか。私たちに重大な教訓です。普通の人は、このような時になれば、うろたえます。そして、不信仰に陥るのです。それでは、どうなるのでしょうか。さらに大きな問題がくるのです。さらに大きな問題が続いてきます。私はこういう話を聞きました。問題が生ずるので、イエスを信じる勧士がとてもうろたえていたら、さらに問題が大きくなりました。信じる人なのにもかかわらず、とても問題が生ずるので、うろたえていたのです。イエスを信じない夫がそばにいて、どうしようもないので、神様を信じろと言ったそうです。だから、私たちが信じると言いながらも、問題が生ずれば、うろたえていて口を開くのです。このような時、どのようにすべきなのでしょうか。最も良い方法があります。今まであった神様の導きと証拠を捕まえるのです。今日ちょうど、詩篇を交読しました。詩143:5節にダビデがこういう話をしました。私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています。皆さん、この部分がとても重要です。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフにともにおられた神様。その契約が、まさに創世記3:15の契約を捕まえてカルデヤから出ることでした。出エジプトの奇跡。羊の血の契約をつかんだ人は、エジプトから出るようになりました。この契約を持った人が行くのに、失敗するはずがありません。荒野の道を歩いていく時、神様は雲の柱、火の柱で保護されました。それなら、今でも勝てるのです。これをつかんだのです。皆さんこれが重要です。皆さんが信仰生活をするのに、この部分がとても重要です。レムナントが外に出て行けば、難しいことが生じることがあります。その時が重要です。皆さんが出て行けば問題が来ます。この時が重要なのです。この時に、百年の祝福を受ける事もでき、すべての祝福をのがすこともできます。とても重要です。この時、ヨシュアはすでに神様の契約、今まで共にされた神様が私とともにおられる、こういう確信があったのです。

・私は、イエスを信じるのに恥がありません。初めから。どうしてかというと、今まで仏教を信じる国は良く暮らす国がありません。良く暮らす国がないのです。全部、乞食になっています。証拠があります。釈迦がどうで、悪いということではなく、仏教を信じる国はみな乞食になっています。イエスをよく信じる国は、みな金持ちではないでしょうか。確実な証拠があるのに、なぜそうなのでしょうか。そして、福音の契約を私が悟るようになったのです。この福音を持った人が行く道には、神様が確かに働かれるようになっています。それで戦争になったのですが、どんなことが行われたのでしょうか。10:11節に見ると、どんなことが行われたのでしょうか。神様が突然、天から石のようなひょうを落とされたのです。アモリ軍がひょうに打たれて、ほとんどみんな死んでしまいました。今日、ここに何と記録されているでしょうか。刃で死んだ人より、ひょうで死んだ人がさらに多いとなっています。大きい石が頭を殴れば死ぬので、生きることができるでしょうか。このようなことがあるのでしょうか。こういう自然界に不思議なことが行われて、ひょうが落ちて、アモリ軍をほとんどみな殺してしまったのです。私は皆さんも同じですが、何度か当惑することがありました。それと共に、気落ちすることがありました。そして、私たちがするならば希望がないように見える時があります。この時が重要です。私が思い出すことがいくつありますが、みな説明することはできませんが、変に副教役者時代に気落ちする時がありました。そして、開拓教会を始めるのに難しかったのです。本当に当惑して、真暗な時があったのです。何度かありました。話せることと話せないことがあります。前がまっ暗なのが何個かありました。しかし、その時ごとに私が神様の契約をつかんだのです。恐れつつ告白することがあります。一事件で百年の答えがくるのです。私はとても驚きました。神様は救われた者と神様の民に答えられるのに、こういう時刻表がとても重要だと思っています。

