[2008年5月17日 産業宣教 場所:ソウル産業宣教センター]


共同体と産業宣教(200) - OMCの使命(42)
同国人
(ローマ16:7,11,13)
(キム・ドンゴン牧師)


☆☆☆要約資料☆☆☆
1. 教会の意味を理解しなければなりません
(1) 家族
(2) Oneness
① 救い
② 教会
③ 伝道
④ 宣教
⑤ 天の御国

2. パウロは「同国人」だと紹介しています
(1) アンドロニコ、ユニアス (7)
(2) ヘロデオン (11)
(3) ルポスの母 - 私の母 (13)

3. 真に使命が通じる人を通して、神様は働かれます
(1) Ⅱテモテ2:1
(2) テトス1:4
(3) Ⅲヨハネ1:2
(4) ローマ16:1-2
(5) ローマ16:3-4
(6) ローマ16:23
(7) ローマ16:25-27
(The end)

☆☆☆説明資料☆☆☆
→序論
▲産業宣教メッセージを聞く時ごとに、訓練を受ける時ごとに、牧師である私が産業を知らなくてはいけないという気がします。私は初めて時間に、ヤンスリ修養館で柳牧師から福音が人生の終わりという言葉に本当にそうなのか、という気がしたのです。私が神様に会って、少し恵み受けて、恵みの中で少し幸せになって、また、恵みがなくなれば変に心がこんがらかったのですが、不思議にそのように答えを受けて、導きを受けても、試みにあう時には対策がありませんでした。
▲牧会以前に、私が幸せでなければなりません。事業以前に、幸せでなければならないのです。私が幸せでこそ余裕があって、人を振り返るのに自分自身がまだ幸せでないのに人を振り返るということが簡単なことではありません。
▲福音-持続、価値、結論、祈り、幸福 それで私は柳牧師が福音がすべてだという言葉に、最後まで行ってみようという考えで持続してきました。聞くほど福音がすべてだということを悟りました。福音が全てだな。結論が出てきたのです。他のものが結論でなく、福音が結論だということを、福音を聞くほど集中して、根をおろしながら事実化されることが分かりました。だから、福音がすべてだという気がするので、もう主を見上げるしかない祈りになるのです。子どもたちは、親がすべてなので、話さなくてもいつも出て行けば親を見上げてばかりいるのです。本当にイエスが私の人生のすべてで、結論ならば、主だけ見上げれば良いのです。ところで、私たちはそのように考えません。私もたくさんだまされました。教会に良い働き人がきて、環境が良ければ良いと思ったのです。主のためにすごいことをすれば主が祝福されると思いました。ところで、福音を聞きながら、それではないということを分かりました。だから、ここから出てくるのが幸せです。幸せということは、神様の大きい愛を言うのです。皆さんがこれになれば、これに向かって人は走って行きます。これにならなければ動機の中に陥ります。
▲産業-伝道現場 事実、私たちは福音の中で福音を味わいながら産業をするようになっているのです。産業とは何でしょうか。私が将来に成功して、出世して、お金をたくさんもうけることではありません。人間は、神様が被造物として造られた時、創造主の神様で幸せになるようになっています。人間が、もがきながら努めて幸せなのではありません。神様のかたちに、創造主なる神様の恵みの中で、祝福の中で、幸せになるように、神様が人間を創造されたのです。そのようにしながら、神様は地を征服して治めなさいと言われました。厳密に問えば、幸せな人が幸せを味わいながらすることが産業です。これのために私が成功をして、事業がうまくいって、幸せなのではありません。世の中はそうです。世の中は神様がいないから、産業を通して出世して、幸せになることを望みます。本当に福音の中で味わって幸せな人は、産業を通して幸せを伝える現場が産業です。
▲牧会30年あまりをしながら見ました。聖徒が世の中でお金がなくて病気になって、世の中で崩れた人が教会にきて、何を追求するのかを見たのです。私が初めに神様を信じた時、とても復興のみわざが火のように起きました。講壇で、復興師が何を伝えるのか分かりました。祝福を受けなさいと言われていました。初信者であった私が、聖書を通して見たのは、祝福を受けるようになっているので、当然、神様がくださると約束せれているのに、なぜまた祝福を受けろと、あのように大騒ぎするのだろうかと思いました。家出した子どもが家に入ってくれば終わったのではないかと思ったのです。放蕩息子がお父さんの家は豊かだということを知って、そこのしもべまで豊かだということを知っていました。お父さんの家にいた時はそれを知らなかったのですが、お父さんを離れてみたら、結局、お父さんが全部であることを分かったのです。私たちが神様を離れて問題がきたら、神様に会えば終わったのです。すでに神様は創造の時から私たちに備えられた祝福を味わうように導かれたことを信じます。教会にきて、また神様に会ったので、もう神様の祝福の中で事業を一度成功して、出世して、金をもうけるという考えをよくしています。他の見方をすれば、私たちのタラッパンの中にもそれを感じられます。OMC、産業宣教を通して、神様の栄光のためにすれば、神様がさらに祝福されるのではないかと思うのです。タラッパンがよくできて、弟子をたくさん育てれば、祝福されるだろうという肉体的な考えをよくしています。私たちの教会で静かに見れば、タラッパンを持続してよくして、弟子をたくさん育てる人は、すでにその社会で祝福された人です。この産業現場は事実、私たちの伝道現場です。福音と結論が出て、福音で幸せな人が、福音で死んでいく人に、私たちの人生を通して福音を伝える現場なのです。
▲私は牧会もほどほどにして、柳牧師に17年ほど付いて回りながら何を見たかというと、私が何かをするということは、おかしいという気がします。福音であるキリストが、私の人生を生きておられて、私の家庭と牧会をしているという事実を福音を聞くほど感じています。それで、私も私たちの産業人とOMC会員のために心に込めてするのが、福音が先に根を下ろすようにすることです。それと共に、神様に向かった私の計画がどこにあるかを見るのです。神様の計画の中にあれば、この事業は神様がなさることなので、この事業を通して神様の栄光があらわれることを信じます。時間がどれくらい急速に流れるでしょうか。この急速に流れる時間の中で、私が何かをしようとすれば、どんどん限界がきます。
▲いくら超スピードで走って行っても、私は福音をのがしません。柳牧師が言われました。福音を悟った者といって、どれくらい悟れるのか。私が17年福音の中に入ったのですが、どのようにこの福音がこのように偉大なのかという気がします。この頃、そのように考えます。簡単に生きよう。牧会も簡単にしよう。人生もそうで、家庭もそうで、簡単に生きよう。この頃、私の祈りの課題ではなく、そのように思う言葉です。過ぎてみたら、神様がみななさったのです。神様がしておられるのです。ところが、私が力を入れているのです。私たちの教会は働き手を育てて、謝礼をもらう人が多いので、ある場合には残念です。聖徒たちが十分の一献金だけ正しくすれば、謝礼費は心配ないと考えます。信徒の中で、事業を正しくして、牧師先生、心配しないで下さいと言いながら、十分の一献金を1千万円くらいする人がいるならば、私が心配する必要がないという気がします。その時に、自分の心が神様の前に立った時、恥ずかしいのです。そうだ、あなたはわたしを見ているのかと聞かれるようです。あなたは、信徒を見ているのでないのか。主であるわたしを見ていないのではないか。恥ずかしいのです。呼ばれた神様がご自身の計画の中で、ご自身の仕事を成し遂げておられるのに、私が何を考えているのでしょうか。頭数が多ければ物事がなるのでしょうか。それは世の中の方法です。私が神様に恥ずかしく思うのです。十分の一献金が出てこようが、出なくても、教会は神様のものなので、神様が責任を負われるのではないでしょうか。私はそのように考えます。
▲私たちの産業人が重要で、この場に来ている皆さんは特に重要です。ひょっとして福音がすべてだと思わないで、他のものを訪ねて行けば、皆さんは環境にぶつかって、また戻らなければなりません。それで、柳牧師が今ずっと福音に根を下ろせと言われて、訓練の中で福音がすべてで、産業の中にある人を通して働きをされるでしょう。
▲私は17年、福音を聞いたのですが、これから13年集中的に福音を聞いて80才になれば私が福音に対して何か話す言葉がないだろうかと思っています。そのようにする中で、私の牧会はどうなるでしょうか。今年、重職者を300人くらい立てましたが、考えてみてください。私たちの教会が始まった時、壮年礼拝が300人でした。300人壮年礼拝が重職者300人余りに変わったのです。自分の心は、私の牧会をどのようにするかと考えるのではなく、福音の中にずっといたら、このようになってしまったのです。私が東部教会がよくて、宣教がよいと考えていません。なぜなら、私がそのような力がなくて、してみたらだめだったのです。だから、あえてだめなことをする必要はなくて、どうにかこの福音と訓練の中に集中的に行けば、これは神様がなさるはずだということを信じました。主がなさるのを見たので、今はそのような必要がありません。今は、どんな問題がきても簡単に生きよう。残った人生、牧会も簡単にしよう。主がみななさることを信じます。
▲今日は特別に同国人に関して語ります。同国人の意味は深いのです。福音で幸せになれば本当に神様の愛が深くなります。私は10才の時、お母さんを亡くしました。しばらく、お母さんが好きな時、お母さんを失ったのです。それが傷程度でなく、私の人生が完全に崩れさせました。年を取っても、お母さんと子どもたちが手を握って行くのを、見れば涙が出ました。連続ドラマや映画を見ても、お母さんが出てくれば視線を転じました。私が32才で神様に会って、神様の愛を体験して、母の愛は何でもないということが分かりました。いつかは母親は死ぬが、神様は死なないで永遠に愛をくださるのです。それで、その時からお母さんに対する涙が終わったのです。私たちは福音の中にあれば神様の大きい愛、使命と福音が通じる兄弟まで、大きい愛が臨むということを信じます。神様の大きい愛を受けたので、敵を愛するという言葉の意味が分かりました。私が愛してあげるべきだという気がするのです。哀れなのです。だから、神様の愛が私の心に注いだことになるので、その愛が私を通して、このように人々にあふれ出るようになって、この愛がすべてだという気がしました。今日は同国人に対してです。他の見方をすれば、教会の意味は同国人という意味が大きいのです。

1.教会の意味を理解しなければなりません。
▲事実は私たちが誰でしょうか。イエスの血で一つの兄弟になったことを信じます。少しの間、留まる血統ではなく、永遠な一つの兄弟です。事実、神様に会って、恵みの中で私が神様の子どもになるので、神様がお父さん、これがどれくらい近く感じられるのか分かりません。
(1)家族
▲イエスを信じる人が私の兄弟になるので、すばらしい家族の意味があるのです。本当に、この福音の中で神様の愛を受けて、この福音の中に入ってきた者がどれくらい尊いかわかりません。また使命を共にする者がどれくらい尊いでしょうか。それで、家族の意味があるのです。
(2)Oneness
▲一言でOnenessです。どれくらいすごいのでしょうか。私は牧会をしながら、なぜこのようなのか。なぜ重職者、牧師が一つにならないのだろうか。なぜ信徒が一つにならないだろうか。神様を信じて、神様に任せれば良いのに、なぜ一つにならないのか私は分からなかったのです。ますます分かったのが、それがサタンの策略であることを分かりました。一つになれば大変なためです。福音を持った牧師と重職者が一つになれば大変なためです。一つにならない理由は、福音で幸せでないから動機で引っかかるようになるのです。動機のためです。私たちが神様がない世の中で、肉体の世の中で生きるためにもがくので、これが体質化されて、根がおろされて、絶対に一つにならないのです。柳牧師も、損得計算で少しだけ引っかかると背を向けると話しました。それで私はこのように考えます。福音の中に入ってきた、私たちの産業人が福音の中で巨大な幸せと、この使命を愛で覆っていかなければならないのです。こういう部分が本当に簡単ではありません。サタンが邪魔しているためです。
①救い-この救いとは何でしょうか。救いがまさにOnenessです。救われたすべての民が、みなOnenessです。
②教会-教会とは何でしょうか。救われた者の集団です。
③伝道-だれが伝道をするのでしょうか。Oneness、福音の中に入った人です。
④宣教-宣教も同じです。
⑤天国-天国も、誰でも行くのでしょうか。福音の中に入ったOnenessになった人々が行くのです。
▲神様、私たちの産業人が一つになるようにして下さい。私たちの教会が一つになるようにして下さい。主のしもべが一つになるようにして下さい。いくら祈っても、うまくできないのですが、福音の中に入ると一つになるのです。不思議に思います。福音の中に入って幸せだから、動機がなくなって、人を思いやり、譲歩して理解する人になるのです。それで私は教会の講壇上で、これを絶対にのがしません。原色的で完全で豊かな福音を注がなければなりません。ずっと注げば、人々が幸せになって、幸せならば一つになるようになっています。私たち良いシステムを持ってくくっても、一つにはなりません。なぜなら、サタンが攻撃しているためです。どれくらいサタンの攻撃は激しいのか分かるでしょうか。私は分かります。教会が一つになれば、大変なことになります。サタンに飼い慣らされた人です。絶対だめなのに、サタンがしかけているのです。政治現場、社会を見て下さい。サタンのしわざです。福音だけが一つになります。福音の中に入った人を通して一つになるのです。私は家内と一つになりませんでした。私が先に恵みを受けて、家内は恵みを受けなかったのですが、これをご存知な神様が、私に今は恵みをくださって、家内と一つになるようにしてくださるのを見たのです。他の見方をすれば、私たちOMCがこれです。本当に福音の中に入った産業人なので、一つになれば全世界現場を変えられることを信じます。

2.同国人だとパウロは紹介しています。
▲パウロは同国人だと紹介しています。
(1)アンドロニコ、ユニアス(7)-同国人だと言いました。
(2)ヘロデオン(11)-同国人だと言いました。
(3)ルポスの母-私の母(13)
▲事実ルポスの母は、同国人ではないのですが、福音の中で使命の中にあるので、母ではないのに、私の母だと表現しているのです。他の見方をすれば正しい言葉です。
▲私が牧会をしながらいつも残念なのが、私たちの地域と総会の牧師が、どのようにすればOnenessになれるかということです。事実、彼らは異端の声を聞いても、こちらにいるので、どれくらい大事な牧師でしょうか。福音がないこの世に、私たちを通して、福音でこの世界を生かす神様のしもべなのですが、どれくらい尊いのでしょうか。どのようにすれば良いのでしょうか。宣教地で宣教師が一つにならなければ、どのようにすれば良いのか、残念です。他の見方をすれば、時刻表が来ると信じます。私たちの主のしもべが、福音の中に動機がなくなって幸せならば、その時から人を思いやって、譲歩できる日が来るはずだと思っています。その時は、福音と使命が通じれば同国人であり、親、兄弟であることを信じます。世の中の親戚、兄弟と比較できません。今、世の中の兄弟もお金がかかって、損得計算が生じたら、背を向けてしまいます。何かをみな譲歩している人が福音を味わう人です。

3.使命が真に通じる人を通して神様は働かれます。
▲使命が通じる人、この人を、結局、神様が用いて神様が働かれるのです。正しい言葉です。使命以前に、福音が通じて、福音がとても貴重だから、このことのために神様の前に使命が通じる人を通して神様が働かれることを信じます。私がこのように伝道と牧会をしながら、いつも感じるのがこれです。私が良くできないといけあにと思うこと自体が誤った考えです。使命をくださった神様が計画してされることであって、私たちはできないのです。私たちは私たちの人生一つも取りまとめられないで倒れるのです。それで、私たちは主にあって愛される者、愛する者、同国人という意味は、福音の中にある私たちがどれくらい近くて一つになるかを意味するのです。
(1)Ⅱテモテ2:1
▲それと共に、テモテに向かって、わが子よ...と言いました。私も時々、私どもの教役者の中で私の息子できる人が出てきたら良いと考えます。教会の重職者や教会産業人を、心の中でわが子よ...という人が出てくれば、どれくらい良いでしょうか。そうすれば、みな任せられるのです。イ・コンヒがイ・ジェヨンをサムソングループお後任者として立てるために準備するのを見ながら、それは自分の息子だから可能なのだと思いました。今日、福音の中にあれば、神様がこういう牧師、産業人の上にわが子よ...という称号がたくさんつくでしょう。
(2)テトス1:4、息子程度でなく、真の息子テトスと言いました。
(3)Ⅲヨハネ1:2、何を言うのでしょうか。これは愛する者と言っています。本当に愛する者です。
▲柳牧師がそうでした。主のしもべがひざまずく時、思い出せる産業人、その人は幸せだと思わなければなりません。私は柳牧師の愛を受けるよりは、とても大切な方で、私の牧会と家庭に大きい影響を与えて結論を持った福音の師匠なので、本当にとても感謝しています。私は祈りの奥義を知っています。牧会を数年間しながら、信徒と主のしもべが最も近く行けるところは祈りしかありません。サタンは絶対に近く行けないように防ぎます。祈れば聖霊が働かれて、暗やみが砕かれるから、二人の間に妙にOnenessにならないようにするのです。私は祈り始める時ごとに、一番最初に柳牧師のために祈ります。なぜなら、個人的にもそうですが、あの方がとても尊いためです。私の心の中からにじみ出る祈りになるのです。これが、私は柳牧師が私をどれくらい愛するか分かりませんが、私が柳牧師を愛するから、山びこのように愛しておられることを信じます。私が神学して2年3ケ月後に単独牧会をしながら、何を見たのか分かるでしょうか。信徒一人がくれば尊いので、つかんで祈れば何が起きるのか分かるのでしょうか。初信者の聖徒たちがきて、伝道師先生の愛が多いと言うのでした。伝道師がとても良いと言うのでした。それで私の家の中で、私が愛が多い、妻も子どもさえ愛することができない私なのにと言われました。ところで、彼らがとても大事な存在であるから、私を愛するようにさせて、私も愛するようになったのだと思います。私に牧会の奥義を尋ねられたら、私はメッセージ次に信徒に対する祈りだと思っています。ひょっとして外国へ行けば、揺れるかと思って、私は外国へ行く前に聖徒たちを私の心に入れて祈ります。私の心に入れた信徒とタラッパンの家族を置いてずっと祈るのです。本当に使命が通じる私たちは愛する者です。
(4)ローマ16:1-2、助けてくれる人(保護者)だと言いました。どれくらいすごいのでしょうか。
▲私は私たちの長老を見ながら、牧会をしながら感じるのが、私がどのようにこういう長老に会ったのか考えるのです。すでに私が人生を66、67才、牧会を30年あまりしながら人をたくさん見ました。また小説もたくさん読みました。また私が外交官になるという考えの中に、指導者の本もたくさん読みました。ところで、この3人の長老を見ながら一様だと考えます。これが福音のためにきたということです。本当に私たちは最も祝福の中の祝福が、私たちを保護できる人がいるならば祝福の中の祝福です。私が保護者になるので、保護者が出てきたのです。
(5)ローマ16:3-4、他の見方をすれば同労者です。
▲それで私が信仰で進めました。竹田(ジュクジョン)にも礼拝堂を買って、教会をしていて、済州道(チェジュド)に土地を買って教会を作ったが、長老がじっとしているのです。牧師先生、私たちの教会の謝礼費が1ケ月滞っているのに、牧師先生、少し分かってくださいますねという言葉も言いません。牧師先生、信仰のとおり、心おきなく行くようにと押すのです。これが同労者です。こういうものを考えれば、私が柳牧師の働きを助けることに、まだ微弱だと考えます。
(6)ローマ16:23,しかもガイオのような人は家主です。一つの教会だけの家主ではありません。
(7)ローマ16:25-27、世々に渡って長い間、福音のために行くことを認められた者、こういう者を言うのです。
▲私たちは、この席においてよく分かりません。福音のために、使命のために、異端の声を聞きながら、あらゆる後ろ指を差されながら、この席にいるのは、独自の私たちは福音を悟って、神様の要請の中に入ってきて、神様と私たちの使命が通じるので、この席に来ているということを信じます。それで、すべての人々が福音の中で幸せになり、この産業は私がご飯を食べるためではなくて、成功するためではなくて、これはまさに私が福音を味わう現場として、証人で立てられる現場だと考えれば間違いないのです。祈ります。
(祈り)
私たちの主イエス・キリストの恵みと神様の愛と、聖霊の充満、働き、導きが、与えられたみことばそのまま成されることを望む私たちの産業人の上に、私たちの産業宣教の上に、今からとこしえまでともにありますように。アーメン
(The end)