20150208 インマヌエル教会聖日1部


エリコ陥落の重要な時刻表
(ヨシュア6:12-21)


序論
▶イスラエル民族は、実は話すこともできないほどの苦しみを抱えていました。イスラエルの民は、エリコの町を通過してこそ、カナンの地に入国することができます。しかし、このエリコ城とても大きく、強いです。そして、大きな鉄の門で作られていたので、簡単に開くことができません。今まで歩んできたイスラエルの民は、ひょっとしたらここで死ぬかもしれないという状況でした。そのとき、神様はこう神様は仰せられました。エリコを倒せと。より正確に言えば、神様がエリコを倒すということでした。だから、エリコを回りなさいと言われました。とても重要な部分でもあります。私たちは現実問題にぶつかりますと、非常に苦しくなります。そして、揺れたりもします。さて、今日、皆さんは人生のエリコを崩していただきたいと思います。皆さんの現場にも強いエリコがあると思います。それを倒していただきたいと思います。多くの宣教師の方々がこちらに来ていらっしゃいますが、宣教現場のエリコを倒していただきたいと思います。
▶それではこのエリコとは何でしょうか。まずその部分から見ていきたいと思います。単純に大きな町だと考えてはいけません。時代ごと、国ごとに、そこには創世記3.6.11章の町があります。神様を信じることなく偶像崇拝し、私たち人間の力を示そうということです。その塔や大きな偶像が所々にありました。そうすると簡単なことです。すでに私たちは勝利したということです。女の子孫が蛇の頭を打ち砕くと言われました。箱舟の中に入れば生かされると言われました。すぐに滅ぼされるこのウルから離れなさい。そして、私が示す地へ向かいなさい。この契約をすでに握って出発しているのです。ですから、すべては勝利が決まっているものですから、倒すだけでよいということです。今日、このような祝福が皆さんにあるように願います。
▶それではどのようにエリコを倒すのか。もっと正確に言えば、エリコが崩される時刻表がいつかということです。この部分を、多くの宣教師の方々をはじめ、宣教師の方々のために祈っていらっしゃる皆様が握っていただきたいと思います。実は私という自分自身の自我を下ろして福音を握ることによって、創世記章の問題はなくなります。私たちは肉的な基準はすべて下して、契約、箱舟を握ることによって勝利します。自分の名を挙げようと言う聖句の動機を捨てて、本当に契約を握るならば、アブラハムのような祝福を受けるようになります。そうすると目の前のエリコは崩れていきます。それでは今日、皆さんはとても大きな3つを握っていただきたいと思います。
▶そのポイントはエリコ、果たしていつの時刻表になったら崩れるのかということです。

1.神様のみことばを正確に握った時だ
▶まず一つ目は、神のみことばを正確に握ったときです。すでに仰せられました。
1)彼らの王や指導者たちは、皆逃げました。隣人たちはすでにもうおののいている。私たちは行くだけでよい。すでにみことばが成就される姿を彼らは見ているのです。
▶みことばを握りなさいと言いますと、人々は、自分のみことばを自分の基準に合わせて無理やり引っ張ってきて握ります。牧師先生もそのように説教をします。それは失敗です。そうするとエリコは崩れません。それをよく知らなければなりません。聖書はあちらこちらにたくさんのみことばが記録されています。例えば、この世の中は空の空だと考えて拝んでしまうと、他の宗教と同じことになってしまいます。そのようにみことばを握ってはいけません。そのやり方ではエリコは崩れません。エリコは、神様が私に本当に与えてくださったみことばを握るとき崩れます。
2)このみことばは、モーセに約束されたみことばです。エリコを崩し、カナンに入国するということは、すでにモーセに仰せられた約束だったのです。このように正確にみことばを握るべきです。例えば、自分に合うようなみことばを引っぱりだして、これは私のものというように握りますと、エリコは崩れません。みことばは普通のみことばではありません。血のいけにえをささげに行きなさい。私は力の御手であなたとともにいる。そのような火の柱、雲の柱で、マナとウズラを持って、のどが渇いたときに泉の源泉を、そして、紅海の奇跡を与えました。先週も確認しました。ヨルダンを渡りました。その契約をすべて握って、エリコを崩せということでした。
▶とても重要なみことばです。皆さんが苦しみに遭ったときに、問題にぶつかったときに、みことばを握るだけで勝利します。でも、問題はその握り方に問題があるということです。みことばを正確に握って行かなければなりません。そうすると御働きが起きます。私の知り合いの方で、ここで訓練を受けて自分のところに戻られたときに、高い所から落ちてしまって3か月間くらい体が動かなくなりました。そのとき、誰かが来てみことばを読んであげました。例えば、ヨハネ1:12。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」、そのみことばをやっとの思いで、続いて言うようになりました。その人はそのみことばをどのように受けたのか。なるほど、今まで私は知らなかった。私が今、病気をしていることは問題ではない。死ぬということも問題ではない。ひょっとしたら私は福音も知らない、神様もまともに知らないゆえにこうやって死んでいったかもしれない。というような感覚から、キリスト、その名を信じる者は神の子どもになるのだなということを本当に受け入れたのです。この聖句は私たちが知っている言葉、また、人に伝えている言葉です。この人は本当にそのみことばを受け止めました。なるほど。だから、神様は、イエス・キリストを遣わされたのだ。私はもう死んでも構わない。このようにエリコは崩れていきました。そして、祈っていたら、なんと突然、力がわいてきました。それで身動きができなかった人が、受話器をあげて旦那さんにも電話をかけるくらいになりました。そして、お話ししました。私は動きましたよと。コーヒーもまともに飲めなかったような人がです。そして、その人はタラッパンをやっていらっしゃらない教会なのですが、自分の教会に牧師先生に許可を貰って、うちの教会のタラッパンの訓練を受けました。教会の名前を挙げてもよいのですが、釜山の教会の方です。
▶もう一人の方をご紹介しますと、この方は執事さんでしたが、船に乗る船長さんでした。癌にかかってしまいました。その瞬間、神様のみことばを握りました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」。私たちは、どのようにみことばを受けるのか。聖霊が臨まれると力が私に来るのか。そうしたら、癌が治るのだな。じゃ握ろう。このように握るのですが、そういう握り方ではなくて、この執事さんは証人になると言われたのに、私は今までどういう生き方をしてきたのかと悔い改めるようになりました。証人となりますと言ったのに、私は一度も証人になったことがない。それで病気をしながらも、すべての親戚や友人に電話を入れました。「私は今、癌になってこれから死ぬかもしれない。今まであなたに言いたかったことがあったけれど言えなかった。それは何かと言いますと、イエス・キリストでないと救いの道はない。今までその言葉を伝えることができなかった。私もこれを知らずにいて今、癌になってしまったけれど、でも、それが問題ではなく、あなたがたが救われて欲しい」とみことばを伝えていくようになりました。その瞬間、エリコは崩れていきます。そして、この執事さんは癌が治りました。その方が私のところに来て「先生。私は癌のように見えますか」「いいえ。見えません。病院に行って再検査をしましたか」「いいえ。3か月後に死にますと医者に言われたのに、今、3年経っても生きています」。病気が治ったということがポイントではありません。みことばを握るときの働きをお話しているのです。今日、皆さんは力を受けていただきたいと思います。そして、本当に信じていただきたいと思います。多くのクリスチャンが自分に合うみことばだけを持って来て自分のものだと握ります。しかもタイミングも合わない。今、そのみことばを握るような場合ではないのに、気にいるからそれを持って来て自分のものにする。それではみことばは成就しません。今日、正確にみことばを握るなら、それこそ皆さんのエリコが崩れます。

2.神様のみことば握ってエリコを回りなさい
▶では、次です。どのようにエリコは崩れるのか。今日の本文に、重要なみことばが宣べられています。どのようなみことばが書いてあるでしょうか。エリコを回りなさいと書いてあります。なぜ回らなければならないのでしょうか。みことばを握って回りなさい。なぜでしょうか。
1)昔、ヨシュアに言われた言葉がります。一生、誰もあなたに立ち向かうことができない。特に、モーセとともにいた神のように、私はあなたとともにいると言われました。私は一生、あなたを離れない。あなたを捨てることがない。強くあれ、雄々しくあれと言われました。そして、左にも右にも揺れるな。わたしはすべてのことによってあなたをよくすると言われました。わたしがあなたに命じたのではないかと言われました。このみことばを握って回るということです。回れ。回るということをよく黙想してみましょう。
▶ある人は回るというみことばを握って、他人の家の周りを本当に回ったそうです。それも良しとします。教会堂を建てたいけれども土地がないから、人の土地の周りを毎日回ったそうです。すると、その土地のオーナーが来て、「人の土地に来て何をそうやって回っているのですか」と言われたそうです。「私はこの土地を買いたいからです」「本当に買うのですか。じゃあ、こちらにいらっしゃい」。これはいくらいくらですと言ったら、回った方はある牧師夫人だったのですが、牧師夫人は言いました。名前は言えません。「お金がありません」。すると、オーナーが「お金もないのにどうやって買うのですか」と言いました。「だから、回りました。お金がないから回りました」。オーナーは呆れてしまいました。「一体、あなたは何をしたいのですか」「教会を建てたいのです」「教会を建てるのにも金もなくて建てられるのですか」とオーナーは心配そうに話しました。牧師夫人は言いました。「青少年に福音を伝え、麻薬をしたりシンナーをやったりする学生たちに福音を伝え、彼らは更生しました。でも、あまりにもたくさん集まってきた彼らを受け入れられる場所がないのです」。その言葉に感動を受けたオーナーは、銀行に一緒に行って融資を貰ったりいろいろして、結局は、その場所に教会を建てました。
2)では、今日の本文で回れという言葉はどのような意味なのか。主の箱とともに回れ。主の箱、これは契約の箱です。毎日、回りなさい。最終日は7回まわりなさい。10節はとても重要です。ヨシュアは民に命じて言った。「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない」。何も言わずに回りなさい。これがエリコを崩す第2のkeyです。
▶何も言葉を出してはならないということなのですが、どういう意味か。回れということは大きく祈りなさいという意味です。では、祈るということは、誰もが分からない言葉ではありません。この部分は、本当に神様とともにいるという奥義を味わっていくならば、エリコは崩れて行くということです。本当に私が神様とともにいるということを分かるならば言葉はいらないということです。イスラエルの民は、言葉数が多かったです。実際に多くの人々は祈りの奥義が分からないから、この人に、あの人にいろいろな言葉を話してしまいます。例えば、教会のこと、牧師のこと、執事のこと、長老のこと、いろいろなことを言い出す人というのは、本人に祈りの答えがないからです。自分に答えがあるなら言葉はいりません。自分に答えがあるなら、どんな人も尊く貴重に思うはずです。でも、自分に答えがなければ、例えば、すぐ隣の人を例えると、答えがない人は「あなたはどうして私より英語がそんなにペラペラなのか」とか「あなたはどうして咳をするのですか」となってしまうのです。でも、私に答えがあるなら「ああ、咳をしているが、あの父親は本当に尊いな」「この人は英語がペラペラで本当に福音のためにこうされたのだな」「ああやって貴重な人が楽器を使って神様に仕えるようにさせたのだな」と思います。まずはその部分から整えたあと、カナンの地に入らなければなりません。回るときに口を開けてはならないということです。これはしゃべりたいのに我慢しなさいという意味ではありません。エリコを崩すには言葉はいらないという意味です。皆さんの人生の大きなエリコを崩すには、ことばいらないということです。それは神様が私とともにいるという奥義さえあるならば崩れるということです。これが「ただ」の奥義です。これがTIMEです。
▶聖書を見て勝手に解釈して回ると思って、「じゃあ回ろう」となるのが、解釈できていることではありません。最後は7回だから、皆で「主よ」と叫びながら回ろうという意味ではありません。どんな契約役でも必ず倒すと主はすでに仰せられた言葉で、成就のみことば、それを握って信じて口を閉じてインマヌエルを味わいながら今、祈っていくということです。それが回るということです。そのような奥義を見つけていかなければなりません。

3.隠された宝を見つけなさい
▶では、3番目です。本文に、このようなお願いがありました。
1)物質をむさぼってはいけない。
2)遊女ラハブを探しなさい。これが重要です。
▶皆さんいかがでしょうか。私は伝道現場に行き、30人を受け入れさせたことがあるのですが、その30人の名前と電話番号を記録して書いて来ました。家に帰ってきて電話をかけて見ると、なんと30人のうち29人がでたらめな電話番号を教えてくれたのでした。そして、ひとりは電話をかけて見ると、電話のベルはなるのですが受けてくれません。そのような現場での伝道をした後に見ると、伝道もしていないのに自分の足で自ら教会に来ている人を見ると奇跡だなと思います。皆さんが伝道のために現場に行って、本当に未信者がキリストをまともに受け入れて信じるということはすごく大変なことです。でも、もしもその未信者が本当にイエス・キリストを受け入れて弟子になったとします。そういう人が一人でもいらっしゃるとしたら、それはエリコが崩れます。私たちはタラッパンをやっているのでよく見てください。すでにクリスチャンだったとか、既存の信徒だったとかという方が多くいらっしゃいませんか。このような話をしているのは宣教師の方々、海外にいらっしゃる皆さん、よく聞いていただきたいと思います。私が100回以上、現場に行ったとしても、同じ現場に行って未信者を見つけて救い出すということは本当に大変なことなのです。Ⅰペテロ1:9のように、神様の結論、聖書の目的は、魂の救いにあります。ですから、私たちがずっと回りながら、祈りながら、その現場にいる弟子たちが起こされて救われるということは、本当にみことばを握って結論です。実際に伝道現場に行って未信者を救うということは、ほとんどできません。皆、既存の信徒たちで、そのような人たちを握ってタラッパンやみことば運動をああだ、こうだと愚痴をこぼしながらやっている人達がほとんどです。皆さんいかがでしょうか。伝道現場に行っていらっしゃる方たちは目を開いてほしいのですが、皆さんがやっている伝道は序論にすぎないかもしれません。つまり、3番の結論は、未信者がキリストを受け入れ弟子になることが、エリコが崩れるということです。だから、私たちが心を込めて精神を尽くして海外の宣教師や多くの方たちのために祈ることです。未信者一人が救われるということは、エリコは崩れるということです。物質も財産も物もいらない、動物もいらない、家畜もいらない、遊女ラハブだけを見つけなさいということ、これがエリコを回る理由だったということです。
▶私と一緒に伝道運動を長くしていたある方が、もちろん今はタラッパンをやっていらっしゃらない方なのですが、昔、初期のころは少しタラッパンをやっていらっしゃった経験があります。その方が開拓を始めまして、私を招いてメッセージをしてほしいと言ってきました。私は行きました。行って見ると、皆、集まっていいました。びっくりしたことがあります。集まっている人が皆、私が知っている人だったのです。だから、その開拓された牧師先生にお話ししました。あなたは開拓したわけではない。それはまるで結婚に例えると再婚したのと同じだと。自分で教会を建てて、あちらこちらいろいろな人をかき集めて開拓したと言っているが、それは開拓ではありません。未信者が救われて、そこに来なければなりません。未信者伝道がなっていないのです。派遣されている多くの宣教師や現場で働いている多くの伝道者たちは、いろいろな苦労をしているかもしれませんが、いつのタイミングかわからないけれども、未信者が来て受け入れます。
▶タラッパンは何か。いつ聞くか分からないので、常に開いて、待つことです。そして、ミッションホームは何か。いつのタイミングで来るか分からないけれども、救われるべく備えられた人が救われるためにオープンされなければならないのがミッションホームです。救いの時刻表は、私たちには調整できません。神がなさることですから。だから、常にエリコが崩す用意をしていかなければなりません。その準備をしていただきたいと思います。こちらにいらっしゃる信徒の皆さん。「今週は宣教大会だからちょっと献金をしようか」。それが宣教大会ではありません。神様がご覧になるのは何か。ラハブです。そのラハブの子孫によってダビデの王が生まれました。もちろん、肉的な話かもしれませんが、その子孫によってキリストがお生まれになったということは、どれぐらいすごいことなのでしょうか。みことばを正しく握ったということは、みことばを握り正しい祈り、そして、未信者の伝道までと、エリコが崩れることです。

結論
▶結論を結びます。問題はアカンです。戦争が終わってみると、金、銀、青磁の器などいろいろあるが、ヨシュアは絶対に欲張ってはならないと言ったのに欲張ってしまったのです。いろいろな洋服も見ると高価に見えました。金銀を自分の家に持っていってしまいました。これを神様が見て放っておきません。なぜこのアカンはこれを欲しがってしまったのでしょうか。名前がアカンであかんことをしてしまいました。どうしてでしょうか。ものを見て心が変わったのでしょうか。私はそう思いません。このアカンがやったことは、アカンは本来、こういう性質の人なわけです。自分の体質が変わらなかったということです。誰かが言いました。今、神様をだまして、私たちの中で罪を犯している者がいる。ユダの部族の人だ。そうするとアカンは震えながら「わたしです。すみませんでした」と言わなければなりません。でも、まったく太い顔をして出ていきません。そして、今度はゼラフの部族だと言われるのですが、黙って出ていきません。元々、そういう人たちは悔い改めません。全く自分がやっていないようなふりをします。そして、今度はザブディの子だと言われ、良心的に刺さらなければならないのに、アカンは完全に黙っています。最終的には、カルミの子とまで言われてしまいました。そうすると手を挙げて「自分です」と言わなければなりません。でも、出ていきません。だから、もうストレートに言いました。アカン、なぜおまえはそんなことをしたのか。聖絶のものをなぜとってしまったのかと。
▶エリコの問題ではなく、このアカンが問題でした。でも、皆さん、心配することはありません。アカンは自滅してしまったのです。では、私たちもこの問題に対して、心配する必要はありません。結局、自滅する人は自分で自滅していきます。他人が横で何をしようと、そういうことに不平不満を言うことなく、皆さん、みことばを祈る伝道で契約を握っていただきたいと思います。今日、エリコは崩れていく3つのポイントを握っていただきたいと思います。今日、重職者の集いもありますし、2部礼拝でも皆さんに申し上げたいと思います。
▶今回は宣教大会です。今週、本当に契約握ってやっていただきたいと思います。私の現場のエリコ、私のエリコをどう崩すのか。宣教は何か。みことばを正しく握ることです。自分たちの問題に対して理論的にああだ、こうだと語ることは意味がありません。本当の契約は契約を握ることです。本当の伝道は何でしょうか。それを知るときエリコが崩れます。私が見るに、どんな宣教師であろうと宣教師ひとりひとりは本当に大切だと思います。なぜならあの海外で現場で未信者伝道のために苦労しているということは誰もできないことです。私たちはそれを知っているうえで祈るべきです。そして、私たちがやっている献身は、それを自慢してはなりません。なぜなら私たちは感謝すべきです。私たちが行ってできないことを宣教師の方たちがやっていらっしゃるわけですから。最高に祝福されるべき方たちだと思います。
▶今日、本当に尊い祝福に預かりますようお祈りします


(祈り)
神様、感謝いたします。エリコが崩れる一日となりますように。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。