2007年3月25日インマヌエル教会聖日礼拝メッセージ

<学習洗礼式>
1部/シオンの山のようにゆるぐことなく、とこしえにながらえる
(詩125:1〜5)

・今日、学習、洗礼を受ける方もいます。また、私たちのレムナントをはじめとして多くの方たちが、衛星で、インターネットでみことばを受けています。この頃、ソウル・インマヌエル教会は、席がないほどたくさん復興しています。良いレムナントがたくさん起きて、また青年たちと大学生も起きています。そして、世の中の話でするなら、偉い方たちが、たくさん礼拝をささげに来るようです。私がどのようにすれば信仰生活を良くすることができるのか。私たちは普通、そのように考えます。また、私たちの学習、洗礼を受ける方々が「私がもう信仰生活を良くしなければならない。」と思うでしょう。今日は、そうではなく、それよりさらに重要な話をします。それよりさらに重要な話は何でしょうか。
・大部分の人々が錯覚をしているのです。それで、信仰生活を良くしても効果がなくて、良くすることもできないのです。韓国の教育部長官もして、国会議長もしていた立派な方に会ってみたことがあります。長時間、食事をしながら話をしました。良い人で、知っていることも非常に多い方でした。とても、高級な管理だったのにもかかわらず、気さくで謙虚でした。やはり、この方が経験が多くて、知っていることが多くて、偉い方だなと感じたのです。こういう方と一緒に食事をするということが栄光だという気がしました。ところで、信仰の話が出てきたのです。全く勘違いしていました。その部分だけ、対話にならないほど勘違いしていたのです。今度は、どこから話せば良いかと思ったほどでした。
・そのように、勉強が良くできて、教育部長官もして、立派な方が、国会議員の中で国会議員をした方が、完全に対話にならないほど教会に対して勘違いしていたのです。その状態で教会に通えばどうなるのでしょうか。ですから、信仰生活がうまくいくはずがありません。残念なことです。私が一度は、米国に行って、長老の1人に会いました。この方が、教会で試みにあった話だけずっとしていました。正しい言葉のようでした。ところで、それが問題ではなかったのです。この方が、全く福音に対して知らずにいました。知っているのは、全部、違うように知っていたのです。通常の問題ではありませんでした。どのように上手にしようということではなく、まったく違うように思っていました。
・昔に、私の村のそばに、一軒に息子が三人いました。息子三人が全部、不良でした。そのように暮らしていたのです。ところで、その家のお父さん、お母さんは、本当に礼儀正しかったのです。ある日、過ぎ去って見たら、ござを広げて敷いて聖書を見ていました。ほとんど見る時ごとに、そうでした。教会に通う方ではありませんでした。それで、通り過ぎる息子を捕まえて尋ねてみました。「お父さんを見たら、いつも聖書を見ているようようですよ。」そうしたら、家でいつも見ていると言いました。教会に行くのかと尋ねたら、以前に通っていたということでした。もう通わないのかと聞いたら、通わないで、ただ家で一人で聖書を見ているということでした。
・さらに驚くべき話は「うちのお父さんは長老までしました。」ということでした。そうなのかと思いました。顔を見たら長老らしく見えました。聖書を見ているので、勇気を出して行ってみたのです。あっちこっち話しかけてみたら、予想したとおりでした。全く錯覚をしていました。いくら聖書を見ても無駄なことでした。錯覚をしているからです。子どもたちが質問するのを見れば、ある時は、あまりにとんでもない質問をします。私はある時は、対話する人がないという気がします。それは高慢のようですが、とにかくそうです。ですから、人々が何をこのように錯覚をしているのかと思いました。
・今日の聖書に何と記録されているのでしょうか。シオンの山がゆるぐことがないように1節に説明されています。主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。他の地域で、「牧師先生がメッセージをされる時、私たちの教会は名前を呼んで下さらないので、信徒がさびしいと思います。」と話しました。今、これが衛星で全国で100ヶ所を越えさせているから、私は名前をみな呼べません。そして、事実、インターネットに約5千ヶ所から連結して入ってきています。それで、その名前をみな呼んだら、礼拝をささげられないで終わらせなければなりません。それで呼べないのです。皆さんがみことばをよく聞いて、理解しなければなりません。
・私たちは、錯覚で始めると、がんばっても違っているのです。自分が勘違いしたことを知らなくて、どんどん揺れるようになります。ある人は「あの人はあのように熱心に祈って、訓練をたくさん受けるのになぜああなのか。」と言います。それも錯覚です。その人が信じないで、訓練を受けなければ、さらに問題がくるのです。それは何の話と同じなのでしょうか。「あの人は毎日、酒を飲んでも健康だよ。」という言葉と同じです。飲まなければ、さらに健康なのです。ですから、話にもならない話を度々するのです。信仰生活するの中には、困難がくることもあります。それで、錯覚をするのです。神様がいるのか、神様がいるなら、どうして、このようなことが起きるのかと言います。また、ある人は気落ちをするのです。子どもを何人か育てているのに、夫が突然、病気にかかって死んだら「いったい、神様がいるなら、どうしてこのようになるのか。私の夫がそのように神様をよく信じて信仰生活を良くしていたのに、どうして、こんなことがあるのか。」といって、このように錯覚をするのです。
・私は幼い時、難しいことをたくさん見ました。そして、私たちの父親が早く亡くなって、とても苦労を多くしたのです。今、考えてみると、それが全部、有益です。父が亡くなって、それ自体が有益ということではなく、すばらしく多くの益になりました。信仰生活に大きいことをたくさん得るようにしてもらえました。そして、神様が多くの訓練をさせてくださいました。そのために、私たちは短いことだけ見て錯覚を度々するのです。今日、皆さんがいくつか変えなければならないことがあります。
・最初です。困難がいくらきても、私たちの基準を変えなければなりません。私たちは、度々、私の基準でしようとします。それではありません。皆さんは神様の子どもです。確かに神様が生きておられて、私たちの命を治めておられるので、私たちの基準が神様になければなりません。私が先週、説教をした時、このような話をしました。昔にこの教会で私の上に12坪を借りて、私を招いてくれました。ところで、役員は、朴ウンギュ長老一人の以外おられませんでした。それで、私が招かれて来たのですが、世界で一番小さい教会でした。12坪の教会を見たことがありますか。私が来てみたら、坪数が12坪で、工場の2階のようなところでした。それで、私が来て、「いくら私が小さくても、このように小さい教会があるのですか。」と思ったのでした。青年が少しいて、おもにおばあさんで、役員が何人かいたのでした。ここにきたら、周囲は全部、海産物の商売で、おばさんたちは海女でした。勘違いしやすいのです。そうしたところ、できるかというこういう錯覚するようになります。しかし、違うのです。
・私がその次の週から老会から助けを受けるのはやめて、宣教費を決めなさいと言いました。私たちは、正しく始めるべきで、もらっていて良いのかと言ったのです。全部、役員の顔色を見たら「牧師先生、状態が良くなれば、その時しましょう。」という表情でした。それは、私たちの基準であって、神様の基準はそうではありません。それで、まさにその翌日から私が影島の大きい土地を探して回ったのです。基準は、2000坪以上でした。理由が2つありました。ここを訪ねて来たら、何と言われたかというと、天理教の前でおりなさいということでした。この町の基準が天理教だったのです。この町のすべての文化も中心が天理教でした。見たら、およそ2000坪はあると思えました。それよりは大きくしなければならなかったのです。そして、訓練をする準備をよくしてきたのですが、小さいところでは訓練ができません。おもに、太宗台ホテルを借りて訓練していました。それで、初めから大きい土地を探して回ったのです。その途中、200坪にもならない土地が一つ出てきました。信徒がその上に教会を作ろうと、だだをこねたのですが、私はそれは違うと言いました。その程度の建物は、手洗いを作れば良いでしょう。今、直ちに訓練をさせるべきなのに、苦しくて、内心「この方たちは、あまりにも私を分かっていない」と思いました。今、訓練させて、伝道をすべきで、その小さいところに作って良いかと言ったのです。幸いに、そこには作れなくて、こちらを買うようになりました。今は、ほとんどの土地をみな買いました。どれだけ大きく作ることか、それは神様の御手に任せたのです。どれだけ必要な教会を作ることか、それも神様の処理によります。私たちは、しばしば信仰生活を自分の水準のとおりにしようとするのです。ですから、勘違いするようになるのです。皆さんは救われた神様の子どもなので、神様基準で見なければならないのに、しばしば自分自身の基準で見つめるのです。
・「モーセ、イスラエルの民を率いて出て行きなさい。」モーセが何と言ったでしょうか。「神様、いよいよ時刻表がきましたね。」このようでなければならないのに「私が誰なので行くのですか。」と言いました。言葉は正しい言葉です。逃げ回っているし、年齢もとっているのに、どうしてそこに行けるでしょうか。その話です。「わたしがあなたとともにいる」「それでも、私は言葉もよくできなくて、私がパロ王の前に行けば、殺されてしまって、私は何の力も背景もありません。行くべき人を送って下さい。」モーセは、そのように言いました。「わたしがともにいる。私が力ある御手をあげてエジプトを打って、証拠を見せる。」最後までモーセはできないと言いました。出エジプト記4章を見れば、神様がモーセを連れて行こうとされました。それのためなのかは分かりませんが、モーセがその時から決断を下して働きが起きたのです。
・ここにいる皆さんに1ケ月の間に伝道10人しなければ、みな殺すと言えば、みなするでしょう。それは、使命でなく脅迫なので、神様がされないのです。「今、行って全世界を福音化して献金1千万円ずつ出して、伝道100人ずつしなさい。そうでなければ癌になって死ぬ。」と言えば、全部、がんばるでしょう。モーセが神様の力を信じて出て行ったのですが、何もないのにツエの力が現れ始めたのです。信仰生活で一番重要なのは、基準を私に置いてはいけないということです。それは自分の生活であって信仰生活ではありません。信仰生活は基準を神様に置くことです。私たちは神様の子どもであるためです。私がいないから、神様もないように継続してはいけないのです。
・大邱のハナ教会はよく作られています。作っている時、私が言いました。「神様のみこころだから、大きく作りなさい。そして、できれば空いている土地をみな買いなさい。正しく作りなさい。お金は銀行にあるから、借りれば良い。そのために銀行があるのだ。そして返せば良い。みな返せなければ、主が再臨して来られたら、終わるのだ。」と言いました。それが、社会生活なのに、どのようにするのでしょうか。ですから、若い人々は、そのようにしようというのに、問題は信仰生活を長くしている方々が問題です。信仰生活を長くするほど信仰が小さいのです。ですから、役員が信仰がさらに小さいのです。どんどん怖くなって「しないようにしよう。だいたいでしよう。私たちにお金がどこにあるか、今、これも無理で、この程度ならば良い。」今、見たら、すべての人がみな「その時、買えば良かったのに。」と言っています。私たちは、毎日、過ぎた後に言うのです。基準を私に置いて、いつも後悔するのです。過ぎた後にいつもそうです。無条件にしようというのではなく、神様の計画が確実だから、迷う理由はありません。
・とても分からないから、こういう話をされました。Iコリント1章18節から31節に何とおっしゃったのでしょうか。この世の中の知者が誰か。そう言われました。あまりにも分からないからなさったみことばです。話を上手にする議論家は誰か。力ある者は誰か。神様より力があるのか。神様の最低の知恵と、人の最の知恵と、どちらがより良いか。神様はおろかな者を選んで、知恵ある者を恥ずかしめられたのではないのか。ないものを呼んで、あるものを恥ずかしめられたのではないか。その言葉は、ないのが良いということではなく、私たちの基準を私に置いてはいけないということです。それとともに、力は神様にあると言われます。基準を変えなければなりません。このように錯覚をいつもすれば、信仰生活にならなくなります。いくらがんばっても効果がないのです。皆さんが聖日礼拝を一度だけささげて行っても、正しく知りさえすれば、同じ答えを受けるようになります。今日、私たちの新しい家族がすべて、こういう祝福を受けるようになるように祈ります。
・二番目です。何を勘違いしているのでしょうか。救いに対して勘違いしています。救いをどのように受けたのか勘違いしているのです。シオンの山のようにゆるぐことなく、とこしえにながらえると言われました。どのようにシオンの山が動くのでしょうか。すべての山がエルサレムを囲むように、神様がご自分の民を保護されるのです。3節には、「悪の杖が正しい者の地所の上にとどまることなく、正しい者が不正なことに、手を伸ばさないためである。」と言われています。嘘がいくらきらびやかでも、本当の話に勝つことはできないという話です。これから錯覚を変えなければなりません。皆さんが救われたということは、神様の恵みでうが、この祝福は永遠なのです。
・お金の心配をしなくても良いのです。神様の子どもは、お金がどれくらい必要なのか、神様がみな備えられます。信じないのです。ですから、しばしば「お金、お金、お金」と言うのです。言わなくても良いのです。これは未信者でも言うことです。両親がない乞食が「ご飯、ご飯、ご飯」と言うので、子どもが、なぜそのような話をするでしょうか。6.25朝鮮戦争があった後に、両親が死んで、あき缶を持ってご飯をもらいに通う子ども達がいました。ところで私たちは、両親がいるのに、何をしにご飯をもらいに通うのでしょうか。ご飯をくれと言わなくても、みな整えて起こしてくれます。ひょっとして、忙しくて食べないで行くといえば、呼んで、一口だけでも食べて行けと口に入れてくれるのです。何のために心配するのでしょうか。
・6.25朝鮮戦争で両親を失った孤児が食事の仕度をする時間ぐらいなると、ご飯をもらいにあき缶を持って来ました。うちの母が哀れだとご飯を与えれば、この子はご飯を食べませんでした。とても想像以上にはやくもらええたと考えるのか、ご飯を食べないでポケットに入れたのです。どれくらい研究をしたのか、あらかじめご飯をもらったら、ポケットに入れるために、ビニールを作っていました。もらったことをを食べないで、違ったところにもらいに行きました。それを見ながら「朝も食べなかったのに、すでにお昼の心配をするんだな。」と思いました。私は、ただの一度も「ひょっとして、うちのお母さんが腹が立ってお昼をくれないなら、どうしよう。」と心配したことはありません。皆さんはそのような心配をしなくてもかまわないのです。
・教会堂をどれだけ大きく作らなければならないのか、そのような心配をしなくても良いのです。私たちが必要なら、神様はその時、その時、答えてくださる神様です。私たちの救いがシオンの山の動かないと同じです。エルサレムの町が揺れないのと同じです。悪人が義人に勝つことはできません。福音を勘違いするから、祈りも勘違いして、伝道も勘違いするのです。そうしたら、何に錯覚をするのでしょうか。礼拝にも錯覚をします。礼拝は、使徒の働き2章を見ると、重要な力5つを得る時間が礼拝です。教会は何でしょうか。アンテオケ教会のように、世界を生かせる奥義を持ったところが教会です。実際的にローマ16章の人物が、世界を生かしたでしょう。私たちの基準を変えて、救いに対する錯覚を変えましょう。
・三番目です。私たちが世の中に出て行った時です。特にレムナントたちです。皆さんが世の中に出て行くから錯覚をするのです。柳先生の説教を聞いてみたら、私たちは21世紀主役で、レムナントだとすごかったのに、出てみたら違う。世の中に多くの知識、良いものなど多いのですが、それを見てうろたえるのです。また世の中に起きる多いことまず見て揺れます。ある学生たちは崩れたりもします。錯覚です。少しだけしっかりして待っていれば、いくらでも答えがきます。本来、基準も錯覚をして、救いも錯覚をして、世の中に出て行っても錯覚をするのです。だれかが皆さんを迫害すれば「この人は私を見ている。」と思わなければなりません。未信者の家族でも、そのような人々が皆さんに何かと言いながら、みな見ているのです。ところで、勘違いしてはいけないのです。大部分が勘違いして揺れて崩れるのです。シオンの山がゆるがないように、あなた方は崩れないから心配してはならない。それで、今日、そのような心配をみな捨てなければならないのです。
・Iペテロ7章8節に「あなたがたの思いわずらいを主に任せなさい。」と言われました。なぜ主に任せるのでしょうか。神様の子どもであるためです。ここに座っておられる方々は、少しだけ祈れば良いのです。心配しないということでなく、心配を主に任せなさいと言われました。ピリピ4章6節には「何も思いわずらわないで、感謝をもってささげる祈りと願いで神様に申し上げなさい。」さらに重要なのは、Iペテロ5章8節に「あなたがたの敵である悪魔がほえたける獅子のように食い尽くすべき者を探している。」告げられています。ピリピ4章7節「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
・皆さんに極限状況がきていますか。「私は死ぬようになったんだなあ。」これは錯覚を起こします。それでは、うろたえて、その時から誤った選択をするようになるのです。その時から自らうろたえます。だれかが話さなくても、自ら揺れるのです。ですから、崩れること以外にもっとあるでしょうか。神様の子どもだから、神様が立て起こされるけれど、いつも損害をこうむります。私たちが問題がきた時「私は神様の子どもだ。神様の計画は何か。」少しだけ見回していれば良いのですが、揺れるのです。それで、ずっと世の中に出て行っても勘違いして、救いが何かも知らずに勘違いして、私たちの基準も勘違いして変わるのです。すべてのレムナント、神様の子ども達、この3つが確かでなければなりません。うまく進まないと思う、これを変えなければならないのです。皆さんは確かに力はないのですが、神様は力でともにおられます。それで、基準を変えなければならないのです。救いとは何でしょうか。救われた皆さんが行く所ごとに聖霊がともにおられるのです。聖書66巻を見ると、重要な時ごとに神様がともにされる所ごとに、主の天使を送って、すべての答えの門をあけられると言われました。皆さんが行く所ごとに暗闇の勢力が崩れるようになっています。
・私が錯覚をしたのです。私の息子が生まれたのですが、私が年をちょっととっていました。突然に軍隊の令状が出てきたのです。それも、余裕があるように出なくて、何日前に来たのです。これが何なのかと見ていたら、軍人の先輩が話しました。苦労するようになったということでした。何かと尋ねたところ、朴正煕大統領が防衛兵を現役化させることを指示したということでした。それで、1年中ずっと訓練だけ受けるようにするのでした。現役軍人もそんなことはありません。現役が1年中ずっと訓練を受けるでしょうか。銃を持って、1年中、ずっと訓練を受けるそこに行きました。行って当惑しました。私には、みな狼狽すること以外ありませんでした。銃を渡されたのですが、米国産のM1を渡されたので、とても大きかったのです。米国人用でした。他の人はわかりませんが、私は身長が標準なので、銃があまりにも大きかったのです。
・軍隊は変です。人を当惑させます。小さい人から前に立たなければならないのに、大きい人から前に立つのです。他の軍隊は知らないのですが、私が行ったところはそうでした。大きい人が前にいて、小さいほど後ろにいました。それでは、私がどのあたりにいたでしょう。これで完全に私を殴って、悪口を言われました。およそ何日間か、気が動転しました。「私が今、どのようにしなければならないのか。」その時、錯覚をします。それで私が気をしっかりとしたのです。「私は伝道師ではないのか。私は伝道者ではないか。私がここで祈って、福音を伝えるチャンスで、福音を伝えれば良いので、私がなぜこうするのか」このように決心したのですが、直ちに答えがきました。
・その寒い冬にアスファルトがあるところで修練をしていたら、放送が流れました。私の名前を呼ばれたのです。訓練をさせる人が行ってみろと言いました。行政班だと言われたのですが、そちらに行ってみました。私の学歴を続けて見て、こちらで勤めなさいと言われたのです。入ったら、寒くもなく、暑くもない良い建物に行きました。その建物の中では、みな私より高い人しかいませんでした。年齢はそれほど上ではなかったのですが、みな先輩でした。一人ずつ一人ずつ福音を伝え始めたのです。全部、みなイエスを信じたのではなかったのですが、教会に来る人が大部分でした。少しだけ契約を捕まえれば良いのです。
・ところで、中尉一人がニックネームが大馬鹿というのでしたが、無条件に殴る人でした。そのまま話せば良いのに、話して殴って蹴って、それが習慣でした。この人が私を呼んだのです。神様を信じるのかと尋ねました。返事をして言ったのが「神様は、私たちの命を治める神様です。」「そうか。それでは、聖書をちょっと教えてみなさい。」と言われました。それで聖書を教えたのです。中尉が告白しました。娘1人がいたが娘を連れて休暇の時、田舎に連れていったが、熱い釜に落ちて死んだということでした。私はそれも知らずに「命を治める神様です。」と言ったのでした。ところで、この方が涙も流して聖書も読むのに、イエスを受け入れ祈ろうと言うとしませんでした。その時から、他の人はみな殴っても、私は殴りませんでした。私を助けてくれました。
・夏の聖書学校の時でした。軍人なので夏の聖書学校に行くこともできなかったのです。隊長に、直接、訪ねて行ったところ、隊長が昔に教会に通ってやめた人でした。この人に私が福音を伝えたのです。隊長が卒兵の前で、イエスを受け入れました。時間があると、私を呼びました。隊長室に呼んで話して、私がパンフレットを持ってくれば渡して、二人が友人になったのです。その部隊生活をしていた時、私のニックネームはスターでした。隊長と遊ぶからでした。私たちがうろたえていないで、少しだけ祈っても答えの門が開かれます。私たちは、世の中に出てきて無条件に揺れて勘違いします。祈りの課題が変わりました。神様が軍人に福音を伝えることができる道を開いてくださいと祈ったのです。ところで、ある日、また変なことが行われたのです。神様は答えを本当に不思議になさいます。
・陸軍本部から何か言われたのです。この頃軍人の精神がとてもゆるんでいるということでした。食べながら歩く者もいるので、道端で何か食べる者、ガムをかむ者は、つかまえて閉じこめろと言われたのです。そして、水曜日には訓練せずに、運動場に集めて精神教育をさせろということでした。それが数ヶ月間、続くのでした。ところで、軍人を集めて訓練させる内容がなかったのです。前に立った人が話す言葉がないから「君たち中で話すことがある奴は出てこい。」と言ったのです。だれが、その時出て行くでしょうか。みな静かに座っていました。高神側の牧師ですが、金テリョン牧師という人と一緒に訓練を受けていたのですが「柳さん、出てみて下さい。」と言ったのです。それで私がなぜ出て行くのかと言いました。この人が、度々出て行きなさい告げたのです。出て行かないと言ったのですが、前で私を見ていて、出てこいと言いました。
・突然、出て行ったのですが、何も言うことがありませんでした。出てきながら考えたのです。私が一番後にいたから、出て行くのに時間がたくさんかかりました。出て行きながら研究したのです。私がひとまず太平洋戦争のことを話しました。数千人がネズミが死んだように静かでした。それと共に、私が静かに福音に対する話をして、終わらせました。終わって帰る時、大騷ぎが起こりました。数千人が驚いて拍手したのです。私が行くと、自分たちどうし話し上手だとほめました。私が席に帰ったら「あの人は防衛をさせておくのは惜しい。」と言っていました。このようだったのですが、これを水曜日ごとに出てきてしなさいと言われたのです。完全、教会ではないでしょうか。そのように除隊して出てきました。
・人は、少しだけしっかりしてもかまわないのに、私たちは神様の子どもなのに、しきりにうろたえて揺れるのです。一度は、軍隊でこの前に星が四つあれば、どれくらい偉い人でしょうか。私が牧師になって集会に行ったところ、1軍司令部の司令官が私の家にきて礼拝をしてくださいと言われたのです。行きながら良心に引っかかりました。「私は軍隊をよく知らずに、将軍でもなのに、防衛兵がどのように星四つの人にメッセージを伝えることができようか。」そのような気がしたのです。星四つは、どれほどすごいでしょうか。しかし、行きながら考えたのです。「私が何か軍隊の話をしに行くのか、神様みことばを伝えに行くのであって。防衛だから、できないことがあるだろうか。ダビデがゴリヤテを倒した時は、民防衛だった。民防衛よりは良くないだろうか。」それで、自信をもって福音を伝えたのです。私たちが世の中で恐れをなすことが何があるのでしょうか。私の話をすることでもなくて、神様のみことばを伝えるのです。
・私たちはしばしば勘違いします。錯覚をしてはいけないのです。何も私に能力がなくても、聖霊が働かれれば、できない事はありません。皆さんが本当に神様の前に錯覚を変えて、一ケ月だけ祈ってみましょう。いや何日かだけでも祈ってみましょう。一度だけ祈っても答えられます。最後の錯覚がまたあるのです。5節を見ると「しかし、主は、曲がった道にそれる者どもを不法を行なう者どもとともに、連れ去られよう。イスラエルの上に平和があるように。」と言われました。これが何の話なのでしょうか。「ように」という言葉は、祝福する言葉です。福と祝福は違った言葉です。福があるように祈るのが祝福です。皆さんが礼拝する時、神様の子どもに神様が「あなたに平安があるように」その代わりをして、牧師が祝祷するのです。申命記21章5節を見れば「牧師には、礼拝権、判決権、祝福権」があります。
・Iペテロ2章9節を見ると、皆さんにも同じ祝福権があります。「あなたは王のような祭司です。この光を宣べ伝えるために呼ばれた。」それで、皆さんが教会の中で互いに祝福して話す時、祝福することが重要です。そのような権限があるのに、人々が知らずにいるのです。皆さんが祈る時、答えを受けられる権限があって、人々に祝福できる権限があるのです。人々はよく知らずにいます。皆さんが病気のところがあれば、医師の助けも受けるのですが、イエスの御名で祈ってみましょう。皆さんの問題を捕まえて、イエスの御名で祈ってみましょう。答えを受ける資格があります。この祝福を今日、全て回復するようになることをイエスの御名によってお祈りします。
<<契約の祈り>>
神様に感謝します。今日、私たちに本当に正しい考えが回復する時間になるようにさせて下さい。私たち自身の弱さを見て不信仰する錯覚を捨てるようにさせて下さい。神様の子どもになった祝福がどれくらい大きいことかを知らない錯覚を変えるようにさせて下さい。私たちが世の中に出て行った時、また勘違いする私たちに信仰を与えて下さい。今日、神様の祝福を受ける日で、お互いを祝福する日になるようにさせて下さい。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン



2部/この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々
(ヨハネ1:1〜12)

・イエスを信じる者には、答えがなければなりません。皆さんに問題があれば、解決されなければなりません。とても重要な答えを得なければならず、証拠がなければならないのです。私たちが救われたとすれば、確かにインマヌエルの祝福があるでしょう。本当に救われたとすればということです。それで、聖書にアブラハムをはじめとして、簡単にレムナント7人が見ても、インマヌエルの証拠で勝ったのです。主がヨセフと共におられました。主がダビデと共におられたのです。主がサムエルの言葉を一言も地に落ちないようにされました。だから、答えの中の最高の答えがインマヌエルです。それでは、インマヌエルの方法が何でしょうか。神様が私たちとともにおられる方法が何なのでしょうか。
・それを聖書で話をしたのですが、旧約ではメシヤ、新約ではキリストです。皆さんの中で神様を見て信じるようになったということは全部、嘘です。それをサタンが利用するのです。神様に会える方法はないと言われました。ところで、山で見たというのは話になりません。聖書では会える方法はないと言われたのに、寝ていて会ったと言います。聖書ではないとなっています。神様は、見ることもできなくて、会うこともできないのです。それでわたしは道であり、真理であり、いのちですと言われたのです。わたしを通してでなくても、だれ一人父のみもとに来ることはありませんと言われたのです。
・神秘主義は、キリストがなしで神様に会うので危険です。寝ていて会ったり、福音なしで会えば、危険です。そんなことは本人がはやく悟らなければなりません。そのような人々は、最後まで問題を起こします。本人にも問題がくるのです。答えをたくさん受けても、問題がきます。答えは僧侶も受けます。答えはムダン(霊媒師)も受けるのです。だが問題は、福音なのかどうかということです。それで、旧約と新約で、方法はないので、神様がキリストを送られたと言われました。受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には神様の子どもになる特権が与えられたと言われました。答えられるでしょう。今日の午後に、皆さんが本当に答えを受け、解決を見ることを希望します。
・ある人は、受け入れをしたと言いながら、道を通いながら主イエス・キリストと言います。自分はまったく変わらず、自分勝手にしながら主イエス・キリストと騒いでも、それは全く、受け入れではありません。パウロのように私は死んでキリストが私の中におられなければなりません。イエス様を救い主として受け入れる時、その時から皆さんの問題が解決され始めるのです。必ず記憶をしなければなりません。言わば、キリストを正しく教えて、正しく受け入れをすれば、その人に正しくみわざが起きるのです。違うように教えて受け入れをしてしまえば問題になります。この部分が一番重要です。イエス様を偽りで受け入れた人が多いのです。精神異常に受け入れをして、自殺もします。こういう場合が多いのです。それは受け入れをしたとは言えません。本人の問題ですが、分からないのです。
・これは、まるでベルを押せば無条件に水を開いてあげるようなことです。もし強盗が入ってくればどのようにするのでしょうか。もしベルを押したのに、悪い人が入ってくれば、どのようにするのでしょうか。それと同じことです。ベルを押せば、誰がきたのか見なければなりません。お父さんがきたのか、誰がきたのか確認をしなければならないのです。知らない人が来たら、誰なのか、どこから来たのかを尋ねて、話をよくできなければ、管理室におかしな人がきたと連絡をすれば良いのです。ところで、ベルの音が聞こえたからと、無条件にドアをあけるように、このような形で受け入れをする人がいます。眠りからさめて、よく聞かなければなりません。
・私たちのタラッパンメンバーが、受け入れという単語を一番多く使うから、よくわからなければならないのです。最初に強く使った団体がCCCだったのですが、キリストをよく知らずに受け入れた人々が多いのです。それでは救われるでしょうか。それは本当に行ってから確認できることであって、よく分かりません。しかし、明らかなのは、働きは起きないのです。羊の血を塗れば、エジプトから出ます。本当に塗ったのか、無理に塗ったのか、にせ物で塗ったのかは分かりません。ある人は、門にたくさん塗って、ある人は面倒だから、少しだけ塗ったでしょう。こういう人々がいたでしょう。それでも一応、出てきました。それで救いは恵みで受けるから、少しだけ信じても救われるのです。
・問題は、これを知って正しい人は荒野で勝利を継続しました。あらまし知って塗った人は、行く時、いつも問題が生じたのです。お腹がすいてから行けないと言って、紅海の前では死ぬようになったと言って、エジプトに帰ろうと言いました。その話は、出てくることは出てきたのに、知らずに出てきたということです。塗ることは塗ったのですが、あらまし知って塗ったのです。これが問題です。それで、皆さんが今日の午後に本当に祈りの答えを受けてみましょう。簡単です。それで、ローマ10:9-10に、心で信じて義と認められると言われました。そうすれば、救われたのです。受け入れる時、口で告白して救われると言われました。その言葉は、口で認めているのに、本当に答えが起きるということです。
・それでローマ10:13に、誰でも主の名を呼ぶ者は救われると言われました。Iコリント12:3には、誰でも聖霊でなければキリストを主と認められないと言われました。皆さんの中でイエス・キリストが救い主だと認められるのは、聖霊の働きでなければならないということです。いくら勉強をよくしても良いのではないのです。いくら無知だといっても良いのではありません。聖霊によって感動をしてこそ、イエス・キリストが預言された救い主であるということが理解できるのです。それで、今日、皆さんが正しく、どのように祈りの答えを受けて、救われた事実を知ることができるのでしょうか。そのような意味で、今日、受け入れを理解しなければならず、受け入れを正しく認めなければならないのです。
・最初です。理由を分からなければなりません。なぜ受け入れた人々、その名を信じた人々は神様の特権を与えられると言われたのでしょうか。ヨハネ1:1-11に、簡単に一言で光として来られたとなっています。暗闇に明かりをつけてこそ、暗やみが出て行くので、光をつけなければ絶対に出て行きません。霊的にも同じです。皆さんがイエス様を誰か分かった時、救い主として受け入れることだけすれば、ものすごいことが行われるのです。そうすれば、暗闇が離れてしまいます。ところで、たとえを使っただけであって、光はこういう光ではなくて、創世記1:3のいのちの光です。今日、皆さんが知って本当に受け入れをすれば、そんなことがすぐに起きます。それで、イエス様が人々がわたしを誰と言うのかと尋ねられたのです。エリヤ、預言者、バプテスマのヨハネ、エレミヤのようだと言いました。
・「あながたがは、わたしを誰だと言うのですか」すると「あなたは生ける神の御子キリストです」と言いました。皆さんが間違えていれば、受け入れをしてもみわざが起きません。イエス様をバプテスマのヨハネや、エレミヤのように知っていると言いました。それでは違うように知っているのです。ところで「あなたがたは、わたしのことをだれだと言いますか」「あなたは生ける神の御子キリストです」この言葉は何なのでしょうか。創世記3章の事件が皆さんの家にそのまま入ります。受け入れをしてしまってこそ勝つのです。それでは、本当に受け入れをしなければなりません。それでは正しいものを受け入れなければなりません。皆さんがここでよく考えなければならないのです。
・この前、教会の入口で私たちの教会の執事とタクシー運転手がけんかをしていました。タクシー運転手は、時間になったので、はやく降りてくださいと言ったのですが、執事は降りないと言うので、運転手が怒ったのです。なぜそうなのかと聞いたところ、運転手に福音を伝えたのでした。「受け入れなさい。」「しない。」「あなたは受け入れをしなければ死ぬ。」「それでもしない。」このようにけんかをしていたのでした。このようになれば、二人とも間違っているのです。運転手が受け入れをしないということは、根本的に間違っていることで、執事はこれを知らないのです。タクシー運転手がイエス様が誰なのかも知らないのに、受け入れをしろと言ったのです。まだ信じられないのに、受け入れをしろと言ったのです。これが誤って悟ったことです。それで受け入れをして良いのでしょうか。そうではありません。
・ソウルで私が「ピョクチェ」という所に運動をしようとタクシーに乗って「ピョクチェに行ってください」と言いました。ところで、このタクシー運転手がおかしな話をしたのです。「なぜ人々がこの時間にピョクチェに行こうと言うのですか」それで何の話なのか尋ねたのです。すると、この頃、自分が変だと言いました。それで、なぜそうなのか尋ねたところ、自分がピョクチェのほうにタクシーに乗って行くのに、雨が降ったということでした。ところで、ある女が雨が降るのに立っていたということでした。それでタクシーを止めようとしたのですが、とても怖くて止められなかったそうです。ところが、たった今、前にいたのに、後にいたということでした。その時から自分が驚いて、運転が出来ないということでした。それで、その人がピョクチェに行こうと言ったのですが、どうしてあなたはピョクチェに行くのかと言ったのです。それで、あなたは本当に大変なことになったと言ったところ、大変だと言いました。その時からご飯の味が良くないということでした。これを悪霊につかれたと言うのです。
・それで私がまさにあなたが悪霊につかれたと言ったのです。だからその人もそうだと言いました。その女を見て、今、瞬間までご飯の味が良くないと言いました。ところで、タクシー運転をしなければならないから、出てきたが、ピョクチェという言葉だけ聞けば、震えると言いました。それでタクシーを止めてくださいと言いました。するとタクシー運転手がタクシーを止めたのです。私が説明をしました。イエス様がなぜ来られて、なぜ信じるべきか。説明をみなしたら、その人が信じたいと言いました。その程度ではなくて、初めて会ったのに、この人が信者のように私が今日先生に会ったことは途方もない祝福だと言いました。
・「これは祝福ではなくて、神様の導きです。あなたは本当によく悟った」その時、私が主がキリストということを説明をして、受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には神様の子どもになる特権が与えられたということを説明したのです。心で信じて義と認められ、口で告白して、救われるのです。誰でも主の名を呼ぶ者は救われます。これが皆さんにはどのように聞こえるかわかりませんが、その人には、まさにささる言葉だったのです。誰でも聖霊ではなくては、キリストを主と認めることはできません。イエスを信じるのかと尋ねたら、信じると言いました。それでは祈りでイエス様を受け入れできると言ったのです。正確に説明をすべきです。「あなたは祈りをするとは思わないから、私が祈りを助けてあげられる。私が受け入れをさせるのではなくて、私がする祈りを同じようにすれば、あなたがそれが信じられれば同じ祈りになるのです。」それで、するのかと尋ねたところ、すると言いました。
・それで、イエス様を受け入れる祈りをしたのです。ところで、この人が涙を流しながら、先生、私がイエス様を受け入れる瞬間に何かが抜け出たようです。涙は出るのに、とてもうれしいと言いました。これはこの人だけ知って、私だけ分かる奥義です。この人に聖霊が働いたのです。それで、私が牧師だということを話しました。そして私が読むものをあげました。そして近い教会に行きなさいと言ったのです。その人は教会に行かないでくれとしても行くでしょう。こういう場合があります。
・それで、キリストを受け入れる瞬間、創世記3章の事件が皆さんに、なくなってしまうのです。永遠になくなってしまうのです。皆さんの中にキリストが持ち主となるから、永遠になくなるのです。そして、今は皆さんが受けなければならない呪い、事件が、マルコ10:45節のように、完全になくなります。それで、Iヨハネ3:8に悪魔のしわざを滅ぼしたので、目に見えなくみな崩れてしまうのです。それで三位一体ということは、イエス様を受け入れたのが、すなわち神様を受け入れたことなのです。すると、イエス様を受け入れれば、イエス様が私の中にいるということかと尋ねる人々がいます。頭が良い小さい子どもたちは、イエス様を受け入れれば、イエス様が服をみな捨てるのかと尋ねるのですが、重要な質問をしたのです。それで、聖霊で働かれるということです。それで神様が共におられるのです。途方もない奥義です。
・この頃の子どもたちは賢いのです。この頃の子どもたちは質問もして、イエス様を受け入れればイエス様がどこにおられるのかも尋ねます。それがよく信じることです。子どもたちは賢いのです。それで、聖霊で働かれるのです。それを三位一体と言います。この頃の子どもたちは確かに賢いのです。皆さんは昔に無条件に信じると言ったのですが、この頃の子どもたちは、聞いてみて問い詰めて信じます。韓国の人々は、無条件ですが、日本の人々は問い詰めるのですが、信じてみればよく信じます。そして、頭も私たちよりはるかに回転がはやいのです。
・私の孫の顔には、小さいほくろがありました。それで、はやく取らなければ、どんどん大きくなるので、はやく取りなさいと言いました。小さい時に取らなければなりません。ところが、痛いからしないと言いました。それで、少し薬を塗れば一つも痛くないと言いました。そうでなければ、どんどん大きくなると言ったのです。すると、どんどん大きくなれば黒人になると冗談を言いました。これくらい頭の回転がはやいのです。それでは、どんどん大きくなれば黒人になるのです。これくらい子どもたちは、頭の回転がはやいのです。だから、説明をすれば子どもたちがわかります。それで、受け入れの意味を分からなければなりません。キリストが聖霊で皆さんの中にいらっしゃるから、皆さんの身分が変わってしまうのです。それで、運命と暗闇の勢力は皆さんを触れることができません。私が本当にイエスを信じるのかどうかだけ確実なれば簡単になります。
・「牧師先生、霊的な問題が...」本当にイエス様を信じれば解決されます。ところで、普通、本当にイエスを信じるのではありません。ここに今、男の方、事業する方々、医師の方々、教授がいます。信仰生活をがんばるのが問題ではありません。皆さんが一週間に一度、教会を出て来ても何の問題もありません。だから、キリストを正しく知らなければならないのです。正しく知って、受け入れをすることがとても重要です。そうすれば、本当に解決します。なぜなら、キリストが私の中に聖霊で来られるから、身分が変わるのです。子どもになる特権を与えられたのです。うつわは、何が入っているかによって違います。水を入れれば、水のうつわになって、油を入れれば油のうつわになります。それで何が入るのかにしたがって、身分が変わるのです。聖霊が皆さんの中にいらっしゃるから、皆さんの身分が変わってしまったのです。そして、完全に神様の子どもとなります。
・受け入れというのは、何の話なのでしょうか。皆さんの価値が変わってしまったのです。ところで、身分でも価値がない身分はだめなのですが、価値がある身分に変わってしまいました。Iコリント3:11に、あなたがたが神様の神殿であることと神様の聖霊があなたがたの中に留まっておられるうことをあなたがは知らないのですかと言われました。中に価値がないものがあるのではなく、神様の聖霊がおられるから、最も価値があるのです。受け入れる瞬間に権威ができるのです。なぜなら、神様が聖霊で中にいらっしゃるから、ものすごい権威が生じるのです。他の人が祈る時、事実、皆さんは祈らなくても、皆さんが行く所ごとに暗闇の勢力は逃げるようになっています。それで一番初めに呼ぶやいなや、マルコ3:15に悪霊を追い出す権威を与えたと言われたのです。
・マルコ16:15-20最後にも「わたしの名によって」と言われました。皆さんが受け入れをしたということは、背景が完全に変わったということです。皆さんの中にピリピ3:20に、2つ皆さんが天に所属になってしまったのです。皆さんがたとえこの土地に住んでいるのですが、皆さんを天国でコントロールをされています。皆さんは本当に救われたとすれば、皆さんが行く所ごとに送ってくださいと言わなくても、主の天使が派遣されるのです。私たちの牧師と私が本当に福音を持っていれば、行く所ごとに天使が派遣されます。いくら立派でも、間違った福音を持っていればみわざが起きません。後ほどどうなるのでしょうか。私たちが死ねば、天国で永遠に味わうようになるのです。驚くことです。これが私たちの背景です。
・米国籍のある人ならば、米国籍のある人が行く所ごとに米国がみな責任を負います。一度は、笑わせられることがありました。フィリピンに行ったのですが、私は前にいて、秘書は後にいました。酒に少し酔っぱらったやくざがいました。このやくざが、飛行機の中で尹ドンチョル牧師に文句を言ったのです。それで、このやくざが不良に見えたのですが、尹ドンチョル牧師が警察に自分は米国籍がある者だと言って、このやくざが自分にした事を話をしたのです。この話をしたら、警察が直ちにそのやくざを捕まえたのです。後ほどにはそのやくざがひざまずいてあやまったのです。それであやまったので、次にはそのようにしないと言ったので、ゆるしてあげました。
・ずいぶん昔のことですが、グアムで飛行機が爆発をしました。ところで、そこに米国の人々が本部を設置したのです。その飛行機の中に米国籍のある人が乗っていたので、設置をしたのでした。これくらい重要なのです。米国の人々は、自分の国籍のある人が乗っていれば、最後まで責任を負います。理由があります。なぜなら背景であるためです。昔、韓国でパク・セリ選手が初めてゴルフをして優勝をしました。私は眠る時間に夜明けまで中継を見たのですが、パク・セリ選手がいる所は優勝するまであまり映しませんでした。ところが、最後にパク・セリ選手とライバルになった選手は特に姿を全部見せてくれました。両親が笑っているところまで全部見せてくれたのです。理由があります。パク・セリは韓国の人で、相手の人は米国人であるためでした。米国の人が中継をするから、米国に合わせてするためです。当然の話です。
・皆さんの背景は天国です。本当にイエスを信じれば終わります。本当にイエスを信じて受け入れをすれば、終わるのです。それで、皆さんが本当に動機を捨てれば、みわざが起きます。今日、よくわからなければなりません。ひょっとして、皆さんが誤ったことを持っていれば、はやく直さなければなりません。皆さんがイエスを信じるようになるのに、一番初めにどのように信じるようになったのか、それが重要です。一番初めに神秘主義に会って信じた人は、それを最後まで捨てません。言わばエリヤです。一番初めに信じた時、救済運動のように始めた人もいるのですが、エレミヤ思想です。こういうものは絶対に直せません。この話は救済をするなということではありません。救済は右手がすることを左手が知らず当然するのです。ところで、それが思想になれば、キリスト教の本質ではありません。
・ただあなたはキリストです。生きておられる神様の息子です。人生の問題を解決できない問題があるならば、その解決者だということです。ここに多くの人々が勉強をしにくるのではなく、重要なのを分かるから来るのです。その事実を知って受け入れる人は身分が変わってしまいます。価値がないことではなくて、最も価値ある身分に変わってしまいます。誰がいるのかどうかにしたがって、権威が変わってしまうのです。
・今でもアミ洞に行けば、みずぼらしい家があるのですが、6.25(朝鮮戦争)の時、李承晩大統領がいたと今でも補完をしてあります。同じ家に誰がいたのか、そんなに重要です。鎮海に海軍部隊に行ってみると、李承晩大統領が住んでいた家がありました。その中に入ってみました。李承晩大統領が使った物がそのままありました。私はびっくりしました。その当時のタンスがあったのですが、今現在のタンスと比べて見れば、一番悪いタンスのようだというほど昔のものでした。ところが、そちらを誰でも入れないように保管をしてありました。なぜそうでしょうか。大統領がいた家であったため、記念に置いたのです。
・皆さんの中に神様がおられて、聖霊がおられるということは、ものすごい権威に変わってしまったのです。それで皆さんの背景が神様の国です。信じるようにイエス様の御名でお祈りします。本当です。本当に私が福音を正しく知っていることが本当に重要です。それで受け入れをすれば、本当にみわざが起きます。それで、皆さんがこの部分が本当に重要なのです。さらに重要なことは何でしょうか。受け入れはものすごいことが保障になります。エペソ2:1に罪と罪過で死んだあなたがたを生かされたと言われています。私達が知こともできない原罪、私達が知ることもできない先祖が犯した偶像崇拝の罪、私達が知ることもできない家系の霊的な問題、私が過ぎた日に知らずに犯した多くの罪、自分が犯した罪。これが皆さんを飲み込めないように、完全に答えを与えられたのです。完全に保障をしてしまったのです。これはなぜ赦されたのでしょうか。解決しないためです。これは解決しないから赦されたのです。
・二番目です。何が保障されたのでしょうか。エペソ2:2今現在、空中の権威を持つ者から完全に解放されました。エペソ2:6地獄に行くしかない人間を完全に解放されました。これを過去、現在、未来が完全に解決されてしまったことを言います。皆さんが本当に聖書に約束されたイエス・キリストを知って、信じて受け入れをしたとすれば、永遠に解決するのです。皆さんがこれだけ確認できれば、じっとしていても伝道がなります。皆さんが未信者と競争をしなくても成功します。なぜなら、聖霊の働きに勝つことはできないからです。こういう人に実際的な証拠が起きるのです。とても重要です。皆さんにこういう実際的な証拠が起きるようになっています。
・私は、こういう証拠を初めて接してみて驚いたのです。ある患者に行って福音を伝えました。私は本来、病気を直すようなことはよくできないから、そのまま福音だけを伝えたのです。伝えたのですが、その子は病院ではだめだと言われていたのです。それで、横になっていたので行って福音だけを伝えてきたのです。私はその子が癒されることは考えもしなかったのです。なぜなら、目も開くことができず、私を見つめないでいたのに、どのように生きることができるでしょうか。そのまま福音だけ伝えたのでした。福音だけ伝えてきたのですが、その日の夜に奇跡が起きたのです。聖書に信じなければならないと言われていたのですが、私は信じていませんでした。福音を正しく悟ってしまえば、信じないでもかまいません。福音を違うように捕まえて信じるといえば変なのです。福音も知らないながら、家にも帰らずに祈りをするのは違っているのです。福音でもないのに、断食をすれば、お腹が悪口を言います。
・福音もよく知らずに徹夜をすれば子どもたち、夫が悪口を言うのです。福音もよく知らないのに、夜中祈りをするのに、仕事もできなければ、職場から追い出されます。そうしておいて、主よ、迫害されますと言うのですが、それではありません。明らかです。本当に福音にあって受け入れをすれば、今日、皆さんはみわざが起きます。私は病気がよくなれと言うこともしなかったのに、病気が良くなった人をたくさん見ました。そして、私は実際に悪霊につかれた人を直すつもりもなかったのですが、解決したのです。とても多いのです。それで、霊的な問題がイエス様を受け入れて解決しました。
・私は悪霊がいる、いない、見たことはなく、聞いたこともありません。私は悪霊につかれた子どもを見たのですが、「これが悪霊につかれたことだな。」と感じたのです。完全に想像を越えています。ところで、その子がイエス様を受け入れたのですが、良くなってしまったのです。驚くことです。そして、ある人は、家にずっと災いが押し寄せてきていました。イエス様を受け入れたら、終わってしまったのです。皆さんが夫を見れば、夫が救われなかったり、夫に霊的な問題があるでしょう。皆さんがイエスを受け入れたことで、信じていてこそ、その災いに陥らないのです。女も、妻も変なことがあります。皆さんが本当に福音を知って、受け入れをしてこそ解決になるのです。今日、皆さんに驚くことが起きるようになるように願います。
・それで、祈りは3つの祈りがあると先週に話しました。何かをくれと言う必要がありません。神様を味わうこと自体、身分的祈りです。皆さんにお金が必要なのでしょうか。神様が知っておられます。そして、教会をどのように作るのか神様が知っておられます。天の計画は完成されているのです。始めればみわざが起きるのです。そのような祈りはしなくても済むのです。身分的祈りです。権威的祈りです。皆さんが定刻祈りの時間を定めておいて、皆さんの家系、職場にあるすべての暗闇の勢力がイエス様の御名で崩れるように。世界福音化をどのようにするのでしょうか。契約的祈りです。この3つを持てば良いのです。これを私がするので、所々でみわざが起きたのですが、問題が生じたのです。
・韓国教会牧師がイエスを信じる人を呼んで受け入れさせても良いのか、それで柳光洙牧師は再受け入れをしろと言う、それで異端だと問題と言う人もいます。それでその人に返事をします。それは質問も間違っていることで、神学も間違った神学です。再受け入れということはありえません。もしこの人が通訳をするのに、イエスを信じない、そして、イエスを受け入れたら再受け入れではなくて、初めての受け入れです。ところで、他の人が見る時には再受け入れです。それが間違っているのです。牧師でも、今までイエスを信じないで、イエス様を信じたくてイエス様を私の救い主として受け入れれば、それは再受け入れではなくて、はじめての受け入れです。再受け入れという単語は、ありえない言葉です。
・まるで韓国の政治家たちが問題にする時、二重国籍というのですが、二重国籍ということはあり得ません。
米国籍を持つ者になろうとするなら、韓国の国籍があってはならなくて、その他には韓国国籍を持っているのです。二重国籍という単語はありません。それは無知な公務員が使っただけです。そして一言さらにお願いするのは、国籍はたくさん許されるほど良いのです。韓国だけが変です。
・イスラエルの人々は、各国に行って国籍を確保します。それで有権者になるのです。それで、ユダヤ人は、全部国籍を持っている者だから、米国の人がてんてこ舞いをするのです。韓国の永住権者は投票権もないから米国人の立場では何の使い道もないのです。ところで、国籍がある人は、投票権があります。それで、ユダヤ人はわざわざ国籍を取るように手助けします。格別に韓国だけ、市民二重国籍というない単語を作って使うのです。分かることもできず、しばしば使っているのではないでしょうか。それで同じレベルで、再受け入れという単語はありません。
・釜山の大きい教会でおきたことです。教会は大きいのですが、福音は伝えなくて、毎日、他の話をしていました。ソウルの牧師1人が集会にきたのですが、3日間、福音に対するメッセージをしたのです。ところで、すべての信徒が福音を聞いて衝撃を受けたのです。その時、最後の日、復興講師が今日イエス様を信じる人々は立ってくださいと言ったのです。すると、信徒がものすごく立ち上がりました。担任牧師は、衝撃を受けたのです。自分が誤って教えたのです。ところで、問題はそばに座っていた長老が立ち上がったのでした。それで、牧師が恥ずかしくて、信徒が見えないように、長老のズボンをつかみながら座りなさいと言ったのです。ところで、長老は手を離せと言いながら、立ち上がっていると言いました。長老がそうしていたので、牧師が恥ずかしくて、長老がどうしたのかと言いながら座っていなさいと言ったのです。だから、この長老が、事実は今まで信じていなかったが、今信じようとするというので、この牧師が怒りながら座りなさいと言ったのですが、この長老は、最後まで立ち上がってイエス様を受け入れたのでした。
・それは、再受け入れではありません。それは牧師の誤りであって、長老のあやまちではありません。長老がその時、福音を聞いて、イエス様を受け入れるということです。そしてある面で、他の人の誤りでもありません。その方が長老、執事、関係なく、その日、自分で福音を聞くようになったのです。それは、神様の時刻表です。牧師が座れ、立ち上がりなさいおということがだめなのです。こんなにも根本的に違ったことを継続しています。それで、再受け入れ派としながら問題だと言いました。そのようなことはありません。受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には神様の子どもになる特権を与えられました。最後を記憶しましょう。キリストという名前がどれくらいすごいのか、神様が皆さんをどれだけ愛されるのか、神様が皆さんがどれだけ祝福を受けることを望まれるのか、神様が皆さんの家庭をどれだけ愛されるのでしょうか。イエスをキリストと信じるのは良いのですが、主人で受け入れなければなりません。この時からみわざが起きます。主人がお好きなようにです。皆さんの主人は誰でしょうか。自分でしょうか。自分は完全でなくて、失敗します。
・私の人生の主人は私ではありません。救われなかった人々が使う言葉が「私の人生を処理する。」と言うのですが、正しい言葉ではありますが、そのような意味ではありません。本当にそれは人生を半分しか知らない人です。私の人生は、私の思うとおりにはできません。私が思う通りにできれば、春に生まれて、およそ120年生きて、秋にリンゴを食べて、すがすがしい時に死ねば良いでしょう。話にもならないのです。それで、女もとても適当な時、世界で一番きれいで、天使のような女を探して、結婚をして生きて、必要なければ天に送って、思い通りに生きれば良いでしょう。思う通りにはなりません。私が思うとおりにしなければならないことが別にあります。しかし、ほとんど私の思う通りにはできません。私の人生に本当に主人は神様です。キリストを主人にむかえる時、みわざが始まります。そうではないでしょうか。
・昔には、私たちは浴場を1年に2回しか行きませんでした。母が行くという時があるのですが、その時がおもに旧盆、正月の前日でした。その時、入浴をしに行ったのです。あとは、浴場に行けません。家でおもに母が殴りながら、あかを落としました。そのように入浴をしながら暮らしていました。あかすりのタオルはないので、私たちは昔に山に行って石でしました。それで、その時、浴場に行ってみれば、浴場で皮膚病も移ったりしました。この頃には、浴場に行ってみれば特別なお湯が多くて、どれくらい良くなるのか分かりません。この頃には、家にもみなシャワーができるようになっています。この頃は、浴場に行ってみれば、沸くお湯もあって、色があるお湯もあっていろいろあります。たくさん変わりました。ところで、その時でも、今でも変わらないことがあります。入口に真っ赤な文章が書かれているのが変わっていません。
・「主人に任せない貴重品は責任を負いません。」貴重なものは主人に任せなければならないのです。なくなれば責任をとってもらえません。責任は主人が持つのです。皆さんの人生の主人は誰でしょうか。キリストです。神様が皆さんをどれだけ愛されるのでしょうか。皆さんの主人になると言われました。それが、人間の努力が好きな人々には、自尊心が傷つけられる言葉になるかも知れませんが、それは知らないことです。天地を創造された神様が皆さんの責任を負われると言われました。ヨハネ2:1-11にイエス様がカナの婚姻のパーティーに参加されました。ワインがなくなったのです。ところで、召使いにイエス様に行って頼みなさいと言いました。言われるとおりにしなさいと言ったのです。イエス様がしなさいと言われるとおりにしたところ、水が変わってワインになりました。
・イエス様をその家にお客さんにむかえた時は、みわざが起きなかったのです。私たちはイエス様が最高だと、貴賓にむかえて思い通りにしてしまうのです。ただキリストを最高の貴空席に迎えておいては、私の思いのままにしてしまいます。キリストが主人ではないのです。みわざが起きません。今日、銘記しなければなりません。「私は、本当に福音を正しく知っているのか。」そうすれば、皆さんは何も直さないでもかまわなくて、受け入れる瞬間、みわざが起き始めます。今からどのようにすれば良いのでしょうか。これは確かに保障になるから、キリストが私の主人になってしまえば驚くことが行われます。「キリストが私の事業、私の家、私の人生の主人になって下さい。」ところで、みわざが起き始めるのです。皆さんがこの体験をしてみるように願います。
・皆さんの頭の中に複雑なことを考える必要がありません。「私は敬けんなことは、できないのだけど。」後ほどしても良いのです。「私は祈りもたくさんできなくて。」しなくても良いのです。「私は献金もたくさんできなくて。」それは後ほどすれば良いのです。皆さんが正しくさえ悟ってしまえば、みわざが起きます。皆さんの人生の大きい問題、今日とても短い時間に解決されるみわざが起きるようになります。受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には神様の子どもとされる特権をお与えになった。あなたは神様の子どもです。神様があなたの主人です。それより幸せなことがどこにあるのでしょうか。お祈りします。

<契約の祈り>
神様に感謝します。神様の子どもが集まりました。創造主なる神様が、私の主人になるようにして下さい。真のキリストを知って、受け入れる者になるようにさせて下さい。私の人生に新しい開始が起きることをお祈りします。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン