20140601 インマヌエル教会聖日1部


召されたときの状態にとどまっていなさい
(Ⅰコリント7:17-25)

序論-コリント教会は救われた者の話
コリント教会は救われたもののお話です。しかし、救われたとしても本当の答えを受けることができなければ難しくなります。未信者と同じような経済、貧しい状態に陥ることがあるということです。本当の答えを受けるならば何でもないようなことなのですが、答えられなければ難しくなります。今日の礼拝をとおして生涯にとって本当の答えはどういうことであるかを悟っていただきたいと思います。ある意味、救われた私たちは未信者以上に難しいかもしれません。未信者はただどうにでもなれという生き方をしても、私たちはそのようには生きられないからです。ある意味、未信者が経済を持っていて、まことに見たときにクリスチャンは経済がないように見えたりします。コリント教会にもそのような光景が見られていました。皆さんが今日、契約を握っていただきたいと思います。また、本当の答えを受けられなければ紛争状態に陥ったりします。なんでもないようなことで疑ったり紛争したりします。今日の本文の内容はどんな背景で行われたか、よくわからかないかもしれません。イスラエルの国は割礼を受ける国でした。しかし、他の国の人は割礼を受けません。そこでコリントで福音を伝えていたら割礼を受けたユダヤ人もいればそうではない人もいたということです。その割礼か無割礼かということがひとつの案件として挙がってきています。「私たちは救われたけれども、私たちは割礼を受けたから割礼派である」と言う話があったり、「私たちは割礼を受けていない異邦人であるから、私たちは無割礼派だ」と言う人もいました。そして、当時は奴隷制度がありましたから、「あの人は奴隷だ」という意見があがったり、「私は奴隷ではありません」として自由人だという人もいたりします。このような話によっていろいろと深刻な状態にまで行きます。

私たちは救われたにもかかわらず、どうでもよいようなことに捕らわれてしまえば、このように難しいことに陥ってしまいます。実は今日の内容は本当に何でもない話なのです。そこでパウロは言いました「あなたは割礼を受けましたか。それならそれでよいのです。無割礼ですか。無割礼は無割礼でそのままでよいのです。それがどうして問題になるのかということでした。でも、コリント教会の方では大きな問題として取り上げられていて、続けてこれらのことで紛争が起きていました。そして、のちには結婚すべきか、また未婚のままであるべきかとかいろいろな話が持ち上がってきています。このように救われたにも関わらず、本当の答えを受けられなければサタンのことは私たちに大きな障害になったりします。

これだけではありません。コリント教会では信徒であるにもかかわらず滅亡の状態にもしかしたら落ちてしまったというときもあります。なぜなら、コリント地域にはアポロという大きな神殿がありました。教会堂はとても小さなものだったのですが、アポロの神殿はとても大規模なものでした。そして、この大規模であったアポロの神殿がコリント全地域を掌握していたのです。どれだけ大きな問題になったかと言いますと、アポロの神殿の中で体を売るようなみだらな行為をする女性の数が3000人に及んだということです。そして、どれくらい堕落したかというと、年に一度はそのみだらな行為を子どもであろうと親であろうと、そして他の旦那であろうと関係なく行ってよいと言う日があったのです。ですから、信じる人にとってはそのような世の中を見たときに絶望に陥ってしまったということでした。目に見えないサタンの勢力がコリントの地域を完全に掌握し、ある意味、地球上を掌握してしまったということでした。私はタイに行ったことがあります。今はいろいろと変わっているかもしれませんが、10年前のことです。ぱっと見、もうすでにお寺だらけです。遠くにお寺を見に行かなくても、すでに町中に見えています。そして、自分が立っているところから後ろを向くとまたお寺があります。四方八方お寺があるということです。そして、朝になりますとお坊さんたちがいろいろと施しをします。また、タイではお坊さんになることが最高の栄光なことだと言います。それは私たちが思っている以上にそのような環境になっています。列車に乗って南部に下るのに約14時間行く間、ずっと平野です。そこでは食事もできなくて飢え死になる人が多いと言うことです。その国の人たちには非常に申し訳ないのですが現地の人から聞いた話です。きれいな女性たちが皆乗用車に乗っていると言います。それで私は尋ねてみました。「ああやってきれいな女性たちがどうやってあのように立派な車に乗っているのですか」。タイの方ではそれくらい飢え死になっていますから、どういうことが親孝行かと言いますと、自分の体を売ってお金を儲けて親孝行することが最高の親孝行なのです。つまり、自分の体が健康であるにもかかわらず、そのような行為をしないことは非常に親不孝なことだと言われていました。だから、タイできれいな女性と言うのは皆、そのような仕事をしているのですが、それが親孝行だと思われているのです。そして、家を見ますときれいな家、そうでない家があるのですが、環境がよくない汚い下水道の上に家が建てられていました。そのような水の上に木材などで建てられた家に人々が住んでいたりします。もっと驚くのが、やはり下水道のシステムがありません。ですから、水から腐った匂いがします。もっとショックなのはその水で皆、洗顔したり、体を洗ったりしているのです。もっと驚いたのはその水をどこかに汲んでおいて、ちょっと水がきれいになるときその水を飲むと言う状態です。タイと言うのはその横にすぐ都市があるにも関わらず、そのような環境の地域もあるのです。また、タイの人の人格は怒らないと言うことです。仏教の思想です。私たちが今世の中でこのように苦労すれば、私たちが死んでライ性に行ったときによいところに行くと思っています。そして、彼らが思うにあのように今立派に生きている人は来世、死んだら皆よくないところに行くのだという理論を持っています。だから、そのような光景も非常に残念だなと思いました。日本にいて感じたことです。大きな偶像が日本を掌握しているということです。日本人が本当に分かるべき部分で、クリスチャンは必ず知るべきだと思います。そこでアジアで最高の先進国の日本でありながら、その反面、一番精神的な疾患者が多いところも日本です。コリントがアポロの神殿によってコリント全地域の霊的雰囲気を掌握していました。

さて、今日のこのときパウロはみことばによって答えを整理しています。Ⅰコリント7:24をご覧ください。「兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい」。これは普通の言葉ではありません。つまり、今目に見えていることは問題ではないと言うことです。今皆さんの目の前に起きていることは問題ではなく、あなたがたがおのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさいということです。

1.福音の力が現れる最初の段階→ 神様の基準
こちらにいる皆さんは今日覚えてください。福音の力が出てくる一番最初の段階があります。それが何かということです。召されたままの状態でいなさいということ、福音の力が現れる第一歩、第一段階はなにかと言うことです。私は本当に答えられたいのです。ではそのための一段階目はなにかと言うことです。本当に神の力を体験したい。このままの生き方ではない。だから、どうどうしたらいいかというその一段階目はなにか。私たちはその力だけではなくそれ以上の力、コリントのように暗闇に覆われた時代に私がどのような生き方をすればよいのかということです。その第一歩、一段階目はなにか。聖書どおりに召されたときのままの状態、それは一体なにかということです。あるとき、父と子どもが礼拝を捧げるために教会に行きました。親子が一緒に礼拝上に行ったとき、どれだけ恵み深い姿でしょうか。行く最中に皮の手袋が道に落ちていました。父親が本当に恵み深くこのようにコメントをします。「このような皮の手袋を私たちは拾ってはいけない。だから、これを拾ってそのままここに置いておこう。そうすれば忘れた人が取りに来るでしょう」。息子は「ああそうですね」と言いました。そして、親子は続けて歩いていきます。すると、もう片方の皮の手袋が落ちていました。そうして父親の言葉がこのように変わりました。「考えてください。先ほど置いておいた手袋をあのまま置いておけばだれかが取って行ってしまう。先ほどのもだれかが取って行ってしまい、今のこれもだれかが取ってしまうといけないから、先ほどのものをあなたが走っていって持ってきなさい」。息子は元の場所に戻ってそれを拾ってきて一組の手袋になりました。私たちの信仰生活を現しているのですが、つまり自分の基準で信仰生活をしてはならないということです。私の基準ではない。世の中の基準で行ってはなりません。これが召されたままの姿であるということです。皆さんの姿を見たときになにもできないときがあります。だから、自分を基準にして信仰生活をしてはいけません。世の中を見るときに私たちは動揺しますが、世の中が基準になってはならないのです。また、私たちは肉の姿は限界があります。ですから、自分の肉の基準になってはいけません。神の御前に立つことです。今日早くキャッチしたうえで悟りを得ていただきたいと思います。多くのクリスチャンはみだらで、みすぼらしい姿です。なぜなら、自分を基準にした姿、自分を基準にした信仰生活をしているからです。

皆さんはクリスチャンになって何年目でしょうか。聖書を読んだことがあるでしょうか。キリスト教の教会史を知っているでしょうか。聖書に戻ってみましょう。信仰の先祖だと言うアブラハムに言われました。あなたはあなたのふるさと、父の家を出て、私が示す地へ向かいなさいと言われました。それが救いでした。いわばなにか。呪われたその父から離れ新し地、福音の力の地に向かいなさいということです。それが救いでした。将来、滅びてしまうこの地を離れ私たちは天の道に向かって走って行くのです。それでよいのです。それを知らない人はだれもいません。教会に通っている人なら皆知っています。では、根本的に問題はなにかです。アブラハムは自分の故郷、父の家を捨てました。しかし、1つを捨てませんでした。何を捨てなかったのでしょうか。それは自分の自我です。自分自身を捨てませんでした。すべてを捨てました。でも、自分は捨てません。周り全部捨てました。しかし、自我を捨てていません。私はもし飢え死になったらどうしよう。私は息子もいないのに後見人もいない。どうやって生きられるのだろうか。自分の子どもがいないから跡を継ぐ人もいないので甥でもつれて行こう。しかし、ロトは自分の言うことを中々聞いてくれません。今度は自分の女のしもべを連れて行こう。もう一人子どもを生んでおこうと。一理あることで、未信者ならだれもがそうしたかもしれません。つまり、アブラハムは絶対に自分の基準を捨てなかったのです。自分の自我。基準を捨てていないから、サタンの攻撃がいつまでもあったのです。今日の言葉が理解できてこそ私がキリストと同じように、十字架でキリストと一緒に死んだという言葉が理解できるようになります。人間がいかに弱いものなのか、人間は呪われて当然な存在でした。でも、人間はどれだけ尊い存在なのか。神の御国を味わえるほど尊い存在なのです。そこで長い間あった霊的問題、その霊的呪いは完全に捨てなさいと言われているのに、それを捨てられず自我を持っているのです。今あなたがたが心配していることを心配せず、召されたときのままの状態で神の御前に立ちなさいと言うことはそういう意味なのです。これは聖書の中で一番重要な聖句です。