・私は本当に、皆さんはすごいと思うでしょう。どのように、あのように多くの伝道運動をするのだろうかと考えるでしょうが、そうではありません。本当に答えを受けたのです。この二十個の戦略が出てきて、ずっと広まっています。こういう祝福を受けるレムナントが列で並んでいます。この子どもたちが、勉強ができて賢いのです。韓国に伝道訓練を受けようと出てきたのです。今、世界あちこちに一杯になっています。どのように、私たちがこういう祝福を受けられるのでしょうか。私や皆さんがこれから受ける祝福が大きいのですが、共同体に参加するのを見ながら、どのようにこういう祝福を私たちが受けられるのでしょうか。皆さんうろたえてないように願います。困難きた時、契約をつかみましょう。問題がきた時、契約をつかみましょう。わたしが世の終わりまで、あなたたちとともにいます。ヨシュアに主が恐れてはならない、雄々しくあれ、このみことばをとてもよく言われました。なぜそう言われたのでしょうか。恐れてはならないという言葉は、恐れることが起こるから言われたのです。雄々しくあれということは、雄々しくなければならないことが起こるから言われた言葉です。子どもたちが学校に行くのに、虎に用心しろと言うでしょうか。車に気をつけろと言うでしょう。大峙洞に虎が行き来すれば、虎に気を付けろと言うでしょう。だから、雄々しくなければならないことがあるので、雄々しくあれと言われたのです。皆さんが世の中生きていくのに困難がきます。恐れてはならない。それと共に何とおっしゃったのでしょうか。わたしがあなたとともにいる。わたしがあなたの神様だ。これを捕まえたということです。だから力が出ないでしょうか。ひょうが降って、半分以上死んだので、もう戦うこともありません。神様の答えはこのようにくるのです。

・私は今日、このように座って、詩篇の交読をしたのですが、同じみことばが出てきました。ダビデが言った言葉です。私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています。詩編143:5、今日、私と皆さんが交読したところです。このように勝ったのです。このように勝利していくのに、これがどういうことなのでしょうか。もう本当に問題がやってきました。どんな問題がきたのでしょうか。戦争をしている真っ最中に、勝利しているところだったのですが、日が沈んでいくのです。それが何の問題になるのかと言うかもしれません。問題を見る目もなければなりません。これが何の問題になるのでしょうか。日が沈んでしまえば大変なことになるのです。相手のアモリ部族は、この土地の人です。今、イスラエル民族は全く道も知りません。夜になって隠れてしまえば、探すこともできません。その程度ではないのです。攻撃して来ることもできます。初めての道で暗い道です。朝に私がこちらに来ましたが、トンネルを通過する時にはまっ暗になります。ある物を落としたのですが、いくら探しても見つけられませんでした。トンネルを通過して出てきて明るくなったら、すぐ見つけられました。それを見つけられずに、あちこち探っていたのです。私が昔、幼い時、田舎の実家がある故郷に行きました。灯を持って行って、私が知らずに落としてしまったのです。木で覆って、穴があったのですが、知らずに行くので、落ちてしまったのです。それで火がついて、火で死ぬところでした。私は田舎で、まっ暗では生きられません。知らないところだとそうです。しかし、私の親戚は、灯りもなく、行き来していました。私は灯りを持って行きながらも落ちたのですが、この人たちは、灯りもなく行き来していました。分かるでしょうか。よく知っている場所だということです。ライトハウスという家が釜山にあります。目の不自由な人たちがいる所です。私たちが何かの行事があったので行ったのですが、私は驚きました。サッカーをしていたのです。何で目が不自由な人がサッカーができるのかと思って見たのですが、目が見えないのにサッカーをしていました。そのうち目が少しは見える人はゴールキーパーをしていました。そして、からだがはやい子どもは、簡単に話せば、攻撃手をしていたのですが、サッカーを私たちと同じようにしていたのです。それで、私が近く行ってみたら、ボールが違いました。ボールの中に何かを入れて、ボールの音を聞いてついて行くのでした。本当に耳が良いのです。それを聞いて、サッカーを私たちと正常に同じようにしていました。お手洗いに行くのにも、走っていきました。不思議で、目が不自由なのに、どうしてあのように飛び回るのか、目が実は見えるのではないかと思ったのですが、確かに目は見えていませんでした。お手洗いやに水道に直行して走っていくのです。全く同じでした。しかし、外に連れて出て行けば、杖をついて歩きます。分かったところ、お手洗い、水道は、いつも行く所であるから、見えなくても、はやく走れるのです。その時、私が見ながらこの本文が分かったのです。夜になってしまえば、敵がものすごく力が強くなってしまい、イスラエル民族が死にます。大変なことになったのです。この時、ヨシュアがどのようにしたのでしょうか。これが重要です。ヨシュアが、この時どのように、太陽、月よ止まれと言えるかということです。太陽が止まってしまってこそ、暗やみが来ません。これが可能な話なのでしょうか。私たちが、この程度の信仰がなければなりません。

・ところで、さらに重要なことがあります。カナン征服は神様のみこころです。今、暗やみが来たのは、危機です。これは瞬間だけのことです。神様は奇跡を起こせます。太陽、月よ止まれ。さらに重要なのは、12節です。太陽、月よ止まれと言わず、主に語り、とあります。皆さん、私たちが力もなく何かをするということはおかしいことですが、主なる神様に祈ることは可能です。私たちがどのように、世界を福音化して、どのようにレムナントを育てるのでしょうか。しかし、神様に祈れば可能です。確かに12節を見れば、主に語り、太陽、月よ止まれ。これは私たちにとても重要なみことばです。皆さんが人の前に話せないことがあります。私たちは生きていくならば、夫婦間でも話せないことがあります。私たちは生きていくならば、兄弟間でも通じないことがあるのです。神様に祈ることができます。私たちには限界もきます。私たちは上手にすると思っても、失敗することがあります。私たちは知らないのですが、知っていても、失敗することもあります。しかし、私たちは神様に祈れるのです。ヨシュアが、主に太陽、月よ止めてください。私たちは弱いのですが、神様はなさることができるのです。このヨシュアの祈りが普通の祈りではありません。他の見方をすれば、無知な話のように見えるのですが、そうではありません。皆さんが行く道に神様の計画が確実ならば、神様は詰まった道を開かれるでしょう。皆さんが行く道に神様の民だから危機に会うならば、神様は解決されるでしょう。皆さんの中で病気になった人も、神様の力を知っている者が聖霊にあって祈れば、神様は癒されるでしょう。皆さんの会社で、職場で、いる場所で、隠れて他の人に知られず、しばらく祈っても、力の働きは起きます。皆さんが誰にも分からないように、心の底で祈っても働きが起きるのです。太陽、月よ止まれ。これが可能なことなのでしょうか。それなら、私たちが今日、最後に記憶しなければならないことがあります。14節に見と、先にもあとにもない答えです。主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。それでは、これは実際であった事でしょうか。何年か前に私が直接見たのです。ムーディー科学院で証明しました。アメリカの有名なムーディー科学院で、地球についての研究をして、地球が24時間を滞っていたことがあるということが分かりました。初めには、機械の故障だと思ったということです。しかし、本当に24時間が止まっていたのです。科学者がいくら研究をしてみても、これが理解できないのです。そうするうちに、聖書で答えを見つけました。ヒゼキヤ王の時、滞っていたことがあります。ヨシュアの祈りに地球が止まっていたのです。正確に話せば、太陽を止まれということは、言葉はそうであって、地球が止まったということです。正確に話せば、日が昇るという言葉は間違った言葉です。太陽はじっとしているのに、地球が回るということです。それで、地球が24時間止まったことを聖書で答えを捜し出したのです。どのように、こういう事があるのでしょうか。

・私は初めには少し、心がさびしくなりました。'先にもあとにもない'ということは、今後もないという言葉ではないでしょうか。それでは、神様がヨシュアだけにしてくださって、私たちはだめなのでしょうか。先にはなかったと言うべきなのに、先にもあとにもないということです。それでは、私たちは何かと思う言葉です。私たちは、先にもあとにもない(空前絶後)という言葉を使います。これは空前絶後なことだと言います。例えば、先にもあとにもない答えを受けろという言葉は、今から受けられないという言葉です。絶後、あとはないということでしょう。しかし、聖書を詳しく見てください。このような日はと言われています。太陽が止まる、このような日は先にもあとにもない答えで与えられたのです。私たちが祈る時ごとに、地球が止まれば、どうなるでしょうか。私はその時、悟ったのです。そうだ。前の時代に受けた先にもあとにもない答えが別にあって、後の時代に受ける先にあとにもない答えは別にあるのです。これが私たちの信仰です。学生が、本当に教師が福音を持った教師ならば、先にもあとにもない教師になるのです。大統領、軍人、裁判官、医師、このような方々が、本当に福音を持って祝福を受ければ、先にもあとにもない職業人になるのです。事業をする人が正しく福音をもっているならば、先にもあとにもない事業家になるのです。それでは、当然のことです。今、起きている伝道運動が、本当に先にもなくて、これからもない運動です。これが立派だということではなく、当然のことなのです。皆さんの子ども達が、先にもあとにもない答えを受けるようになるということです。皆さん、これを契約でつかまなければなりません。分かった。私は大学に通う間に、最高の答えを受ける人になる。難しくありません。今まで福音を持った教師がいなかったが、私は福音を持った教師になる。今まで福音を正しく知っている大統領がなかったが、私は福音を正しく持った大統領になる。私は神様の祝福を分かる警察、裁判官、医師、軍人になる。どれくらい良い祝福なのでしょうか。先にもあとにもない答え。これが誰に来るのでしょうか。契約のバトン、福音を正しく捕まえた人です。私たちは、特別に努力すればくると思うのですが、そうではありません。皆さんが努力をして、天才になるのではなく、天才は努力するようになるのです。間違った言葉です。努力をして福音を悟るのではなく、福音を悟れば、努力するようになるのです。私たちは正しく知らなければなりません。努力があるから成功するのではなく、成功する人は努力するようになるのです。前のことが先です。私たちはずっと難しいと思います。本当に福音の流れるバトンを捕まえた人は、先にもあとにもない答えを受けるようになっています。私たちは難しいと思います。実力がなければならないと思うのです。もちろん、なければなりません。学生たちを見ると、勉強が難しいと思います。誤解です。福音のバトンを正しく持っている者に、先にもあとにもない答えをくださるのです。

・二番目は何でしょうか。神様の力を体験した者に、神様は先にもあとにもない答えをくださいます。また何でしょうか。カナンの地に入る証人の使命を持った者に神様は先にもあとにもない答えをくださいます。皆さん、この契約を捕まえましょう。今日、皆さんがこの祝福を捕まえなければならないのです。これは、私たちが成功して高慢な人になるということではありません。今からこういう結論を下せば良いのです。私のために、私が祈って、私たちの会社が神様の祝福を受けるようにする。私のために、私がいる職場に神様が祝福をされるだろう。私のために、というより私が祈るため、神様がこの地域を祝福されるだろう。先にもあとにもない答えを受けるようになります。私たちの教会、職業、個人もそうならなければなりません。それで、この契約を正しく捕まえれば、大きい答えを受けるようになります。最後に話します。皆さんは、この祝福を受ける人であることが明らかだから、今からうつわを準備しなければなりません。皆さんが高齢だと思わずに、年齢が高いほど素晴らしくしましょう。神様を変えようとせずに、自分を変えましょう。できれば、年を召した方は、惜しまずに家にある服も一番良いものを選んで着て、そうして教会に来ましょう。母を見たら、私がお小遣をあげたら使えば良いのに、それを集めていて、死んだ後に他の人が持っていってしまったのです。皆さんの中で年を召した人も、素晴らしくしなければなりません。皆さんを誰かが無視するのでしょうか。無視されれば、無視される皆さんが悪いのです。無視されないように、皆さんを変えなければなりません。外形もそうで、内側もそうで、人が素晴らしく変わらなければなりません。そうでなくては、皆さんには祝福がみな来ているのに、皆さんがうつわだけ準備して、入れれば良いのです。いくらおいしい食べ物がそばにあっても、うつわがなければよく食べることができません。いくらおいしい飲み物があっても、コーラのふたのように小さければ、たくさん飲むことができないのです。今は、祝福を受ける人々であることが確実だから、うつわを準備しましょう。信仰が弱い人や新しい信者が教会に来てみて、この教会は素晴らしいというのは、誰を見て言うと思いますか。皆さんを見て素晴らしいと言うのです。また新しく信じる人がきて、皆さんを見て本当に神様を信じた方は良い、このように言います。職場にいる人々が、皆さんが祝福を受けるのを見て、神様を信じたい、こういう気がするのです。皆さんが職場で毎日、失敗すれば、神様が失敗する人のように見えるでしょう。それで、大きい祝福受ける人は、大きい祝福を受けるうつわを準備しましょう。レムナントの若い人々は、少し苦労する覚悟して、大きいうつわを固く準備しましょう。私たちは、どうせ一生を生きていくのだから、教会が教会らしい教会になるように準備をしましょう。なぜか、この祝福を受けることが約束されているからです。私たちが作るのではなく、神様が準備しておかれたのです。わたしが世の終わりまで、あなたがたとともにいます。先にもあとにもない祝福を受ける聖徒になることをイエスの御名でお祈りします。この祝福が皆さんの子どもたちに、そのまま伝えられることを希望します。

<<契約の祈り>>
神様に感謝いたします。先にもあとにもない答えを悟るようにされたことを感謝します。先にもあとにもない教師、先にもあとにもない会社員になるようにさせて下さい。神様が、これまで他の人が見ることができなかったし、またこれからもないほどの重要な祝福をこの方たちにくださると信じます。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン