地域(区域)教材 2015.03.08

10課
礼拝対象の回復
(マタイ福音4:8-11)

  

*地域(区域)教材資料*
▲礼拝を回復するためには、礼拝の対象に対する正しい理解と確固たる信仰がなければなりません。近頃、礼拝の姿を見れば「だれのための、何のための礼拝なのか」はたして神様がこれを喜ばれるだろうかという疑問を持つことがあります。人々が礼拝堂に出てくるようにしようと、礼拝さえも人を喜ばせようとするならば、結局、本質から抜け出して失敗するのです。人を楽しくしようとする礼拝から、三位一体の神様に栄光をささげる礼拝に回復しなければなりません。
▲礼拝の対象は三位一体の神様です。ウェストミンスター信仰告白で、21章1節目には、「宗教的礼拝は父と御子と聖霊の神様にささげるべきで、また、ただその方にだけささげなければならない。御使いや聖職者や、他のどんな被造物にもささげてはいけない」として、聖書には徹底的に主なる神様だけ礼拝して仕えることと(マタイ4:10、申6:13引用)父を敬うように御子を敬うこと,(ヨハネ5:23)そして、父と御子を敬うように聖霊を敬うこと(Uコリント13:13)をあかししています。
▲総会憲法の中の礼拝模範2章3節では「私たちの礼拝の対象は、全能な神様だから、すべての礼拝の目的と内容は、人間中心的なものにしてはならず、ただ神様にだけ栄光と感謝と賛美をささげるように準備されなければならない」と言われています。ローマカトリック教会がマリア、御使い、御子、聖火、聖なる物を崇拝するのは、あきらかに非聖書的な教えで、偶像崇拝であることも、はっきりと知らなければなりません。
▲三位の神様を礼拝の対象にしなければならない理由は何でしょうか。三位の神様は、宇宙の初めに天地を創造された方で(創世記1:1)御子は神様で(ヨハネ1:1)神様(父)とともにおられ(ヨハネ1:2)すべての万物がその方によって造られ(ヨハネ1:3)天地を創造された時も(創世記1:2)人を造られた時も、三位の神様がともに相談されて(創世記1:26,27)摂理されたことであり、ローマで8章30節のあらかじめ定められた(予定)方は父で、呼ばれた(召命)は聖霊であり、義と認めてくださった(義認)は御子であり、この三位の神様が救われた者を栄光を与えられ、また、審判の主であるためです。三位の神様が、この世でも賞善罰悪の審判を行なわれることはもちろん、世の終わりの日に完全な審判を行なわれるということは、すべての聖書の教えです。
▲人を楽しませようとする人中心の礼拝から、神様に栄光をささげる神様を対象にした礼拝に回復して、マリア、御使い、聖人、聖なる物を礼拝する誤ったローマカトリックをしりぞけて、ただ三位一体の神様おひとりを対象にした礼拝に回復してこそ、まことの礼拝の改革が成されるでしょう。
(The end)



*地域(区域)教材10課-録音資料*
*序論
▲今週の教材は礼拝対象です。多くの人々が目に見える偶像に仕えるのですが、神様はそのようなところに閉じ込められません。ところで、なぜ仏像の前に行ってずっとお辞儀をするのに答えが来るのでしょうか。また、寺では自分の願いを壺の中に置いておけば答えがくるということもあるが、どうして、それで答えが来るのでしょうか。みなさんが山に行って石の前にお辞儀をするのに、どうしてその願いが成就するのでしょうか。ひとまず、私たちが心理的に多くの平安がくることもあります。しかし、そこには必ず悪霊の働きが起きるのです。
▲それで、聖書には偶像崇拝をしてはならないと言いました。マタイ4:1-11には重要なみことばが出てきます。悪魔がイエス様にあえて来たのです。イエス様が断食している間に悪魔がイエス様にきて、した話です。何と話したのでしょうか。今、イエス様がお腹がすいているとき、パンのような石を持ってきました。そして、これをパンにしなさいと言ったのです。どれくらい良い話でしょうか。お腹がへっているのに、パンのような石を持ってきてパンにしなさい。そのとき、イエス様が言われたのは、人はパンだけで生きるのではなく、神様のみことばで生きると答えられました。空腹だと思ってきたのです。それで、私たちはそんなことを注意しなければなりません。空腹だと思ってきてパンにしなさいと言いました。イエス様が今、大変なことを計画しているのだと思って、来てあなたがあの神殿のてっぺんから飛び降りてみなさいと言いました。あなたにはできないのか。聖書のみことばまで引用して、あなたが飛び降りれば、御使いがきて、あなたをささえると書いてあるではないか。この悪魔は神様のみことばも引用します。そこでイエス様は、あなたの神である主を試みてはならないとみことばで答えられました。全部、答えは申命記のみことばを持って答えられました。ですから、最後の目標を表わしたのです。おまえは私をおがめ。そうすれば、この天下をみなおまえに与える。そのとき、イエス様が言われたみことばは、あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよと言われたのです。サタンの目標は最後のそれです。何でしょうか。礼拝対象を変えろということです。みなさんが礼拝だけ失敗すれば良いのです。これが悪魔の最後の目標です。パンにしなさいということは、他の見方をすれば一理ある話ではないでしょうか。お腹がすいているから。私たちが、向こう見ずなことをしようとしたり、何かをしようとするとき、飛び降りてみたら神様が御使いを送ってささえてくださるだろう、という話で誘惑をしたのです。前の2つを見れば、おもに食べること、肉的なことを持って試みます。食べて生きなければならないからです。アダムとエバにも、近づいてきて一番最初に試みたのが食べることでした。善悪の知識の木の実を取って食べなさい。そして、二つ目の試みが名誉です。私たちは名誉を持つことを願い、成功することを望むのではないでしょうか。それを利用して飛び降りてみなさいと言いました。しかし、その2つのことは序論だと見れば良いのです。神様に礼拝せずに私をおがめ。天下を見せながら、これをみなあなたに与える。みなさんにものすごい財産と世の中を全部見せてくれながら与えるというのです・・・
▲このように私たちは誘惑にあいやすいのです。それゆえ、みなさんが礼拝だけ奪われなければ成功することができます。

1.礼拝
▲今日もそうですが、みなさんが一番重要な祝福が礼拝です。
1)マタイ18:18-20(集い)
▲二人三人がわたしの名で集まって祈れば何でも答えます。それが何でしょうか。集いを言います。礼拝です。
2)使徒2:1-47
▲みなさんが今日、礼拝をささげる中で必ず神様のみことばを捜し出して、この力を体験しなければなりません。みなさんが下手すると、教会にきて、いろいろ考えをするようになるのですが、そのようにせずに、この力を体験するのが礼拝に重要なのです。
3)使徒3:1(一人で)
▲これを持ってみなさん個人が一人でいとき、短くても、定刻祈りをしなければなりません。午後三時の祈りの時間に・・・必ず銘記しなければなりません。
▲地域(区域)礼拝に集まったり、教会にきて礼拝をささげたり、みなさんが地教会の集いをしたり、必ず礼拝するときは、神様の計画が一つずつ成されます。これを捜し出さなければなりません。多くの人々がこれをのがしたのですが、必ず礼拝する時は、神様の重要な計画が一個ずつ成されるのです。そして、神様がくださる力を得るのが礼拝です。これを持って一人で少しだけ味わえば、答えがき始めます。このようにすれば良いのです。
▲今日、祈りよくする中で礼拝をささげれば、みなさんの生涯で最も重要なことを神様がご存知で答えの門を開けてくださいます。問題が来ていても大丈夫です。答えがあるからです。みなさんにひょっとして大きい困難が来ていても大丈夫です。神様がくださる力を得れば見えるのですが、そのとき、重要な答えがきます。
▲それゆえ、礼拝に成功するということは最高に重要なことで、サタンが最も防ごうとすることなのです。私をおがめということは、神様に礼拝するなということです。そこで、イエス様が『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてあると答えられたのです。

2.三位一体の神様
▲それでは礼拝対象が神様ではないでしょうか。この三位一体の神様の働きが礼拝のときに起きるのですが、私たちの礼拝の対象が神様ということです。ところで、目に見えません。
1)ヨハネ4:24 -無所不在(在あらざる所ところ無なしということ)
▲礼拝の時ごとに「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」礼拝の最も大きい失敗が、目に見えることを見つけようとすることですが、神様は霊です。目に見えれば神様ではありません。人がこのように作っておいた仏像も、人が作ったことではないでしょうか。神様は霊だということは、おられないところがないということです。無所不在です。
2)イザヤ40:27-31 ?無所不能(全能)
▲イザヤ40:27-31には何となっているのでしょうか。神様のみことばを話して、ただ主を待ち望む者は新しい力を得る。なぜそうでしょうか。神様にはできないことがありません。無所不能(全能)。これは神学的な用語です。みなさんは重職者ですから、そのような単語があるんだなと理解すれば良いでしょう。
3)Iコリント2:1-12 -無所不知(全知)
▲こういうみことばがあります。私たちの人間がいくら賢くても、神様ぐらい分かるでしょうか。神様が聖霊で私たちに教えられるのではないでしょうか。神様は知らないことがありません。
▲目に見えない神様がこのように私たちとともにおられるのに、私たちがここに霊的に礼拝するということです。これが霊的な祝福をまったく知らない人々が見るときは、それは何の話かというでしょうが、霊的なとを知っている人には最も重要な話となります。漢字で書くと、無所不在、おられないところがない。無所ということばは、ないということばです。何がないのでしょうか。不在の所がないのです。すなわち、どこでもおられるのです。今でも聖霊で私たちとともにおられて、みなさんの現場とこの場に、また行く前に、霊的に神様はすべてのことを統治されます。無所不能、できないことがありません。これが神様です。無所不知、知らないことがない。これは神学的用語です。わざわざ使ったのは、みなさんが重職者だから、そんな単語があるんだなということを理解しなければならないのです。神様は無所不能だと話せば、みなさんが重職者なので、無所不能が何かと問い直してはいけません。神学的な用語で、こういうことばがあると理解してください。

3.味わうこと
▲重職者が必ずともに味わうこと。礼拝した後には必ずしてみてください。
1)教会フォーラム
▲教会とは何でしょうか。ここに対する今日受けた答えが何かフォーラムしてみましょう。嘘をつけばあまり力がないのですが、みなさんが本当にこの答えを受ければ、とても相手に力を与えることができます。教会の信徒が揺れていて、重職者の答えを受けたみことば一つに力を受けるようになります。私たちの教会のある青年は、とても試験も落ちて就職もだめだったのですが、長老1人が力を与えて、この人が大きい答えを受けたのです。それを教会フォーラム、あるいは、みことばフォーラムと言います。この程度は私たちの重職者がすれば良いのです。
2)現場フォーラム
▲しばしばしていれば、答えがきます。そうすれば、現場でこのみことばを分かち合うことを少しすれば、現場に門が開かれます。こういう部分は大きく大変なのではありません。誰でもできるのです。それで、重職者の方は、礼拝に関する祝福をよく味わうようになれば、今すぐ答えが来なくても、時間が過ぎれば正確にきます。みなさんが礼拝を格別意味なくのがして、教会に対する意味ものがして、みなのがしてしまえば、存在意味をのがしたのです。そうではないでしょうか。何でもないように見られるのですが、存在意味がないのです。このようになれば、後ほど大きい問題がきます。そうすれば、なぜそうなのかを知らなくて、なぜこうなるのかと言うのです。みなさんが生きているのが神様のみこころということです。そうでしょう。それなら、ここに座ったのが神様のみこころです。それでは、全国の教会がメッセージを聞いているのですが、みなさんの教会が神様のみこころだということです。それを分かってこそ、礼拝が何かを知るようになります。そうすれば、神様の最も計画があるみなさんに、私は神様のみことばを持ってお手伝いしたのです。あえて説教をすると言いますが、単語が説教しかないからで、事実は、お手伝いしに来たのです。それなら、私にはすばらしい意味ある時間で、みなさんに重要な時間になるのです。ですから、いつでもみなさんが生きる中で困難がきたり、また成功しても、この部分(2番)を記憶しなければなりません。神様は目に見えないように、すべての所におられます。創造主の神様は、何でもなさることができます。私たちの人間は限界がありますが、神様はご存知でないことがありません。この祝福を味わうほど、フォーラムが成り立つのです。
3)ミッションホーム フォーラム
▲このように少しして、みなさんが答えを受ければ、みなさんの家がミッションホームになるのです。それでは、みなさんの家に人々が集まるとき恵み受けて、また、レムナントが集まって恵みを受けるようになります。少なくとも、みなさんが祝福を受けて、海外からレムナントがくれば我が家にきて生活しながら、祈りもして恵みも受けて伝道するようにしなければならないとまで準備されられなければなりません。前にレムナント大会をしたとき、外国から来た子どもたちが私たちの重職者の家にみんな行きました。その子たちが重要な話をしたのです。そのときは知らなかったが、良くしてくれて、感謝していたのだが、ずっと瞬間瞬間に思い出せたということです。また、他の町に行けば、また思い出すということです。人というのは、どこか動く時があるでしょう。それではそのとき、私が韓国に行ってある長老の家であった、それがずっと思い出せるということです。そして、その家族の雰囲気とか祈りながら答えを受けた証しや、そういうものが子どもたちに一生続くのです。それがミッションホームフォーラムです。
▲みなさんは重職者だから、こういう神学的なものも、少し理解をしなければなりません。

*伝道講義10-重職者が分からなければならないこと*
▲今、私たちの重職者の方が第一によく知らずにいることがいくつかあります。
1.教会法(堂会)
▲教会の法。重職者が知っておられなければなりません。もしかして、みなさんが年をとって、少しの間、外国に出て、また外国で地教会する事もあり、他の地域ですることもあるではないでしょうか。

2.老会法(牧師会)
▲想像以上に、重職者が老会法もよく知りません。老会に行けば、問題をたくさん扱うから悪いところだと思っています。そうではないでしょうか。老会に行けば、ある長老の子どもが結婚式したので祝おうというこういう話はしません。そうでしょう。老会に行けば、どうしても問題が起きたことを扱うということです。ですから、正しい、正しくないという攻防がなされます。それゆえ、だれかが見るときは、必ず戦うように見えるのです。

3.総会法(連合)
▲想像以上に、みなさんが総会がなぜあるかをよく知りません。

4.聖書整理(重職者大学院)
▲そして、どうしてもみなさんが一般信徒であるので、見ると、神様のみことばなど、こういう部分が全体的にどうしても整理するのが難しいのです。

5.神学的に起きた問題(一般信徒神学校)
▲そして、どうしても社会生活するのに忙しいので、仕事をしていれば、どこにまた問題が来るのでしょうか。神学的に起きた問題をよく知らなくなります。
▲ですから、こういう部分をみなさんが少しずつ勉強しなければなりません。それゆえ、私たちが今、重職者の中で働きをよくする方たちには、私たちの一般信徒神学校があるのではないでしょうか。私が昨日、一般信徒神学校を呼んで指示したのですが、一般信徒が働きをするから、神学的なことを知らなければ失敗するようになるから教えなさいと言いました。その目標で作ったのです。多くの人々が神学的に知らないから、残念なことにしばしば失敗をします。そして、聖書も実際によく整理されていません。これをするのが重職者大学院です。それゆえ、重職者大学院では、方向を聖書のみことばを全体的に知ることができるように、このように方向を定めなければなりません。多くの人々が教会に対する部分をよく知りません。教会はすべての信徒がひとつのからだに成し遂げる器官です。ですから、醜い人もいて、優秀な人もいるのです。それがみな合わされて教会になるのです。事実上、みなさんの口と足の指とは差がたくさんあるでしょう。距離も違いが生じて、とても違います。一日中歩き回るならば、においがするのに洗えば良いので、切ってはいけないのではないでしょうか。そして、口はいつも味わって話す役割をします。また、手足はいつも働きだけします。このように、ひとつのからだになるのです。手足が言うのに、私たちがもう仕事をするのをやめよう、私たちは思い切り仕事をして、口だけおいしいものをみな食べるので、するのをやめよう。それで食べなければ、一番最初に手足に力が抜けます。それがひとつのからだです。これが教会です。そうすれば、教会がいつも集まって会議することはできません。そうでしょう。それで諸職会があるのです。諸職会を毎週、集まることはできません。それで、可能ならば、みなさんの意見を神様とともに行けるようにするために作ったのが堂会です。それゆえ、重要なことがある時は、堂会が教会を代表して話合いして祈って、そこに担任牧師がサインすればOK。これが神様のみこころです。ところで、こういうものをあまりに知りません。韓国ではちょっと大丈夫ですが、外国を見れば、問題が起きれば、全く知らないのです。それでこの長老はこのように、あの長老はあのようにするから混乱がくるのです。そのとき集まって、神様の計画が何か祈りながら互いに見るのです。この教会をよく正しく行くようにいつも祈って研究して法的に干渉してするのが老会です。簡単に話せば、老会は一言で話せば、教会を安らかにさせるための牧師の会と見れば良いでしょう。それで、牧師按手は老会で与えるのです。牧師按手は教会で与えるのでなく老会で与えます。堂会員や按手執事、勧士、執事は教会で与えるのです。外部からくるのはお客さんであって、私たちの教会で立てるのです。堂会員という言葉は、教会員ということです。それで、もし担任牧師が空席の場合、老会で臨時牧師を立てるのです。それを臨時堂会長と言います。私たちの教会は牧師もなくて、堂会長もいないのですが。それで、インマヌエル地教会あるいはイエウォン地教会このように言うのです。イエウォン地教会ということは、イエウォン教会に属している地域教会ということです。それでは、その堂会長はイエウォン教会にいるのです。これらすべてのものを集めておいて、一年に一回ずつ検討する連合的なものが総会です。たくさん分かれば良いのですが、重職者はこの程度は知っていてこそ、だれかを指導することもできるでしょう。アメリカでは長老がびっくりして電話がきたのです。今、私たちが牧師がおられないのに、老会から臨時堂会長を送るそうです。なぜ自分たち勝手に送りますかと言いました。それは法と言ったら、何かそのような悪い法があるのかと言いました。いや、悪い法ではありません。なぜ私たちの教会なのに自分勝手に送るかと言いました。それで、大変なことになったんだなあと思ったのです。全く長老が教会法、老会法を知らないのです。それでは干渉するべきで、例えば牧師が空いているのに、新天地が入ってくれば、どうするのでしょうか。みなさんは神学的にだめになっているからわからないということです。それゆえ、老会が見て検討するのです。その人がひょっとして神学に問題が有るか無いか、おかしな人かどうかを見るのです。それで、重職者はこういう法を知っていてこそ、教会信徒が何かをするとき、指導してあげて、また現場で尋ねれば話してあげるのです。総会は何をするところなのでしょうか。1年に一回ずつ集まってすべての法を改正したり正すところです。必要です。私たちも定期国会で法を扱うようにそのようにするのです。老会は何でしょうか。すべての教会が安全に行くように、後から管理して牧会者を管理するのです。教会は何でしょうか。すべての教会信徒が一つだから、神様の前にともに行けるように、堂会員がいつも祈っていつも考えるのです。すべての話合いされたことは、担任牧師や堂会長が決めれば進行になるのです。今日は、地域(区域)の教材なのに、なぜこういう話をするのでしょうか。みなさんが重要な人であるためです。現場に行けば、他の人が知らなくて尋ねます。尋ねれば大丈夫ですが、尋ねることもせず、そのまま勝手にしてしまうということです。それで、原則的に言うなら、堂会員が私たちの教会で他のところに引っ越しする場合、その教会に籍を持って行って、そこで再就任してもらわなければなりません。そうでしょう。そうして、違うところで長老をした方が、私たちの教会にくれば、もう一度、任職して就任するのですが、それが何の話なのかというと、この教会法によるからです。牧師がある日抜け出て、東西南北で歩き回ってはいけません。老会に行って、老会に転籍して指導されなければなりません。それがなぜ重要なのかというと、こういう法を知らずに崩れる間に、今すべての所で新天地が入り込んでいます。法を知らないから、そのままどんどん入って行くのです。ある教会は、伝道師1人が入ってきたのですが、3年過ぎて分かったのです。正常な神学校通って伝道師をしていたのでさせたのですが、この人がどんどん教会の信徒を変にさせるのです。わかったところ、新天地から派遣した人でした。このような形でどんどん教会を倒します。それで堂会員は、礼拝とすべての信徒の生活、こういう部分に神様の導きを受けるようにお手伝いする重要な指導者です。
▲こういう意味で、今日もみなさんが、私は今日礼拝で神様がどんな恵みをくださるのかと期待しなければなりません。する時ごとにヘブル4:16、神様は毎日新しい恵みをくださると言われました。昨日まで受けた恵みと今日はまた違います。みなさんが神様の祝福を受ければ、明日、これからどうなるのかだれもわかりません。それゆえ、今日、備えられた神様の新しい恵みを受けましょう。さらに正確に話せば2015年3月8日は今日しかありません。それゆえ、今日、みなさんが新しい恵みを受けて、今日、礼拝をささげる中に大きく健康も回復するように願います。今日、みなさんが礼拝をささげる中に本当に力を受けて、霊的な大きい力を得る祝福の日になることをイエス様の御名で祝福します。

(祈り)
神様に感謝します。すべての重職者が力を受けるようにしてください。霊的な大きい力を得るようにしてください。すべての弱さと恐れと心配が離れる日になりますように。神様がくださる大きいいやしの日になりますように。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
(The end)