では、もう一つのことを例えてみましょう。信仰の一番大事な告白をしたペテロを挙げてみたいと思います。ペテロは主に向かって言いました。あなたはキリストです。そして、あなたは生ける神の御子キリストです。本当の告白をしました。あなたはペテロです。岩の上に私は私の教会を建てます。ハデスの力もあなたに打ち勝つことができない。私はあなたに天国の鍵を授けよう。ものすごい祝福を授けられたのです。それが私たちもした告白です。しかし、ペテロに答えがありません。なぜならその告白をして逃げてしまったからです。なにをもって告白したのでしょうか。彼の告白は本当でした。嘘ではありません。でも、その告白は自分の自我による告白だったのです。「そうだ。このイエスを信じればよいのだ。こういう方はキリストなのだ。こうやって信じればよいのかな」という自我を捨てませんでした。すべてを捨てて主だけに従うと言いながらも、自分の自我を捨てずについて行ったのです。だから、危機に遭ったときに揺れてしまったのです。今ほとんどのクリスチャンが危機の前で揺れていませんか。そうする必要はないはずです。今日まず皆さんは自分の基準を取り替え、神の基準を持つべきです。滅亡を受けるしかない世の中の基準を捨て、救われるしかない神の御国の基準を持つならば私たちは勝利するしかありません。今日のみことばがどういう意味であるかを早くキャッチしなければなりません。信仰生活は一歩間違えればすべての基準は肉に属します。そして、すべて本能によるもの、自分の自我、このように信仰生活をしてしまいます。それが自分の基準でよければよし、悪ければ悪いとなってしまいます。ですから、霊的勝利はありえないことになります。今日新しく初めて教会に来られた方がいらっしゃるならば、簡単に理解できる道、聖霊が伴われるなら理解できます。一流大学を出た人、一流の世界にいらっしゃる人は今日の言葉がどのように聞こえるでしょうか。私が自分の人生の主人であり、私が私の力で今までやってきたのに一体、これはなにかと思うかもしれません。クリスチャンはいつもそうだ。いつも臆病だ。自分を捨てるなんて。いつも神様を目の前に。そのような意味ではありません。本当に人生を悟り、本当に聖書を知るならば人間の状態が分かるはずです。なぜなら人間は創世記3章以降、どんなに努力しても救われることのできない存在です。そこで発展すればするほど難しいことがどんどん増えていくだけです。昔、フランケンシュタインと言う人が発表しました。発展すれば発展するほど難しいことが増えてくる。科学が発展すれば人間が一気にたくさん死んでしまうような時代が来ると言いました。人間は創世記3章以降、人間の基準ではいけません。神の召しとは神が私たちを救われた。だから、召しのとおり、召されたままの状態であれば勝利すると言うことです。

TVのある番組を見ますと、なぜそんな番組があるのかわかりませんが夫婦喧嘩をする人たちのストーリーが放送されたりします。そのようなプログラムを作る理由はやはり夫婦喧嘩は多い時代だからでしょう。夫の話、妻の話、各自の立場でのいろいろな話があります。私はその番組を見ていて、あの人たちはテレビ局を出たあと、家に帰ったらまた喧嘩するだろうなと思いました。結局、夫婦クリニックとして一時的に仲直りさせますが結局また元に戻るでしょう。それを見ると特徴というのは自分の主張、自己主張、つまり自分の基準なのです。妻の方は自分の立場で話します。夫の方も自分の基準でしか話しません。わざと司会者が番組の雰囲気的にお互いに「ごめんなさい」とか「愛しています」と言わせて、そのときは一時的にそうなるかもしれませんが、また戻ったら喧嘩をします。私が思うに夫婦だけでなくあれが人間だと思います。多くの人たちが理解していないこと、神の御前に立つことは自分の自我を、創世記3章を捨てて神の御前に立つことです。創世記3章や6章、11章の基準を捨てて神の基準になることです。皆さんは早いうちから答えられる人になると思います。ヨセフのように早いときから自分ではなく神の基準を選択しました。モーセは最初、自分の基準でした。イスラエルの民を連れ出せと言われたときに、自分の基準であったのでその召しにNOと答えたのです。自分の基準でした。もちろん、自分の基準とはどのような基準か、私は完全なものではないと思うことです。人間は完全ではありません。神を信じていない人たちは基準を間違って置いています。人間は完全なものではありません。そして、救われることのできない人間です。だから、神が救いを与えると言われました。人間はまるで沼に落ちたかのように動けば動くほどどんどん陥ってしまうと言うことです。子どもが沼に落ちてしまいました。そこから這い上がることができません。なぜなら動けば動くほどもっと深いところに入ってしまいます。通りすがりの人がこう言います。「気をつけなさいと言ったでしょう」。それが倫理です。だれがわかりませんか。沼に落ちることを、気を付けなければならないということを。それは常識的に分かることです。ある人はこう言いました。「自分の力で起き上がりなさい」。それが宗教です。人間は自分の力で起き上がれません。そこでとにかく落ちた人がそこから出て来られるようになんの理由も聞かずロープを投げること、それが救いです。そのロープを子どもがつかむだけで引っぱれば上がってきます。それが救いです。私たち、クリスチャンになぜ答えがないのか。早くキャッチしなければなりません。

あれだけ勉強して、留学して、特に80歳まで勉学に励んだモーセは答えがありませんでした。モーセの信仰、その深い奥底に自分自身がありました。自我ありました。神ではありませんでした。しかも滅亡を受ける人間の本当の姿が何であるかもわからない自我を持っていました。だから、滅びてしまいました。モーセは言います。イスラエルの民を連れ出せという神の仰せに対しても「いいえ、私はできません」と。その夜、モーセを死ぬような羽目になるのです。でも、そこで変化が起きます。神がなさるのだ、この働きは。人間のいのちは神が主管される。そのときからモーセに新しい門が開かれていきます。

本当に難しいと言う状態に陥っている方はいらっしゃいますか。だまされないでください。人に相談とかしないでください。どこかに行って訴えないでください。神の御前に立ってください。または自分の基準を持ったまま神の御前に立ってみてください。わかるはずです。自分の基準を捨てて神の御前に立つとき、パウロはどんな人になったでしょうか。最高の苦難の中にいた人ですが最高に世界を生かすものになりました。では自分の基準を捨てたパウロはどんな人だったのでしょうか。見てみましょう。世の中の人々が、世を基準にしている人が大好きなものすべてをパウロはすでにちりあくただと言いました。レムナントもパウロのように成功してください。つまり、皆さんは成功の座に立ったとき、世の成功があるとしてもこれはちりあくただと告白できるほどの成功者になってください。

2.福音の力が現れる二番目の段階→ 神様の計画
では、福音の力が現れる二番目の段階はなにか。召されたままの状態。その二番目の段階はなにか。必ず神様の計画があると思ってください。神の計画があるから契約を握ってください。福音の力が現れる二番目の段階は、必ずこの事件に神の計画があると思うことです。それはどういうことでしょうか。周りから見るとヨセフは奴隷として売られたかのように見えるかもしれませんが、なんとそこに神の大きな計画があったのです。牢の中に閉じ込められました。しかし、そこになんと大きな神の計画がありました。長い年月、ダビデは逃亡生活をしました。しかし、そこに神の計画がありました。捕虜の時代、多くの人がいましたが神はシャデラク、メシャク、アベデネゴそしてダニエルを捕虜にしました。しかし、そこに神の計画がありました。私は歴史を見ながら別の祈りをささげています。今回も船の沈没事件で多くのこどもたちが犠牲になりました。しかし、その事件を目の前に他の祈りをしています。出エジプトをするとき多くの子どもたちが犠牲になりました。神の大きな計画があります。哀歌4章を見てもバビロンが捕虜にしていたとき、子どもたちが犠牲になりました。イエス様がお生まれになるときもマタイ2章を見ますと多くの子どもたちが虐殺されました。私たちはその当時はわかりません。頭も小さく基準が自分だから視野が狭いのです。見えません。しかし、なんと神の計画があります。世界を生かすと言う大きな計画があります。全家族が死にましたが、ジョン・ウェスレーは葬儀が行われる家にメッセージをしに行きました。事故によって全家族が死んでしまった家庭です。そして、生存者と他の親族たちがいらっしゃるところで葬儀を行われなければならない、そのメッセンジャーとしてウェスレーは行きました。ウェスレーはそこでメッセンジャーとして立ったとき、どんなメッセージをしたのでしょうか。例えば、一気に家族が皆死んでしまった環境、その家に対してウェスレーはこのようなメッセージをします。「皆さんは今回の事件で神様を恨むかもしれません。こんなことになってしまったのですから。または神様を恐れてしまう人もいるかもしれません。どちらか一つを選択してください」ジョン・ウェスレーのメッセージでした。こんな光景を目の前に神様、一体どうしてですかと恨むこと。また私たちのいのちの主管者である神を恐れかしこむと言う人もいると思います。どちらを選択するのか皆さん選択してくださいと言うメッセージをしたそうです。

3.福音の力が現れる三番目の段階→ 神様の祝福の門
 次です。福音の力が現れる第三番目の段階、どこで福音の力が現れるのか。それは絶望の中で現れるのです。皆さんがもっている葛藤の中で現れるのです。必ずそうです。皆さんが受けた危機の中で。だから、危機も葛藤もすべてとまどうことなく契約を握ればいいのです。なぜなら、エジプトに奴隷になることは必ずエジプトにかつ唯一の、また法律的にも合理的なことでした。そして、ヨセフが牢の中に入ることが政治家たちに会う一番唯一の方法でありました。インディアンの中でそこで生活をしていたモーセが一番、神様に恵まれる時期でした。ダビデも長い間、逃亡生活をしました。しかし、神様の恵みを受ける貴重な唯一の方法でした。実際にパウロはイエスを信じることになったあとに、また指名手配されるようなものでしたが、そこに神の力が現れたのです。では絶望の中にいた人たちをもっと挙げてみましょう。マルティン・ルターも代表的な人です。チュ・ギチョル牧師。生活して行く中でどうしてこんなことになってしまうのでしょうか。私たちの国が日本に植民地化されてしまう。名前も日本人名を使わなければならず言葉も日本語しか話せなくなってしまった。そのように夢のような話が歴史的に実際ありました。それだけではありません。日本の神社が町々につけられ、神社参拝をされました。つまり、今靖国神社で参拝が行われているかのような神社参拝がありました。それもよしとしましょう。今度は教会にも命令されました。教会の人たちにも神社参拝をしてほしいと。もっと深刻な話はすべての教会の人たちが神社参拝することに可決しました。私たちがする神社参拝は偶像崇拝ではなく、国のための、国家の意識的なものだからやろうとしました。しかし、そのことにチュ・ギチョル牧師を初めソン・ヤンウォン牧師はできないと否定しました。そして、彼らは絶望の中、牢の中に入れられてしまいました。教会がなくなるほど滅亡の状態になり、彼らは刑務所の中に入る。チュ・ギチョル牧師は刑務所の中で死んでしまいました。ソン・ヤンウォン牧師は刑務所から出てきましたが、チュ・ギチョル牧師は殉教しました。そんなに昔ではない話です。その事件以降、韓国を生かす祝福の土台としての大きな事件になりました。人々は分からないかもしれません。韓国はこのまま終わりません。世界福音化をする神の召しのままの姿を歩んで行くはずです。皆さんは目の前のことで判断してはいけません。未信者たちもそうです。福音を正しく理解しなければなりません。多くの人々は教会が福音を間違って悟ることによっていろいろなことをしていますが、まことの福音の姿、教会の姿はそうではありません。私はびっくりしたことがあります。ロシアに行っても中央アジアに行ってもどこに行っても韓国の人はいるということです。しかもうるさいなと思って振り向けば皆韓国の人でした。世界中どの国、こんなところにも韓国の人がいるのかというくらい、うるさい人は皆韓国人だったりします。その瞬間、私は思いました。なるほど、世界宣教のためだ。神様はこうやって散らしておいた。歴史的に神はこのように導いてくださったわけです。中国に行こうと上海、どこに行こうとみな韓国の人はいました。大きな民族でもないのに所々の国々に散らされています。私も昔、福音がよくわからない、そして、教会にまともに通っていないときに疑いばかりしていました。今は確信があるし、明確な証拠もあるのでそんなことはないのですが、そうでない状態のときは私はいつも揺れていました。宗教など皆同じだと思っていました。「祈れば本当に答えられるのだろうか」とそんなことばかり考えていました。祈ったり、みことばを握って祈るとかそんなことで本当に答えられるのだろうかといつも疑っていました。でもそこで重要なことがあります。そのように疑いばかり持っていたので自分も知らないうちにだんだんと自分は難しい人になっていたと気づいたのです。神様の恵みの中、私をそんなどん底の中から福音を悟るものにしました。福音を悟ったということだけがいいというわけではありません。本当は福音を悟ったあと、信仰生活をしている自分の姿を見ても、自分の姿で信仰生活をしているわけで本当の信仰生活はしていません。なぜなら、自分の基準を持っているのですから。救い主である神は私たちに本当に素晴らしい計画を持っています。ですから、絶望そのものに神の大きな計画があるのです。

今回の沈没事件によって韓国は大きく発展し祝福の国になって行くはずです。そして、多くの本当のことを悟るきっかけになりました。ある意味、神様は必要なことを悟らせるために知らせたのです。それでは皆さんを初め、レムナントの皆さんにもお話したいです。皆さん、奥義を持ってください。どんな奥義か。どの場所に行こうと、どこに行こうと祈れる奥義です。表に出さずに勝利できる奥義です。どこに属していようとどこにいようと祈りの力を持って勉強できるものになってください。どこに行こうと祈りの力を持ってその福音の力でビジネスをし事業を行ってください。なぜなら、おのおの召されたときのままの状態ということです。私がいつも皆さんに紹介しているクロスビー。その人は召されたままの状態でした。目の見えない人でしたが祈れるものでした。目が見えない者でしたが神の福音の力を体験していました。盲目でありましたが、目が見える私たち以上の福音を体験する者でした。多くの牧師先生方も信じていないその目に見えない世界をクロスビーは告白しました。御使いたちが御国からこの地へと往復する姿を見ました。またクロスビーは自分が行くすべての道に主が自分を導く。そして、自分が目が見えず歩けないものでしたが、しかし、目が見えない世界で道が見えていたと思います。全世界の人々の心を奪ったクロスビーの告白です。自分が行く道の導き者が主である。自分のいのちが耐えるまで導くのも主であると告白しました。毎日、毎日。クロスビーの告白です。渇いた血を1日中歩くことがあっても疲れないと言いました。そして、危ないところに自分が行くと大きな岩で自分をかくまってくれる。このような告白をクロスビーはしました。

結論
この力を持ってどこにでも行っていただきたいと思います。ある人はこう言いました。今私の仕事は礼拝を捧げることができないと言いました。もしもそのような職業を持っている人なら、今のような福音の力、福音の奥義を持っていてください。もちろん、教会に来て礼拝を捧げるのは一番ベストかもしれませんが、そうではない人はその奥義を持っていてください。そして、本当に召されたままのときの姿で、自分を捨てて神の基準を持つことです。皆さんが営んでいるビジネス、産業、すべて自分の基準ではなく神の基準でしてください。皆さんが勉強されている分野も自分の基準ではなく、神の福音の力のその基準でやってほしいです。皆さん、目先に難しいこと、絶望がありますか。絶対に神の計画を持ってやってください。計画があるのです。もっと驚くのは絶望したこと自体が門です。皆さんの門です。皆さんは召された時のままの状態で神の御前に立ってください。私は本当にシーバーが大好きです。なぜならその人はお掃除をする人でした。そして、ワナメイカーも大好きです。なぜなら本当に大変な中で小さなお店の店員さんからその人は長官にまでなりました。シーバーは掃除をする人でした。しかし、鉄鋼の王だと言われるくらいまで成功しました。なぜなら、彼らは自分が召されたときのままの状態で神の御前に立った方です。

これから何事も心配する必要がありません。ある意味、皆さんの今の考えの反対を取ってください。例えば、今苦難だと思われるなら、これは感謝だと思ってください。パウロは感謝だと言いました。皆さんにある問題、感謝だと告白してください。なぜならそれは本当にワンランク上の告白です。ダニエルは1日に3回祈ったのではなく、感謝しつつ祈ったと言われています。あなたがたのすべての思い煩いを求めなさいではなく、感謝しつつ求めなさいと言われました。そうすればすべてに優れた主があなたがたの思いと心を守ってくださると言われています。短い礼拝時間でした。しかし、人生に変化が起きる礼拝だったと思います。


(祈り)
神様、感謝します。私たちの疎い目が開かれるように願います。私たちの心、私たちの多くの霊的部分が開かれるときとなりますように。そして、まことの福音を持って本当に国家を生かすまことの証人となりますように。ひとりひとりの信徒の上に主の御手をもって祝福を与えてください。また全世界にいらっしゃるレムナントの上に神様が力を与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン