20140525 インマヌエル教会聖日1部


家庭で始めるべきレムナントの祈り
(Ⅰサムエル2:1-10)

序論
時々、私はこのような質問をします。はたして私は幸せなのか。また聖書で答えを受けた人たちの答えを私も受けることができるのか。このような質問を多くしたことがあります。今はその部分に答えをもっています。それで尋ねたいです。皆さんは本当に幸せですか。そのようにお尋ねしたいし神様が願われるときに献身できますか。そうであれば祝福された人でしょう。

すでに5月の末です。一心、全心、持続と言う字を書いて間もないことのようですが、すでに半年が経ちました。聖書には歳月が過ぎるのはまるで矢のように早いとありますが本当にそうです。今私がこの話をするときに60歳以下の人は何の話かと思うかもしれません。私もそうでした。60歳を過ぎて70歳近くになった人は少しそのように感じるでしょう。そして、たまに昔のことを考えたりします。私が中学校3年生の頃でした。私の町に高校生のお姉さんがいました。私が中3でその人が高3だったのでとても大きく見えました。多くの子どもたちがいる中でもその人が私の世話をよくしてくれました。おいしいものもくれたりしました。ある日、その方が私にどこかに行こうと言いました。付いていきました。ナンポドンと言うところに行きました。ナンポドンというところはあまりよく行かないでしょう。そこに連れていかれました。その頃、休みのときはそのようなところに行って映画を見ました。私に「映画を見ましょう」と言ったので「はい」と言いました。当時、お金がなかったので一番安い劇場があってそこは2編を同時に見せるようなところでした。何回も回したフィルムを回すので途中で切れたりもします。それでフィルムが痛んでいるので途中で切れたりとかすると「金を払い戻せ」などと言って大きな声を出す人もいました。私はいつもそのような映画ばかりを見ました。しかし、そのお姉さんが私を連れて一流劇場に行きました。ナンポドンと言うところに一流の劇場がいくつかあったのですがそこに連れて行ってくれました。もちろん、一流の劇場ですのでフィルムが途中で切れたりすることもなく席も定められています。それで心もわくわくして「ああ本当に一流の劇場だな」と思いながら座って映画を見ました。私が夢にも描かなかった映画館に連れて行ったということです。私が初めて行った一流劇場なので私の記憶にまだ残っています。そこでどんな映画を見たでしょうか。「ローマの休日」を見ました。「ローマの休日」という映画を見たのですがとても面白いです。王の娘、王妃が王宮で暮らすのがもう嫌なのです。それでだれにもわからないように逃げ出しました。そして、ローマ市内を歩きまわりました。だから、危険なこともありますし、警護する者もいないのですが歩き回りました。難しい目にも遭います。ある日、記者一人と出会って助けを受けるという映画です。死ぬほど苦しんで王宮に戻ります。王宮がどれほどすばらしいところであって、王妃と言うものがどれほど重要な立場なのかということを知らなかったのです。自分が死ぬほど苦しんで死ぬようになったのです。まるで私たちのようです。私たちも救われた者の祝福がどれほど大きなものか知らないでいます。ですから、多くの意味を逃して生きていきます。もっと重要なことは何でしょうか。時代ごとに用いられた人たちの特徴があります。ひとりももれなく特徴があります。その両親が祈りの人でした。ひとりも例外がありません。特に母親が祈りの人でした。聖書と歴史ひとつも例外がありません。ひとつでも例外があれば、例外を選択してもよいのですがひとつももれなくです。私たちが受けた祝福がどれほど大きく、これを子どもに伝えることがどれほど重要なことなのかを実際に知りません。するとどうなりますか。多くのものを逃してしまいます。私の友人の中でイ・トンアと言う友人がいました。ソウル大学を卒業し、ハーバード大学に留学しました。私たちの教会の教会員です。賢いです。この家族がすべてをうまくできるのですが一つだけを知りません。この霊的な祝福がどれほど大きいのかそれを知りません。救われた者の祝福がどれほど大きいのか教会に通いながらも知らないのです。祈る母親がどれほど尊いのか実際に知りません。その子が勉強がよくできる。それはわかります。それでソウル大学に行きなさい。熱心に勉強してソウル大学に入学しました。当然、ハーバード大学に行きました。ハーバード大学は簡単に入ることはできませんが簡単に入りました。だから、その子を見ると特別な人に見えます。彼はすごいなと。私たちが幼い頃は大学に入ることも難しかったです。ですから、学生が10人いると1、2人しか大学に行けませんでした。その中でソウル大学に行けたというのはものすごいことなのです。またこの当時、火災が生じ、北朝鮮から下ってきた人たちが集まっているような町なので難しい町です。ひそかに信仰生活をするような私の母親のような人たち、家庭はたいしたことありません。しかし、そうではありません。その子が勉強していたはずなのに戻ってきました。あれほどまじめで教会に熱心に通っていた子どもが帰ってきました。帰ってきたのですが話をしません。人であれば話すべきでしょう。狂ってしまったのです。霊的に何かを受けたのです。皆さん、霊的にやられると事実上、難しいです。当然、なにをしてもだめなので病院に連れていかれました。精神病院に入って良くなったり悪くなったりする人もいますが、この人は到底、まったく社会生活ができない状態でした。長い年月が過ぎ去りました。一生の間、精神病院で生活しなければなりません。海雲台(ヘウンデ)にあるヘッピ精神病院の院長が私たちの教会の長老だったのでそこに行ってみることにしました。私が伝道師だったのですが「賛美の歌唱大会をするので来て審査員をしてください」と言われました。そこに行ったら、その子がいるのです。伴奏をしていました。勉強もよくできるし伴奏もよくできる賢い人です。頭を坊主にして伴奏をしていました。それで私が長老さんに尋ねました。「長老さん。あの子の名前はイ・トンアと言うでしょう」「なぜ知っているのですか」「私の友人です」「ああ、そうですか」「あの人、伴奏をしていますね」「実力はあります」「どのようにして伴奏するのですか」「薬を飲んでいるので安定した状態で弾きます」「治る可能性はありますか」長老の答えです。「治る可能性があったらここにいるでしょうか」「では一生いないといけないのですか」「保護者がいるので一生ここにいることはできませんが生活はできます」。

一体、福音が何なのかを教会に通っている人たちでさえ知りません。福音とは何でしょうか。人間の最も重要な問題を解決する答えです。ですから十分です。その答えを見出す日、勝利します。福音は完全なだけではなくてすべてです。これを見出す日、すべての人生の運命が変わります。そうでしょう。この祝福を両親が知って子どもに伝達しなければなりません。特にいつも子どもの近くにいるお母さんが重要です。父親も重要ですがお母さんが子どもたちの近くにいます。ですから、アンブロシウスと言う司教は母親の涙の祈りの子は滅びることはないと言いました。しかし、この母親が祈る母親ではない。祈りが何なのかを知りません。皆さんが福音を味わう祈りの時間が最も幸せであれば皆さんは勝利者です。良心的にも私たちは知っているでしょう。神様が私をご存知ではないですか。柳光洙牧師の最も幸せな時間が何なのか神様はご存知ではないですか。柳光洙牧師がこのものすごい福音を味わう時間が最も幸せだと言うことを神様はご存知です。サタンも知っています。サタンは恐れます。この祝福を味わって答えを出すことを指して祈りと言います。最も幸せな時間を味わうことを指して祈りと言います。これをもって力を得ることを祈りと言います。そうであればそれで終わりではありません。私が祈ってそれで終わりだと思いますがそうではありません。そのときから学業、事業、職業すべてに神様が働かれるようになります。何を言っているのでしょうか。キリストが私の事業と現場に十分な答えなのだということです。確認するようになります。それを指して24時と言います。そうでしょう。それで終わりではありません。このように完璧な祝福を私たちにくださったのだな。それを確認することを指して25時と言います。神様が私たちにくださった救いと神の子どもの祝福はすべてだな。これを悟ることを指して永遠と言います。どうでしょうか。この祝福がすでに私たちに来ているのに私たちは逃しています。今日、私たちはこれを知って子どもたち伝達しなければなりません。

世の中を動かしていた人たちの特徴です。モーセよりももっと重要なのがモーセの母親の祈りです。そうですね。相当なものです。その内容をご存知でしょう。子どもを葦の葉に入れてナイル川に流しました。それ自体すでに普通の母親ではありません。どんなに難しい目に遭ったとしても福音が何かを知り、祈りが何かを知っているのであれば皆さんは勝利します。暗闇が皆さんの子どもを一度も触れることができないでしょう。確実です。皆さんの子どもが今揺れているとしても、皆さんが祈りを知っているのであれば勝利します。サムエルが問題ではなくサムエルの母親ハンナの祈りです。皆さんもご存知のとおりモニカの祈りです。その息子がアウグスティヌスです。今の時代を動かしている賛美を書いたクロスビーの母親の祈りです。クロスビーの母親が昼には仕事に行かなければならないのですが聖句を暗唱するようにしました。そして、戻ってきてから説明をしました。それがクロスビーの中に入ったのです。それが大統領も与えることができないような影響力をクロスビーが与えられたのです。科学者よりも、それと比較することができないくらいの影響を事実上与えました。皆さんご存知のとおりにどれほど苦しい目に遭ったとしても倒れても起き上がり、倒れても起き上がったリンカーンの母親の祈り。それは祈りが何かを知っていたということです。祈りをすることが重要なことではなく福音が何かを知っていたということです。祈りが何か知っていたということです。ですから、それをもって事業に、学業に出て行ったので祈りが何か知っていたということです。それを指して24時、25時、永遠と言う答えなのですが、それを知らないでよいのでしょうか。本当に残念なことです。私たちはこの祝福を全部受けたのに逃がしています。

これが全国、全世界に散らされているレムナントたちには第1に必須なことです。今全国、全世界にいる私のメッセージを聞いているレムナントたち、いかがでしょうか。皆さんがこの祝福を知らなければいつも苦難の中で勉強をしなければならないし困難が迫ってきたら勝つことができません。ある時、霊的に攻撃されると崩れてしまいます。確実です。どうでもよいことを神様は与えたりしません。神様が嘘を与えようとして聖書66巻を作られてキリストを送られたわけではありません。十字架にかけられ私たちの贖いの代価となられて、サタンの頭が踏み砕かれたというのは単なる話ではないということです。

今日、私たちがⅠサムエル2:1-10を読みました。ハンナの祈りです。すばらしいですね。今日私が握るべき一つ目のことです。

1 .時代を変化させるはじまり―ハンナの祈り
時代を変えた始まり、ハンナの祈りです。皆さんひとりの祈りがそうです。単なる祈りではなく、福音を知る者の祈りです。祈りが何かを知っている人の祈りです。聖霊が何か知っている人の祈りです。試験を受けて合格し上がっていくのが成功ではありません。福音が何かを知って、祈りが何かを知って行くその力による成功です。そうですね。

若い執事さんがいらっしゃいますが、その子どもが勉強を熱心にして成功すると言うのは相当な苦労です。両親たちが今そのようにしています。ほとんど親が子どもを半殺しにしています。それが成功ではないということです。その子がダビデのように神様の力をもって学業に入っていかせることです。それを指して成功と言います。そうでしょう。それが成功です。一体、キリスト教員たちが福音が何か、祈りが何か、成功が何かを知っていなければならないでしょう。特に若いお母さん方、おばさん方が知っておかなければなりません。なぜおばさんと言うかわかりますか。なぜですか。子どもの袋ということです。子どもを生んでその子を育てるものすごい特権を持っています。逃してはいけません。ハンナがこのように祈ることができたということは祝福の中の祝福です。祈りができると言うのは最も大きな祝福です。祈り、だれでもできるものではありません。私の霊的な状態が荒廃していればできません。そうですよね。それからまず治してあげなければなりません。私の精神と霊的状態が荒廃しているので祈りができません。息子がいるかいないかそれが問題ではなく、ハンナが祈り始めたのです。大人たちとレムナントたちが知っておかなければならないことは、私が祈りをできるのであれば世の中に勝つことができます。そうでなければ皆さんの人格をもって耐えていかなければならないのですがしんどいです。皆さんの品性をもって耐えなければならないのですがしんどくなるはずです。我慢し続けますが限界が来ます。そうですね。ハンナが祈れる人でした。それが祝福の中の祝福です。

2つ目にハンナから学ばなければならないことが何でしょうか。今まで祈り続けてきたのですが誤った祈りをしてきました。なぜ私には息子がいないのでしょうか。そのような祈りでした。なぜ他の人たちにあるものが私にはないのでしょうか。なぜ他の人にはある健康が私にはないのでしょうか。これは祈りでしょうか、つぶやきでしょうか、あがきでしょうか。ある日、ハンナに正しい祈りが来ました。これがハンナをとおして私が学ぶべきことです。祈っていると正しい祈りが出てきます。私に息子をくださるのであれば、ナジル人として捧げます。どんな意味でしょうか。霊的な力をもった指導者として捧げます。神様が即刻、答えの門を開かれました。それがサムエルです。

ハンナをとおして学ぶべき3つ目が何でしょうか。答えを受ける器です。答えを受けることも重要ですが器が重要です。今日の本文はハンナがサムエルを送り出して捧げた賛美歌です。「私の心は主を誇り、私の角は主によって高く上がります」。主は殺しもし、また生かしもします。主は高くもされ、また低くもされます。主に敵対する者は粉々に砕かれる。ですけれども、主を愛する者を主がその角を高くあげられる。この祈りをすることが重要なことではありません。器です。そうでしょう。お金をだれにでもまかせますか。このお金をだれかに保管させるべきだけれども、「あの人は詐欺師だ」。まかせますか。そのようにしますか。しません。両親は子どもを平等に愛します。正しいでしょうか。違います。それは嘘です。両親が今までかけてきた財産は信頼できる子にまかせます。他のものは適当なものに与えます。両親が平等に子どもたちを愛するのは血縁関係としてそうします。先生はすべての学生たちを愛するべきでしょう。しかし、同じようには愛しません。そこでもそのようになる人がいます。これを何かと言うと器を準備することです。だれが幼稚園生に対して「あなたのお小遣いは1億円だ」と言って渡しますか。そんなことをすると死んでしまいます。私の娘が幼稚園の頃は「お父さん」と呼びます。忙しいのに呼びます。それで私が行くと部屋のドアを閉じます。それで私にもたれかかります。内緒話で「100ウォンだけください」と言います。「わかった。あげます」それをもって飴玉を買いに行ったりします。50ウォンで買えるようなものを。ここに長老さんがいらっしゃいますが私を呼んで「100ウォンだけください」と言ったらそれは話になりますか。話になりませんね。器が成り立っているのです。ハンナが器が成り立っていました。

2. この祝福を伝達されたサムエルの祈り
2つ目です。この祝福を必ずサムエルに。サムエルがどのようなことをしたかご存知ですか。サムエル書3章に重要なことが記録されています。この祝福がサムエルに伝達されたということです。エリが年を取って主の言葉が途絶えたとあります。エリは自分の寝床で寝ていました。幼いサムエルは契約の箱の隣で寝ていた。第Ⅰサムエル3:1-2です。重要な話です。何でしょうか。第Ⅰサムエル3:18。時代に最も必要な御声を聞きました。皆さん、祈りを軽んじてはいけません。それであれば神様の祝福を知りません。福音が何であるか知らないわけです。キリスト教員たちがこのような祝福を軽んじてはいけません。サムエルに神様がその時代最も重要なメッセージを投げかけました。第Ⅰサムエル3:19に何とありますか。「主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった」とあります。このような祝福があります。

全世界のレムナントたちが今早く契約を握ってください。皆さんが福音の力が何か、祈りの力が何かをもって行ってください。そうすると皆さんはまことの成功者になります。未信者たちと同じようにしてはいけません。彼らを生かすべきです。そうでしょう。このような祝福を私たちは逃しておいてただ行います。それで世の中的に成功すると成功したかのように思います。もちろんそのようにもなれるでしょう。ですけれども、それをする分、霊的な問題が来ます。今からでも遅くありません。皆さんが持っている祈りが小さなもののように見えますが、本当の福音であれば世界を動かすようになります。

3. ハンナとサムエルの祈りで来た結果
 最後の3つ目です。どのような結果を生みましたか。ハンナの祈りとサムエルの祈りによってどのような結果を生みましたか。皆さんもご存知のとおりに、その時代最も大きなレムナント運動、ミツパ運動が起きました。全イスラエルが偶像を捨てて主の御前に帰ってくるミツパ運動が起きました。驚くようなことでしょう。全イスラエルが悔い改めて主の御前に帰ってきたということはものすごいことです。また、もっとすごいことは第Ⅰサムエル7:10。ミツパ運動を起こしたときです。サムエルが生きていたときにはペリシテ人が攻撃することができなかったとあります。これが祈りです。サムエルが生きている間は戦いが止んだとあります。これが霊的なパワーです。これが本当の愛国です。サムエルが生きている間にはとても好戦的なペリシテ人たちが攻めることができなかったとあります。もっと大きな答えは何でしょうか。ダビデのような人物を探し出しました。サムエルが。サムエルがダビデに会った以降、主の霊がダビデの上に激しく下ったとあります。皆さん、この祝福を回復していただきたいと思います。2部のときにもう少し説明します。福音が何なのか。この価値を知らなければ神様を冒涜することになります。祈りが何なのか。この価値を知るべきです。それを本当に知るのであれば本当の幸せです。最も力があります。またその中から答えが出てきます。キリスト教員たちがその価値を知らなければそれは上辺だけのキリスト教員です。まるで王妃が自分の家を出て幸せを探しに外に出るようなものです。母親の胸から離れて幸せを探しに行く赤子のようなものです。赤子が生まれたばかりであれば何をしなければなりませんか。他のものは必要ありません。赤子にはブレスレットも必要なく、よい服も必要ありません。どこにいるべきでしょうか。お母さんの胸に抱かれているべきです。お母さんの胸に抱かれて乳を飲むべきです。ダイヤの指輪がどれだけあってもそれをはめても、お母さんがいないとすれば死んでしまいます。そうですね。総合ビタミンが含まれている母乳を飲むべきです。霊的にも同じです。この赤子に砂糖を与えれば死んでしまいます。

結論―永遠い揺れない背景
ですから、私たちはこの祝福を探し出すべきです。そして、子どもたちに伝達できるようにすべきです。今皆さんがそれを探し出すのであれば子どもたちがすでに崩れていたとしても生き返ることができます。これが子どもが幼いときに伝えられるべきです。それで主日学校の教師の責任は大きいですし、母親の責任はもっと大きいです。これが時間が過ぎて後悔してももう無駄です。永遠に揺れることのない背景、これを伝達してあげるべきです。

私たちの家系でイエス様を信じると言う理由で、私の父親が病んだ時に家系の人たちが皆来ました。イエスを信じたからこうなったのだと。そのように迫害を加えてきました。私の家系は皆未信者です。町中が失敗して霊的な問題が来ているのに「イエスを信じるからこうなったのだ」と言います。私の母親は彼らに対してこのように言いました。夫が病んで病床についたときに私が神様を信じて神様とともに子どもたちを育てた。そのようにして生きることができたけれども、そのときにはだれも親戚たちが助けてくれなかった。神様が私を祝福してくださって今まで生きてくることができた。そのような話をしました。私の母親は普段はそんなことは言わないのですが、その時に少し皮肉を言いました。「元々、柳氏の人たちはまったく私の家に来なかったのに、なぜこのようなときに来たのでしょうか」。そのとき、私は幼かったのですが覚えています。ひとり「そうです」と言う人がいました。「神様を信じてこのように生きていくのが正しい」。そして「無駄口を叩く人たちは帰りなさい」と言いました。どれぐらい迫害したかというと、私の父親が死んだときだれも来ませんでした。それぐらい偶像崇拝をする家でした。私はある日、知りました。重要ではないと言うことを。神様が私にくださった福音は世の中のどんなものより尊いのだということを。そして、この祝福を味わう祈りの背景は他のどのような背景とも違うと言うことです。今その人たちは私たちに何か言うこともできません。なにかがあれば私たちが助けてあげることであって、彼らが何か言うことはできません。神様を信じると言うことはどういうことなのかを知らないで生きてきたのです。とうとう私が世の中に出て神学校に通うようになったのですが私には何もありませんでした。他の人たちには皆背景があるのですが私には背景がなかったのです。しかし、ある日、私は知りました。福音であれば完全だと言うことを。天の背景を味わうことができる祈りの奥義があるということを知りました。ですから、祈りをしながら何の背景もない私たちが今世界福音化をするようになったでしょう。皆さん方が難しい中でも真心から捧げるこの献金によって今世界宣教もしているでしょう。20年の間、私は迫害を受けてきました。1度も病むことなく崩れることもなく、むしろ迫害者たちが崩れてしまいました。神様が皆さんの祈りを聞いてくださり、私を守ってくださいました。ですから、私が恐れることがありません。

 レムナント7人の告白を聞いてみてください。あのように苦しみの中を生きてきたダビデがサムエルから教えを受けたあとに、主は私の羊飼い。私に足りないことはありません。死の影の谷を歩くことがあったとしても私は恐れないと告白します。主は私をムチと杖で導いて行かれる。ムチと杖と言うのは同じようですが違います。どのように違うのでしょうか。杖とムチは何が違いますか。杖と言うのは道を歩くときに使います。またムチというのは何でしょうか。叩くものです。神様は私たちの杖でもあられムチでもあられます。苦しみの中で孤独であったヨセフは何を言いましたか。兄たちの前で告白しました。「主が私をここに送られた」。その話を無学な人たちが理解できるでしょうか。食事だけして自分は成功していると思っているのに、豚のような人が理解できます。パロ王の前に立ったときも話しました。「あなたがどのようにこの夢を解くことができたのか」「主が私とともにおられたので」と言いました。ダビデが最後に死を迎えたときに自分の息子を前にして言いました。他のすべてのことを話したあとに何と言いましたか。「主を恐れなさい」ダビデの告白です。ソロモンが死ぬ時に言いました。「創造主を覚えなさい。若い日に」年を取ってからではなく、あなたに若い日に覚えなさい。ソロモンが言ったことです。父から聞いて体験したことです。多くの苦しみの中でこのエリシャが、レムナントが何と告白しましたか。私の他のものは必要ありません。ギルガル、ベテル、エリコ、必要ありません。何が必要でしょうか。主の霊を2倍、私に与えてください。そうです。それが世を生かす人物です。本当に生かしたではないですか。皆さんはこの祝福を受けて伝達しなければなりません。皆さんが今幼年部を教えたり、胎嬰児部で教えたりしていますが、それは世の中で最も価値のあることです。なぜそうでしょうか。皆さんがその福音を伝えるときに、子どもたちにいつこの福音を知るようになって御業がなされるかわかりません。今幼い頃に入った者は、続けて人生で答えとしてきます。ですから、幼い子たちに今教えていることがすぐに実を結ばなかったとしても絶対に落胆してはいけません。昔、釜山で火事が起きる前の埠頭があるでしょう。その埠頭を埋め立てたので、埋め立て地と言われますが、そこで私は聞きました。私の父親は着工場もして生活をしていました。その埠頭のところはとても深いところです。大きな船をつけることができるということは深いです。だから、そこで溺れると無条件死んで船の下に入るので死んでしまいます。ですから母親が心配をしていつもいいました。「あそこで溺れたら死んでしま」といつも私に言い聞かせました。完全に刻印してしまったのです。船底にくっついてしまうのだと。そのように幼い頃にに聞いたことがあり、どれほど恐ろしいかというと今でも私は泳げません。今でも私はお菓子がだめです。キム・ヨンギ牧師が10メートル進めると言いますが、私は1メートルも進めません。まったくできません。私の体は本当におかしいです。固くなって沈んでしまいます。これは幼い頃には行った教育です。そうであれば、今私たちが幼い頃に福音を植え付けるとするとどうなりますか。どのような結果が生まれますか。必ずレムナント7人が時代を動かすようになります。皆さん、この祝福から回復しなければなりません。福音は何でしょうか。祈りは何でしょうか。成功とは何でしょうか。それを知らないでできるのでしょうか。それを回復する祝福が今日から始まることをイエスの御名で祝福します。


(祈り)
神様、感謝します。神様が私を神様の子どもとして召されましたが、その霊的な祝福を回復させてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン